第二十八話 波間の足元・前編
「……あの人がいますね」
「どこに?」
「ここに」
窓の外には寝静まった町がある。少年がここと言って指した場所は、男性の唇だった。男性は唇の真下に少年の細い指を残したまま笑った。
「違いますか?」
「さあ。どうしてそう思ったの?」
「だって、知ってるんですもの、あの人の味を」
「なぜ?」
「一度だけ唇を奪ったことがあるんです。あの人は知りません。何も知らないで、僕に手なんか預けて、ぐっすり眠ってましたから。でもほんの一瞬だけ――だって触った場所から憎らしくなってきて。それでも僕は勝ったんです」
少年はベッドの上の男性の膝を降り、窓辺へと歩んでブラインドを閉ざした。煌々と照る月の光も絶たれ、ランプだけがベネチアンガラスの美しい色彩を枕元に投げかけている。今そこに見える色は、微笑みを携え、壁に身を預けてくつろぐ男性の目の青のみであったが、ふと少年の髪のワインレッドが迷い込んだ。そして、少年の目の星のような灰色も。青と灰色が蝋燭の火のように立ち消えて、二つの影が重なったとき、煙が立つように艶かしい呼吸が漏れた。
「貴方は僕だけのものなのに」
少年の声が言った。男性のシャツの裾を掴む拳は物陰の中にあった。
「どうしてあの人は奪おうとするんです?どうして貴方はそれから逃れようとしないんです?僕だけが貴方の子どもなのに……ねぇ……!」
「何も考えなくていい」
男性は答えの代わりに小さな頭を胸の上に押し当てて呟いた。少年の涙がじんわりと胸元に染みていくのを、彼は感じていた。ランプの光の中にある男性の顔に表情はなかった。見上げた少年の潤んだ目がそこに何らかの変化の兆しを見た直後、灯りは掻き消された。
「何も考えなくていい。お前はここにいるだけで十分だ、ノア」
身を預けきった少年が最後に見たものは、畳まれたメガネの反射光だったかもしれない。
***
静かな朝の教室では、クリスの思考を遮るものは何もない。菜月、来夏、落合はほとんど呼吸を増すことなく、平らかな寝息を続けている。窓の外に庭園の美しい緑を臨みながら、クリスは半開きになった唇に昨夜の感触を思い起こそうとしていた。しかし、今はもう遠い。寝る前のお祭り騒ぎが全てを吹き飛ばしていってしまったようだ。果たしてあれは夢だったのだろうか?二人並んで歩いた道も、薫の告白も、涙も、抱擁も、何もかもが甘く優しすぎて、全てが嘘のように感じられた。愚かな夢が自分を惑わせようとしているのか。それでも、囁くように呼んだあの名だけは、どうにか舌が覚えていてくれた。
「薫さん……」
そこに愛情さえなく、ただ浮んだ名前を呟いてみた時、唇に触れた温かいものが次第に蘇ってきた。掌に押し付けられた愛情に確信が持てなくて、自分から爪先を伸ばして確かめた。心から愛しい人と交わす初めてのキスだった――クリスは深く溜息をつきながら、机の上に上半身を崩した。頬が柔な熱を帯びるのを感じていた。
薫の本音を知って、その弱さを知って。眩いばかりの輝きがその内部にくっきりと影を落としているのを見た。自身をつまらない人間だと言って貶し、自嘲気味に笑う薫は悲しすぎた。そして、そんな薫の姿を認めたとき、クリスは千住薫と人を愛する新しい境地に至った。それまでの自分は、ただ薫の光に憧れていただけで、今まで必死に思いつめていたのも胸をときめかせていたのも全て戯れに過ぎなかったのだ。今になってクリスが望むのは、薫の支えになることだけだった。例え誰に――薫本人にさえ――そうと分かってもらえなくとも、薫の心に一番近く寄り添っていたかった。
