表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第三章 Largo
55/82

第二十九話 細雪が照らす・後編

 見上げれば、澄み切った快晴の空にカモメが数羽浮んでいた。これで一体何羽目だっけ?学園から海沿いの道をずっと走ってきたのだから、もう相当の数を見かけたはずだけれども。空ばかり見ているクリスの肩をぽんぽんと叩く手がある。助手席のきついシートベルトの中で少し身を捻り、その手が示す方向を見遣れば、クリスの知らない街があった。クリスは思わず歓声を漏らした。そこは崖の下に広がる歴史ある港町の三宿町とは違う、近代的な町であった。まっすぐにそびえ立つビルの無数の窓が朝日に輝き、遊園地の観覧車やジェットコースターが賑やかに活動している。膨らんだ巨大なバルーンの赤や黄色がビルの灰色に彩りを添え、海を優雅に進むのは観光客用の遊覧船であった。この新しい感激に対照して思い出した懐かしい気持ちを伝えるべく、クリスは口を開いた。

「よく考えたら、町の外に出るのは初めてかも。学園まではバスで来たんだけど、あまり覚えてないんだよね。気付いたらいつの間にか眠っちゃってって。目が覚めたとき最初に海が目に入ってさ、すごく綺麗だったなぁ。実は正直なところ、俺、あまり学園に期待してなかったんだよね。ただ絵のことしか思ってなかったんだ。でも、やっぱり来てよかったよ、学園に。いろんな人にも会えたしさ。それに何より君にも……あっ、もし寝てたらちゃんと起こしてよね!今日は何も見逃したくないんだ……」


***

 車はついに見知らぬ町の中へと飛び込んでいった。屋根のない車の上でクリスはまともに潮風を頬に受けながら、クリスは他愛のないことばかり語り続けている。自分の滑稽な失敗談、友人の話、学校であったこと、期末テストの結果、昨日見た映画の感想、などなど。その間、言葉は少しも澱まない。年末の町は多いに賑わい、美しい。繁華街の真ん中を突き抜ける車の横を、輝かしいものたちが飛んでいく。そして喋りつかれた喉を休め、コーラの缶を飲んで、クリスがショッピングモールや博物館の壁の向こうに見出したのは、そう遠くない山の中腹辺りに見える、白い円筒状の建物だった。

「あっ、あれが、皆がよく話してる展望台か。一度見てみたかったんだよね。学園が一望できるってほんと?えっ、別にいいよ、行かなくても。どんな場所なのかなぁって思ってただけだから。うん、本当にいいったら!あっ、それよりさ、朝ごはん何食べた?俺、今朝はあまり食べてなくてさ。いや、具合が悪かったとかじゃそういうことじゃなくて。でも、そろそろお腹空いてきたなぁ。お昼にはまだ早いかなぁ。そうだ、すっかり忘れてた。サンドウィッチ作ってきたんだよね。鞄に詰めてきたはずだけど……えっ、展望台?いいよ、本当にいいったら!ほんとにいいのに……」


***

 結局わがままを言った形になって、展望台まできてしまった。車をおりる足さえ遠慮がちにためらうのに、大きな手がクリスの肩を押してぐいぐいと突き進んでいく。高校生用のチケットを渡されたクリスはおずおずとそれを受け取ったが、エレベーターを無視して螺旋階段を駆け上り、三百六十度が窓で覆われた展望室にたどり着く頃には、興奮しきってすっかり遠慮を忘れていた。クリスは窓の前の手すりに手をついて、ガラスが許す限りぐっと体を前に乗り出した。海のきらめくのが南の方向に見える。車で抜けてきた町と、クリスが暮らす町との色合いの対比が、ここならばはっきりと分かった。クリスはぐるりと部屋を一周回って、すぐ見下ろしたところに電車がトンネルを出てくるのや、逆に遠くに雪を頂いた美しい山がそびえているのを眺めた。

