第三十四話 菜の花の満ちる頃・後編
「ねぇ、有瀬、一つ聞きたいことがあるんだ」
「何ですか、クリス様?」
放課後の美術室には切り込む様に夕日が差している。机と椅子の影が、白い床や壁の上に、或いは絵画や石膏の胸像の上に、引き伸ばされて揺れている。二人の影もまた、そんな無機質な模様の中に紛れて。
「あの絵はさ、君が描いたの?」
「……どうしてそう思うんです?」
「ごめん。この間、勝手に君のスケッチブックを見たんだ。そしたら、あの絵と同じ絵が……」
「あぁ、別にかまいませんよ。でも、この絵を描いたのは僕ではありません。スケッチブックの絵はこの絵の模写です」
「じゃあ、この絵の作者は……?」
「志水晶じゃないんですか」
「そうなんだ……びっくりしたよ。君の絵があまりにも志水晶の絵に似てたから」
「クリス様には敵いませんよ」
暗転。
***
落合と来夏は朝食のテーブルを挟んで顔を見合わせていた。菜月が来ないのだ。昨日の朝は、随分と早く部屋を出て行ったと思ったのに学校に到着してみたら姿も形もない。電話をかけてみてもいないので、二人で昼休みの時間を縫って走って寮に様子を見に帰ると、頭から布団をかぶって丸まっており、二人がつついても、うんともすんとも言わなかった。具合が悪いのだろうと二人は判断した――恐らく、心の方が。野瀬先生には風邪らしいというようなことを伝え、授業後は部活も放り出して急いで帰ってきた二人なのに、やはりはっきりとしたことは掴めなかった。唯一の収穫と言えたのは真っ二つに折られた携帯電話と、ゴミ捨て場に放り投げられていた傘だけであった。
二人は朝食を急いで掻き込むと、菜月のためにロールパン数個とオレンジジュースのグラスを持って部屋に戻った。菜月は昨日の昼休みから身動ぎもせずに布団にこもっており、二人が感心したくなるほどであった。
「おい、酒本、朝食はここに置いとくからな」
落合はロールパンの皿をわざと音をたてながら枕元におろした。昨晩二人が取ってきてやってポテトもハンバーグも、まるで手をつけた形跡がない。
「お前な、何があったのか知らねぇし、聞かねぇけど、あまり動かないと体が鈍るぞ。俺たちが学校行った後でもいいから、少し動いとけよ」
菜月は相変わらず返事をしない。来夏は諦めて古くなった皿を片し、後は何も言わずに部屋を出て行った。二人が去って行った後で、菜月は漸く体を起こした。久しぶりに見た日の光が、真っ赤に泣き腫らした目には眩しかった。菜月は弱弱しく細めた目をそのままに、ちらりとパンとジュースを見遣ったが、とても食欲は沸かなかった。このまま何も食べず、布団の中に籠っていたらどうなるのだろうと菜月はぼんやりと考えた。きっと死ぬんだろうな。それまでどれくらい時間がかかるだろう?でも、訪れる結果としては、このまま生きているよりは遥かに良いものであるはずだ。菜月は部屋を見渡して、捨てたはずの傘がいつの間にか玄関の傘立てにきちんとしまわれていることに気がついた。菜月はベッドを飛び降りた。傘に歩み寄る道で踏みつけていった携帯と同様、もう二度と使用ができないようにしてやりたかった。だが、傘の柄にかけた手を何かが止めた。菜月は視界を千鳥模様でいっぱいにした後、悔しげに唇をかみしめて傘を放りだし、再びベッドの中に飛び込もうとして行きつかずに床に倒れ込んだ。この世の全てが忌々しくて、憎々しくて、そして悲しかった。なぜこんなにも冷たい仕打ちを受けなければならないのだろう。金曜日まで、そう、金曜日の放課後までは何もなかったのに。二人が別れた後、一体何があったのだろう。僕に二度と近づかないって約束できる?――本当にもう二度と一緒に笑いあうことはできないのか?自分たちは終わってしまったのか?何の予兆もなく、予感もなく、愛情だけはまだしっかりと形を残しているのに?その時、菜月がベッドと床との隙間に見つけたのは、正月にこの部屋で行われた百人一首大会のカードであった。一枚だけ片し損ねたものが、こんな所に入り込んでしまったのだろう。埃をはらってみると、札に書かれた文字が明白に見えてきた。
