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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第四章 革命
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第三十六話 主よ憐れみたまえ・後編

「また、見合いを断ったのか?」

「なぜ分かった?」

「母親の顔見てれば分かる。葬式みてぇな顔で兄貴のこと見つめてたぜ。そろそろ両親を安心させてやったらどうだ?」

「生意気を言うな」

 赤信号で車が止まった拍子に、指で額を弾かれる。こうしている時は普通の兄弟のようだと慎は思う。車の中に、二人以外の者は誰もいない。演技でもなくこういうことができる。慎は家族の団欒の後のこの限られた時間が何となく落ち着いた。例え、その中での関係が真実ではなくても。

「俺はまだ院生なんだぞ?それに妻を持つ気もない」

「別に女がいたところで、大して変わらねぇだろ。特に兄貴の場合は。大体、あのフランス人ピアニストとはいいとこまでいってたじゃねぇか」

「あれはお互い本気じゃなかったのさ。お互い本気のふりをしていただけで。彼女は結局死んだ婚約者のことが忘れられなかったし、自分の恋よりも尊重すべきものを知っていた。俺もそうだ。恋愛なんて本気で始めた奴から負けだ」

「石崎には言ってやるなよ。泣くぞ、あいつ」

「分かってる」

信号が変わり、車が再び走り出す。夜の港町は静かだ。海辺の道は風が冷たくて誰も歩きたがらないからかもしれない。慎は薫の横顔越しに黒々とした海を眺めた。何かがやってきそうな遠い海の彼方。浜辺に目を向ければ、潮水に濡れた体を砂にすり付ける不気味な怪物もいるかもしれない。日が落ちたにも関わらず、相変わらず波は寄せては返す。その不変が、慎には少し気味悪く思えた。

「父さんは最近調子がよくなさそうだな」

「ああ。本人は何でもないようにしてるけど、間違いなくどっかやられてるぜ」

「今まで苦しめてきた女の呪いかもしれないな」

「そういや、親父も兄貴と同じ主義だったもんな。本気の恋愛はしない」

「そうさ。でも一度だけしたかもしれないよ。涌水明音の母親には、案外本気だったかもしれない」

一瞬光った慎の目を、薫は見逃さなかった。慎はしかめた顔を窓に映して尋ねる。

「……どうしてそう思うんだ?」

「色々とね。しかし、お前はどうもあの少年に対してこだわりがあるようだな」

「別に。ただ使えるから利用してるだけだ。あいつの母親のことは関係ねぇ」

薫は素早く左手慎の足元を指差した。慎はシートベルトの制約を受けつつも身を屈めて見てみると、小さなものがつま先のすぐ傍に転がっていた。拾い上げてしばらく眺めているうちに、慎の表情は変わった。そして、慎の右手が更に何らかの動作を重ねた後、その表情は更に深く、確かなものとなった。

「それは父さんの書斎で見つけた。メイドに掃除の時に探らせてね。これは机の抽斗の一番奥に大切にしまわれてたそうだよ。手紙と一緒にね」

再び車を止める機会を見つけると、薫はジャケットの裏ポケットからまとめた紙の束を取り出して慎に渡した。慎は紙の束をまとめていたクリップを取り、全てをひろげて目を通したが、彼の受けた衝撃は、彼の顔も、彼の言葉も表現することができなかっただろう。

「慎」

薫の声音が変わった。

「あの少年は俺たちの立場を滅ぼしかねなかった。それは、今も変わらない。むやみに可愛がって、兄弟の名乗りなんてさせてみろ。父親は十六年間も黙りこんできたが、何をしでかすか分からないぞ……兄として忠告してやる」

慎は返事をしなかった。ただ、兄から示された二つの証拠を、呆然と見つめるだけだった。


「ただいまー!」

 明音がクリスたちのところで夕食を済ませ、寮に戻ったのは、千住家の晩餐がちょうど終わった頃だった。ただいまといっても、ついこの間までは返事をする人はいなかった――ルームメイトである真央は、この部屋を去ってしまったから。ところが、最近になって、慎の写真を眺めるしか孤独をいやす方法のなかった明音に、素晴らしい友人ができた。彼は明音の帰ってきたのをみると、体をぐっと伸ばした後、心もち首を右に傾げ、大きな瞳を威厳たっぷりにきらめかせて「にゃう」と一言呟いた。

