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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第三章 Largo
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第二十九話 細雪が照らす・前編

「よく考えたら、町の外に出るのは初めてかも。学園まではバスで来たんだけど、あまり覚えてないんだよね。気付いたらいつの間にか眠っちゃってって。目が覚めたとき最初に海が目に入ってさ、すごく綺麗だったなぁ。実は正直なところ、俺、あまり学園に期待してなかったんだよね。ただ絵のことしか思ってなかったんだ。でも、やっぱり来てよかったよ、学園に。いろんな人にも会えたしさ。それに何より君にも……あっ、もし寝てたらちゃんと起こしてよね!今日は何も見逃したくないんだ……」


「えぇ、分かってますよ。クリス様」


***

「あっ、あれが、皆がよく話してる展望台か。一度見てみたかったんだよね。学園が一望できるってほんと?えっ、別にいいよ、行かなくても。どんな場所なのかなぁって思ってただけだから。うん、本当にいいったら!あっ、それよりさ、朝ごはん何食べた?俺、今朝はあまり食べてなくてさ。いや、具合が悪かったとかじゃそういうことじゃなくて。でも、そろそろお腹空いてきたなぁ。お昼にはまだ早いかなぁ。そうだ、すっかり忘れてた。サンドウィッチ作ってきたんだよね。鞄に詰めてきたはずだけど……えっ、展望台?いいよ、本当にいいったら!ほんとにいいのに……」


「いいんです。大丈夫ですよ、クリス様」


***

「やっぱり高い所は気持ちいいなぁ!イギリスの叔父さんが湖水地方に別荘を持っててさ、そういう小高いところから原っぱとか湖とか見下ろすのも楽しいんだけど、思い切り高いところから町を見下ろすのも気持ち良いなあ。スケッチしたいなぁ、こんな景色。あっ、あれって学園だよね?ここからでもあの白い塔って見えるんだ。ピサの斜塔みたいだよね、あの塔って。何であんな建物が学校にあるのかな。あの塔の上ってさ……いや、なんでもないや。ねぇ、ずっと気になってたんだけどあの建物って何?」


「さあ……」


***

「そういえばさぁ、この間教室にスズメが入ってきたんだよね。本当大変だったよ。英語の時間だったから、ジャクソン先生が一生懸命捕まえようとしてたんだけど飛び回るばかりでどこにも落ち着かないし、窓に二回も衝突するし。結局、校長先生を捜しにきた橋爪先生の頭の上に止まったんだけど、橋爪先生ってばそのまま気を失っちゃってさ。鳥が嫌いなんだって。昔、鶏に追いかけられたとか何とかで。スズメを外に帰すのは関本が上手くやってくれたからよかったんだけど、それからは橋爪先生の方に手がかかったよ。ジャクソン先生が教科書で頭叩いたら余計伸びちゃってさ……」


「クリス様、お茶はいかがですか?」


***

「遊園地なんて久しぶりだな。小さい頃に両親が連れて行ってくれた記憶はあるんだけど、叔父さんと叔母さんは連れて行ってくれなかったから。連れて行くんだったら美術館って感じだったし。おかげで俺は色々学べたんだけど。最初は何に乗ろうかな?観覧車はやっぱり最後だよね?ジェットコースターとか乗ってみたいなぁ。小さい頃は乗れなかったから。あっ、ねぇ、君は何に乗りたい?」


「……クリス様、お茶のお代わりはいかがですか?」


***

「あっ、もうすぐ観覧車の一番上の辺りに来るね。うわぁ、海がすごくきれい。今日は高い所からものを見下ろしてばかりだね。車もミニカーよりずっと小さいや。人なんて全然見えなくなっちゃうね、こんな高いところだと……えっ、別に、変な感傷に浸ってる訳じゃないさ。でも、ほら、ここから見ると俺たちがいちいち悩んだり考えたりしてることなんて小さなことなんだなぁって。それが良いことかどうかはよく分からないけど、少しは慰められる気がするよね。ねぇ、そういえばさっきからあまり喋らないけど、どうかした?嫌だな、なんかこういう感じ……ねぇ、もっと喋ってよ。俺、貴方のことを色々知りたくて。あっ……」