濡れにぞ濡れし 色はかはらず
「見せばやな雄島のあまの袖だにも、濡れにぞ濡れし色はかはらず……」
たった今届いたばかりの茶封筒には、百人一首の札がたった一枚だけが入っていた。差出人はないが、元々下の句だけしか書いてなかったカードの端に上の句を書き足した小さな字から推察できた。颯は昼食の箸を置くと、古典の参考書を取り出して素早くページを選び、丁寧に破り取って封筒の中にしまった。そして、友人の話すのに頬笑みながら、和やかな昼餐を再開した。
瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
いつか、使命を果たした日には――
返事をしてやるべきではないと分かっている。まして、こんな優しい返事など。ポストの奥でぱさりと乾いた音がした後も、颯はその場に立ち尽くしながら、見えなくなった手紙を見つめていた。それでも放っておけなかったのは、自分の心のまだ生温い部分のせいだ。この世の中は好きにならないことばかりだ。自分の心も、他人の心も、時間の経過も……
もう既に嫌悪感が芽生え始めている。くるりと踵を返して、颯は一人生徒会室へと向かっていた。昼休みの廊下は賑やかで、颯一人だけが冷たく、沈鬱な空気を纏っていた。いつまで自分はこの状況に耐えられるだろうか。全く自信がない。今すぐにでも逃げ出してしまいたい。永遠というものを手に入れる代償としてならば、こんな犠牲は小さなものなのかもしれないが、その犠牲が致命傷になりかねないのだ。自分の、そして菜月の望んだ永遠とは、こんなにも果てしないものであったのか。それを与えられたとして、自分たちの手に負えるのだろうか。
眩しい昼の光が、颯の意識に反射して煌めいた。颯ははっと顔を上げた。無意識のうちに開けた扉の奥に、日差しを迎え入れた生徒会室の窓があった。颯はその窓の奥に永遠を見た。揺れる菜の花と、茜色の空と、そしてあの日の二人と。それらは一瞬で窓の外を流れて、また元の青空に戻った。颯は息を吐き、駆けて窓の桟に身を乗り出した。この景色をどこで見たのか、ようやく思い出したのであった。
その時、ぐらりと世界が揺れた。慌てて身を引きもどせたのは、ダンスで鍛えた運動神経のおかげであったが、安堵する間もなく、次の衝撃が忽ち颯を襲いに来た。振り返った颯の目の前に見覚えのある茶封筒が差しだされたのだ。
「榊原先輩、落し物ですよ」
そう言ってノアは微笑んだ。
***
「真田正則……なんか戦国武将みたいな名前ねぇ」
「へぇ、またお見合いですか、鳥居先生」
「またって何よ、またって!」
そんな会話が扉を透かして聞こえてくる。女性というのはいずれの御代にも元気なものだ。事実、高等部の職員室が、霧でも立ち込めたように、なんとなく冷たく、先の見えないような不安に包まれている今でも、女性教師たちが持ち前の明るさを失ったということはない。羨ましいと感じる気持ちは、恐らく性別も年齢も関係がないはずだ。校長は机の端からメガネを取ると、少しうつむき加減になってそれを掛け直し、携帯電話のボタンに指をかけた。意図的かそうでないのかは分からないが、留守電に繋がる直前まで待たせた後で、相手はようやく電話に出た。
「はい、どなた?」
「……私の電話番号は貴方の携帯に登録してないんですか?」
「いや、そういう訳じゃないけど。楽しいから……」
携帯電話越しに聞く声は、最後に言葉を交わした時と変わらない。そして、その人を小馬鹿にしたような調子も相変わらずである。羨ましいと素直に思った。
「何か用?長崎ちゃんぽんでも奢ってくれるの?」
「食べたいんですか?」
「別に。インドカレーだっていいけどさ……で、何か用?」