「遅くなってごめん、シャネル。今ご飯にするから!」

ぷいとそっぽを向いて拗ねているのは自分に懐いてきた証拠だと、明音は嬉しくなる。最初は大変だった。慎に猫の世話を命じられ、わくわくしながらお近づきの印の鰹節を与えてみると、猫は軽蔑するように明音を見遣ってこちらに尻尾を向け、住み慣れた寮の屋根の上にのぼってしまった。明音が説得し続けること約三時間、ようやく猫は諦めて降りてきて、明音の後についてくること承知したのだ。

「はい、どうぞ」

キャットフードの缶を開けて、真央が使っていた皿の上に出してやると、シャネルはぴょんと椅子の上から飛び降りて、猫にはこれ以上を望めない優雅な仕草で食事を始めた。明音はその背を撫ぜながら呟く。

「早くお前のご主人さまが帰ってきてくれるといいね」本当に二人が帰ってくる日がくるのだろうか。明音には確信が持てない。そもそも目の前の幸福すら信じられないでいるのだから。

 慎がなぜ自分を側においてくれているのか分からない。明音は餌を食べるシャネルの横に寝転がり、冷たいフローリングの床の冷たさを背中に敷いた。ひたすら追い続けてきた執念の結果かもしれない。こそこそストーキングさせておくよりは、堂々と自分の側においた方がいいと考えたのだろう。それが一番納得のいく答えだ。でも……気のせいではない。明音は確かに見たのだ。明音を見る慎の表情が時々揺れるのを。あの青い目が戸惑うのを。まるで静かな池に小石を一つ落としたように、水面がさざめきたって、波紋が広がって。

 慎様は知っているのかもしれない。知っているからこそ、俺の扱い方に戸惑うのかもしれない。俺はそんなつもりじゃないのに――俺はただ、慎様の近くにいたくて、心から尊敬する兄に近づきたくて、この学園に来たのに。弟として扱ってもらうことなんて、俺は望んでいない。大勢の中の一人でいい。他人でいい。慎様の家庭が、幸せが壊れない程度に愛してほしかった。母さん、俺が望んでることで、謙虚なようで欲張りなのでしょうか。俺には慎様の近くにいることすら勿体ないことで、そのためには何かを壊しかねないのかな。

 ゆっくりと起き上がって、明音は通学用鞄から生徒手帳を取り出し、表紙の裏に貼った母の写真を見た。笑っている。こんな時でさえ、母は――憂鬱が沈んでいく。夜。


***

 最早何も責める気になれなかった。だって……一体何を悔やめばいいのか。何も知ろうとしなかった自分を?生徒会を壊滅させてしまった自分を?そんなことに責任を感じるのは、あまりにも大袈裟だ。自分は未だ何も知らないのだから。自分の不甲斐なさよりも身に染みるのは、ノアの裏切りだ。ああ、ノア、一体君はどうして?君が何を考えているか、俺には分からないよ。もうきっと、一生分かることなんてない。君は生徒会長を守りたかったの?そのために俺を突き刺すような真似をしたの?――でも、もういいんだ。俺は行くし、君は学園に残る。この学園に未練はない。もう自分のやるべきことはやり遂げたんだから。

 クリスは一度手を止めて、トランクの中を覗き込んだ。あまりにも無造作に詰め込みすぎた。荷物はまるで増えていない。ここへ来た時の方がもっと多かった気がする。後詰めるべきものは……ああ、そうだ。スケッチブック。クリスは机の上のスケッチブックを手にとって捲ってみたが、途中でついに本を閉じた。学園の思い出が詰まりすぎていて辛かった。クリスはそれを高く放りあげた。スケッチブックは窓にぶつかって、クリスとノアのベッドの上に開いて落ちた。そのページを、クリスは見ようともしなかった。

