第三十七話 光と影・前編
「そう、じゃあもう何ともないのね」
「はい」
里見先生がクリスの喉を見た後で微笑む。慎と明音が学園を去った日の翌日のことだった。そのあまりの計画性のなさに呆れたのと、周りの熱心な説得を受けて、クリスは今朝一番で退学届を撤回し、そのまま指示された通り保健室へと足を運んだ。里見先生が安堵するほど、クリスは上手く元気な自分を装えていた。窓辺にノアの影がちらつくまでは。クリスははっと立ち上がった。だが、ノアがいたと思った場所には、落ち損ねた枯れ葉が風に吹かれてちらちらと日を遮ったり通したりしているだけだった。
「石崎君、どうかした?」
「……いいえ。何でもありません」
クリスはそれ以上何も聞かれたくなくて、視線をゆっくりと机の上に置かれた婦人物の帽子の上に向けた。里見先生は口を開きかけたが、結局は目をそらして何も言わなかった。
二人の沈黙を破って、保健室の扉が開いた。いつもよりスーツをびしっと決めた校長だった。校長は二人にさわやかに挨拶すると、クリスの元に歩み寄り、調子を尋ねた。
「えぇ、大丈夫です。ご心配かけてすみません」
「いいえ、心配するのが僕らの役目ですからね。君が元気なら僕はいいのです。野瀬先生には会いましたか?」
「はい。先ほど、職員室で……」
「ならよかった。しかし、君は多くの人に愛されてますねぇ。君が退学すると聞いた途端、大勢の先生や生徒が君のところに駆けつけています。君の人徳でしょうかね」
クリスは曖昧に笑ったきり何も言わなかった。自分に人徳があるなんてこれまで一度も思ったことはないし、今も思わない。自分を褒めなければならないのだとしたら、愚直という言葉を使いたい。お節介でお人好しで、色々なことに首をつっこんではひっかきまわしていた自分。過去の自分だけは、どうしたところで殴れないのが残念だ――ノアの予言通りだった。クリスが学園を去らなかった代わりに、慎が学園を去った。そして、全てが終わった後で、ノアはやはり自分の元には戻ってこない。学園に残ったはいい。だが、これからの日々を一体どうやって過ごせばいいのか。
「校長先生」
「何ですか?」
里見先生が小用で部屋を出た隙に、クリスは言った。
「理事長に有瀬と会うように言ってもらえませんか?」
「……なぜです?」
「もう理事長しか思い浮かばないんです。有瀬を救えそうな人が」
「つまり、君は、有瀬君が救いを必要としていると考えているんですね?」
「はい」
革靴の音が、クリスの見ていないところで三回響いた。
「なるほど。えぇ、もちろん伝えるには伝えますが、事態は変わらないと思いますよ……全ては、君と有瀬君との間で起こったことなのですからね」
「でも、俺には、もう何も……」
クリスの視界を突然真っ白に染めたのは、クリスの言葉を遮るように校長が差しだしたエアメールだった。クリスが受け取らずにぼんやりしていると、校長は簡略に説明した。
「これを君に渡すために来たのです。イギリスの叔母様から」
「えっ?」
クリスが手紙を開いている間に、校長はすっといなくなった。手紙には、エマ叔母の懐かしい筆記体で、最初にクリスの近況を知りたい心情と最近の叔父夫婦の様子が書かれ(叔父さんは先月ぎっくり腰になったらしい)、次に親戚や友人たちのどうでもいい話が続いて(一度しか会ったことのないクリスの従姉の家でシャム猫の子供が五匹生まれたとかなんとか)、最後にやっと本題に入った。両親の墓参りに行ってほしいというのだ。