学校の先生を好きになるなんて間違っていると分かっていたのに。もう修正のきかないところまできてしまって、自分は一体どうなるのだろう。薫にさえ会えば、その答えが見つかる気がしたのだけど……
「あっ、有瀬!」
教室に入ってきたワインレッドの頭を見るなり、クリスはさっと立ち上がった。昨夜共に盛り上がった仲間たちは、歓迎の意思があったにせよ、クリスほど正直には表せないでいた――なにせ、全員6時間分の睡眠を取り戻そうとしていたので――しかし、ノアはまるで気にしていないように、クリスに向かってにっこりと手を振った。
「おはようございます、クリス様」
「おはよう。どう?クリスマスイブは楽しかった?」
「えぇ。久しぶりに家族水いらずといった感じで。クリス様はどうなんです?」
「大騒ぎしたよ。結果がこの有様だもの……」
なぎ倒された稲のように机に突っ伏して眠る友人たちを見て、クリスとノアはくすくすと笑った。この五人は本日が終業式でなければ来なかったと思われる組である。まったく昨夜ときたら、飲んだり食べたりしゃべったりと大騒ぎだった。クラッカーの紙ふぶきが一晩中天井に絶えなかったし、床は菓子の包み紙であっという間に見えなくなるし、窓ガラスは少しでも曇る度に皆の落書きできれいに拭われた。明音は踊り、真央は珍しく調子外れな歌を歌った。打ち上げではしゃいだ後によくもあれほどの元気が残っていたものだ。クリスは来客五名とは全く別の理由で相当に遅く寝たのだが、不思議にも目は冴えきっており、時々頭を鈍痛が襲うほかは何の障害もないのだった。クリスは妙な興奮状態に陥っていた。心だけがやたらと浮ついて、理性が追いつくより前に喋ったり動いたりしている。今まで何も仕出かしていないのが不思議なくらいだ。いや、実はもう何か仕出かしていて、自分が気付かないで入るだけか。
ノアは机へと歩み寄り、鞄をひろげて教科書の整理を始めた。その様子をぴょんぴょん飛びあがりたい衝動と戦いながら見ていたクリスは、ふと朝日の中にあるノアの顔が得体の知れないきらめきに満ちているのを見た。クリスは既に床から離れかけていた踵を床につけ、じっとノアを凝視した。一体この感覚はなんなのだろう。ノアがまるで別の世界の生き物をように感じる。例えるならば、額縁の中の人物のように――自分とは無関係で、それでいて非情に興味深く、美しい存在のように――ノアはすぐに気づいて顔を上げた。小さな頭が傾く。
「どうしました?」
「……いや。なんでもないんだ……」
クリスは口ごもりつつ、それでも尚ノアから視線を離せずにいた。ノアはまるで何事もなかったかのように整頓を続ける。額縁の中の人物は鑑賞者の目など気にしない。二人が住まう世界は違う。
終業式が始まっても、来夏たちはこくりこくりするのをやめなかったが、昨夜遅くまで起きていた者はそう珍しくなかったと見えて、校長の演説中、半分以上の者が床を向いていた。しかし、生徒会役員も校長も既にそんな状況に慣れ切っているのか、校長はにこにこと機嫌よさそうに口を動かし、生徒会役員たちは相変わらず取り澄ました様子であった。クリスはノアが隣から囁き声で話しかけてくるのに応対しつつ、そっと壁の辺りに目を遣って、薫の姿を探していた――どこにもいない。あのすらりとした長身と、目立つ髪の色はどこにも見えない。きっと休みなのだろう。薫のような人が、クリスマスに限って時間があるということはあり得ない。そこでいう時間には仕事をする時間はもちろん、自分と会う時間まで含まれていた。クリスはノアに向けた微笑みを影の中に落とした。胸の中で息づいていた興奮が萎んでいくのを感じた。薫は今頃誰とどこにいるのだろう。急に昨夜の出来事が信じられなくなった。