 トランクをあちこちにぶつけながら階下に降りる途中、呼び鈴が鳴ったような気がした。続いて扉を叩く慌ただしい音も。クリスが返事をするより早く、玄関の扉が開き、随分大勢の人間が流れ込んできた。先頭は落合で、続いて来夏、明音、野瀬先生、橋爪先生、ジャクソン先生、副校長と。あれ、今は授業が行われているはずなのだが。それに、この面子には一部見覚えがある。橋爪先生と桜木先生の仲を取り持とうとして、ふざけた作戦がばれた時に白のアトリエに集まった面子だ。それを思い出すと、何だかおかしくなって、勝手に笑いがこみあげてきた。声をたてて笑い始めたクリスに、落合がぎょっとしたように言った。

「大丈夫か、エーリアル?」

クリスは頷いた。相変わらず笑いは口から零れ出ていた。心が真っ白に、虚しくなっていくにも関わらず。訪問客たちには、クリスのいやに白い顔と、昨夜一睡もしなかったことが窺われる真っ赤に充血した目が、痛々しく思えた。同時に恐ろしく思えた。クリスはついに狂ってしまったのではないかと。落合が恐る恐る一歩を踏み出したその時、トランクが雷鳴のような音をたてて転がり落ち、クリスの体が宙に浮いた。

「石崎!」

来夏と落合が、床に崩れる前に何とかクリスの体を受け止めた。呼びかけてもぐったりとして返事はない。二人が来夏の肩にかかったクリスの顔を天井に向けてみると、クリスは気を失って、死人のように硬く目を閉ざしていた。副校長先生が叫んだ。

「おい、すぐに里見先生を呼んで来い!」

「は、はい!」

橋爪先生が走り出した。その速さたるや。こうした状況でなければ、もっと脚光を浴びたはずなのだが。

「落合、関本、石崎を寝かせて。そうね、リビングの方がいいわ。ソファはある?じゃあ、その上に。涌水、トランクをこっちに持ってきて」

野瀬先生の指示通りに物事がなされた。クリスが寝かされたソファの周りには、橋爪先生を除いた六人がずらりと並んでいたが、何だか病人の死でも看取るようで不吉に思われたのか、ジャクソン先生はつと群れを離れて玄関の方を見に行った。来夏と落合は床に膝をついてクリスを間近で見つめ、明音はおどおどしながらも、クリスの冷たい手をぎゅっと握りしめていた。間もなく里見先生がやってきて、部屋に溢れる人の多さには驚きながらも、病人に関しては冷静に適切に処置をした。

「疲れてたんですね、石崎君。あまり寝てない様子だし、それだけじゃなくて何か悩むこともあったんじゃないでしょうか。少し休めば元気になると思います。目が覚めたら温かいものを飲ませてあげてください。それから、毛布か何かをかけてあげた方がいいですね」

「俺、取ってくる!」

落合は光速で消えていって光速で戻り、ブランケットを一枚クリスの肩にかけた。来夏がやかんを火にかける音もした。里見先生の目からみて、ようやく病人は然るべき状態に置かれた。

「目が覚めるまでにはそんなに時間はかからないはずです。一応私が側にいますけど。それにしても、一体どうしてこんなに大勢の先生が……」

「そう、そこですよ、里見先生。僕もちょうどそれを聞きたいと思ってました。何しろ、今は木曜日の午前十時。間違いなく授業中ですからねぇ」

背後に突然人の気配を感じて、振り返った副校長が悲鳴をあげた。校長がちょうど部屋に入ってきたところだった。一同が事前に打ち合わせたかと思うぐらいの美しいタイミングで、「校長先生!」と叫んだ。

「おかしいと思いましたよ。ほんのついでに学校をまわってみたら、体育、英語、数学、三教科も自習になっている授業があるじゃないですか。それも今日突然自習になったというんですから。職務放棄ですよ、皆さん」

「でも、校長せんせっ、クリスちゃんが退学届出したのに放っておく訳には……!」

「言い訳は結構です。さっ、早く自分の持ち場に戻りなさい。副校長先生、貴方もですよ。あぁ、野瀬先生と里見先生はここにいらしてください。生徒諸君もすぐに授業に出るように」

そんなのないぜと落合は渋ったが、来夏に連れられておとなしく引きさがった。明音は名残惜しげにクリスの手をぎゅっと握りしめてから部屋を出ていった。やかんの沸騰する音を聞いて里見先生が止めに行き、校長と野瀬先生だけがクリスの傍に残された。二人はひとまず椅子に腰かけた。

