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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第四章 革命
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第三十三話 光踊る

 眠りの中にいても、額の中の妖精は羽ばたいていた。七色の光を帯びた透き通った羽を広げ、恍惚が色を重ねるごとに益々身を反らし、長い髪をなびかせて。クリスは手を伸ばそうとした。クリスが果たして手の届く場所にいたのかどうかは分からない――額の外にいたのか、それとも妖精と同じ空間にいたのか――クリスの指先が触れた場所から世界が歪み、舞台が暗転した。

 クリスが目を覚ました時、繰り広げられていたのは全くいつも通りの朝であった。夜のうちに雪が降ったらしく、見下ろす港町の屋根はほんのりと雪化粧していた。窓に頬をあてると、間近で吐いた息が白く膜を張った。降りていくのは憂鬱だった。

「クリス様!」

しばらくそのままぼんやりしていると、騒がしい足音を連れて、ノアが会談を駆けのぼってきた。

「クリス様、おはようございます!朝ごはん、出来ましたよ」

「あっ、おはよう。うん、今行くよ」

罪のないノアには笑顔を見せて、クリスは手早く制服に着替えた。こんな日には、居間から臨む海もさぞかし冷たく灰色に冷え切っているのだろう。珍しく今日は学校に足に運ぶ気力がない。なぜだろう。あの絵のことをもっと調べられるかもしれないのに……


「この作品は誰のものですか?」

夕闇の美術室でクリスは尋ねた。薫の腕がクリスの体を完全に包み終わった後。

「僕は知らないな……君こそ知ってるんじゃないのかい?君の方が僕よりずっと専門家じゃないか」

「いいえ、俺も知りません。でも、なんだか志水晶の絵に似ているような気がするんです。似ているっていうかな、なんだろう……志水晶の絵を見て感じたものが、やっぱりこの絵の中にもあるんです。おかしいな……」


 不思議なことに、前に町で見た絵を志水晶のものかと疑ったときのような興奮は、今回はまるで湧いてこなかった。クリスは開きすぎたワイシャツの胸元に素肌を露わにしたまま、ボタンを留める手を止めていた。もしかしたら、自分は本当に探し求めていたものを目の前にして見逃そうとしているのかもしれないというのに、なぜ憤りも焦りも感じないのだろう。まるで全て薫に吸い込まれてしまったかのようだ。あの絵が志水晶のものだとしたら、学生時代の志水晶は一体何を思って筆を取ったのだろう。

 クリスは眉を寄せて目を細めた。ちょうど明るい朝の日が、分厚い雲の隙間から顔を出したところであった。ノアがまた一階からクリスの名を呼んでいる。クリスは溜息を吐いた。憂鬱でもやらなければならないことというのが、世の中には山積している。かつての叔父の口癖だった。あの絵をもう一度見れば、憂鬱な気分も晴れるかもしれない。あの美しい幽玄の世界に浸りさえすれば。そして、図書室で志水晶の画集をもう一度眺めなおそう。


***

「やっと来やがったな、てめぇら」

「文句は理事長に言え。あいつが引きとめたんだから」

 慎の青筋にもまるで恐れる様子なく、陽は飄々と言い返して茘枝を部屋の中に引き入れたが、二人の表情もどことなく浮かない今日の集まりであった。全員が席につくと、生徒会役員四人、それぞれの胸の秘めた憂鬱がたちまち部屋に充満して、喋ろうとして飲み込む空気が毒々しく澱んだ。それはまるでこの広大な学園で起きている出来事が、この小さな部屋に象徴的に表われたように。何か不安を覚えたように、颯は手を机の上で固く組んだが、茘枝の視線にあてられるとその手を解き、すぐに紙とペンを取った。それを合図にしたのか、慎は自嘲的ともとれる笑いで表情を歪めて切り出した。

