第三十四話 菜の花の満ちる頃・前編
菜の花がそよいでいる。神社の石段から見下ろす景色はいつも変わらない。颯がそこに戻る時、日付はいつも同じだった。あの日に帰りたい。失われつつある二人の思い出を取り戻して、そして今度こそ永遠に……
「颯、今日も生徒会なの?」
「うん、来週は委員長会があるからね。他の役員が仕事しない分、僕が仕事しないと」
「つまんない。せっかく、剣道部が休みなのに」
「ごめんね。また都合がついたら教えるから……」
人目を忍んで颯の頬にキスしてから、菜月は林檎林の向こうへ去っていく。颯は振り返りもしないその背中に手を振っていたが、やがてその行為に飽きると、力なく腕を降ろし、くるりと踵を返して校舎へと向かっていった。委員長会の準備だなんて大嘘だった。今日こそ颯に初めての「水晶」の命令が下る日なのだ。颯は菜月にキスされた辺りを除いて、頬から表情が強張っていくのを感じていた。後戻りができないのは今に始まったことではないが、背筋を走った冷たいものを、自分自身でも見逃す訳にいかなかった。林檎の葉が零した光が、颯の顔に様々な色を投げかけてはまた影に呑み込まれていった。
生徒会室には鍵こそかかっていなかったが、誰もいなかった。ここに本人が現れるのだろうか。千住薫が?それとも……その時、颯は自分の机の上に置かれた見知らぬ封筒の存在に気がついた。見た目はどこも変わったところはない無地の白い封筒であるが、校章の刻まれた青い封蝋が、その存在の特異性を示していた。颯は平常を装って(まるで誰かに監視されているように)封筒から中身を取りだすと、パソコンで打ち込んだ細く小さな文字を窓辺で透かして眺めた。そこには宛先も差出人の名もなく、A4の紙が大きすぎるほど、簡潔に言葉が述べてあった。
***
「そういえば、ライ、つい聞き忘れてたけどこの間の弓道の大会の結果どうだったんだ?」
「まあ、一応優勝したことにはしたんだが……」
「さっすが、優等生は違うねぇ。これで生物の小テストも満点なんだもんな」
「おまえは勉強しないだけなんだから、もう少し予習したらどうなんだ?」
「別に。俺、理系教科は捨ててるし。どうせこのまま大学行けるんだから、遊べる時に遊んだ方がいいじゃねぇか」
「大学行ける云々の前に進級できねぇって問題があるだろうが」
「大丈夫。文系教科はちゃんと……」
「落合、あんた三日前提出のエッセイ出してないでしょ!」
火曜日の朝の教室に顔をのぞかせたのは鳥居先生だった。落合が何か言い訳がましいことを言って、それから問題はいつも通りに鳥居先生が未婚である理由に移り、火に油を注ぐ結果となるのであった。呆れかえって言葉もでない来夏は、言い争う教師と生徒に背を向け、真央に送る手紙の文面をぼんやりと考え始めた。賞状と一緒に映った自分の写真を添えるつもりの手紙だ。元気にやっているだろうか。もう病院は見つかったのだろうか。入院の日程は、手術の日程は……考えるほどにきりがなくなっていく。あの日からまだ一週間も経っていないというのに。真央に会いたくてたまらなかった。
来夏はふと、教室の窓際の席に並んで物思いに耽っている友人たちの姿に気がついた。菜月の方はぼーっとしているのはそんなに珍しいことではないにしても、クリスが挨拶も忘れて考え込んでいるのは滅多にないことだ。よほど辛いことがあったのだろうか。ノアが生徒会長と一緒に暮らすと決まったときのような。
「おい、石崎、起きてるか?」
小突かれてクリスは我に返ったようだった。それから初めて来夏に気づいたらしい。青い目を瞬かせて言った。
「あっ、おはよう、関本」
「おはようじゃねぇよ。大丈夫か?また有瀬と何かあったんじゃねぇのか?」
「えっ、別に何にもないけど……」
笑いながら否定しようとして、その表情が一瞬躊躇うのを、来夏は見逃さなかった。しかし、自分の関わる問題ではないようだ――察しのよい来夏はそう悟り、ただ励ますようにぽんとクリスの肩を叩いた。クリスは少し気恥ずかしそうに見を縮めた。
「で、酒本はどうしたんだ?」
「……メールの返事が来ない」
