表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第三章 Largo
51/82

第二十七話 チョコレート同盟

「では、文化祭の成功を祝って、乾杯!」

「乾杯!」

「ジャクソン先生、ファッションショー、ほんとうにお疲れ様でした」

「ありがとうございます、野瀬せんせっ!もう、本当に一時はどうなるかと思いましたけどね。無事成功してよかったわぁ」

「私が無理やり生徒会役員引っ張ってきてあげたからでしょ!着替えさせるのも一苦労だったんだから!」

「分かってるわよ、みちる。好きなだけ飲みなさい」

「やった!ありがと、ジャクソン!」

「……少しは遠慮したらどうなの?」

「でも、鳥居先生、本当にどうやったんですか?他の生徒はともかく、榊原君に十二単着せたり、小杉君なんてチャイナドレス……」

「いや、里見先生、あれは結構簡単だったんですよ。先に酒本と川崎に着せといたから。二人も和服と漢服だったけど、男物だったから割合抵抗なかったみたいで。で、一度着ちゃうと、相方にも着せたくなる、って訳」

「まあ、心理学者のようね」

「生徒の心はそうやって動かせるくせに、男の心はどうにもならないのね……」

「うるさい、ジャクソン!いいじゃない。どうせここにいる皆、クリスマス・イブなのに女性だけでつるんでるってことだし」

「二つも三つもお忘れでしょうけど、野瀬先生と里見先生は既婚者、桜木先生には素敵な恋人がいるわよ」

「うわー、地獄だ!」

「桜木先生、いいんですか?せっかくのイブなのに橋爪先生と過ごさなくて」

「えぇ。今日だとドタバタすると思ったから、明日約束をしたのよ。本来盛り上がるべきはクリスマス当日……あなたたち、何を聞いてるの?」

「もう、そこまで言っておいて」

「桜木先生、完全にのろけてましたよ」

「そ、そういう里見先生は?」

「主人は今日から実家に帰ってるんです。なんでも伯母さんがイタリアから帰ってきたから、ご機嫌伺いとか言って。私のご機嫌伺いはしないみたいですけど。そういうことだけやたら気がまわるんだから」

「そういう年もあるわよ。私も本当は家族旅行の最中だったんだけど、旦那と子ども二人で行ってもらったわ」

「うわー!」


***

「奇遇ですよね!こんなところで会うなんて」

「そうだね」

 共に歩く足取りが弾む。12月24日の三宿市内は、どの家も店も美しいイルミネーションを纏って輝き、恋人たちや家族の楽しげなささやきに繁華街は色めいている。しかし、その微笑ましい騒音もここからは遠い。二人が歩く橋の下をくぐり行く波は、あくまでも静かで黒かった。

 クリスは水色のマフラーを巻きなおし、冷たく赤くなった耳を毛糸の帽子の中に押し込んで、隣を歩く人を見上げた。白衣を着ていない薫は、これまでも数回ほど見てきたが、今夜は一段と違って見える。濃い灰色のカシミヤのコートが、その長身を際立たせ、頭上で笑う顔をなんとなく遠ざけていた。磨かれた黒い革靴が電灯の下で時折光った。二人が出会ったのは、先ほどクリスの言ったとおり、全く奇遇なことだった。クリスはちょうど文化祭の打ち上げの帰り、薫はどこか用事に出かけた帰りだというのだ。それに、クリスが一人でいるというのも偶然だった――

「有瀬君は一緒じゃないの?」

薫が尋ねた。二人の隣を通って、数台の車が住宅街へと抜けていき、ヘッドライトが二人のコートや手袋の色を映し出した。

「えぇ。クリスマスには家に帰るんだそうです」

「仲のいいご家族なんだね」

「正直うらやましいです。俺には両親がいないし。いや、有瀬だって本当の両親はいないけど、それでも昨日有瀬と有瀬のお母さんが話してるのを見たら、やっぱりいいものだなぁって……あっ、別に僻んでる訳じゃないんですよ。俺だって、イギリスに叔父さんと叔母さんがいますから」