「ところで、野瀬先生。なぜ石崎君は急に退学を決めたのでしょうか?何か理由があるように僕は思うのですが」

「それが……お恥ずかしいことに、私も分からないんです。昨日一日無断で欠席していたのが気になって、今日も来ないから心配していたんです。そこに、石崎の退学届が出たって聞いたので急いで駆け付けてきて」

「そうですか。有瀬君は出席していますか?」

「えぇ。普通に登校してました。石崎のことを聞いても分からないとだけ言われて……喧嘩でもしたんでしょうか。でも、それにしても、退学までは……」

「いずれにせよ、有瀬君に一度話を聞く必要がありますね。野瀬先生、お願いできますか?」

「えぇ。もちろん。担任の役目ですから」

里見先生が、ティーセットを一式揃えて持ってきた。注がれるハーブティーを、野瀬先生は断ると、唇をきつく噛みしめて自分のいるべき場所へと帰っていった。校長は部屋中に鋭い視線を走らせた。


***

 明音はその日、ノアを捜しまわった。だが、ノアの姿はどこにも見つからなかった。来夏や落合に聞いても、朝は――つまり、クリスの退学の知らせを聞いて飛び出すまでは教室にいたが、二人が帰った時は既にその姿はなかったとのことだった。放課後になっても、明音はまだ必死な努力を続けていた。一体どこへ行ってしまったんだ。先輩は。寮にもまだ帰ってないっていうし。クリス先輩があんな状態だっていうのに。そういえば、慎様のことも昨日から見ていないが、とりあえずノア先輩の方が先だ。クリス先輩が気を失ったってこと、まだ知らないはずだから。早く、早く捜さなきゃ。 中庭を走っていた明音は、噴水の周りを一周回ったところで、花木先生と衝突しかけた。二人は大声をあげて飛び退き、お互いが誰かを認め合った後で同時に謝った。

「す、すみません、花木先生……!」

「いや、俺も前方不注意だった。ところで、涌水、2年A組石崎を見なかったか?昨日からずっと捜してるんだ。美術室の鍵をあいつに預けたまま、返してもらってなくてな……」

「花木先生、こちらです」

明音は一分間に二回も飛び上がりたい事態に出くわした。そう言って、鍵を差しだしながらこちらに歩んできた人こそ、有瀬ノアではないか。ノアは微笑んでいた。ああ、やっぱり先輩はクリス先輩のことを知らないんだ。

「僕が石崎君からお預かりしていました。昨日返しそびれちゃって。すみません」

「ああ、それならいいんだが……」

腑に落ちない顔で鍵を受け取り、花木先生は去っていった。次の瞬間、くるりと振り返ってその場を去ろうとしたノアを、明音は慌てて縋りつくように止めた。

「何か用ですか、涌水君?」

ノアはこちらを見ようともせずに言う。

「先輩!大変なんです……クリス先輩が、クリス先輩が倒れて……!」

ノアの表情を確かめることは、明音には出来なかった。少なくとも後ろ姿では、彼は何の反応も示さなかった。ノアの様子がおかしいことに、明音はその時初めて気がついた。夕焼けの空にカラスが二度鳴いた。思わず、腕にしがみついた両手が離れる。

「ノア先輩……?」

「……僕にはもう関係のないことです」

「せ、先輩……?!」

真っ直ぐに、澱みのない足取りで林檎林の方へと進んでいくノアを止める術を、明音は知らなかった。ただ何もかも信じられない気持で、その場に立ち尽くしていた。一体どうして、全てがたった今目の前で繰り広げられたようになったのか、明音には分からなかった。何で?だって一昨日の夕食の席では、二人はあんなに楽しそうに微笑みあっていたではないか。そうだ。一昨日は何もかもが正常で、明るくて、温かくて……突如、明音ははっとした。西から吹く風がざわめいた。慎が林の入り口に立っている。ノアを待っているのだ。ノアがその隣に追いつくと、慎は明音に、風に紛れてしまいそうな一瞥を遣って歩きだした。「待って」と叫んで追いかけようとした。妨げたのは、肩に置かれた大きな手だった。右目の隅に白衣の袖を認めた時、明音は凍りついた。今一番恐ろしい人物が、明音の真後ろに立っている。