「誰からの?」
「颯」
菜月は不満げな顔で、膨らませた頬を机に押し当てて突っ伏した。
「金曜の夜からずーっと来ない」
「颯先輩も忙しいんだよ。生徒会役員だし、勉強だってあるだろうし、それに3年生だから……」
菜月はぎろりとクリスを睨みつけた。
「颯のこと名前で呼ばないでよ」
「あっ、ごめん……」
「でも、いつもならさ、すぐに返信くれるのに。今朝だって一緒に学校行こうと思って待っててもちっとも来る気配ないし。しょうがないから迎えにいったらとっくに家出た後だったんだよ?いつもならさ、ちゃんと早く行く時は連絡くれるのに……」
「だから忙しいんだろ。いいじゃねぇか。俺なんてな、中野悠太君にアタックしてた頃なんか、三日に一回返事がくればいい方だったんだぞ」
なんとか鳥居先生を追い払った落合が横から口を出した。
「それは単に嫌われてただけでしょ……バカ颯。絶対絶対許してあげないんだから」
怒って椅子の上で膝を抱える菜月にも、三人は顔を見合わせただけだった。ちょうどその時、卵焼きを焦がしたとやらで遅れていたノアが教室の入り口に姿を現し、クリスに向かって微笑んでみせたので、クリスの注意は自然にそちらに向かった。微笑み返す唇が、いつもより硬いのをクリスは感じていた。
「はい、酒本、椅子から足を降ろす!」
ノアに続けて入ってきた野瀬先生が、威厳たっぷりにそう命じた。
菜月は一日中不機嫌なままで、昼休みにはクリスの弁当を丸ごと奪い取るという暴挙にまで出た。ノアが分けてくれた分を胃に収めたクリスであったが、食べた量としてはやはりいつもの半分以下であるから、腹の空きは早かった。午後の三時間をようようのことで乗り切り、ケーキを焼いてくれるというノアの言葉をいつもよりずっと楽しみに階段を駆け下りる途中で、クリスは颯に捕まった。
「クリス!」
颯は振り向くクリスの後ろから軽やかに階段を下りてきて、にこやかに挨拶した。クリスの行方を塞ぐように立ち止まったのは、きっと何か話したいことがあってのことだろうが、今のクリスにはあまり嬉しい状況ではなかった。
「あっ、先輩……」
「どうしたの?いつもより顔が青い気がするけど」
「いえ、別に、ちょっと昼食を食べ損ねちゃって」
その一言にクリスは精いっぱいの意味を込めたつもりであったが、颯は気がつかないのか又は故意に無視したのか、朗らかな笑い声をたてた。
「なんだ、心配させるなよ。ねぇ、ちょうど今日は暇なんだ。よかったら、一緒に出かけない?お気に入りの喫茶店があってね、今度クリスに紹介したいなって思ってたんだけど」
「……そんな暇があるなら、酒本にメールを返してやったらどうですか?今日は一日中ずっと不機嫌だったんですよ。先輩からメールが来ないって」
「クリスは心配しなくていいよ。ちゃんとどうにかするから」
「どうにかするからって……酒本は、えっと、榊原先輩のこと……」
颯は微笑みのうちに、瞳を一瞬鋭く閃かせた。
「どうして急に僕のことを苗字で呼び出したの?」
クリスは七時間目の体育でふらふらになった体を、力の抜けた両足でなんとか支えていた。早くこの場を逃れたい一心で、つい聞き取れなかったふりをしてみるが、それも結局逆効果に終わった。颯はこんな些細なことにもひどく執着を見せた。
「何か言われたんだね、菜月に?」
「別に、あの……」
こんな場面を菜月に見られたらと思うと気が気でならず、クリスはごくりと唾を飲んだ。
「えっと、あの、俺は……」
颯は疲れたように溜息を吐いた。子どもに散々手を焼かされる親のように。颯はクリスの両肩に手を置いた後、靴音を響かせながらクリスの脇を通り抜け、階段をのぼっていこうとした。颯の気持ちを損ねたのではないか、そんな不安に駆られてクリスは空腹も忘れて颯を呼びとめた。颯はその場に立ち尽くしたまま、白いばかりの壁を背景に、逆光で影のかかった顔だけをこちらに向けてクリスの顔を見下ろし、クリスが何か言う前に静かに口を開いた。
「気にしなくていいよ、別に。菜月の言うことなんか」
「えっ……」
「君が僕をなんて呼ぼうが菜月には関係のないことじゃないか。そんなこと気にするなんて、君らしくもないね」