「君は叔父さんと叔母さんに育てられたのかい?」

「はい。俺の絵の才能を見つけてくれたのも、叔父と叔母なんです。俺の恩人です」

「じゃあ、二人は僕の恩人でもあるということだな」

「えっ?」

クリスは薫を見上げて訊き返した。薫は微笑んでいたが、具体的な答えは何も言わないままでいた。それでも、クリスの頭のてっぺんに一瞬だけ触れた手が、クリスへの細やかな愛情を示していた。胸がとくんと高く鳴る。同時に果実の皮をかんだように、切なさがいっきに溢れ出す。昨日いえなかった言葉を思い出して。いや、例え何もいえなくても、この人に寄りかかりたい。腕を取りたい……

「ということは、君は、今夜は一人なのかい?」

薫がまた訊いた。

「いいえ。今夜は友達が押しかけてくる予定なので。多分、徹夜で大騒ぎってことになると思います」

「それは楽しみだね」

クリスは肯定のつもりで笑った。しかし、今この瞬間よりも幸せな時間が今後訪れるかどうかは、甚だ疑問であった。薫の青い目がメガネの奥からじっと自分に注がれていることに気付いた時、クリスは顔を少し背けた。見つめられた部分が微かに熱を帯びているような気がした。薫の手がクリスの手を取って、手袋越しに熱を伝えた。


***

「あっ、来夏先輩、そこにリースお願いします」

「しかし、いいのか?勝手に石崎の家なんて入り込むなんて、家宅侵入罪にならないのか?」

「硬いこというなよ、ライ。そもそも、ここは家じゃなくて寮だぜ」

「あっ、落合先輩が良いこと言ったっす!」

「まあな」

「ねぇ、落合、ポテトの量が明らかに足りないんだけど」

「どうみてもそれで十分だろうが。足りないなら自分で買って来いよ、酒本」

「やだ」

「俺に買いにいかせるつもりか!」

「でも、来夏先輩と真央は本当によかったんっすか?」

「何が?」

「だって、イブと言ったら恋人と二人っきりで過ごしたいとか思うでしょ?」

「いや……まあ、まだ付き合い始めたばかりだしな。これといって実感もわかねぇし」

「大体いつも一緒にいますもんね、先輩」

「あ、あぁ……」

「おい、ライ、秋元、甘ったるい会話してる暇があったら、手を動かせ」

「……落合がひがんでる」

「黙れ、酒本!」

「でも、落合もいるよね」

「はっ?」

「恋人。B組の大河内孝則君」

「別に、まだ付き合ってる訳じゃねぇよ」

「まだってことはこれから付き合う予定があるってことだよね?」

「……うるせぇ!」


***

「先生は、今日は何の用事があったんですか?」

「あぁ、シスターを訪ねていたんだ」

「シスター?」

「学生時代にお世話になった方だ。とても優しい方なんだけど、何年か前に病気をして、この町の病院に入院していてね。そのお見舞いに行ってたんだよ。でも、参ったことに、本人は少しも病人らしくしてくれないんだ。健康なこっちの方が色々振り回されて、今ようやく帰りってところさ」

「……すごいですね」

薫は肩をすくめてみせた。

「まあ、彼女はまだ若いからね。もちろん、僕よりもずっと年上の方だけれども……それでも死ぬにはまだ早い」

 クリスは黙りこみ、しばらく静かなままに道を歩き続けた。薫の悲しみを垣間見てしまったことが、異様なほどクリスの胸をざわつかせていた。死にいく人の姿を目前にして何もできずにいるもどかしさを、クリスは知っている。両親を亡くしたばかりのクリスを慰めようと、娘を亡くした苦しみを必死に堪え、面白くおかしい話をたくさんしてくれた祖父。いつもおどけてみせてくれた祖父。そんな祖父がベッドに伏し、言葉も発せず、曇った水色の目を億劫そうに動かすだけで送った最期の三ヶ月を、クリスは傍らでずっと見ていたのだ。幼心にも何もできないということは、とても辛かった。

「悲しいですよね」

クリスは言った。

「大切な人ほど早く逝ってしまうんです。俺の父も母もそうでしたし、祖父もそうでした。祖父もまだ若かったんです。癌で亡くなりましたけど。それで、俺、昔はよく考えてました。なんで俺は両親と一緒にデパートに行かなかったんだろうって――俺の両親はデパートの火災で死んだから」