「今まで散々待たされたが、ようやく覚悟を決めていいそうだ。遊びは終わった。後は泣くも笑うも己の実力次第だ」

「この仲よしの会も遂に終わりか。さびしいものだな」

茘枝の微笑は、窓から差し込む昼間の光線に照らされて妙に白く冷たく見えた。彼の薬指に光る、水晶の欠片と同じ色で。慎の冷笑がそれに重なる。

「残念だがそういうことだ。命令は個別に下る。従おうが無視しようがそれは個人の自由だが、歯向かった場合はもうこの部屋に自分の席はないと思え。もちろん、失敗した場合もだ。誰がどうなろうが、互いに影響はないからそれだけは安心しろ。以上だ」

慎は言葉を紡ぎ終えた後、暫くは威厳を保つように黙り込み、役員たちの顔を見回したが、同じく何も言わない彼らに満足したのか、それとも愛想を尽かしたのか、立ちあがって部屋を出ていった。残された三人は相変わらずの沈黙でそれぞれの飲み物に手を伸ばした。鳩の影が窓を横切って閃いた。

「遂に来たんだね」

颯は左手の薬指を翳しながら、無感動に、しかしどことなく物憂げな表情で言った。茘枝は笑う。

「来るべきものが来ただけさ。今更何を言っても無駄だ。私たちはこの時のためにここに呼ばれ、生かされてきた……君は逃げるのか?」

「まさか。僕はね、自分自身を守るためなら何だってやる人間なんだよ」

「ったく、恐ろしい奴らが集まったもんだよな……」

冷血な告白の後の瞳をそのままに、颯は窓辺に身を寄せた。茘枝と陽はやれやれとでも言いたげに顔を見合わせ、悩める少年をそっとしておいてやるために挨拶もなしにその場を去った。二人が開けっ放しにしていった扉から、遠のいていく二人分の足音が生徒たちの騒ぐ声に混ざって聞こえた。

 「水晶」――そう呼ばれている存在の真意を、本当は誰も分かっていない。颯が「水晶」について知っているのは、それがこの学園を支配していること、そしてその正体を突き詰めていくと、最終的に慎の兄である千住薫に行きつくということだけだ。生徒会役員のみならず、この学園の教師も生徒も皆、「水晶」のために動かされ、茘枝の言葉を借りれば「生かされている」というのに、そのことを知っている者はごく少数だ。颯はその少数のうちに入っている。また、それを誇りに思っていた。自分は少なくとも、何らかの意思を以って「水晶」への貢献に参加することができる。自分たちは選ばれたのだ。何も知らずに酷使され、その身を削られていく奴隷ではなく、何かを守るために働ける特権階級の人間に。

 菜月と、菜月との思い出を守るために、颯は「水晶」の命に従っていた。二人の成長が、二人から大切な日々を奪ってしまわないように。菜の花に囲まれて過ごした限りなく輝かしい日々をいつまでも……「水晶」は忠誠と引き換えに、約束してくれた。この仕事を終えたとき、颯はようやく永遠に辿り着くことができるのだ。

 太陽が雲間から顔をのぞかせて、中庭の芝生を照らし出した。颯は目を細める。この景色を見たことがある。ここではないどこかで。では、一体どこで?答えにいきつけないままに振り返った颯の目に、空のガラスの花瓶が目に入った。役員たちそれぞれがカップやらグラスやら入れている棚の一番隅にぽつんと置かれている。颯はガラスを曇らせている埃をぬぐうと、水を注ぎ、花はささずに、かつては持ち主のいた机の上に音もたてずに置いた。颯の表情を、冷酷な笑みが貫いた。

「君が学園を追い出されたのはね、君が水晶に歯向かおうとしたからさ。かわいそうだけど、君の犠牲は無駄ではなかったよ。僕は絶対に君のようにはならない、僕は今そう思えてるんだから」

そして、残されたのは花瓶だけになった。


***

 相方が楽器の練習だといって部屋に籠ってしまったので、陽は珍しく一人で思案する時間を持つことができた。といっても、コーヒーのカップ片手に考えることは、途方もなく、抱えきれないことばかりだ。「水晶」だなんて名乗る奴のことを、一体どう考えればいいと言うのだ。主人が暇そう(少なくとも見かけ上は)なのを見つけると、シャネルがすかさず膝の上に飛び乗ってきて、甘えるように喉を鳴らした。テーブルの上には読みさしの本が何冊か、ショパンのノクターンがかけっぱなしになっている部屋で、陽は白い雄猫を撫でながらその途方もない思案に暮れた。