「いえ、別に用というほどのことではないのですが、どうしていらっしゃるかと思いまして」
「君と一緒さ。暇してるよ、ほんとに。タンポポに刺し身を載せる仕事でもやろうかしら?」
「刺し身にタンポポを載せる仕事です。まあ、とりあえず、お元気そうで何より」
「こんな退屈な毎日を送ってたらそのうち病気になるよ、きっと。全く、君が羨ましいですよ。理事長なんてやるもんじゃないね。偉くなっても引きずりおろそうとする奴って必ず沸いてくるもんなんだから。君も気をつけないと、すぐに叩きのめされるよ」
「今のところは大丈夫です。上手くやってますから」
あながち気持ちがこもっていなくもなさそうな忠告に、校長は見えない笑顔でそう答えた。嘘ではなかった。新しく赴任した理事長という名の操り人形とも、一応はなんとかやっている。操り主の意思が彼に伝わるまでの時間差ということも、もちろん考慮しなければならないが。見下したように鼻を鳴らすのは、つまらないことがある時の理事長の癖であった。
「僕だって上手くやろうと思えばできたのにさ。まあいいや。愚痴を言っててもつまらないものね。ところで、そっちこそ様子はどうなの?」
「芳しいとは言い難いですね。生徒会役員たちもすっかり買収されてしまいました」
「しっかりしてよ。生徒を守るのが教師の仕事じゃないの?」
「彼らは自分の人生において選択権を持っています。僕は何度も悪い選択をしないように忠告したつもりでしたがね。心が通じなかったのは、恐らく私に情熱が足りなかったのでしょう」
「仕事さぼってたのが一番の要因なんじゃない?」
「……そうかもしれませんね」
コンコンコンと、校長室の扉を三度叩く音がした。校長は目だけを動かしてそちらに向けた。「橋爪です」という弱弱しい声が、生徒たちが騒ぐ声にまじって聞き取れた。
「お客さんかな?」
「えぇ、申し訳ありませんが……」
「いいよ。それより今度奢ってね」
「何を?」
「ちゃんぽん」
***
一歩踏み出すごとに眩暈を覚えるのを、颯は冷たい汗の下に懸命に隠しながら、午後の日差しの中を歩いていた。夢遊病者のように校舎をさまよった後、クリスが中庭にいるという情報を聞き付けて、ついさっき上履きをローファーに履き換えたところであった。眩暈がするのは弱っているばかりではなく、確かな興奮を覚えているからであった。この峠さえ越えれば――自分は永遠を手に入れることができる。
「もうすぐだよ、ナツ……」
何度繰り返したか分からぬその言葉を、颯は最後の一度だと思って青すぎる空に呟いた。
クリスは林檎林の木陰にアトリエを構えて、夕暮れの美術室の様子を描いているところであった。キャンバスの中の部屋を見詰めるその瞳は、被写体を捉えるカメラのレンズのように真っすぐでありながら、どこかぼんやりと霞がかって見えた。その横顔は、苦悩している人間の顔だった。颯が初めて学園に来たクリスを迎えた時、クリスが持っていたのは別の暗さであった。どこかに置き去りにされた迷子のような暗さだった。しかし、今、彼が持っているのは、追いつこうと必死で足掻いている人間の暗さ、崖を這い上っている人間の暗さだった。どちらかと言えば、颯は前者の暗さの方が好きだった。孤独で神秘的、静かで苦しみがなく、人を寄せ付けない。クリスが失ったものは、クリスが今抱えているものよりもずっと美しく清らかなものであった――そんな結論が、颯を微かに苛立たせる。
「クリス」
二度呼びかけてはっとこちらを見たクリスの顔に、次第に怒りがにじみ出ていくのを、颯は見逃さなかった。
「やあ、クリス」
「先輩……」
クリスはぱっと立ちあがった。既に暗さをかなぐり捨てていた。じっとこちらを睨みつけるその顔は、颯が一番嫌いな表情であった。
「……クリス?」
「先輩、酒本に何したんですか?」
「何のことかな?」
笑顔で答えながらも、苛立ちが口元を引き攣らせる。
