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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
序章 知らせは誰が元へ
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第二話 白のアトリエ・後編

 朝一番に見たノアはやはり笑っており、その態度も昨日と全く変わらなかった。彼は細かくクリスの世話を焼いた。クリスが七時まで眠っていれば起こし、クリスが起きれば朝食の皿を差し出し、クリスが食べ終えれば後を片した。乱雑に脱ぎ捨てたはずの制服は、いつの間にかきちんとハンガーに掛けなおされ、昨日着たワイシャツは、もう洗濯されて干されていた。他にも、クリスが気付かないだけで、多くの仕事をこなしているに違いない。それにも関わらず、ノアは何一つ文句を言わず、疲労した様子を微塵も見せない。もちろん、クリスも手伝おうといってみた。無駄だった。ノアは断固として何一つやらせようとしなかった。転入生への歓迎サービスとしては、少々度が過ぎている。何だかロボットと接しているような気分になった。ノアには感情がないのか。まさか。何をバカなことを。昨夜、料理の腕を褒めた時には、確かに照れていたではないか。それでも、彼が感情を晒す機会はあまりにも少なすぎたため、クリスは段々気味が悪くなってきた。一人こっそり出て行こうと向かった玄関で、ぴかぴかに磨かれた靴を発見したときに、その感情は益々強まった。

 このような次第で、クリスは朝の洗ったような空気を肩で裂き、逃げるように登校してきた。まだ静かな教室では、来夏がぽつんと座って洋書を読んでいた。

「よっ、石崎」

 来夏はこちらに気付いて手を振った。

「おはよう、関本。落合と酒本は?」

「剣道部の朝練だとよ。今週の土日に練習試合があるらしい」

「へぇ、酒本が剣道部ねぇ……」

クリスは頭の中の酒本に竹刀を握らせてみたが、見るも無残な惨状が繰り広げられただけだった。朝から刺激が強すぎる。慌てて掻き消した。

「そういや、有瀬は?」

「えっ、まだ来てないけど」

「一緒に来なかったのか?」

「えっ、あっ、うん……」

きょとんとして頬をかくクリス。だが、そうしながらも、来夏から目を逸らしている自分を知っていた。

 来夏は緑色の眼の一突きで察すると、洋書を畳んで溜息を吐いた。やがて、クリスを見上げたその顔は、どこか咎める風でもあり、どこか困惑している風でもあった。良心を執拗に責め続ける棘にいい加減うんざりしていたせいか、クリスは幾分むきになって訊いた。

「何だよ?」

来夏は口を開きかけたが、すぐに閉じ、諦めたように首を振った。

「いや、何でもない。俺が構うことじゃなかった。おまえが有瀬と仲良くしようがしまいが、俺には関係ねぇ」

「そりゃ、そうさ。俺と有瀬の……」

 廊下をぱたぱたと駆ける音がして、クリスははっと口を噤んだ。本能的に察した。教室の入り口を見るのが怖かった。「石崎様」と呼ぶ声がしても尚、クリスはそれに応えるのを躊躇ためらった。ノアは、まだ制服も完全に着ないまま、鞄も持たず、ただ小さな包みだけを抱えて立っていた。よほど急いできたのだろう。息を荒げ、肩を大きく上下させている。クリスの他に人がいるのに気付くと、彼は一瞬青ざめたが、それが来夏であると分かるとほっとしたようだった。一体何なんだ?いよいよ訳がわからなかった。

「よう、有瀬。どうした?」

来夏が陽気さを取り戻して尋ねる。

「いえ、あの、お弁当忘れていったので……」

「お弁当って、俺の?」

思わずクリスは口を挟んだ。

「はい」

「有瀬が作ったの?」

「はい」

「……もしかして、俺が弁当忘れたのに気付いて、そのまま飛び出してきた?」

「……あっ」

 今更、登校した後に学校で渡せばいいことに気付いたのだろう、ノアは口を片手で覆った。クリスは呆れ、来夏は笑っていた。クリスは、やや重い足取りでノアの方へと向かい、彼の労働に失礼にならない程度に、そっけなくその弁当を受け取った。

「別に、無理しなくてよかったんだよ。俺だって一応お金あるしさ。何かあったら購買で買えるし」

「ごめんなさい。僕、お節介でしたか?」

「いや、そうじゃなくて……」

 続きが思い浮かばなかった。来夏が助け舟を出してくれなかったおかげで、クリスとノアは向き合ったまま、気まずい沈黙を共有することになった。出来る限りノアの心は傷つけたくなかったが、そのための嘘が上手くつけなかった。クリスは苛立ちさえ覚えた。不甲斐ない自分に対しても、わざわざ針の穴に飛び込んでくるノアに対しても。