「……なぜ君は死ななかったのか」

薫の呟きに、クリスはこくんと頷いた。

「えぇ。でも結局はよく分からなくて。叔父は『何かが死なせなかったんだろう』としか言ってくれませんでした。俺も多分そうだと思います。それとも、結局ただの偶然なのかな……」

「偶然じゃないさ」

薫のいつになく強い言葉の調子に、クリスは顔を上げた。薫はまっすぐ前を見つめていた。語る言葉は、世の中の人全てに語っているようにも、自分一人に語っているようにも見えた。

「偶然なんかじゃない。君の叔父さんの言うとおりだ。何か大きな力が運命を支配していて、人々を生かしたり殺したりしている。罪もない清らかでか弱い人々が押しつぶされる……そして、なぜか、俺のようなつまらない人間だけが生きている」

車がまた横を通り過ぎていく。


***

「ジャクソンちゃん、楽しんでる?」

「まっ、かおるちゃん!久しぶり!」

「あら、お店の方とお知り合いなの?」

「そうなんですよ、桜木先生!紹介しますねっ。あたしの中学時代の同級生で、このお店の店長の郁ちゃんです!」

「まあ、そうでしたの」

「初めまして。三宿学園の先生方にはいつもご贔屓いただいてますわ」

「えっ?」

「よくいらっしゃいますのよ、男性の方々が。よくお越しになるのは、校長先生と副校長先生ですけれど、里見先生という講師の方もお一人でいらっしゃいますね」

「なるほど。夜帰りが遅い時はここで一杯飲んでたって訳ね……」

「里見先生、落ち着いて!」

「あっ、そうだ。今日ね、主人の実家から蟹を届けてもらったのよ。今茹でてお出しするわ。私からのクリスマスプレゼント」

「まあ、いいんですか?」

「えぇ。ちょっと待っててくださいね。今、準備をしてきますから」

「綺麗な方ね、郁さん」

「えぇ、だから主人も来るんでしょうね」

「里見先生……」

「かおる……」

「鳥居先生、どうしたの?」

「野瀬せんせっ、察してやってくださいな。ほら、かおると言えばもう一人いるでしょ?」

「あぁ、ちず……!」

「それ以上はストップ!」

「鳥居先生、千住先生と何かあったんですか?」

「失恋したんですよ、里見せんせっ」

「失恋?」

「そっ、失恋。Broken heart」

「だって、だって、しょうがないじゃない!あんな美人な女性に私が太刀打ちできる訳ないじゃないのよ!」

「まあ、美人な女性ってどなた?」

「アニエス・ゾラですよ、桜木せんせっ。あのピアニストの。昨夜腕を組んで帰るところ、あたしとみちるでばっちり目撃しちゃったんです」

「まあ……」

「しかし、いいのかしらね。ゾラさんって秋元君の従姉だったと思うけど」

「私、し―らないっと!」


***

「先生はつまらない人間なんかじゃありません」

 ほぼ反射的にクリスは言った。それは、本心から出た意見であったし、決して安っぽい慰めの言葉ではなかった。だが、落とされた青い視線の突き放すような冷たさには、はっとして口を閉ざす。何だか妙に軽々しいことを口にしてしまったような気がして、羞恥と戦慄とが繋いだ手を同時に走った。

「どうしてそんなことが言い切れる?」

薫の声に温度はない。

「どうして、俺がつまらない人間でないなんて言い切れるの?」

「それは……」

「俺のことを周りがどう評価しているかなんて知ってるよ。でも、全部買いかぶりだ。俺は皆の思うような存在じゃない」

立ち止まった二人の右手には、一日の仕事を終えた船が、母に抱かれる子どものように、波に揺らされて眠っていた。ここは車の通りもない。限りなく静かな場所だ。町が明るく輝くのは、風が吹く時だけだった。薫はそっとクリスの手を離し、海辺に臨む石垣に肘を突いた。遥か彼方まで続く海原の穏やかな起伏に、歪んだ月明かりだけがぼんやりと反射している。クリスもその隣へと歩み寄ろうとしたが、足は二、三歩進んで止まってしまった。