……今まで申し訳ないと思いつつ、忙しさに紛れてまともに訪ねたことがありませんでした。叔父さんは何度か行ったみたいですけれど、遠い日本まで行くのも一苦労なのに、お墓も交通の不便なところにあるので、最近はなかなかお参りできていないそうです。まあ、そんな風に元から怠りがちだったものですから、貴方のことは連れて行ってあげたこともなかったのだけど、せっかく日本にいるのですから是非行ってあげてください。お葬式以来ですから、貴方のお母様とお父様もきっと喜ぶことでしょう。貴方の学校からはそんなに遠くはないはずです。ただ、近くを通る電車が近年何本か廃線になって、叔父さんが最後に訪ねた時より更に行きにくいところになっているみたいですけど、私は日本の電車はさっぱりなので詳しいことが書けないのが残念です。お墓参りに行ったら、ぜひお手紙をください。いいえ、行かなくってもお返事がほしいわ。貴方の様子が知りたいです。どうかお元気で。
愛をこめて 貴方の叔母より
クリスはふと壁のカレンダーを見た。明日は土曜日だ。今日中に行き方を調べて行ってみるとしよう。この学園を出ることが、ノアを忘れる一番の方法かもしれない……
***
うとうとしていると、ノアの夢を見る。別に何かする訳でもない。クリスの思い出やら、そうでないものの中にノアの幻影が現れては消える。それだけだった。だが、目が覚めた時、クリスが覚えた疲労感は、どっしりと肩や背中にまで圧し掛かって重くした。
学園からバスで町まで下ると、三宿港駅から電車に乗って篠木山展望台前で乗り換え、更に四つ目の駅で下りて今度はバスに乗り、今、ちょうど目的の駅に辿り着いた。ここまで所要時間は四十分。これからもう一つ電車に乗らないといけないことを考えると、相当長く厳しい旅である。泊裏駅の辺りは閑散としていて、これから行く先はますます人気がなくなりそうなので、クリスは駅前で卵とハムのサンドイッチを買うと、電車が来るまでの間、ホームのベンチで食べた。目の前には海が望めた。ホームは海の上に乗り出すように建っていた。そして線路を目で辿ってみても、海はその傍に並んでいる。この数カ月で見あきたほどの海が、クリスの過去まで付いてきていた。いいさ、別に構わないけどね。クリスはくずかごにゴミを投げいれながら胸の中で呟いた。
見つめる奥から、電車はやってきた。海に溶け込みそうな青色が基調となった、角の丸い車体である。相当古いことは間違いないが、近くで見ても傷や汚れは案外目立たず、速度を落としながら軋むその音だけが潮騒に紛れきれずにいるのだけが、この電車の歴史を感じさせた。時間から忘れ去られたもの、という印象をクリスは受けた。三つある車両が異なるリズム何度か左右に傾いた後、ゆっくりとドアが開くと、電気のついていない薄暗い車内に正午の日差しが差し込んで、板張りの床と褪せた緑色の座席を明らかにした。下りる人はいない。クリスと共に電車を待っていたのもたったの六人で、そのうち二人は、それぞれ先頭と最後尾の車両に乗り、クリスと四人の乗客は真ん中に乗り込んだ。電車はすぐに動き出した。クリスは何となく慣れ切った、けれども不安な気持ちで乗客を見回した。誰も喋らない。若い母親に抱きかかえられた赤ん坊ですらも。人々は皆沈鬱な面持ちで床や海や自分の手を見つめている。クリスは真正面に腰かけた紳士を無遠慮なほどにじっと眺めたが(あまりにも彼の格好が古臭かったので)、彼は気がつく様子もなく、煙草の煙を吐いて溜息を吐くだけだった。
