第二十八話 波間の足元・後編
はたして菜月は来るだろうか。学園の門の前に立ちながら、颯は道路を睨む勇気を起こせずにいた。この日に家に帰るのは毎年恒例の行事であるから、菜月が知らぬはずがない。高校にのぼって以来、菜月は急にこの行事に参加しなくなったが、今年は来るだろうとの確信があった。確信があったにも関わらず、颯は同じぐらい強い恐怖と戦っていた。全て自分の思い込みではないのか。菜月は友人たちと過ごす方を選ぶのではないか。車が来てしまったら、自分はもう菜月を置いていくしかないのではないか。こんな風に自信を持てなくなったのはいつからだろう。恐らくいつという時はないのだろう。不安は最初からこの胸の中にあった。菜月を愛おしく感じ始めたその時から。愛と共に不安も育んできた。ただそれだけの話だ。自分たちは愛し合うには大きくなりすぎたのかもしれない――伸びすぎた背が菜月の手を握るには不都合なことを、颯は知っている。それでも背をかがめ、菜月の隣に立ってきた。他の人を愛する方法は学ばなかった。もしずるずる引き摺り続けているこの関係に楔が打ち込まれたとして、自分は一体どうすればよいのだろう?もし菜月の姿が今日、あのなだらかな緑の上に見えなかったとして。
車が横をすり抜けていく音に、颯は飛び上がった。遠のいていく車の色は、間もなく学園と神社を包むはずである雪と同じ色をしていた。颯は、安堵の溜息が唇を割って出るのを確かに聞いた。自分はまだ弱くて幼い。
幸か不幸か、そんな自分の弱さと立ち向かう機会はまだ与えられなかった。遠くに小さな影が見えた故に。大きく手を振り、満面の笑顔を浮かべながら必死に駆けてくる小さな影が。
***
「面白かったですね、来夏先輩」
「まあな。だけど、あの結末はいただけねぇよな……」
「そんなことないっすよ!俺、めっちゃ感動しましたもん!」
「ライは映画についてはうるせぇもんな。この間も一緒に見に行った映画にケチつけられて……おーい、エーリアル、どうした?」
「……えっ?」
船の汽笛がこんなにもはっきりと聞こえる。それでも人の声は相変わらずくぐもったままだ。クリスはナッツで飾ったチョコレートとバニラのアイスクリームをなめた。海の見える公園は多くの人で賑わっている。皆で腰をおろしている石の階段は冷たいが、上から照る日は温かい。多くのカップルが散歩を楽しんでいる。薫さんも誰かとこの公園を訪れていたりして――もうやめよう。先生ことを考えるのは。
映画を見終わった後特有の症状でまだ頭はぼんやりしたままだが、それとこの虚ろな気持ちは関係がない。寮を出たときからずっとこの思いと共に歩いてきた。ノアを置いてきてしまったことに後ろめたさを感じる理由はないと、先ほどから自分に言い聞かせている。ノアは自ら寮に残ることを選んだのだから。ノアに何も打ち明けられないことについても、不可能という理屈において同様のことが言えた。これで良いのだ。一つぐらい親友に打ち明けられないことだって……
「友達でもいえないことだってあるさ。それでも俺は分かってあげなきゃいけなかったんだ」
友達のために呟いた言葉を、今は保身のために繰り返している。自分はあの少年に悟ってくれることを望むのか?やっと深い暗闇から立ち直りかけたばかりの友達に?