 踊り場の辺りが騒がしくなってきた。生徒たちの第一陣が到着したのだ。二人は黙って離れた。来夏は洋書に没頭しているふりをしていた。クリスも机に突っ伏し、十二分にも満足している睡眠欲の胃袋に惰眠を詰め込むふりをした。弁当を机のフックにかけ、膝を何度も当ててみる。磨かれた靴を、机の脚に擦り付けてみる。腕で囲った暗闇で開いた目は、心の中でまだくすぶるものを見つめていた。

 そりゃ、そうさ。俺と有瀬の問題だもん――


***

 八時二十五分の予鈴が鳴る頃には、落合と酒本も朝練を引き上げ、ノアもきちんと制服を着、鞄を持って登校してきた。落合と酒本は相変わらずな調子だったし、来夏も普通に話しかけてきた。クリスはひとまずほっとした。問題はノアだ。ノアは、誰とも会話もせずにいたが、別段寂しそうではなかった。授業中、机の下でこっそり折り紙を折っていたり、教科書に落書きのようなことをしてくすくす笑っていたり、なんだか一人でも楽しそうだ。反面、クリスとは目も合わさない。やはり、今朝のことを気にしているのだろうか。少しは弁解しなければ。知らない数式が頭上で飛びかう中、クリスは下手なスピーチを必死で練り上げようとした。だが、結局失敗した上に、先生に当てられて恥をかいただけだった。

 二時間目と三時間目の間の十分の休憩の際、クリスは落合に手招きされた。

「何だよ、落合?」

鞄の中ををがさごそと漁る落合を、クリスは胡散臭そうな目で見ながら言った。

「エーリアル、やっぱ羨ましいぜ」

「はあ?」

「可愛い後輩からのプレゼント。お前を尊敬して止まない美術部一年中野君の手作り弁当。ちゃんと感想聞かせろよな。野菜抜きで作ってくれたんだぜ」

 なるほど、蓋を開けられてクリスの前に出された弁当には、確かに野菜の緑がない。色合いにはかなり気を遣ったらしいが、カラフルな分、一層抜けた色が偲ばれる。もちろん、野菜嫌いなクリスが言える立場ではないが。その時、クリスはあることに気がついた。

「ねぇ、その……中野君?」

「そっ、中野悠太君」

「何で俺が野菜嫌いなこと知ってるの?」

「俺が教えたから」

「えっ?」

「嫌いなものとか教えてほしいっていうから、デート一回と引き換えに教えたって訳」

「なんで俺の個人情報勝手にやりとりしてんだよっ?」

「個人情報なんて大層なもんじゃねぇだろ。いいから受け取れって」

「いや、あのさ……」

 クリスはそっと後ろをうかがった。ノアの机のすみでは、小さな鶴が積みあがって小山をこしらえている。ノアは折り紙を四等分にする仕事で忙しく、こちらを見てもいない。しかし――クリスは首を正面に戻して横に振った。

「ごめん、俺、弁当作ってもらったから。今日はいいや」

取らぬ狸の皮算用、デートの成り行きを妄想し、きらきらと輝いていた落合の顔が曇った。

「おいおい、じゃあ、これどうしろって言うんだよ」

そう言って指差す弁当の中は、変わらず緑がない。

「落合が食べてあげて。また今度作ってくれたら、俺も食べる」

「そりゃ、捨てるわけにはいけねぇから俺が食うけどよ……せめて、一口!な?せっかく作ってくれたんだし」

「うん。そうだね……そうする」

 クリスは無表情で頷いた。少し遠くで、がたんと椅子の動く音がする。ノアに違いない。彼が席を立って、どこかへ行こうとしている。作りかけの鶴を置いたまま。

 クリスは添えられていた箸を手にとり、真っ先に目についた卵焼きを挟んだ。弁当箱の隅で見事な黄色を咲かせていたものだ。綺麗に四角を模っていたそれは、箸の魔の手にたちまち砂時計のような形に歪んだ。今にも崩れそうな卵焼きを、急いで口に含む。不味くはない。しかし、美味くもない。まるで味気がなかったから。落合に顔を覗き込まれて、クリスは曖昧に微笑んだ。