 茘枝と共に旧家のしがらみを断ち切ってこの学園に来ると決めたのは、従兄弟の友人であった颯の紹介があったからだった。元々上流社会では名の知られている二人であるので、学園とて二人が起こした事件のことは知っていたはずだし、両家に突き出すこともできたはずだが、なぜか何も言わずに居場所を与えてくれた。利益にもならないはずのその無言を不審に思いつつも、二人はそれに縋るしかなかった。二人の居場所は他になかった。

 その代償を思い知らされたのは、生徒会役員に選抜された日であった。安全な住処と思った場所は、実はいとも簡単に断頭台に変わることができた――「水晶」は命がけの忠誠を要求した。そして、それを拒むには、二人は余りにも学園に依存しすぎていた。

「無料ただより高いものはねぇってか……」

陽はシャネルの機嫌をとりながらつぶやいた。学園は小さな世界、閉ざされた世界である。学園外の世界が何か大きなものの手で動かされているように、この学園は「水晶」によって支配されている。ただ一つ違うのは、この学園はそこに住む人々を排除することができるということだ。もし「水晶」の命令を遂行できなければ、恐らく二人はこの安全な鳥かごからの撤退を強いられるだろう。そして、また、蛇を恐れる日々が始まる。学園に来るまでのほんの数週間だけそんな日々を過ごしていた。ほんの些細な人影にも神経を尖らせていた夜、暗闇を歩き続けるような不安と恐怖。欲望と憎悪に満ちた手が二人を引き離すその時まで。「私は覚悟している」と茘枝は口癖のように言う。何か二人の間で重大な出来事があったとき、茘枝は必ずこの台詞と共に優雅に微笑むのだ。ショパンのノクターン鳴り止まぬ部屋と、遠くに微かに聞こえるバイオリンの音色と。生徒会を「仲よしごっこ」と冷たく笑い飛ばし、友人の颯にも弱音を漏らすことを許さない恋人。彼の覚悟が一体どれほどの犠牲を彼自身に強いるのか、陽は恐ろしい気がした。


***

 重苦しい顔などしたつもりはない。来るべき日が来ただけのことだと言うのは、本心から出た言葉で、茘枝の胸には今も動揺はない。恐れもない。今日の寒い日はバイオリンの音色が特に冴えわたる。優雅ながら切りつけるような音楽は、白い寝室の壁に吸い込まれて消えていく。

 覚悟はとうにできていた。「私は覚悟している」といつも言ってきた。最初の覚悟は家を守るためだった。家とそして名誉とを。自分は眩い暗闇の中にいたのだ。そこを陽に救われ、初めて美しく輝かしい世界というものを知った。陽が茘枝の覚悟の中に、新たな息吹を注ぎこんだ。生徒会役員に選ばれたあの日、幕を剥がされたサーカスの舞台の上で、茘枝はその強さの上に温度を加えて心の剣を音もなく抜いたのであった。そして、茘枝がその切っ先を向けたのは、あろうことか「水晶」だった。

 茘枝は自分たちの居場所を「水晶」に求めたことに、何の負い目も感じていなかった。例えこの学園を追われ、陽と二人死ぬまで逃げ続けることになったとしても、その中にさえ喜びを見つけられる自信があった。茘枝が「水晶」に仕えるのは、それが恋人の安全を保障し続けるからであった。茘枝が「水晶」に心臓を預け続けている限り。しかし、もし「水晶」が陽に危害を加えるようなことがあれば、茘枝はいつでも切り込む覚悟ができていた。ふと弓を動かす手を止める。紅い瞳が、窓の外の水天一碧を前に毒のように燃え上がった。自己破滅願望と呼ぶべきか。陽と一緒にいたい気持ちと同じぐらい強く、自分を犠牲にして陽を生かしたいという欲望が、茘枝の中にはあった。そして、陽に自分の全てを忘れ去ってほしい。彼の誇りの高さに見合わない自己嫌悪が、そんな感情を煽りたてていた。茘枝は知りすぎるほど知っていた。事実を認識する度に伴う痛みが、胸に真っ赤な烙印を残していった。自分が陽に依存しすぎていること、陽なしでは到底生きられなくなってしまったこと――自分の存在がいつか陽の重荷になることは明白なのに――もしかすると、自分は「水晶」に消え失せてなくなる機会を求めているのかもしれない。「水晶」に剣を突き立てて自分もなくなってしまえれば……きっとその時こそ、茘枝は至福の瞬間を迎えるのであろう。バイオリンの音色が変わった。また口癖のようにつぶやく。「私は覚悟している」と。