「おーい、エーリアル、本当に大丈夫か?」
返事もせずに考えに耽るクリスを不審に思ったのか、落合は再度尋ねた。クリスはただ元気なく頷いた。もちろん、誰も信じようとしなかった。
「先輩、何かあったんですか?有瀬先輩と喧嘩したとか?」
「……喧嘩はしないよ」
「じゃあ、まさか、クリス先輩まで映画のラストに何か不満が?」
親切心と好奇心でずんずんと突っ込んでくるのは一年生の二人組みだ。来夏は二人の頭を叩いてたしなめているが、こんな状態では最早迷惑だとも思わない。クリスは微笑んだ。心配してくれる友人たちを愛しいと思う気持ちだけが先走っていた。
「石崎、あー、その……」
「いいんだ」
来夏の言葉を遮ってクリスは言った。
「嬉しいよ。ありがとう、気遣ってくれて」
「先輩……」
「でも、本当に、すぐ解決するようなことだから。大丈夫。きっと」
まるで自分に言い聞かせるような口調だった。クリスは立ち上がり、明音が撒くポップコーンに群がる鳩たちの間をすり抜けて、石の壁にぶつかっては白く弾けていく波を覗き込んだ。三宿海岸付近の海は都会の海であるにも関わらず本当に美しい。しかし、この公園から望めるのはやはり港の海であり、いくら見渡しても水平線は見えなかった。貨物か観光客か、そのどちらかを運んでくる船が忙しく出入りしている。あのオレンジのマークの船は寮の前をよく通っている。
「おい、石崎!」
しばらくクリスを一人にした後で、来夏が呼びかけた。クリスは素直に振り向いた。ノアに話しかけられたときとは違って。
「この辺りで解散にするつもりだけど、お前はどうする?」
「皆はどうするの?」
「俺と涌水は町をふらつくつもり。ライと秋元はデート。まあ、どの道この二人には交じれないぜ。鉄則な」
「おい!」
「分かってるよ。そうだな。帰っても仕方ないし、一緒に町を歩こうかな。有瀬へのお土産でも探そうっと」
帰っても仕方ないというのは本当だろうか。自分は寮に帰ってするべきことがあるのではないのだろうか。疑問符は全て掻き消した。クリスは砕けていく波を最後にちらと拝んで、溶け始めたアイスにそろそろ本気で対処しながら、来夏と真央に冷やかしの言葉をかけて右の方向へ進んでいく落合と明音のグループに加わった。
***
「おまえは暢気でいいな」
嫌味のつもりかと思って振り返ってみれば、そう話しかけられているのは猫の方だった。シャネルはソファの上の茘枝の膝で丸くなり、その細い尻尾を時折揺らしながら、全身を撫でられるがままにしていた。茘枝は高貴な猫の無防備な様子が可愛いらしく、猫用のおやつを時々指でつまんでは小さな口元まで運んでやっている。陽はコーヒーを一口含んだ。昨夜の残りのクリスマスケーキは甘すぎる。
「そうか?人間様には分からないだけで、猫だって結構苦労してるかもしれねぇぜ」
「例えば?」
「オレが知るかよ。ご本人に聞け」
「シャネルが話せるならもちろんそうするさ」
「しかし、生憎猫は何も話せないっと」
元々猫の苦労などには興味がないらしく、陽はそう言ってぱっぱと話題を打ち切った。食器を台所まで運んでいる途中で、彼は猫と恋人と二人とが揃って欠伸をする光景を目にした。ペットと飼い主というのは本当に似るものらしい。口を閉ざした後で上目遣い気味に周りを窺う少し生意気そうな仕草までそっくりだ。カップを完全に片し終えて、陽はソファの背もたれから腕をまわして茘枝の肩を抱いた。シャネルはもう色々と承知の上らしく、ぴょんと茘枝の膝をおりて、速やかにリビングから退散していった。茘枝は「あっ」と言って無念そうに猫の辿る道を目で追っていったが、陽に目を覆われて途中で断念せざるを得なかった。
「猫を見るな猫を」
「嫉妬なんてするものじゃないぞ」
「黙れ」
茘枝は笑って目の上の陽の手を払いのけ、肩を抱いている方の手にはキスを落とした。怪訝な顔をする陽に、茘枝は肘掛にもたれかかりながら言う。
「君は撫でても機嫌をとれる訳じゃないからな。猫ほど暢気じゃない」
「……これで機嫌がとれると思ってんのか?」
「もちろん」
「バカか」
言って電光石火で部屋の出口に向かおうとする茘枝を捕まえた。後ろから抱き込んで頬に触れ、先ほど茘枝がしたように掴んだ右手に唇を落とせば、茘枝も既に堪忍したように身を預けてきた。その様子がどこか猫に似ていると思ったのは、果たして何かの錯覚だろうか。