「貴方は何も知らなくていいんです。クリス様……」


***

 布団から突き出した両足の指を擦り合わせ、爪先に血を通そうと空しい努力を繰り返している。冷え切った真夜中の寝室で、二人は珍しく背を向き合って眠っていた。いや、真実を言えば眠っていた訳ではなく、ただ冴え切ったビー玉のような目を大きく見開いたまま、片手でシーツのしわを寄せ、ぼんやりとそれぞれに感慨に耽っていたのであった。崖下の繁華街の灯は今尚鮮やかに窓に映って点滅している。いつものように手を繋いだり、指を絡めたり、くだらないことを話せればいいのに。口を開く度に胸の何かが拒む。親友を嫌いになった訳でもないのに、彼を避けようとする働きが心のどこかしらにある。得体の知れないだけにその感情は毒々しく、正義や友情よりも一層強烈にクリスの体を支配していた。クリスは泣きたかったが、涙は乾ききっていた。何もできないもどかしさに悶々としていく間に夜は更けていく。ノアは一体何を考えているのだろう?せめて、それさえ知ることができたなら――

「クリス様、起きてます?」

「……うん」

寝ているふりをしたがる感情をようやくのことで踏みつけて、クリスは答えた。背筋から冷たいものが駆け上がってきた。しかし、クリスが震えたことを、後ろ向きのノアは知らない。

「何?どうかした?」

「いえ、ただちょっと明日の……あっ、もう今日になっちゃったのか」

「明日でいいよ、まだ夜だから」

「そうですか?じゃあ、明日の予定を聞こうと思って。ほら、明日は大晦日ですから。

「何か予定がおありですか?」

「ああ、うん……」

クリスは寝返りを打った。せめてノアの背を見つめられればと思ったのだが、生憎同じタイミングでノアも振りかえったようで、二人はいつも通りに向き合う形となった。クリスは曖昧に笑うしかなかった。伸ばせない手が布団の中を必死にまさぐっていた。

「どこかにお出かけですか?」

ノアが重ねて尋ねる。クリスは何とも突かない唸り声のようなものをあげながら、自分を振りかえせなかった正体が後ろめたさにあったことを知った。後ろめたさとは、今年最後の日を親友と一緒に過ごせない故のものである。

「あの、有瀬、すごく悪いとは思うんだけど……その、あのさぁ……」

「えぇ、分かってますよ。クリス様」

ノアは微笑む。

「ごめん、有瀬……」

「いいんです。大丈夫ですよ、クリス様」

「でも……」

「実は僕もそのつもりで予定を入れてしまいましたから」

「えっ?」

いたずらっぽくウィンクするノアに、クリスは目を瞬いた。クリスがようやくノアと目を合わせられるようになった瞬間であった。なんだ、ならば後ろめたいことなど何もなかったのだ。自分は彼と出かけられるし、ノアも誰かと……まとまった形にはなれない安堵が、ゆっくりと心の上を滑っていくのがわかった。

「なんだ。そっかぁ、君もかぁ」

「クリス様もデートですか?」

「クリス様もってことは、君もなんだね?」

「さあ……」

不思議な笑い声が二人の口を伝って出た。楽しげだが喉元から出る乾いた声であった。それでも涙まで浮かべて笑いこけているクリスの前で、ノアはおもむろに立ち上がり、部屋の灯りをともした。窓の街の灯が消えた。二人の笑いも消えた。クリスは心の底の辺りに霧のようにひろがっていく不安の影を見取った。

「クリス様、お茶はいかがですか?」

「えっと、今から?」

「はい。どうせ眠れそうにありませんし、いいじゃありませんか。二人とも明日のことが心配で緊張しているでしょう?僕たちにとっては今夜が今年最後の夜になるんですから」

ノアの提案を素直に受け入れたクリスは、時計の短針が十二を回っている傍でベッドを出た。二人は通っていく道ごとに電気をつけながら居間へと向かい、ノアが湯を沸かしている間、クリスは椅子に座ってぼんやりと暗い海を眺めていた。一見暗闇のように見えるのが海、灯台の光が当たればその皮膚が見える。なめらかではない。しかし、荒れてもいない――そうだ、決断は急がれていない――紅茶の香りがほのかに漂ってくる。まだ台所にいるノアにクリスは思いついたように聞いてみた。

「ねぇ、有瀬は誰とデートなの?生徒会長?」

「秘密です」

ノアは姿のないまま即答した。

「クリス様こそ、誰なんですか?」

「俺も秘密だな」

クリスが答えたところで、暖かく心地よい部屋に茶会の道具が運ばれてきた。二人は手分けして紅茶の用意をした。ノアがカップに熱い紅茶を注いでいる間、クリスはお茶請けのクッキーを綺麗に皿に盛った。二人は完全に黙って準備を行った。やがて、パッヘルベルの「カノン」が流れ始め、二人が音もなく席につくと、忘年会代わりの和やかな茶会が始まった。