クリスは持ってきた花を自分の膝の上に置くと、ポケットから小さなメモを取り出して、降りる駅を再度確認した。昨夜、落合が届けてくれたものだ。落合は父親が鉄道マニアらしいのだが、その父親にみっちりと教育されたため、クリスの両親の墓のような僻地の交通も心得ていた。百合煎駅は六つ目だ。落合の話だと、駅と駅との間が恐ろしく長いので、たかが六駅といえども相当な時間がかかるのだという。着くまで画集でも捲っていようか。それともこの幻想的な電車の旅を堪能しようか。電車は今、海を右手に走っている。クリスの背後には鬱蒼とした針葉樹の森が広がり、目の前の海原では波に浮かぶ泡の一つにまで注ぎこまれている日光を頑なに拒んでいた。そんな退屈な風景は延々と続くようであった。
長い時間をかけて電車は一つ目の駅に着いた。森の手前にぽんと置かれたような場所で、石のホームは苔に浸食されていた。もし自分が電車でここにやって来たのではなければ、クリスは廃駅だと思っただろう。和服の老婆が一人おりていった後でドアはしまった。止まる時、動き出す時、電車はやはり傾いて軋んだ。
景色は変わり、森は消えて崖に、崖が消えて人気のない小さな町に、町が消えて、ついに両側に海が広がった。その頃になると、クリスと共に乗っていたのは赤ん坊を連れた若い母親だけで、その母親も、次の五つ目の駅で降りて行った。赤ん坊はしまいまで泣きも笑いもしなかった。眠っていたのだろうか。母親は藍色の着物姿で、日にさらしたうなじを白く光らせながら、電車を降りるまでずっと赤ん坊に悲しげな瞳を注いでいた。
ついにクリスは一人になった。右を見ても左を見てもひたすら青い電車の中で、クリスは百合煎の駅は一体どんなだろうと考えた。しかし一体、クリスの両親の墓はなぜこんな不便なところにあるのだろう。クリスの父方の親戚が二人を嫌っていたとは聞いていたけど、そのせいだろうか?やがて、海の彼方に見えてきたのは、白い、ひたすら白い大きなものだった。その正体は陸地が近づいてくるにつれて分かった。百合の花だ。百合の花が所狭しと咲き乱れている。クリスはホームで電車を見送ってから、すさまじい数の百合を仰ぎ見た。この丘をのぼったところに、両親の墓はある。
物狂おしい気分になるほどの百合に囲まれて、百合煎墓苑はあった。一番奥が両親の墓だと、叔母が教えてくれた。クリスの他に人はいなかった。ただ、そこだけ茶色い土の上に、百合にも劣らぬほど白い墓石が規則正しく並んでいる。クリスは墓石に刻まれた名前を眺めながら進み、叔母の言った通りの場所に両親の墓を見つけ出した。その時、持ってきたブーケが手から零れ落ちた。
クリスは途方にくれてしまった。ここに名前を刻まれた人たちは、確かにクリスの親なのだ。この土の下に眠っている人たちは、かつてクリスを生み、愛し、抱きしめた人々なのだ。そして、クリスが六歳の時に死んだ――泣きだしたいような気がした一方で瞼は濡れてこなかった。クリスはブーケを拾い上げて墓石の前に置き、震える手で墓石にそっと触れてみた。
「父さん、母さん……」
この十年間、一度もそう呼びかけることができなかった。今、ようやく……クリスはその場に膝を突いた。どうして?なぜ自分は両親のことを思い出せないのだろう。いや、思い出すことはできる。でも、その記憶がいやに遠くて。そこに音はない、匂いもない、温度も感情も。まるで紙芝居の絵だけを見せつけられているかのような。
波が百合の花に砕ける音がする。クリスは墓石を抱きしめたかった。でも、どうせ得られるものは冷たさだけだと知っていたのでやめた。クリスは型通りの文句を静かに胸の中で呟くと、くるりと踵をかえした。もうこの場所に用はなかった。
電車が来るまでの時間は、あまりにも長かった。クリスは鞄を開くと、百合の上に腰かけて、白い墓と白い花と青い海とを何か厳粛な気持ちで写生しはじめた。そうしながら、十年前の記憶を手繰ってみた。あの時、ここには百合は一輪も生えていなかった。なのに、どうして今は百合煎と呼ばれるまでにこんなに花が生えているのだろう。クリスはふと、一番手前にある墓石に気づいてしばらくその表面に目を凝らしていたが、やがてまた鉛筆を動かし始めた。大体映し終わったところに電車が来た。