***
「で、お二人の冬休みのご予定は?」
「いつも通り学校に残るに決まってんだろ。オレたちに帰る家なんてねぇしな」
「最もその『いつも』も今年で終わりだが」
今年最後の集まりにさえ特別な名残もなく、生徒会役員たちは淡々と執務をこなし続ける。そのペンの動きを見る限り、クリスマスイブは特に騒ぐことなく皆それぞれに静かに過ごしたらしい。それでも時折小さな欠伸を隠している者の姿もあったが、その名は言う必要もなさそうなので述べないでおく。
「それで、そういう君は?」
また一つ欠伸を押し隠しながら尋ねる。
「僕もいつも通り家に帰らせていただくよ。神社を手伝わないと、正月は混むからね」
「可愛い恋人も一緒に?」
「さあね、付いてくるとは思うけど……慎は、今年はどうするの?」
「少なくとも家に帰る気はねぇな」
慎は気のない声で答えて、サインを素早く書き加えた。一同の予定を把握した颯は「ふーん」と言って頷き、ぱたんとノートを閉ざした。次にこのノートを開くのは、きっと年が明けてからだ。それまでに一体どれだけのことが起こるだろうか。左腕を見遣ると、腕時計はそろそろ席を立つべき時刻を示していた。
「じゃあ、後のことはよろしくね。あっ、そうだ、慎、この間言ってた議事録は全部緑色のファイルの中に入ってるから」
「ああ」
ここでも慎は適当な返事をする。もしかしたら、優秀な秘書を一時的にとはいえ失うことに不満を覚えているのかもしれない。しかし、颯はそんなことをつゆほども知らず、手際よく荷物をまとめていく。陽と茘枝は顔を見合わせて少し笑った。
「では、よいお年を。三人とも喧嘩しないようにね」
生徒会室の扉の前で、きちんと踵をそろえて注意した颯に、「好きで喧嘩している訳じゃない」との意の三重の返事があった。
「全く、返事からしてこれだもの」
颯は諦めたように呟くと、時計の針に促されてすたすたと廊下の奥へ消えていった。 颯がいなくなった後の生徒会室には、彼の予見どおり、不穏な空気が流れ込んだ。三人とも顔を上げることさえ憚っているが、それでも尚、沈黙は重苦しく肩の上を圧してくる。最も早く仕事を仕上げた者の勝ちというところだろう。三つのペンの速度はますます早くなるばかりであった。
「……そういやさ」
「何だ?」
思いついたように声をあげた陽に、慎は不機嫌に尋ね返した。
「今年はなんで家に帰らねぇんだよ?」
「悪かったな。俺だっててめぇらバカップルと一緒に仕事したい訳じゃねぇ」
「おっと、今の発言は見逃してやるぜ。それで、何でだ?」
前髪をさらりとかき上げて、それでもはらりと落ちてきた黒く長い髪越しに、茘枝も視線を投げかける。慎は咳をして唇をわずかに噛んだ。別に理由なんてない、本心からそう言ってしまえれば楽だったのだが、生憎、慎にも家を厭う理由はよくわかっていない。兄の影は既に至るところに染みこんでいて、自室の白い壁やら冷たいシーツだけがそれを思い起させるわけではない。この生徒会室にさえ、兄の幻影は見える。それはぼんやりとしているが、時々しっかりとして形をもって、慎の心を苛める――違うのだ。慎は突如思った。兄はその影を部屋ごとに落としていくのではない。兄は慎の体に黒さを刻み付けていたのだ。皮膚の上にも、唇の上にも、髪の上にも。触れた場所から凌辱の刃で。
「おい、聞いてんのか?」
「……別に理由なんてない」
「はあ?」
「何度も言わせるな!別に理由なんてねぇ!」
「やれやれ。近頃の青少年はなかなか気難しくて敵わないな」