「やあ、涌水君。少し用事があるんだ……付いてきてくれ」


***

Kyrie eleison

Christe eleison

Kyrie eleison


主よ、憐れみたまえ

キリストよ、憐れみたまえ。

主よ、憐れみたまえ。


染みるほど冷たい刃が、右手に光る。


***

「千住先生……用事って何ですか?」

 薫が振り返った時、その顔にいつもの優しい微笑はなくとも、明音は驚かなかった。薫が浮かべていたのは冷笑だ。極度の恐怖と敵愾心を緊張の中に包んだ明音の表情と、向かい合うような。明音は物事の核心に触れようとする薫の本意を知っていた。いつかこんな日が来るのではと予想していた。薫が全てを知っていることを示唆したあの日に。西日が、フェンシング場の壁を染め上げている。恐らく、よくない色に。

「ここに慎がいないのが残念だったな」

薫の靴音が巨大な空洞の建物に響く。

「もし慎がいれば、千住法正の子供が三人ここに揃ったのに。三人の兄弟が水入らずで話せる楽しい時間になっただろうにね、明音君」

「……貴方は最初から知ってたんですね」

「ああ。俺だけじゃないさ。慎も君と会う前から君のことを知っていた。父の過ちはね、一部の世界では公然の秘密なんだよ。まあ、君の存在まで知る人は少ないだろうけどね――そう、知っている以上、俺たちは君に話すべきだった。黙っていたのは俺も慎も臆病だったからだ。そのせいで、君を散々苦しませてしまったね」

明音は深く息を吸ってから、肩を落として溜息をついた。でも、もう遅い。否定し続ければ逃げられたかもしれないのに、俺は今あっさりと認めてしまった。母さんはどんな顔をしていることやら。

「……いいえ。俺は何も言わないでほしかった。苦しくなんかなかった……今まで通りでよかったんです」

「そういう訳にもいかないさ、涌水君。いや、明音とでも呼ぶべきかな?俺たちは君のことをずっと大事な弟だと思ってきたんだから。どうして血が繋がっている兄弟が顔をそむけあわなければならない?俺たちにも君にも、何の罪もないんだ」

「でもやはり黙っているべきでした。俺たちが兄弟だって認めれば……貴方たちの……俺たちの父さんが恥を晒すことになる」

「勿論俺だって父親の顔に泥を塗りたい訳じゃないさ。でも、父は君のことに関して責任を負うべきだ。そうは思わないのかい?」

「責任はもう十分とっていただきました。何もいらなかったんです。何も…………母も俺も幸せだったんです!貴方には何も分からないかもしれないけど。母一人子一人、そんな生活でも苦しいなんてことは全くなかった!母には大好きな人に愛された確かな記憶があったから。俺には、母が一番愛した人の子供だって自覚があったから。本当に俺は何もいらないんです!お願いします……俺のことは放っておいてください……!」

明音はもうこれ以上その場に立っていられないような気がした。この人と、自分の兄であるこの人と、顔を合わせていたくない。この人は慎様とは違う。大事な弟だなんて言っておいて、内心では母や自分のことを見下しているのだ。だから、あんなにも冷ややかな目で自分を見つめている。込み上げてくる悔し涙を隠したくて、明音は薫に背を向けた。そのまま真っ直ぐ出口へと向かっていくつもりだった。だが、薫の一言が明音の足を止めさせた。

「いいものだな。本気で愛された子供というのは」

明音の態度を強がりだと思って皮肉を言っているのか。強がりではない。何もいらないというのは紛れもない本心だけれども、これ以上侮辱されるのは許せない。睨みつけようとして明音の目に入ったのは、空中にきらめく金属の光だった。明音の掌にそれは落ちた。指輪だった。大きさからいって恐らく女性のものだろう。明音は指輪の内側に刻まれた文字に気づき、緋色が強すぎる光のなかで何とかそれを読み取った――HOUSEI to SHIZUKA。