***

 そういえば、最近はストーカー被害がめっきり減った。この二週間ほどは、涌水明音の最初の文字も見ていない。少し落ち着いてきてくれたのなら嬉しいのだが……そうでもなさそうなのが気になるところだ。そういえば、彼の親友である秋元真央がついこの間学園を去った。恐らくその悲しみを引きずっているのだろう。この平和はどうやら期限付きらしい。溜息を吐いてから数秒後、慎は平和なんてものがとうに自分から奪われていたことに気づいた。後は綱を渡るだけだ。そして、落ちるか生き残るか――屋上から見降ろせぬものは例の白い鐘楼を除けば何もない。地上に生きる人々は全て粒子のように細かく砕かれて、空気中を漂っている。その空気さえも「水晶」が支配しているのだ。この学園に生きる人々は皆、命じられた通りに動く。自分も例外ではない。学園の帝王だと無茶なあだ名をつけられたところで、慎が支配できる領域なんて限られているのだ。自分は人の心を兄のようには動かせない。フェンスにかけた手が、慎が見遣る景色から白い塔を消し去った。いつから兄は兄でなくなったのか。


「慎、お前に世界を見せてやるよ」


あの日、兄はそう言った。兄弟という絆(はたしてそう呼べるほどのものが二人の間にあったかは定かではないが)が捻じれてしまったあの日に。もし兄の言うことが確かならば、世界とは慎にとって絶望と屈辱に他ならない。結局「水晶」が支配するこの世界では、慎が受容するのはその二つばかりなのであろうか。否、そうならないために慎は「水晶」と契約を交わしたのだ。慎は学園内で最も従順で最も価値の高い少年を与えられた。彼は「水晶」の宝であった。彼が慎に従い、慎のものであり続ける限り、慎の苦しみは全てかの少年に矛先を向け、彼を苛めた。それがノアだった。ノアが慎の影として苦しみを受ければ、慎は栄光の輝きだけを享受していればよかった。

 しかし、クリスが慎の手からノアを取り上げてしまった。クリスは最もノアに近づくべきでない人物だった。クリスをノアから遠ざけるべく、クリスを退学にしようとした慎の企みは校長に阻まれ、あろうことか、クリスとノアは一つ屋根の下に住まうこととなったのだ。慎には苦しみだけが残された。そしてノアを取り返そうとすれば、今度は兄が邪魔をした。ノアを慎に与えた当人である兄が。兄はノアの代わりにこの世界を与えると約束した。もし慎が「水晶」の命令を遂行した時は、慎は本当の意味での玉座を手に入れることができるのだ。絶対的な権力、兄にも劣らぬ力を。忠誠と苦しみと汚辱と引き換えに。

 ふと、明音の顔が慎の脳裏を過ぎった。それが一体何の予兆だったのかは慎にもよく分からなかった。腹違いの弟は、二人の兄たちに与えられている恩恵にあずかることもなく、日陰でつつましやかに育ち、「水晶」のことなど露ほども知らずに生きている。自分は彼が羨ましいのだろうか?自問には嘲笑混じりの自答で返した。そんな訳はない。例え半分は同じ血が流れているとしても、もう半分の血が自分と彼の間にはっきりと区切りの線を引いている。生まれ育ち、力、才能、地位、将来、その他の何もかも……明音は慎とは別の世界で生きる人間であり、慎も明音に対してそうである。慎の道は決まっているのだ。輝かしい栄誉の道が。ふと見上げた空にその果てが見えぬように。