「酒本がもう二日間も学校に来てないんです。酒本がそんな風になるなんて、先輩と何かあったとしか考えられません」
「残念だけど僕は無関係だよ」
「じゃあ、どうして酒本を助けてあげないんです?」
「別に。菜月の悩みは菜月の悩みだ。僕は解決できないもの」
「小さい頃から一緒だったのに?」
「どんなに長く一緒にいたって、僕と菜月は結局他人同士でしかないんだ。自分の痛みは分かち合えないんだよ……おかしいな。こんなことを話しにきたんじゃなかったのに。ねぇ、クリス、僕は君に聞きたいことが色々あるんだ。少し黙って話を聞いてくれないかな?」
「先輩……!」
「いいから黙って」
口元に押し当てられた人差し指の優雅さとは裏腹に、クリスの左手首を締め付ける力は相当に強いものであった。メガネが日差しを吸い込んで、颯の表情が見えなくなる。クリスの手から絵筆が落ちた。
「……っ、颯先輩!」
クリスが颯の手を振り払った衝撃でパレットが宙に弾け飛び、絵具が美術室の胸像の顔をべったりと塗りつぶした。しかし、クリスの目線は常に真正面にあった。虚ろな憤懣を映し出した、颯の表情の上に。
「先輩、しっかりしてください!そんなこと聞いて何になるんですか?先輩はこんなとこにいちゃいけないんです。早く酒本のところに行ってください。先輩は酒本のことを嫌いになった訳じゃないんでしょ?だったら、これ以上酒本を傷つけておくなんて、そんなこと……!」
颯の中で世界が大きく揺れた。
「黙れ!お前に何が分かる!」
颯の悲痛ともとれる叫びが、乾いた銃声のように小鳥たちを空に追い返し、林に水を打ったような静寂をもたらした。目を見開いたクリスは、もしかしたら、先輩が珍しく取り乱している姿を収めようとしたのかもしれない。颯は叫んだ表紙にうつむいた顔をふと上げた。その前を自嘲の笑みが横切り、そして弾けていく瞬間を、木漏れ日が照らし出していた。
「君に何が分かるっていうんだ……僕が何のために必死になってきたか。菜月と菜月との思い出を守るためだ。そのために、僕は自分の気持ちも、菜月の気持ちさえも傷つけなければならなかった。菜月がいつか僕の元を去っていく日が、僕には怖かった。ずっと一緒にいようと約束しながら、成長していくごとに二人の気持ちが離れていくのが苦しかった。いたずらに流れていく時が憎かった。それでも、『水晶』が僕らの永遠を約束してくれたから、僕は何でも犠牲にできるつもりでいたのに……僕は結局、他人である君でさえ傷つけられない。僕は何にも犠牲にできないのか……!」
絶望に打ちひしがれるのも束の間、颯ははっと背後を振り向いた。クリスには、颯が何を捉えたのかは分からない。ただ、遠くに向かって駆けていく小さな足音を聞いたような気はしたが。「先輩……?」そっと尋ねかけたクリスに、颯は一言、「全て終わった」とだけ呟いた。
***
その日は雲が速かった。昇降口に張り出されたその掲示に、登校してきた生徒たちが、最も関心のある者から前方の列に並んで、大きな人だかりを作っていた。クリスもまた、最前列に立ち尽くし、呆然としている生徒たちの1人であった。どうしてこんなことが起こりえるのか、クリスにも、周りの生徒たちにもさっぱりであった。
榊原颯を三宿学園高等部生徒会役員から罷免し、二週間の停学処分とする。
「おい、エーリアル!」
人ごみを掻き分けて肩を叩いた落合に、クリスは無言で首を振って自分が何も分からないことを知らせた。落合も来夏もすっかり困惑した様子だった。
「どういうことだよ……酒本があれで、今度はこっちもこうなって……」
「あの先輩が停学処分になるようなことをするなんて、とても考えられねぇけど」
「はいはい、そこに集まってる生徒たち、あと五分で予鈴が鳴るわよ。はやく教室に行きなさい」
「そうだ。さっさと教室に戻れ!」