「やっぱり高い所は気持ちいいなぁ!イギリスの叔父さんが湖水地方に別荘を持っててさ、そういう小高いところから原っぱとか湖とか見下ろすのも楽しいんだけど、思い切り高いところから町を見下ろすのも気持ち良いなあ。スケッチしたいなぁ、こんな景色。あっ、あれって学園だよね?ここからでもあの白い塔って見えるんだ。ピサの斜塔みたいだよね、あの塔って。何であんな建物が学校にあるのかな。あの塔の上ってさ……いや、なんでもないや。ねぇ、ずっと気になってたんだけどあの建物って何?」

***

 サンドウィッチでも堪えきれなくなった空腹は、町のイタリアンレストランで慰めることにした。店内はひどく混みあっていたが、それでも雑然とした感じがないのは、清潔でシンプルな店の内装と、人々の話し声を調和させるジャズ、後は客の品位の高さとかそういったもののおかげだろう。クリスたちはちょうど海の見える窓辺の席に案内され、食前にオレンジジュースを飲み、それから各自好きそうなスパゲッティやピザを選んで食べた。この店の料理は小さなお皿に綺麗に盛られてくるために悪戯に腹を満たすということはなく、美味しい紅茶とケーキのデザートまでしっかりと頂くことができた。クリスはチョコレートケーキを三角形の端っこからフォークで小さく切り分けながら、ふと先日の珍談を思い出して喋った。

「そういえばさぁ、この間教室にスズメが入ってきたんだよね。本当大変だったよ。英語の時間だったから、ジャクソン先生が一生懸命捕まえようとしてたんだけど飛び回るばかりでどこにも落ち着かないし、窓に二回も衝突するし。結局、校長先生を捜しにきた橋爪先生の頭の上に止まったんだけど、橋爪先生ってばそのまま気を失っちゃってさ。鳥が嫌いなんだって。昔、鶏に追いかけられたとか何とかで。スズメを外に帰すのは関本が上手くやってくれたからよかったんだけど、それからは橋爪先生の方に手がかかったよ。ジャクソン先生が教科書で頭叩いたら余計伸びちゃってさ……」


***

 十分に食休みをとった後、車を駐車場に置いて、二人はしばらく海岸沿いを散歩したり、ショッピングモールをのぞいてみたりした。それでも特に買いたいものもなく、午後の気だるさがクリスを不思議な安心感となって包みはじめた頃、遊園地に行ってみないかとの提案がどちらからともなく出た。遊園地とはいっても町の中の一つの景色としてあるもので、さほど大きくはないし、遊具だって精精限られていたが、観覧車の大きさだけは有名だった。クリスは子供のように飛び上がって喜び、おおいにはしゃいだ。

「遊園地なんて久しぶりだな。小さい頃に両親が連れて行ってくれた記憶はあるんだけど、叔父さんと叔母さんは連れて行ってくれなかったから。連れて行くんだったら美術館って感じだったし。おかげで俺は色々学べたんだけど。最初は何に乗ろうかな?観覧車はやっぱり最後だよね?ジェットコースターとか乗ってみたいなぁ。小さい頃は乗れなかったから。あっ、ねぇ、君は何に乗りたい?」


***

 夕日が沈みかけている。今日は水平線には沈めない夕日。仕方なく低く垂れ込めた灰色の雲の中に落ちる。雲が微かに緋色を透かす。

 感傷的にはならないために、クリスは必要もないことの中継ばかりした。観覧車がもうすぐ円のてっぺんに来るだとか、海がきれいだとか、車がミニカーよりずっと小さいだとか、人なんてまるで見えないだとか。怖いのは沈黙で、相手が何も喋ってくれないので余計クリスの声を上ずるのだが、自然にクリスの声音も落ちていく。今日の最後に、今年の最後に、鮮やかなまでに夕日を映し出して見せた先刻の海が瞬きする毎に瞼の裏に輝いて。苦しくなる。もっと喋ってと懇願する。でないと、何か恐ろしく寂しいものに呑みこまれてしまいそうで……

「あっ……」

突然左手をとられて、クリスは思わず小さく叫んだ。するすると薬指にはめられていくのは、見覚えのある指輪だった。生徒会役員たちが常に肌身離さずつけている水晶の指輪――クリスの瞳が揺らぐ。いつか慎にも同じ指輪を送られた。結局その指輪ははずしてポケットに入れたままどこかに落としてしまい、クリスは探しもしなかったが、あの時、指輪がクリスに何らかの良い感化を与えたとは考えにくかった。今左の指にはめられた指輪も同様だった。クリスの目を惹きつけて離さない。まるでその透き通った光に酔うように、クリスは息をひそめて指輪を見つめていた。