老境のような言葉を発しながら、何も知らない茘枝は優雅に紅茶を啜っている。慎は青い目で静かにこの少年を睨んだ。大人の慰み物にされかけたところを間一髪で救われた彼。そして、抗えぬままに兄に翻弄されつづける自分。何が二人の運命を色分けしたのか。まだ知る由もなく。
***
どうして好きになってしまったんだろうとの後悔が押し寄せてくる。午前いっぱいの授業が終わり、学園で受け取る初めての成績表を鞄の奥に押し込めて帰ってきた昼過ぎのことだ。クリスはベランダの手すりにもたれ、いつも以上に穏やかな海を眺めていた。群青色に凪いだ海は、留まることなく流れ出る悩みを吸い込んでいく。
薫は今どこに誰といるのだろう?到底解明するはずもない謎を悶々と繰り返している。「こんな苦しい思いをするくらいならいっそ会わない方がよかった」とは、古典の物語に聞いたようなさび付いた愚痴だが、どうにかした拍子に口から零れ出そうになるのを、クリスは堪えているのであった。本当に、先生に恋をして罪を重ねたり、罪悪感と嫉妬と孤独とに二重にも三重にも苦しめられたりするくらいなら、クリスは三宿学園などに来ない方がよかったかもしれない。学園に来る前の生活は極めて簡単で、そこに伴う感情も単純だった。ただ叔父と叔母を愛し、絵を描くことに喜びを感じていればよかった。こんな風に誰かを本気で愛することなんてなかった。あふれ出す愛情の熱にささくれた心に灰汁のような毒々しい思いが浮かび上がるのを、知らないでもすんだ――
「クリス様」
ノアの声が後ろから呼びかける。クリスは振り返らなかった。ノアはこの恋に干渉してほしくない人物リストのトップを見事に飾っていた。
「クリス様、あの、関本君からお電話ですけど……」
「ごめん。今忙しいから後でかけなおすって言っておいて」
「そうですか。分かりましたあっ、あの、クッキーが上手く焼けたので、よかったらどうぞ」
「うん……」
「あっ、すみません。今忙しいそうなので、また後でかけなおすとのことです、はい」
「うん……」
「……クリス様?」
受話器に語る自分にまで応対するクリスに、なんら不審なものを感じたのだろう。ノアは電話を切ると、訝しげに、心配するように、灰色の視線を投げかけてきた。クリスは首の後ろ辺りにそれを感じていたが、上手く応対できるほどクリスは優しくなれなかった。自分がいかに冷たく浅ましい人間かは痛いほどわかっている。でも、今は精一杯で手がつけられそうにないのだ。
「ごめん」
クリスは前を見たまま言った。ノアの肩がびくんと跳ねて、波風を微かに震わせる。
「ごめんね、有瀬。俺は今こんなことしか言えないから」
「そんな……なんでクリス様が……」
クリスはきつく目を閉じた。これ以上ノアと一緒にいるのは限界だった。辛くてやり切れそうにない。瞼の裏が熱くなって、一瞬涙が零れるものかと期待したが、絞っても何も出ないことに気がついた。クリスは薄っすらと自嘲気味に笑った。乾ききって、虚ろな自分。何もかも全部海に、薫に吸い取られてしまって……
「クリス様……!」
「ノア!」
クリスは素早く身を返した。慣れない呼び名に、ノアが大きく目を見張った。クリスは浅く呼吸をしていた。二人の視線が潮風の中で交差する。ノアは期待したに違いない。友人が何らかの思いを吐露してくれることを。だから、不可解な親友の行動への言及を避け、唇を閉ざして静かにクリスを見つめたのに。クリスは浅薄に笑って、ただこう頼んだのである。
「有瀬、電話いいかな?かけなおさなきゃ……関本に」
2010年最初の更新となりました第28話「波間の足元」前編はいかがでしたか?
間もなく連載一周年を迎えます。本年度もどうぞご愛読ください。よろしくおねがいします。
篠原零