***

「久しぶりの図書館籠りじぇねぇか。この間のテストでも悪かったのか?」

「あはは、まあね」

 手を振って図書室の方へ駆けだそうとしたクリスに、落合が後ろから叫んで尋ねた。

「おい、有瀬は一緒じゃねぇのかよ?」

クリスは振り返り、遠くの落合にも見えるようにこくんと頷いた。

 久しぶりの図書館は相変わらず、司書の絶対的支配の下で水を打ったように静まり返っており、絨毯の上を一歩進むのでさえ憚られるほどだった。クリスは美術関係の本棚の前に忍び寄ったが、司書の目を本棚と本が阻むので、後は何も気にせずに目的の本を探すことができた。クリスの胸は不思議にざわついていた。見慣れたいつもの背表紙の中に、何か新しいものを見つけられるような予感がしていた。やがて、クリスが手にとったのは、分厚い画集と画集の間に埋もれていた見慣れぬ一冊の薄い本であった。志水晶の鉛筆画集らしい。クリスは意外な気がした。志水晶の鉛筆画なんて珍しい。ぱらぱらと捲って見るだけでも、カラーのページを飾るのは見慣れぬ絵ばかりだ。本棚を改めて点検してみると、新しく購入したのだろうか、以前にはなかった画集が何冊か新しく加わっていた。クリスは持って運べる冊数を腕に座れる席を探したが、生憎クリスが夢中になっている間に満席になってしまったらしく、どこにも落ち着けそうにない。仕方なく貸し出し手続きを済ませ、いつもより相当重くなった鞄を抱えて寮に帰ったクリスは、ノアの「お帰りなさい」にもいい加減に答えて寝室に向かった。今は絵を一人でゆっくりと眺めたかった。

 鞄をベッドの上に放り投げ、制服は着替えないまま、クリスは真っ先に鉛筆画集の表紙を開いた。そこには知り尽くしていると思っていた画家の、まだ知らなかった世界があった。色はないが耽美的かつ鮮明な世界に一歩進むごとに、クリスの心は躍った。だが、ある時から次第にクリスの歩みが遅くなった。それは脳内に分散する記憶の欠片に何かが当たって弾けた瞬間からであった。クリスは一つ一つの絵を食い入るように眺め始めた。はっと立ち上がったクリスは、扉の隣の箪笥に駆けより、抽斗を開けて自分のではない方のスケッチブックを取りだした。一瞬の躊躇のあと、それでも事実を確かめたい気持ちが強まって良心の呵責に一瞬だけ目を瞑り、ゆるく結ばれていた表紙の紐を解いた。ぱらぱらと移り行くノアが描いた傑作たちが、クリスの胸の痞えを流し去ったと同時に、クリスに激しい動揺を与えた。クリスはスケッチブックを元あった場所にしまいこむと、ふらふらとベッドに歩み寄って、やわらかなマットの上に体を投げ出した。

 枕の向こうに、夕暮れの街が見える。すみれ色の空を映して海は凪ぎ、車の赤い光が道路を流れ、ビルの灯りが点滅している。クリスの虚ろな心に色を注ぎこむには、町の色は曖昧すぎ、気まぐれすぎて。どうして気づかなかったのだろう。ノアの絵なら前にも見たことがあったのに、一体なぜ……あの時は激しく動転していたからか。しかし、だとしても……ノアの絵には、クリスがいつも志水晶の絵の中に認めていたものと同じものが存在していた。決して他人には真似できないものを。どんなに精巧な贋作にも模写にも現れようがないものを。同じ鉛筆画という舞台で見てはっきりと分かったのだ。ノアはクリスでさえ到達できなかった地点にいる。

「クリス様、お茶が入りましたよ」

階下からノアが呼びかけても、クリスは返事ができなかった。ノアの絵がただ志水晶のそれに酷似している、それだけなら耐えられたものを――クリスは見てしまったのだ。スケッチブックの最後のページに描かれたその絵。たった一枚色のついたその絵は、クリスと薫が身を寄せ合って見つめた、あの美しい妖精の絵であった。



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