「今年も一年間、お疲れ様でした」

呟くように言ったノアに、クリスはただ頷いた。

「思えば色々ありましたね」

「……そうだね」

「まず、僕たちが出会ったのが今年なんですものね。今年の9月。出会ってまだ四ヶ月しか経ってないなんて考えられません。僕はずっと前からクリス様といる気がします」

笑いながらクリスが一口含んだ紅茶は、白のアトリエでノアが最初に振舞ったあの不思議な柑橘の紅茶だった。クリスは椅子の上で折りたたんだ膝からふと目を上げた。白い壁に飾られている絵は、クリスが個展のために仕上げたものを数枚持って帰ってきたうちの一枚である。額縁の中には在りし日のアトリエの姿があった。あの懐かしい家ももう燃えてしまって、今は黒い残骸だけが「立ち入り禁止」のテープの中に忘れられたように燻っている。ノアの言うとおりだった。全てたった四ヶ月の中の出来事なのだ。この学園に来たのも、ノアと出会い共に暮らすようになったのも、白のアトリエでの平穏な日々も、アトリエが燃えてしまったその日も、ここに移り住んだのも。ノアが分からず苦しんだのも、心を通わせられるようになったのも、互いに裏切り裏切られたのも、手を取り合って泣いたのも。こんな日々を越えた先に一体何があるのだろう。クリスは何も知らない。何も。今、もし自分が何も決断しなかったとしたら、今まで積み重ねて来たものを守っていけるだろうか。何も知らないふりをして、このまま流されていけば、せめて。

「ねぇ、有瀬」

クリスはもう少しだけカップの中にミルクを注いだ。紅茶の色がまた少し変わっていく。落ち葉の色が秋の深まるにつれて変わるように。

「俺は君に言わなきゃいけないことがあるんだ」

「……何ですか?」

はっきりとは分からない。白濁した水面ははっきりと映してくれなかったから。それでもノアの横顔が少し揺れた気がした。

「あのさ、俺、今日町でね……」

「クリス様……」

「今日、関本たちと一緒に町に出たときにね、見つけたかもしれないんだ。あの……」

「クリス様……!」

「有瀬」

クリスはカップの縁に唇を押し当てた。紅茶を飲んだのか飲まなかったのかはわからなかった。ただ陶器が唇に触れたことだけは覚えている。

「お願い。聞いてほしいんだ」

今まで二人で作り上げてきた色をたった一枚の紙が吸い上げる。そして、それがこの部屋からベランダから望む海を描いていくとき。

「見つけたかもしれないんだ、ずっと捜してた絵を。町のお店に飾ってあったんだ。紛れもなく志水晶が描いた絵だったんだ。この部屋のベランダから見える海が描いてあって……はっきりと分かった気がしたよ。俺は志水晶の歩いた道を辿ってたんだって」

カノンはもう終わっている。クリスが目を向けると、ノアはうつむいたままじっと黙りこくっていた。しかし、ソーサーに小指だけを預けた左の拳がかたかたと震えているのにクリスは気付いた。クリスは手を伸ばしてその拳に重ねた。それでもノアの表情は変化しなかった。

「有瀬、大丈夫だよ。まだ俺はどこにも行きやしないから……あの絵が本当に捜してた絵なのかどうか確証もないし、まだ時間がかかりそうなんだ。少なくとも確証が得られるまでは一緒にいられるからさ。それに、あの絵が本当に捜してた絵だった場合の話だよ。違ってたら、俺はまた振り出しなんだ。だから、ねっ、そんなに落ち込まないで……」

「……クリス様、お茶のお代わりはいかがですか?」

恐らくそれが今ノアに言える精一杯だったのだろう。クリスは微笑むと空のカップを見下ろし、自分が先ほど紅茶を飲み込んでいたことを知った。クリスは何も言わずにカップをノアに渡した。気持ちは通じるはずだった。

 沈黙の中、ノアから受け取った一杯を飲んでいるうちに、強烈な眠気がクリスを襲った。そろそろお開きにした方がよさそうだ。時計も一時をまわっている。クリスはベッドに行こうとノアを誘おうとして、途中で力尽き、テーブルの上に突っ伏した。ノアは冷ややかにその様子を眺めていたが、やがて何か言おうと口を開き、言葉にする前にまた口を閉ざした。死んでしまえばいいのに、このまま。眠ったまま死んでしまえばいい。そうしたら、きっとずっと……野暮だとは分かっていたし、自分がとるべき道に背くことも知っていたが、確かにそう思うもう一人の自分がいた。ノアは力なく伏せられたクリスの手を取り、始末に困って、しばらく両手の中に置いておくことにした。




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