先ほどの五番目の駅に、若い母親と赤ん坊はまだ立っていた。母親は海原駅と書かれた看板に寄りかかって、子供に乳を含ませているところだった。ドアが開いても、母親は見向きもせず、相変わらず白い胸を晒していた。見てはいけないような気がしてクリスは目を逸らしたが、電車が出発する時、母親がクリスを見つめているのを感じた。行きは子供に注がれていたあの悲しげな目が、今度はクリスを向いていた。一体、彼女は何を思ったのだろう。しかし、海原駅とはまさにあの駅にふさわしい。ホームは海原にぼんやりと浮かんでいるだけで、どこにも通じる場所はない――クリスははっとして、画集を捲る手を止めた。急いで窓を振り見た時、子連れの母はホームごと海原に紛れる小さな黒い点になっていた。
***
「お帰り!御苦労だったな」
クリスの旅の苦労を一番に分かっている落合は、寮の前でクリスを待っていてくれた。
「あっ、落合、待っててくれたの?」
「おう。どうせお前一人なんだろ?どうせ今日は疲れてるんだろうし、もしよかったら俺たちの部屋で一緒に夕食でも食わねぇか?ついでに今日は泊っちまえ。酒本のベッドが空いてるしな」
「えっ、いいの?じゃあ、そうさせてもらおうかな」
答えた後でクリスはちらりと部屋の窓を見たが、ノアが帰ってきた様子はない。どうせ夕食を作る元気はないのだしこの際世話になる方が楽だと、クリスは思った。クリスは落合の質問にも快活に答えて、バスの乗り場を二階ほど間違えたことなども面白おかしく語ったが、彼がセンチメンタルにならないでいられたのは、学園の門で待っていてくれた人のおかげかもしれない。薫が門の前でクリスの帰りを待っていた。
「おかえり、クリス」
「薫さん……」
嬉しい驚きと辛いような苦しいような思いで、クリスはすっかり動けずにいた。それを見かねてか、薫の方からクリスの方に歩み寄ってきた。
「どうして、ここに……?」
「君の顔が見たくなった。君を誘ってどこか行こうと思ったけど、友達に聞いたら君はご両親のお墓参りに行ったって言っていたから仕方なく諦めたんだ。でも、何だか不安になった。君がここに戻ってこないような、そんな気がしたんだ」
「そんな……俺は戻ってくるのに、絶対……薫さんのいるところには」
「でも君はこの間勝手に退学しようとしたじゃないか」
「それは……」
薫の胸元に顔をうずめながら、クリスは言い訳を考えていた。そうだ。こんなに愛おしい人がいるのにどうして学園を出ようと思ったのだろう。薫さんだけいれば十分じゃないか。例え――クリスは薫のコートの背中をぎゅっと掴んだ。例え、有瀬が傍にいなくたって。
薫の手がクリスの顎を持ち上げた。クリスを責める人とは思えないほど、薫の顔は優しかった。そしてその後ろには、穏やかな冬の日の空が赤く燃えていた。
「さあ、謝罪の言葉を聞こうか?」
「……ごめんなさい」
「いいんだよ。でも、僕に何も言わずに僕の元を離れたりしちゃいけないよ。分かったかい?」
「うん、分かった……」
クリスは償いの気持ちを込めて背伸びをすると、薫も身を屈めて受け入れてくれた。幸福な時間だった。学校の前で生徒と教職員が(いくら講師とはいえ)平然とキスをしているのだから、誰かに見られるようなことがあれば一大事なのだが、そんな野暮な心配も不要だった。クリスには世界には二人しかいないように思われた。門の奥から投げかけられた灰色の視線の存在も、クリスは知らずにいたのであった。