「指輪……生徒会の……」

「俺が生徒会長の頃つけていたものだ。古いけれど水晶の輝きは鈍らない」

「えぇ、綺麗です……」

クリスは唇を弱弱しく引き上げて微笑んだが、もう表情をつくる力すら指輪に奪われてしまったようだった。静かな感激の中で落ちる涙をクリスは止めようとしなかった。一粒落ちてズボンの染みになって、一粒落ちて水晶の光の糧となる。

「おいで」

伸ばされた腕の中に飛び込んで、クリスは愛しい胸の中に顔を埋めた。涙がまだ伝っている頬が持ち上げられ、残照に映える。そして、クリスは唇にキスを受けた。ほろ苦くもあり、そして甘くもあり。

「……今日は疲れただろう?」

尋ねられても返事をするほどの気力もなく、クリスは恋人の胸元で浅い呼吸を繰り返している。大きな手が頭を撫でる。

「クリス、君はとっても可愛いよ」

「子供扱いなんて……」

「してないよ。愛してるから言ったんだ」

優しくなだめられてクリスは拗ねたように黙り込む。観覧車は円を辿りながら下降を続けている。抱き締められて、またキスされて、翻弄されて。耳元で囁かれる。

「ここを出たら少し休もう。僕の家に来るかい?」

クリスは少しの間を経た後、その腕の中でこくんと小さく頷いた。


***



「Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate'」




 塔の上からは様々なものが見渡せる。天井から垂れる巨大な水晶の輝きが全てを照らし出すから。ノアは塔の中心を貫く柱に寄りかかり、アーチ型のガラスのない窓から星を眺めていた。間もなくあの星たちが降ってくるだろう。しかし、ここはいかなる温度とも無関係である。ノアは左手を色のない光の中に掲げて見せた。

 彼を信頼していたのか?本気で?頭上から降り注ぐ光の粒が薬指に落ちて灯る。答えはノーだった。彼は何も知らない。分かったふりをしているけれど、やはり何も知らない。ノアはローブの肩を素早く抱いた。只々彼が憎らしく、心底気持ち悪いと思った。ノアはその場にそっと腰をおろした。なぜこんなにもどす黒い感情が心の中をかき回したように湧き上がってくるのか、自分にも分からなかった。全ては水晶の意思通りに進んでいる。父の敷いたレールの上に全てが規則正しく並んでいる。これでいいのだ。目を閉じさえすれば、また背中を柱に預けてここで眠っていた時のことを思い出しさえすれば、後は何も考えずに済む。光と影は永遠に別たれたまま。自分はノアとして生き続ける。光は影のために潰える。そして、それまでは――

 窓の外が明るくなったような気がして目が覚めた。もう朝なのか。年が変わるのも意識せずに夜を過ごしてしまった。そんな風に悔やみながら体を起こしたのに、窓辺には未だ暗闇が佇んでいる。一体自分を起こしたものは何だろうと妙に白けた視界で見てみれば、はらはらと闇を舞う雪が見える。明るい雪が。人の心の隙間にまで落ちてきそうな細やかな雪が。肩まで引き上げた布団がはらりと落ちるとき、クリスの喉が、肩が、首が、胸が映し出される。それぞれの肌に咲く赤い花びらのような印も。

 クリスはゆっくりと熱を失ったベッドの上に崩れていく。見慣れぬ部屋、見慣れぬ寝台、ここで自分は時の移り行くよりもはやく変わってしまった。後には愛情しか頼るものはなく。

 鐘が鳴る。年が変わるとき、クリスはメガネを外した恋人の微笑みを見上げて、その胸に静かに身を預けた。

「薫さん……」


「貴方は何も知らなくていいんです、クリス様……貴方は砂の玉座に座り込んで、波が砂を侵すのを待っていてくださいね」

ノアは微笑む。鐘が鳴るのはすぐ真上で。塔が震えた。



「この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ」




第三部終


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