***
落合は店番の可愛い女の子と話し込み、明音は店の前にいる大きなテリア犬に夢中になっている。クリスには狭く細長い店内をゆっくりと回る他ない。白い壁には様々な絵がかけられており、有名画家の作品の模写もあれば、この町に住む無名の画家たちの作品や、店主である浅黒い肌の老人が収集した非売品などもある。老人は相当に鋭いセンスをしているようで、クリスはたちまち非売品コーナーに釘付けになったが、その中の一枚にクリスは思わずはっと息をのんだ。
見慣れた海が――寮のベランダに打ち出でて望む海が――額の中にあっただけでなく、その風景が心から尊敬する画家の筆によって描かれたものであったからだ。クリスは目を数度瞬かせ、目の前の絵が幻影ではないことを確かめる必要があった。手と足の先が最初に冷え、それから肩と胸が震えた。間違いない。絵がここに存在することも、これが志水晶による作品であることも、描かれた波間がいつも見る波間と変わりのないことも、全てが真実であった。クリスは絵の右下に目を遣った。専ら白の絵の具で記される志水晶のサインがない。しかし、この絵が志水の絵でないことなんて考えられようか?贋作だとするならばサインがないことが尚更不自然であるし、そもそも三宿学園の生徒以外、しかも、生徒会役員の特別寮に住まう者以外、この景色を知るはずがないのだ。学園の卒業生であった志水なら、絵に描かれた海を何らかの形で見ていたとしてもおかしくはない。クリスは落合と女の子をびっくりさせながら店のカウンターに駆け寄り、パイプをふかして静かに瞑想している主人に尋ねた。
「あの絵は志水晶のものですか?」
老人は片目だけをクリスに向けてこくんと頷いた。
そうだ。やはりそうなのだ。ふらつく足で絵の前に戻り、クリスは深く溜息をついた。そもそも志水晶以外にこんなにも美しくて、鮮やかで、それでいて物悲しくて、白く縁取られた波の光に目を細めたくなるような絵を描ける訳がないんだ――
これが求め続けていた絵なのかもしれない。ふと、クリスの胸にそんな考えが閃いた。すると、激しい興奮にいてもたってもいられないような気持ちになった。志水晶が学生時代に描いた絵は三宿学園にあるとの話だったけれども、出所も確かでないものだったから、例えその絵が学園ではなく学園近くの町にあったとしても、特別不思議なことはない。では、本当にこの絵が……?学園来てからの喜びも悲しみも苦労も全部この絵のためにあったというのか?来日を決めた夜が、叔父と叔母に決意を話した午後が、学園の門をくぐった朝が、図書館の本棚を漁った放課後が、走馬灯のように頭の中に蘇った。それからクリスは、ノアの顔を思い浮かべた。ノアはクリスが学園に来た目的を話したたった一人の相手だ。もしクリスが本当に探し求めていた絵を見つけてしまったとするならば――今すぐにもノアに伝えなければならない。
「ごめん、落合、明音君!俺、先に帰るから!」
「えっ?」
「あっ、先輩!」
駆け行くクリスが思うノアは、本心を打ち明けられない相手ではなく、白のアトリエの寝室で指を絡めあったノアであった。
***
「なんか緊張しますね……」
「お前何回目だよ、それ?」
海岸を歩きながら、呟く真央に来夏は呆れて言う。
「だって、ほんとにほんとに緊張するんですもん!」
「別にいつもと変わらないだろうが。そんなに硬くなられるとこっちがやりづれぇんだよ」
「き、気をつけます……」
全く、普段並んで歩くのと何ら変わりはないというのに。どうして真央はこんなに胸をどきまぎさせているのだろう。手もとれないような雰囲気に来夏は悩む。やはり意識の問題だろうか。お互いの愛を知っているか知らないか、それだけでやはり二人の関係は違ってきてしまうのだろうか。この胸にある愛に変化はないというのに?
「先輩、顔が赤いですよ」
「はっ?」
来夏は慌てて手を顔にあてた。確かに頬が熱い。ただ愛について考えただけで、なぜ赤面する必要がある?まだまだなんだ、と来夏は胸の中で言った。二人とも未熟で初心だ。先ほどから何度もすれ違っているカップルのように、手を繋ぎ、腕を組み、笑いながら道を行けるようになるには、まだ時間が必要なのだ。それでも少しずつ歩み寄っていけばいつかはなんとかなるだろう――こんな先行きの長い思いで果たして本当に大丈夫かどうか不安はある。しかし、それでも、一度決めたこの道を行く他ないのだ。
「先輩、手」
「えっ?」
「手ですよ、手。貸してください」
すぐ横を見ても真央の顔がなくて。不思議に思って見上げてみれば、海岸に沿って連なる石のブロックの上に真央のスニーカーがあった。いつの間にかよじのぼったらしい。そして、来夏の悶々とした心の内もいざ知らず、平然と左手を差し出している。バランスをとりたいから掴んでいてほしいということらしい。来夏は数秒ほど言葉を失ったが、やがて笑い出し、毛糸の手袋に包まれた手をぎゅっと握り締めた。真央は来夏が笑っている理由が不審らしく、顔をしかめた。