しかし、これから自分はこの学園で一体何をすればいいんだろう。友人たちとの談笑の間、クリスは考えていた。絵は見つけてしまった。一番の友人もなくして、縋れるものが恋人しかいない。いや、学校に通うことなんかに理由なんていらないはずだ。ただ勉強して、こんな風に関本や落合たちとくだらないことを話しながら日々を送る。それで十分じゃないか。それに、自分にはまだやるべきことがある。あの絵をもう一度調べなければならないし、そのためにはまだこの学園に居続ける必要があるはずだ――けれども、本当に?――その問いが一体何に対して投げかけられたのか自分でも分からず、クリスは一瞬箸を止めた。本当に、お前はそれでいいと思っているのか?生徒会役員を追い出しておきながら、お前は平然と暮らしていけるのか?クリスには分からなかった。更に、「本当に?」はもう一つの事をクリスに尋ねた。本当に、あの絵は志水晶のものだろうか……
「ねぇ、落合ってさ、美術部だったよね?」
「おう、部長だぜ部長」
誇らしげに言う落合に、来夏はティーカップに指をかけながら呆れたような視線を向けた。美術部が実質、落合の趣味の美少年コレクションと化していたからかもしれない。
「じゃあさ、あの絵知ってる?美術室に飾ってある妖精の絵なんだけど」
「ん?いや、知らねぇけど」
「えっ……」
落合が見せた怪訝な表情が、クリスを戸惑わせた。美術室にしょっちゅう出入りしている落合が、知らないはずがないのに。もしかして、俺をからかってるんだろうか。
「ほ、本当に?見たことない?あの美術室の入り口近くに飾ってある……」
「いや、マジで見たことねぇぜ」
疑いもたちまち晴れた。そう返す落合は真剣そのものだった。
「そっか」
クリスは理不尽な諦めを押し付けられ、しばし呆然とした。一体どうして?ノアも薫も慎も皆あの絵のことは知っているのに。それだけじゃない。いつか、そうだ、文化祭の日だったけ?花木先生がこの絵を眺めているのを見た。あれは確かな記憶だ。どうして落合は、一番あの絵を見ているはずの落合が、あの絵を知らないなんてことがあるんだろう。
真面目な話になったついでなのか、来夏が咳を一つしてクリスの注意を引いた。
「石崎、そういや有瀬はどこに寝泊まりしてるんだ?」
「さあ。俺も知らないんだ。最近、姿も見ないし……」
「そういや、あいつ昨日学校来てなかったよな。てっきり前みたいに理事長が……あっ、今理事長じゃねぇんだっけ。まあいいや。理事長が生徒会長のところに預けたんだと思ってたけど、違うみたいだし」
「……理事長は関係ないよ。それに生徒会長も」
クリスが静かに言って紅茶をすすった。そして自分にも関係ないともっといいのだけれど。落合が砂糖を入れすぎたせいか、紅茶はやたらと甘かった。一緒に出されたアイスクリームはさすがに食べる気になれず、クリスは暖房で溶かされていくバニラアイスの観察をせいぜい頑張ることにした。
「有瀬が自分で決めたことなんだ。だから、俺も何も言えないよ」
「……まっ、そのうちな」
落合が慰めるようにクリスの肩を叩いた。クリスが「そのうち」に少しも期待していないことも知らず。
消灯時間が過ぎ、今は持ち主を失った菜月のベッドに横たわると、クリスにはこの学園に来た日のことがまざまざと思い出された。あの日の自分はひどく陰鬱だった。次から次へ起こる出来事に戸惑い、時には苛つきに近いものすら感じながら、次第に絆されてしまっていた。職員室に忘れた財布をノアが突然目の前に示したので、どんなに驚いたことか。ここでの歓迎会は楽しかった。あの時麻痺していた感覚が、今になって蘇って来るようで、クリスは毛布の中で微笑んだ。あの夜もここで寝た。