 明音の手が激しく震えた。

「これは……」

「そう、それは婚約指輪だ。もう一つはここにある。そっちは君のお母さんのもので、こっちが父のものだ。父はこの指輪を箱に入れてずっとしまっていた。君のお母さんが父に送った何枚もの手紙と一緒にね。読みたいかい?それじゃあ、手早く一枚だけをあげよう。俺が言おうとしてることは、全て語ってくれるはずだ」

 最初の文字が目に入ると、屈辱の涙はすうと引いて、懐かしさに胸がいっぱいになった。間違いなく母の字だ。一行、また一行と読み進めていくうちに、握りしめる指輪に熱がこもった。その他の手紙を要求する必要はなかった。この一葉に、母と父の全てが記されている。明音は頬に零れる涙も隠さず、顔を上げて薫を見遣った。ぼやけた視界の中で、薫の顔に父の顔が重なった気がした。

「先生……」

「分かったかい?父は君の母親と結婚するつもりだったんだ。見合いで知り合った俺たちの母親より、自分で選んだ女性を愛した。当たり前のことさ。本来ならば、君は父親の元で育っていた。君は千住の苗字を堂々と名乗って生活していけたんだ。捨てられた女の子供として、日陰に生きなければならなかったのは俺と慎の方だ。それを免れたのは君の母親の優しさのおかげだ。俺たちの立場はほんの偶然によって作られたもので、とても脆い……ねぇ、明音、君は慎を救いたいと思わないかい?」

明音は優しく儚い世界から急に現実に引き戻されたような気がした。薫の目が、先ほどまでの悲哀を捨てて、突然を冷厳な色彩を帯びた。明音は手の中の指輪が冷えきっていくのを感じた。慎を救うとはどういうことか。不安そうな明音から手紙を受け取って、薫は切り出した。

「慎は今ある命令を受けている。命令を出しているのは『水晶』と呼ばれる者だ。彼はこの学園を密かに操っている。慎は石崎君を学園から追い出すようにと命じられた。そのために、慎は既に行動に出た。彼の親友である有瀬君を使って、慎は石崎君が退学を決意するほど彼を傷つけることに成功した。だが、邪魔が入った。石崎君が退学届を出したことを知った教師たちが、余りにも急な退学を疑って受理するのを拒んだんだ。君も一部始終を知っているだろう?」

明音ははっと息を吸ったまま何も言えずにいた。薫が続ける。

「この命令に失敗すれば、慎はこの学園を出て行かなくてはならない。他の生徒会役員たちと同じようにね。だが、腐ってもあいつは俺の弟だ。俺は慎を学園から追い出したくはない……明音、君がもし慎の代わりに石崎君を学園から追放すれば、『水晶』は恐らく慎を許すだろう。君も俺と同じ気持ちのはずだ。君は慎に行ってほしくはないだろう?明音、君ならば慎を救うことができるんだ。たった一人の慎の弟として、ね」

薫が明音の右手を取ると、明音は母の婚約指輪を再びきつく握って胸元にあてた。薫の視線が、明音の慄く瞳を捉えた。慎と似ている、と薫は思った。慎が自分を見る時と同じ色の、同じ感情をともした瞳だった。明音が顔を俯けると、薫の口元で遂に蔑みが具現化した。薫にとって弟ほど操りやすいものはないというのに。

 明音は指輪の丸い形を、今や心臓の上にはっきりと感じながら、手紙の文面を思い返していた。母の笑顔が、熱く湿った瞼の裏に浮かんだ。続いて、今まで遠くから眺めていた父親の姿が、それに続いて慎の顔が。母さん、ごめんなさい――なぜ謝るの、と聞かれた気がした――分からないんだ。俺のこれからすることが、本当に弟として正しいことなのか。いいのよ、と母は言った――貴方のすることは、全部母さんがやったことと同じだわ。だから、誇りを持って。

「『私は誰かを犠牲にしてまで、幸せになろうと思わないのです』」

明音は小さく、しかしはっきりと呟いた。それが答えのつもりだった。母の手紙の中にあったその一文が。明音は初めて、恐れもなく薫を真っ直ぐと見ることができた。零れ損なった涙が、残光を反射してきらきらと揺れていた。