「なんですか?どこかおかしいところでも?」
来夏は別にと言って首を振った。その間も笑いは途絶えない。
「あーあ、また発作が始まった……」
「誰のせいだと思ってるんだよ?」
「僕のせいですか?!」
「当たり前だろうが」
「えー……そんなに変ですかね。ブロックの上歩くのって」
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
真央は傾きかけた日に横顔を染めながら首を傾け、落ちないようにゆっくりと足を進めている。その右隣に(来夏にとってはその奥)に、斜陽を映しはじめた海がある。
「アニエス姉さんがよくやってたんですよ。前の婚約者と。こういうことしてるときだけは、姉さんもさすがに子供っぽいところがあるんだなぁって思ってました」
「へぇ、アニエスさんが」
あの可憐な未亡人が真央の姿に重なって、珍しさについつい来夏も話題に引き込まれていく。
「えぇ。今頃もどこかで同じことやってるのかもしれませんね、千住先生と。僕のずっと前にいたりして」
「おいおい」
「あの二人、もうお付き合いしてるみたいですよ。文化祭の夜も一緒に腕組んで帰ってるの見てしまって……僕は姉さんが幸せならちっとも構いませんけど……」
ふと真央が立ち止まったので、来夏も横に向き直る。これまで従姉と薫のことを話しているときには必ず見られた、期待するようなはにかんだ微笑みが、今の真央にはなかった。「どうした」と続きを促してみると、真央はゆっくり、一言ずつ噛みしめるように語り出した。
「なんだか怖くて。姉さんが姉さんでなくなっていくような気がするんです。なんて言ったらいいのかなぁ……女性らしくなったって言えばいいんでしょうけど、ただ単にそういう感じじゃなくて、うん、何だか見透かせなくなった感じなんです。先生と話してるときはもちろんだけど、僕を見てるときの顔まで時々違って見えて。誰かに恋したら人も変わるもんなんでしょうけど、姉さんの変化の仕方はなんだか普通じゃない気がする。あれで幸せになれるのか、僕は確信を持てません……」
「カオル、もういいわ。降ろして頂戴」
腰に腕を回され、ブロックの上にあった真っ赤なハイヒールが宙に浮くとき、潮風になびいていた前髪が恋人の胸に埋もれるとき、彼女の笑い声は高く、その顔は恍惚としていた。夕日と沈黙の中で、お互いの香水の匂いが混じりあう。
「私は幸せよ」
アニエスが薫の胸に手をあてて囁いた。
「貴方に会えて、私は幸せ。ずっとずっと傍にいたい。貴方に愛されていたい。貴方となら他の誰とも行けなかった場所に行ける気がするの……」
アニエスを抱きかかえたままで、薫は彼女の後頭部へと手をのばし、バレッタを外してその豊かな髪を解き放った。長い髪が重なり合う二人の唇を覆い隠した。
「今夜、電話する」
彼女を地面へと下ろして薫は言った。アニエスは無言で頷き、腕時計を見た。もうすぐ夕食を兼ねた次のコンサートの打ち合わせが始まってしまう。今からタクシーを捕まえれば、何とか間に合うはずだ。
去っていく彼女の後姿を見送って、薫は先ほどから自分射る青い視線の元を振り返った。クリスだった。交差点の向こうに立ち尽くし、何の表情も窺えない顔をこちらに向けている。車が一台二人の間を横切って、クリスの目線を遮った。そこにある種の光があるのに、薫は気がついた。
「おいで、クリス」
薫が呼ぶと、クリスは素直に道路を渡って薫の前にやって来た。薫は褒めるように微笑んだ。
「どうしたの?学校へ帰る途中かい?」
「薫さん……」
クリスは薫の背中に腕を回し、温かく大きな体に縋るようにしがみついた。薫はクリスの見えないところで微笑みを消し去った。両手でそっとクリスの肩と頭を抱く。そこに子供を慰めるような生ぬるいものはなく。
「他の人と付き合っていても、それでも僕のことが好きかい?」
「はい」
虚ろな瞳から迷わず紡ぎ出される答え。澱みなく。
「僕は先生だ。君は生徒じゃないか」
「そんなこと何の関係があるんです?」
「でも、もしこの恋がばれてしまったら?」
「逃げるだけです。それだけでいい」
「本当に俺のことを愛している?」
「えぇ、愛してます。心から」
「……俺も君のことを愛している」
嫉妬も不倫も世間体も、全てを超越したところに初めての愛を覚えて。少年は毒の中に自ら足を浸し、おぼれていく。愛する人に手を引かれて進む悪徳の道。足元は揺れる波間。その景色は、果たして傍観者の目を楽しませるに足りるだろうか。傍観者の冷たい灰色の瞳を。