「どうだ?」

「まあ、悪くはないと思うよ」

 ノアがどこかへ行ったと思ったのは、単なる勘違いだったのだろうか。自席に向かいながら見てみても、彼は相変わらず鶴を折り続けていた。小山は少し盛り上がって見えた。


 「石崎君」

 昼休みのことだった。数学教師に額を地にこすりつけんばかりの勢いで頼まれ、クラス全員分のノートを職員室に運びにいった帰り、後ろから、聞き覚えのある声が投げかけられた。振り返ってみてみれば、大量の書類を胸に抱えた颯が、こちらへ向かってくるところだった。クリスは学校に到着したばかりのことを思い出して声を上げる。

「あっ!え、えっと……」

「榊原颯だよ」

颯はすぐにクリスの戸惑いを察して言った。

「榊原先輩?」

「そう。でも、どうせなら、颯先輩の方がいいかな」

「颯先輩……」

「そう、よくできました」

 颯は穏やかにクリスに微笑みかけ、空いたほうの手でその金髪を撫でた。以前にも、この学園で頭を撫でられたことがある。あれは、誰で、そしていつのことだったか。記憶がぼやけている。おかしいな。学園に来てからまだ二日三日しかしないのに。意識を集中させて思い出していると、颯の顔が突如後ろから現れた。黒髪の端が頬に触れる。クリスの肩がびくっとはねた。

「は、颯先輩?」

「何のこと考えてるの?」

「へっ?」

「僕以外のこと考えてたでしょ?」

「いや、あの……」

左肩に回された手の力は優しいが強い。眼鏡の脇から漏れた、ラベンダー色の光も同様だ。

「聞いたよ、石崎君。夜勝手に寮を抜け出した挙句、塔に勝手に侵入したんだって?慎が言ってた」

「慎って、あっ……」

 そうだ、慎。千住慎だ。生徒会長――今、目の前でも、壁に貼られた校内新聞の写真の中で、彼は不敵に笑っている。全く同じ形の微笑を携え、あの晩、彼はノアの腰を抱き、額に接吻を落としていた。ノアはそれに縋っていた。クリスに身投げを妨げられるという事件の直後にも関わらず、あんなにも微笑んで……

「しかし、よくも退学処分されなかったものだね。罰則は『白のアトリエ』への移動だって?どんな意味を含めて罰則なのかはよく分からないけど……」

 颯は、クリスの横顔を視界の際で捉えたが、彼が最早目の前にあるものさえも掴めていないのが分かった。意味ないか。無知な相手を詮索しても、と、颯は内心溜息を吐く。

「有瀬ノアと同棲してるんだって?」

 ノアの名には、クリスも意識を引き戻された。

「あっ、はい。先輩、有瀬を知ってるんですか?」

「だって有名人だもの。まあ、転校してきたばかりの君が知るはずないけど」

「学園長の息子ってことは聞きました。でも、よく分からなくて。実際、付き合ってみても、いまいち掴みどころがないし……」

「何言ってるんだよ。出会って二日目で打ち解ける奴なんかいるものか。僕とクリスは例外だけどね。まあ、少しずつお互いのことが理解できるようになるよ」

「はあ……」

 最後の一言への疑問は敢えて口に出さず、クリスはなんとなく納得したふりをした。まさか、颯も本気で助言した訳ではない。少しずつ理解できるようになる、それはいかにも快活で幅の利く励ましではないか。その虚ろさに気付いたのか、颯はこうも付け足した。

「大丈夫だよ。人間関係なんて付き合っているうちにどうともなるって。どうしても上手くいかなければ、校長先生に相談すればいいし。あの先生なら融通がきくだろうからね。僕だって相談に乗るよ。僕はいつでも君の味方だから」

 それから、颯は素早く腕時計に目を遣った。その動作で、自分にもう時間がないことを相手に示すために。一方のクリスは、五秒ほどぼんやりしてから、先輩の言葉の意味を理解し、「ありがとうございます」と頭を下げ、更に二秒ほど要してから、颯の動作の意味を悟った。颯がじゃあねと手を振ったので、クリスも振り返した。クリスは教室へと歩みながら、真っ白い天井を見上げた。そうだ、問題が起きたときに回避する方法はいくらでもあるのだ。少し思い悩みすぎたかもという反省が、ゆっくりと胸に染み渡り、心の鉛を溶かしていった。その動きの中に、一つだけ引っかかるものがあった。何だろう――僕とクリスは例外だけどね――あぁ、そうだ。颯先輩が俺を名前で呼んだんだ。