騒ぎの収集のために廊下の奥から駆けつけてきたのは、野瀬先生と森先生、体育教師のペアであった。大体の生徒は生活指導の森先生に恐れをなして速やかにその場を立ち去って行ったが、それでも、クリスたちのように納得できずに残っている生徒もいた。野瀬先生はクラスメートたちの姿を見て、片方の眉を吊り上げた。
「聞こえなかったの?はやく教室に行きなさい。落合はあと一回遅刻したら三回目の欠席がつくわよ」
「どうして榊原先輩が罷免なんですか?それに停学処分って……」
素直に尋ねたクリスに、先生二人が苦虫をかみつぶしたような顔しかしなかった。
「詳しいことは話せません。それに、ここだけの話、私たちにも何も伝わってきてないのよ。学校の方針が変わったことは知ってるでしょう?あのほら……」
「理事長が変わったせいで」
来夏の言葉に、森先生は何度も無言で頷いてみせた。野瀬先生は別段声が高くもなかった来夏に、人差し指を唇にあてるジェスチャーをすると、さっと辺りを見回して、誰もいないことを確認した。
「とにかく、早く教室に戻りなさい。いい?このことについてはあまり話さないこと。命が、じゃなかった。学園生活が惜しければ、ね」
そう囁く野瀬先生の顔に現れた確かな不安を見取って、クリス、落合、来夏の三人は黙ってその場を立ち去ることにした。階段を上る三人を、後ろから森先生の声が追いかけてきた。
「おい、落合、シャツが出てるぞ!」
雨空の生徒会室で茘枝が流し始めたのは、ベルリオーズ作曲「幻想交響曲」第三楽章であった。颯の机の上はすっきりと片づけられて、「水晶」による悪趣味な悪戯なのか、陶器の花瓶に菜の花が生けて置いてあった。しかし、この部屋の変化にも、役員たちは冷静に対処していた。こうなることは覚悟の上であったということを、全員が競って明示しようという風であった。
「無念だったな、颯も」
茘枝が何気ない調子で言うと、慎と陽はふっと口元を緩ませた。
「優秀な書記をなくしたのは、生徒会にとって大きな痛手だろう」
「全くだ。優秀な秘書だったのに」
慎は髪をかきあげてコーヒーを啜った。颯の座っていた椅子の背もたれには、昇降口に張ってあったもののコピーがセロハンテープでとめられている。紙がひらひらと不安定に揺れるのを、陽が先ほどから指で弾いて弄んでいた。
「オレたちも笑ってられねぇぜ。明日は我が身だ」
「君が罷免になったとしても、机の上に飾っておく花がないな」
「けっ、死んだ奴が花なんか欲しがるものか」
「口を慎みたまえよ、ホールデン・コールフィールド君。誰がどこで聞いてるか分からないぞ」
「あいつもそうやって足をすくわれたんだろうな」
恋人同士の遣り取りを聞いて、慎はそう言って立ちあがった。頭痛がするのは、仲の悪い二人と同じ空間にいるからというよりは、風邪を引き始めたせいのようだ。しっかりしなければならない。これから校長に書類を提出しにいくのだから。じっとりと熱い自分の額に手の甲で触れ、慎は薬指の輝きを一層身近に、しかし一層重々しく感じた。通りがかり様に触れた菜の花の花弁の瑞々しさが、部屋を出た後も粘りつくように指先に残っていた。
ティンパニーの遠雷を聞く。断頭台へと向かう、その直前に。
自宅謹慎を言い渡された身には、何もすることがない。実質命の終わりを知らされたようなものだ。噎せこむほど暖房のきいた部屋に浴衣一枚の姿で横たわる颯には、窓の外を低いところから眺めやるしかなかった。あれほどまでに失敗するものかと誓いながら、花瓶を叩き割り、脱落していった者を嘲笑いながら、自分もまた何もできなかった。菜月との永遠――それをどれほどまでに焦がれていたか。後輩の一人を傷つけることぐらい、自分にはいとも容易くできたはずなのに。何が計画を狂わせたのか。何が思いを吐露させたのか。感情を露骨に出した者から失敗だということも知っていたのに。あの時、自分はもう限界だった。これ以上は何も傷つけたくなかった。だが、その結果としてはどうだろう。自分は消える。少なくとも、この三宿学園という世界からは。そして菜月にも何らかの危害が及ぶ。結局、自分は菜月を傷つけることになってしまった。世界で一番大切な、愛おしい菜月を。