菜月がクリスの布団を陣取ってしまったせいだった。いや、違うな。あれは寝たとは言わないんだろう。横たわって全員が寝静まるのをどきどきしながら待っていて、数時間後に再びここに横たわった時は絶望のあまりすっかり打ちひしがれていた。クリスがこの学園で体験してきたことは全てあの夜の失態が原因だった。長い旅のせいで疲れていたのだろうか。なぜあんなことをしてしまったのか、今となっては分からない。まあ、そのおかげでノアと暮らすことになったのだが、現状を考えてみれば、おかげとは言い難い。そのせいといってもクリスの気持ちには少しも反しなかった――ああ、またノアの幻影が入り込んでくる。薫に抱きしめられた時に、締め出したと思ったのに。
有瀬、君はどこにいるんだ?どこでどんな風にこの夜を過ごしているの?君が言ったことは本当なの?あの絵は本当に志水晶のものなの?…………ねぇ、お願い。明日起きたら教えてよ。いつもみたいに揺り起こして、おいしい朝食を作ってさ。もちろん、あの海辺の寮で。目をつぶれば、ここもあの寮のベッドも変わらないよ。ねぇ、有瀬、俺は今、もう一度あの夜をやりなおせるとしても、やっぱり白い塔に行くと思う。君にどんなに傷つけられても、君と過ごした日々がやはり懐かしいんだ。
クリスは他人の枕を勝手に濡らしていることに気づき、慌てて袖で目をこすった。そして目を開けて、自分のいる場所がいつもとは違う場所なのだと悟った。あの夜と同じ場所だと。今日もあの日と同じで、長い旅のせいでひどく疲れている。俺は塔に行くだろうか?いや、今日は行かないな。クリスはすぐに結論を出した。こすって熱い瞼がすでに重くなりかけていた。とにかく、今日は眠りたい。夢を見る余裕もないほど、深く。
クリスの希望は半分かなって半分外れた。有瀬ノアの夢は見ないで済んだ。昼間に全て上映してしまったに違いない。その代わり、海原駅で見た親子の夢を見た。母親は着物の柄まで変わらないが子供の方は少し成長して、二歳ぐらいの男の子になっていた。二人は百合煎の百合に塗れて遊んでいた。二人に色はなかったが、二人の楽しげな声ははっきりと聞こえてきた。子供がこけた拍子に母親の胸元に倒れこむと、母親は心の底から愛おしそうに息子を抱きしめ、その名を呼んだ。しかし、二人の笑い声に紛れて、息子の名前をクリスは聞きとることができなかった。母親がそのままにしていると、子供はやがてすやすやと眠り始めた。
一陣の風が花たちをざっとざわめかせて、電車の到着を知らせた。母親は子供を起こさぬようにそっと立ち上がって電車から降りる人の姿を見た。それは、若い男だった。母親は最初はっとして身を強張らせたが、男がクリスと同じ道を辿ってきて、彼女の前で微笑むと、わっと泣き崩れた。彼女は男を責める様子だった。目覚めぬ息子を腕の中に抱いて、百合の花びらに涙を注いでいた。男は屈みこみ彼女の頭を撫でながら、彼の妻が気づかぬほどの優しい手つきを以ってそっと息子を奪い取り、抱き上げてまた来た道を引き返した。妻がようやく顔を上げた時、男は息子を連れて、帰りの電車に乗り込もうとしていた。
「どこへ行くのです……!」
ここで初めて台詞が聞きとれた。
「どこへ行くのです、貴方……その子をどこに連れていくつもりですか?返してください。貴方、お願い……!その子を、乃亜を返して……!」
丘を駆け下りる母親を置いて、非情にも男と列車は去った。クリスが嫌な汗をかいて目を覚ましたのは、母親の叫び声のせいというよりは、その中だけ色の戻った電車のせいであった。男が抱いていた子の髪は、葡萄酒で染めたような鮮やかな赤紫色だった。そして、非道なるその父親の顔をクリスは知っていた。あれは、志水晶だった。