 来夏たちは、それぞれ委員会やら呼び出しやら部長会やらでいなかった。クリスは一人で席につき、ノアの作ってくれた弁当を開いた。中身は彩りと脂身に欠けていた。おまけに野菜ばかりである。栄養の方を重視したのだろう。それもノアの優しさであり、献身である。クリスは迷いつつも意を決し、胡麻で和えた緑の葉を口に入れた。噛んでも呑んでも何も変わりはしない。野菜は野菜だ。いくら美味だからといって、嫌いなものはそうそう好きにはなれない。この場合も同じだった。だが、クリスの箸は、弁当の中身がなくなるまで決して止まることがなかった。クリスは全てを食べ尽くした。悪くはない――あの言葉を、もう一度、然し別の意味で呟いた。


***

 「美味しい」

 ノアのスプーンを握った手がぶれた。彼の灰色の目がじっとこちらに注がれる。

「今日の弁当も美味しかったよ。ありがとう、有瀬」

「い、いいえ……」

どうしたのだろう。昨日褒めた時より、ノアは照れ、動揺しているように見えた。やはり、ノアはロボットなんかじゃない。決して自分に従属している訳でもないし、誰の命をきいて自分の世話を焼くのでもない。あくまでも、自分の意思で。行動がやや極端なのは、彼があまりにも孤独すぎたからだ。

「有瀬、あのさ、今朝はああ言ったけど、明日もお弁当作ってもらえるかな?」

「えっ、僕が?」

「あっ、やっぱり駄目?」

「いいえ、まさかっ。喜んでいただけるなら、僕だって嬉しいですから」

 夕食のカレーライスは、香りも絶妙ながら、味も甘すぎもせず辛すぎもしない。舌を鋭く刺激しはするが、遅れて訪れた甘露がすぐにそれを癒す。クリスは、空の皿にスプーンを添え、グラスに注がれた水を飲んだ。熱くなった口内を、溶けて小さくなった氷を転がして冷やす。

「ごちそうさま」

クリスは食器を台所まで食運ぼうとしたが、案の定止められた。

「あっ、石崎様、いいです、僕がやりますから……!」

 クリスは一呼吸置いてから、準備しておいた台詞を言った。振り返り、笑みを携えて。

「俺にも食器洗いぐらいやらせてよ。有瀬だけ独占するのはずるいだろう。もちろん、有瀬がずるいって意味だよ」

「えっ、あっ、僕……!」

 何か必死に弁解しているのを遠く耳に聞きながら、クリスは鼻歌を歌いつつ、洗剤を垂らしたスポンジで汚れた皿を擦った。皿は忽ち白くなり、しばらく続けているうちに、その形をした泡が出来上がった。これは本当に面白いかもしれない。続いて、スプーン、それから空っぽになった弁当箱と箸のセットを洗った。この二つだけは、ノアが食器をこちらに持ってくる頃を見計らって。ノアは俯くのを、クリスは目で見ずとも感じ、ちょっとした作戦の成功に密かに胸を躍らせた。

「そうだ、有瀬、もう一つ頼みたいことがあるんだけど……」


 墨汁を流したような、否、ここはこの物語の主人公に敬意を示して、黒い絵の具を溶いた水と云おうか。比喩としては出来が悪いように感じるけれども。暗黒のカーテンの奥に星屑一つ見せ付けない夜空に、黄金の月の浮かぶ頃、クリスがずるずると布団を引き摺ってくるのを、ノアはベッドの上で横座りになりながら、呆気にとられて眺めていた。布団は、一日目の夜に、クリスが酒本に横取りされたものと同じだ。わざわざ来夏に届けてもらったのだ。さっぱり訳のわからない様子で、ノアはおずおずと尋ねた。

「石崎様、これは?」

「ああ、だってこの部屋狭いから、ベッド二つだと入りきらないだろ?だから布団にしたんだ。まあ、俺はお邪魔する訳だから、有瀬が床でそのまま寝ろって言われたらそうするけど」

「そんな。いっそ石崎様こそベッドを……」

「絶対に嫌だ」

 遠慮されるのではなくきっぱりと断られる。これにノアは弱かった。あの晩と同じ、白いローブを羽織ったノアは、この時にも結局言い返す言葉の見つからないまま、仕方なくベッドに横たわった。クリスが灯りを消した。消灯時間二分前だった。クリスは暗闇の中、足で布団をさぐって潜り込むと、枕に頭をそっと落とした。ベッドの上のノアは見えないが、ベッドが軋む音で、彼が身じろぎするのが分かった。「有瀬」と声をかけてみる。