「でも……」
一体颯はどうしてしまったのだろう。なぜ菜月に対してこんなに冷たい言葉を放つことができるのだろう。メールを返してくれないと膨れていた菜月の懸念は、実は的を射ていたのだろうか。颯は何を思ったのか、再び階段をおりてきてクリスより一段高い場所に立った。戸惑いを浮かべ続けるクリスに、彼は優しく微笑みかけた。
「そういえば、最近有瀬ノアとの調子はどう?」
「あの、先輩……」
「僕の質問に答えて。最近は仲良くやってる?」
クリスは一瞬ためらった。それでも、嘘にはならないと信じた。
「は、はい」
「なら、よかった」
颯は心からそう思っている、というようにこくんと頷いた。
「そういえば、彼、この間、都の絵画コンクールで最優秀賞をもらってたね。美術室に飾ってあったのを見たけど、なかなか上手くてびっくりしたよ。学園の天才画家が二人同じ寮にいるなんて、偶然だね。それとも君が教えたの?」
「いいえ、まさか。有瀬は……」
そこまで言ったところで口ごもった。挨拶の言葉も咄嗟に思いつかないままに、クリスはすぐ目の前にいる颯に一つ黙礼すると、くるりと向きを変え、エネルギー不足にも関わらず走り出した。颯の声がクリスの背中を追ってきた。
「食事は一緒に行かないの?」
「今日は有瀬がケーキを焼いてくれますから!」
胸がざわめいている。一刻も早く寮に帰りたい一方で、真実を確かめるのが恐ろしい気がする。ノアと向き合って、自分はちゃんと尋ねられるだろうか。ノアの答えようによっては気づいてしまうかもしれない。自分の胸の奥で、今静かに撹乱されているどす黒い嫉妬の正体に。
クリスが退いたことによって、颯には階段の最後の段から広がっていく中央玄関の様子がありありと見えた。スニーカーを履き、片手に上履きを持ち、雨でもないのに千鳥模様の傘を握っている幼馴染の姿も、はっきりと認められた。黒目がちなミントブルーの瞳が、恨めしげに颯の顔を見上げていた。多分颯は何の感情もこもっていない目で彼を見返したのだろう。彼が上履きを放り捨てて中庭へと飛び出していっても、颯は後を追うようなことはしなかった。ただ上履きを拾い上げ、彼の上履き入れの中に揃えて収めただけだった。上履きの中に颯は茎を結んだ菜の花を見つけた。
***
降り出した雨粒が庭の池の蓮の葉にあたって、軽やかな音をたてている。菜月は傘を持っていて正解だったかな。いや、もうとっくに量に帰っているのか。和服に着替えた颯は寮の居間にきちんと正座して、折って畳んだA4の紙を広げ、そこに書かれた文字を眺めていた。
石崎・エーリアル・クリスを絶望させよ
さもなければ酒本菜月の命は保証できぬものとする
こんな忌まわしい手紙さえなかったら、自分はきっとあんな振る舞いはしなかっただろう。颯は机に肘をつき、両手で顔を覆った。「水晶」は菜月を人質にとったのだ。失敗するつもりも、命令に背くつもりも毛頭ない。それでも、菜月を知らぬ間に自分たちの確執に巻き込んでしまったことが、颯には耐えられなかった。なんとか彼を「水晶」から遠ざけたくて、わざと冷たく振舞った。メールの返事もしなかったし、あの時声をかけることも、後を追うこともしなかった。菜月の命さえ無事であってくれれば、そして「水晶」の魔の手から出来るだけ遠いところに逃げてくれさえすれば、後は恨まれても憎まれてもかまわなかった。颯が命令を遂行し、「水晶」が契約を果たしてくれさえすれば、二人の仲はどうにでもなる。あの限りなく甘い時間の中で……
しかし、良心に苛まれ続ける自分も否めない。菜月の睨む様なあの瞳が、今も颯の心に焼き付いて離れなかった。クリスを絶望に落とすという内容についても、大変躊躇があった。分かっていたのに。クリスのことは、いつか陥れなければならない存在だと。その善良さを、無邪気さと無知とを、嗤った日もあったというのに、一体自分はどうしてしまったのだろう。簡単なことだ。もう種は仕組んであるのだ。クリスはノアに嫉妬を覚え始めている。後はそれをかき回すだけで済むことなのに。「僕はね、自分自身を守るためなら何だってやる人間なんだよ」そう言った自分はどこに行ったのか。颯の脳裏に一瞬、暗闇の中で白く不気味に輝く花が浮かんでふっと消えた。颯ははっとして顔をあげた。その途端に、携帯電話が振動を始めた。