「ずっと一緒だよ」
目を瞑れば、手を繋いで遊んだあの頃の神社の境内を思い出す。時というのは非情なものだ。全てを廃れさせてしまうのだから。
「いつだって傍にいるから。暗闇の中でも、僕たちはずっと一緒に……」
誰かが扉を叩く音で、颯は目を開けた。「水晶」の刺客か。それとも颯を嘲りにきた役員たちか。どちらにしても構わない。死刑宣告はもう下った。あとは歩いて行くしかないのだ。断頭台への13段を、しっかりとした足取りで。
急かすようにノックの音が再度響く。颯は直感的に何かを悟り、立ち止まった。そんなことがあるはずないと思いながら、颯は廊下を駆けていく。開けた扉の奥に、菜月がいた。
「ナツ……」
菜月は私服姿で、雨の中に千鳥模様の傘を持ち、颯をじっと見上げていた。走ってここまで来たのだろうか。真っ白いスニーカーは見る影もなく、ズボンの裾が跳ねた水と泥でびっしょりと濡れていた。それでも菜月は息を乱すことも、疲れ切った様子を見せることもなかった。颯に向かってゆっくりと微笑みかけた。
「ナツ、どうして……」
「行くよ、颯」
風が激しく吹いて、二人の髪を乱した。その時、颯は、役職から、校則から、それまで自分を縛っていた全てから、解放されたその身を見出したのであった。
「颯、一緒に行こう」
差しだされた傘の中に颯は身を屈めて入り込んだ。浴衣一枚の肌を、2月の暴風雨が冷たく刺した。思わず震えた颯の肩に、菜月が背のびをして上着をかけた。ゆっくりと歩き出した。凍えるように寒い雨の日の学園に、歩いて行く二人は誰ひとり見出すことができなかった。白い塔も、校舎も、植物たちも、皆同じように黙って濡れていた。菜月と颯が沈黙の中で、傘からはみ出した肩を濡らしていたように。
「あっ……」
校門の目の前まで来たところで、一際強い風が二人の手から千鳥模様の傘を攫っていった。二人が見上げている内に、傘は灰色の空の向こうに、緑色の小さな丸となって飛んで行った。まともに風雨に晒されて、前ばかり見詰めていた二人は顔を見合わせた。引き返すことができるのは、これが最後だと二人とも分かっていた。ここで戻るか突き進むか、どちらかが、もしくは両方が、それを決めなければならなかった。学園という庇護を捨て、未来に生きていくことがどれだけ困難なことか二人は知っている。今はもう傘もない。雨が脳髄にまで染みわたっていく。
「颯……」
同じ傘に入っていた時よりも寄り添う菜月に、颯はそっと微笑みかけた。
「大丈夫だよ、ナツ」
菜月の濡れた前髪が額に張り付いているのをそっと払ってやり、颯は左手の薬指に手をかける。投げ出された水晶の光は、傘よりも高く鮮やかに空を舞っていった。二人は笑いあい、ついに学園から外の世界へ踏み出していった。成長を拒み続けていた二人が、思い出という殻を打ち破り、今を生きる人間として先の見えない道を進んでいく。何ものも恐れることなく、ただ身を寄せ合って。
「雨ですね……」
ノアが混じり合わない海と空の色を見て呟いた。紅茶のカップで手を温めながら、クリスも空を見上げて頷いた。
「雨だね……」
それはいつか、菜の花の満ちる頃――
お久しぶりです。連載が遅れ気味で申し訳ありません。
受験のため、しばらく更新できないと思います。11月に受験が終われば、12月にはまた再開するかもしれませんが、終わらなければ来年までは無理だと思われます。
私としてもなんとか続きを書きたいので、篠原の11月合格を祈っていただければ幸いです。
それでは、12月にお会いできることを願って!
追伸:CB短編集「桜のない花物語」始めました。
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ぜひお読みください。