「それが俺の答えです。もう、俺は行きます……さよなら」


法正様

お願いです。離婚するなんて仰らないで。そんなことをすれば奥さまも、息子さんたちも悲しみます。私は誰かを犠牲にしてまで幸せになろうとは思わないのです。いいえ、違います。私が今幸せでないという意味ではありません。法正様、私は今十分に幸せですわ。例え、貴方の奥さんになれなくとも、私は貴方の子供を宿したんですもの。私と貴方はこの子の父と母という関係できつくきつく結ばれたのです。誰にも断ち切れない絆です。だから、お願い。私をこのまま去らせてください。私はずっとずっと、どんな時も、貴方のことを思い続けます。どんなに離れていても、私は貴方の傍にいますから。だから、私を惜しまないで。さようならは言いません。指輪は受け取れませんからお返しします。

                               涌水静香


 走る明音の頭に、覚えた訳でもない母の言葉が過ぎっていた。風が明音の鼻をつんと突き、涙で学園の景色を霞ませた。でも、行かなければいけない。慎様のところへ。


***

Kyrie eleison

主よ、憐れみたまえ。


 慎は冷え切った部屋の真ん中で、こちらに背を向けて腰かけていた。彼は何を見つめているのか。窓から忍びこんでこの部屋をも支配する夕闇か。それとも虚空か。遠くでカラスが二度鳴くのが、彼は聞こえているのだろうか。

 腕を肩の上から絡ませても、慎はその姿勢のままだった。薄くひんやりとした金属の感触を、首筋に圧しつけても尚。その手に力を込めてそのまま手前に引けば全てが終わる。そんなことは慎も知っているはずなのに、慎は抗いもせず、ただ口を動かしただけだった。

「俺がそんなに憎いか?」

「……えぇ、とても」

この寮には最早他に誰もいないにも関わらず、復讐者は声を潜めて返事をした。周囲を憚ったというより、感情に声を濁されてしまったのかもしれなかった。慎が音だけで笑う。

「殺したきゃ殺せ。だが、俺を殺したところで、事実は何も変わらねぇぞ」

「分かっています。貴方には何も責任はない。僕が殺さなければならない人は貴方ではないことを、僕は知っています」

「なら、なぜ殺す?」

尋ねると、慎の皮膚の上で刃物が震えた。慎は虚無を見つめる目を細めた。

「間違ってると分かってるなら、なぜ俺を殺す?おい、答えろ、有瀬」

灰色の小さな玉は歪んで色をなくした。それが顎を落ちて慎の制服の襟を濡らした時、ノアの喉元から嗚咽が漏れた。ノアは甘えるように、しかしまだ剃刀は慎の頸動脈の上に置いたままで、慎の背中に顔を寄せた。涙が慎のブレザーに滲んだ。

「……許せないんです。復讐しなきゃ、とても耐えられないんです……あの少年を傷つけたことが辛いんじゃない。僕があの人を裏切らなければならなかったことが……僕の未来がこんな裏切りの連続であることが……それが僕にとってどれだけ辛いことなのか……僕は、僕をこうまで追い込んだ全てが憎い。例え命令に従っただけだとしても、僕に裏切りを命じた貴方が心の底から憎いんです……だから、貴方を殺します。僕もここで死にます。僕はこんなものを望んでいたんじゃない……っ!」

力を入れようとした右手が、慎の手にはたかれて剃刀を取り落とした。ノアははっと手を伸ばした。しかし、動くのは慎の方が早かった。慎はノアの手首をとると、右足で素早く刃物を蹴った。剃刀はノアの手の届かない場所へと滑っていった。呆然とするノアは、もうその後を追いかけようともせず、その場に膝を崩した。

「俺を殺したければ俺だけを憎め」

慎はノアの手首を離すと同時に吐き捨てた。ノアは両手で顔を覆った。全く、見るに堪えない嫌な光景だ。慎は部屋の電気をつけて、剃刀を拾い上げるとさっさとその場を離れた。ノアはどうにかなるだろう。知ったことか。もう自分はこの学園とは無関係なのだ。そうだ。「水晶」とも、生徒会の使命とも、今まで自分を縛りつけていた何もかもと。自分は作戦に失敗した。兄が余計なことを考え出す前にさっさとここを離れるに限る。慎はポケットにズボンのポケットを上からさすって、車の鍵が入っていることを確認した。やり残したことはない。どうせなら、今出発しよう。そして、このまま自分の好きな場所へと行かせてもらおう。