「やっぱり、落ち着かない?」

「いいえ、でも何だか不思議な感じがして……」

「あはは、俺もだよ」

クリスは、自分の明るい笑い声の内に、ノアの微笑む音を聞いた。

 窓から差し込んだ月光は、床から壁に向けて徐々に幅を広くしながら、金色の軌跡を描き出している。枕の端もその弧線上にある。クリスは、いつか叔父から教わった、静夜思という漢詩を思い出した。いつ学んだのかは知らないが、漢詩好きだった叔父は、何を話すときでもしょっちゅう漢詩を持ち出し、クリスにもしっかりと習わせたのだ。一番の被害者はエマ叔母で、夫と甥が何を話しているのかさっぱり分からず、ただ紅茶をすすりながら、二人の話す姿を交互に見つめていることしかできなかった。叔父と叔母は元気だろうか。静夜思も、確か月の光に故郷を偲ぶ詩であった気がする。

 「有瀬、起きてる?」

「はい、石崎様」

返事はすぐに来た。

「ずっと思ってたんだけどさ、石崎様って呼ぶのやめようよ。名前で呼んでよ」

「でも、癖なので……今更直りそうにありませんし」

「だけど、おかしいだろ?友達なのに様付けするのは」

 この一言がどんな感慨を催したのか、クリスは知らない。想像さえもしていない。沈黙が訪れる。ベッドとは反対向きに寝返り、左腕を折り曲げて頭の下に敷く。

「……せめてクリス様で」

枕に向かって囁いたのだろうか。消え入りそうな小さな声であった。「クリス様かぁ。肝心な部分が抜けてないけど、まあ今はよしとするか」

 クリスは何気なく背後を探った。望めもしない暗闇の中で、ノアの寝台から落ちた手に触れる。この手を握って彼を救った。窓辺に立ち、此方を振り見た灰色の目の色は、他の記憶がぼんやりと霞んでいる中で、ただ一つ、煌々と光を放っていた。死を前に戦く双眸が、なぜそれほどまでに強く閃いたのかは分からない。あれは救いを求めていたのだと思う。闇の中に足を投じながら、尚も頭上に伸ばした手もまた、きっと。クリスは凍てついた命に指を絡めた。

「クリス様」

許されたばかりの呼称でノアは初めて呼んだ。

「クリス様は、何故この学園に来たのですか?」

 ふっと力を緩めた手は逃げることを許されなかった。クリスとノアは、温度を共有しあい、重ねた手の平の中で同じ温もりを育てていた。ノアにもう一度名を呼ばれた。問いを繰り返された。彼の細い指に抱きすくめられた。鈴虫たちの追い込みも激しくなっている。命を繋ぐために彼らは歌うのだ。クリスは何を繋ぐために言葉を発したのだろう。

「絵を探しにきたんだ」

「絵を?」

「そう。この学園の卒業生に、志水晶しみずあきらっていう画家がいたんだ。天才画家だった。でも、世間はまだ、志水の作品を評価する準備が出来ていなかったんだ。結局、志水は自分の作品が世に出回る前に自殺した。理由は色々云われてるけど、やっぱり奥さんと子供を亡くしたっていうのが一番の理由だったと思う。それから、やっと志水の作品が評価されるようになって、俺はたまたま志水の絵をイギリスの図書館で見つけた。何でそんなところにあったのかは知らないけど。それからは、志水の絵を調べまくって、研究しまくったよ。いつかこんな絵を描きたいと思った。そんな時に……」

 瞼が重い。

「志水晶が学生時代に描いた絵が、この学園に残されてるって聞いたんだ。あまり信用できない噂だった。実際、色々調べてみても、そんな話はどこにもなかったし。でも……」

 舌が上手く回らない。

「……その絵が彼の最高傑作だって。その絵で、志水は絵っていうものを完成させたんだって。そんな話だったから、俺は……」

 夢が耳元で誘う。もうその艶かしい額を、クリスの頬に擦り付けている。


「俺は、わずかな可能性に縋って……来てしまって、それで……」




 クリスはまた塔の上にいた。あの晩と全く同じ光景が繰り広げられている。煌く水晶、窓辺に立つノア、そして彼の振り返ったときの瞳の色。クリスはノアの名を呼んだ。何も聞こえない。そもそもここには音がなかった。クリスは駆けようと思ったが、足はその場に根を張って、指先も微々とさえ動かない。悔しさが胸を衝き、固まった眼球の下から涙が漏れ出した。息を吸うたびに肺がもがく。「早くしないと有瀬が……!」

 しかし、ノアは飛び降りようとはしなかった。彼がその場に立ち尽くしたまま、朝日が昇り、日光は彼の着ていたローブを制服に変えた。クリスは見守る中、ノアは窓枠を降り、くるりと此方を省みた。彼が微笑みながら差し出した花は、ホウセンカだった。花言葉は――




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