酒本菜月――開いた画面に見慣れた名前が表示される。颯はその名前が画面から消え行くのを待って、電話を閉じ、机の向かい側の方へと押しやった。携帯は一瞬の沈黙の後に再び震え始め、自分の振動で畳の上に落ちていった。鈍い音が静かすぎる部屋に響いた。
「あと少しの辛抱だよ、菜月……」
立ち上がって颯は呟いた。主が部屋を出て行った後も、携帯電話は幾度も幾度も振動を続け、必死に持ち主の名を呼んでいた。きっとその姿が蝉の抜け殻となるまで、電話は鳴り続けるのであろう。雨が乾いた地面を濡らしていく。
「昨日はどうして電話に出なかった?」
翌日の生徒会室で、ノートの整理をしていた颯に慎が尋ねた。
「あれ、いつ電話したの?」
「昨日の夕方だ。寮の方の電話にも出なかっただろ」
「……あぁ、ごめん。ちょっと忙しくって」
慎には、否、生徒会役員たちには、本当のことを言う訳にはいかないのだ。自分たちが、敵対よりも甘く、協力よりも厳しい立場にいることを、颯はよく知っていた。弱みを知られれば、それが大きな落とし穴になるかもしれないのだ。自分たちは互いに監視しあっている。
「全く、電話の意味もねぇじゃねぇか……」
呆れる慎は知らなくていいのだ。二日続きの雨空を見上げた、今朝の颯の心など。松の木に向かって傘を開き、持ち上げた時、開けた視界の木の下に菜月が立っていたのを見つけたのだ。颯ははっとしたが、すぐに表情を閉ざした。驚いた顔を見られたかもしれない。そんな心配は無用だった。颯の顔を見た瞬間、菜月の瞳が激しく動揺を始め、溢れ出る涙が彼の見る物を歪ませていたからであった。颯は傘を目深に彼の横を通り過ぎようとした。「待って!」と叫ぶ菜月の悲痛な声が、辛うじて颯の足を止めた。
「颯、お願い……」
菜月の足元しか見えない颯には、松の木の下に水がたまって、ひどくぬかるんでいることぐらいしか見えなかった。
「教えてよ、なんで僕を避けるの?」
「……」
「お願い、それだけ教えて……そうしたら、僕……」
「そうしたら、僕に二度と近づけないって約束できる?」
菜月がすすり泣きの中で息をのむ音がした。松の枝から雫か落ちて、水たまりに波紋をひろげた。雨音が二人にとって余計な音を掻き消している。
「颯……!」
「ごめん、もう行かなきゃ。遅刻しちゃうよ」
「待って、颯!お願い……ねぇ、颯……!」
「僕を置いて行かないで……」
「えっ、何?」
慎の言葉を聞き取れずに、颯は聞き返した。
「余計な真似はするな。今更、奴に冷たく振舞ったところで、『水晶』がそんな芝居にだまされるとでも思ってるのか」
颯は項垂れた。ああ、やはり、見透かされていたのだ。窓の外には、今朝の土砂降りが嘘のような晴れ渡った空があっても、颯の心は憂鬱だった。分かっていた。「水晶」がそれほど単純でないということも、それでも、菜月を遠ざけるためならやむを得ないと思ったのだ。慎は続ける。
「そんな芝居をしてる暇があったら、さっさと命令を片づけたらどうだ?その方が大事な恋人を傷つけずに済むぞ」
「……別に、菜月を守りたくてあんなことをしてる訳じゃないさ。あれはね、僕の一種の覚悟の現れだと思ってほしい」
「ほう」
慎は興味を持ったように顔を上げた。その次の瞬間、水が飛び、ガラス片が飛び、生徒会室内にガラスの割れる激しい物音が響き渡った。慎は間一髪で椅子を引いて飛沫を避けたが、颯は避ける間もなく、まともに左袖を水に濡らしていた。違う。あえて避けようとしなかったのだ。颯の左の拳は硬く閉じられて宙で小刻みに震えており、床には見るも無残なガラスの花瓶と、ランの花の死骸が散らばっていた。颯が浅い呼吸と共に紡いだ言葉を、慎は聞き逃さなかった。
「僕は君のようにはならない……」
颯が何も言わずに部屋を出て行った後で、慎はレコードがちょうど葬送行進曲を流し始めていたことを思い出した。