 愛車に乗り込み、エンジンをかけたその時、ヘッドライトが庭の灌木の前に人影を浮かび上がらせた。兄かと一瞬思った。だが、それは、裏庭から忍びこんできたばかりで、葉っぱやら花弁やらをいっぱいに制服につけた明音の姿だった。明音は慎に気がつくと、どたばたと駆け寄ってきて窓を叩いた。いかにも深刻そうな顔して。おかしくて仕方がないのを、慎は辛うじて堪えた。窓を開けてやると、明音は首を車内に突っ込んできた。

「慎様!ごめんなさい!せっかく、慎様が学園に残るチャンスだったのに……俺、どうしても耐えられなくて。クリス先輩を傷つけるのが、どうしても嫌で、それで……!」

慎は親指で助手席を指差した。明音がきょとんとして、間抜けな顔をする。この表情こそ、この少年には、この異母弟には相応しいと慎は思った。

「えっ?あの……慎様?」

「俺はこの学園を出る。お前も付いてきたければ付いてこい。決めるのに十秒だけ待ってやる。十、九……」

「えっ、そんなっ、ちょっと、ひどっ……慎様!」

明音は母の指輪を見た。これは母が犠牲にしたものなんかではない。唐突にそう思った。その証拠に、指輪は息子である明音に手に渡った。本当に大切なものは消えないし、自分の元を離れることはない。それを悟った母にとっては、この世の全てが喜びだった。そして、恐らく自分にとっても。結論に達するまでの時間わずか三秒で、明音は助手席に飛び込んだ。明音がシートベルトを締めると、慎は車を発進させた。そのスピードと運転の荒さには、慎を敬い奉る明音さえ冷や汗をかいた。

「ちょっ、酔う!酔うから!慎様、ちょっと、スピード落とし……うわっ!」

「ごちゃごちゃ言うな。邪魔される訳にはいかねぇからな。門を出るまで我慢しろ」

果たして本当にこれでよかったのか。明音は一瞬疑わしい気持ちになった。だが、人はその場に留まっていることはできない――信じてもいいはずだ。この手で選んだ未来を。


 車の音がする。遠くから段々と近づいてくる。一体どこへ行こうというのだろう。なぜこの完璧な世界を捨てて行くのだろう。夢うつつに思いながら、クリスはゆっくりと目を開けた。クリスはソファの上にいた。部屋は暗く、枕元の紅茶は既に冷めていた。一体俺はどうしたんだっけ?――そうだ。気を失って倒れたんだ。それで、目覚めた時は里見先生が傍にいた。先生は今日一日休むようにと言って、温かい紅茶をくれて、また俺は寝入ったんだっけ。ああ、まだ眠い。でも車の音がうるさい。一体、どこに、何のために……?

 クリスははっと飛び起きた。寝巻に裸足のまま外に飛び出ると、ちょうど一台の車が猛スピードで寮の前を横切っていくところだった。運転席に座る人の横顔は分かった。慎だ。しかし、その奥にいた人は?助手席にいたのは一体誰なんだ?まさか……近くにはふらつく体を預けるものもなかった。まさか、生徒会長は本当に連れていってしまったのだろうか?有瀬を。俺の手の届かない場所に?

 その時、近くで茂みがざわめいた。クリスは驚いて、それから押し寄せてくる安堵に思わず微笑んだ。「有瀬」と、クリスはその名を呼んだ。クリスはノアの元に駆け寄りたかった。抱きしめたかった。クリスの頭のから、一昨日の朝の記憶は全て吹き飛んでいた。クリスには、なぜノアが憐れむような、困惑するような目でこちらを見るのかが解せなかった。

「有瀬……!」

もう一度その名を呼ぶ。一歩を踏み出した時、ノアの影は消えた。忽然と。まるでそこには元から誰もいなかったかのように。遠のく足音だけが、クリス以外の者がこの世に存在していることを示す、たった一つの証だった。

「ある……せ……?」




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