「俺はつまらない人間だ。全く」

クリスは唇を噛んだ。それは、何もできないもどかしさによる行為であったが、死んでいく人に対しての感情ではなく、生きて、目の前に立っている人への感情であった。灯台の光が一瞬だけ遠くに閃いた。永遠の静寂の中で風向きが変わり、潮の香が鼻を刺す。

「……すまないね。こんなことを君に言うなんてばかげてる。でも、どうしても言いたかった。謝ってみたかった。誰でもよかった訳じゃない。こんな風に思うのは君だけだ」

「先生……」

薫は体を少し傾け、こちらに向けて悲しげに微笑んだ。クリスがその隣へと歩み寄ると、薫はクリスの肩に手を回し、ほんの少しだけ引き寄せた。まだお互いが触れ合うには遠すぎる距離を残して。後の距離は自分から進んでいかなければ埋められないことを、クリスは知っていた。だから、顔を少し傾けて薫に寄り添おうとした。その無言の行為によって、心から尊敬し、愛する人の自嘲的な告白を打ち消せればいいと思った。しかし、薫はその行為を拒んだ。恐らく何も知らない内に。

「今夜はもう遅い。行こうか」

クリスの頭をくしゃくしゃと撫で、引き寄せた肩を叩いて、行こうとする薫の顔には何の迷いも見えなかった。


***

「ジャクソン先生、ご馳走様でした」

「いいのよ、里見せんせっ。たまにはあたしだってパーッとやりたかったし」

「鳥居先生、元気でました?」

「あっ、桜木せんせい、そらもちろん!男のことなんて気にしませんよ!あらしには優しいともらちがいますしね!えへへへ……!」

「完全に酔ってるわね……」

「失恋するといつものこうなんです。まっ、とりあえず部屋に放り込めば静かになりますから」

「でも、寮まで結構距離あるわよ。タクシーでも呼んだ方がいいんじゃない?」「ありがとう、野瀬せんせっ。いえ、みちるは車酔いがひどいからやめといた方がいいでしょうね。なんとか歩いて帰ります」

「うわぁ、大変。頑張ってくださいね」

「里見せんせっこそ、あまり旦那さんに厳しくしちゃ駄目よ」

「あはは……分かってますって」

「笑顔が怖いわよ」

「では、皆さん、お休みなさい」

「お休みなさい。ジャクソン先生、本当にありがとうございました」

「いいのよぉ、全く」

「慰めてあげてね、鳥居先生のこと」

「えぇ?もう帰るの、ジャクソン?まだ飲み足りないわよぉ。ねっ、駅前のお店寄っていこう?」

「はいはい、まっすぐ歩く」

「ねぇ、ジャクソン、副校長って独身だったよね?」

「いくつ歳が離れてると思ってるの、あんたは?そんな弱気にならないでも、あんたはまだ若いし綺麗なんだから、素敵な男の人が現れるわよ。あたしが保証するんだから安心しなさい」

「あっ、あの空き缶、ポンペイウスに似てるー」

「……」

「あの電球もジャクソンそっく……」

「ああ、もう、黙りなさい!」


***

 唇に触れるものがあった。温かく、愛おしいものであった。そんなことしか、クリスには分からなかった。

 薫が「行こう」と言って道を歩み出したとき、クリスはまだその場に立ち尽くしていた。中途半端なままに捨て置かれた問題を、そのままにしていきたくなかった。なんとしても伝えたいことがあった。昨日まで、否、ほんの少し前までは、自分のために伝えたかったことだ。今はその人のために伝えたい。クリスが付いてこないことに気がつき、薫は不思議そうに後ろを顧みた。クリスは俯けていた顔を上げた。なぜかは分からなかったが、涙が一つ零れた。

「クリス君?」

薫は歩み寄り、クリスの頬に触れてそっと呼びかけた。クリスはゆっくりと首を横に振った。涙は目じりに次々と溢れてきては、薄暗い視界を歪ませ、頬を濡らしていく。マフラーの繊維が塩気と水気を吸って膨らんでいく。クリスは何か言おうとして口を開いたが、凍てついた潮風が舌から言葉を奪い去ってしまった。またいつもと同じなのか。薫への想いはこんなにも鮮やかに変わったのに。悔し涙が夜の暗闇を曇らせたその時に、クリスはそれを感じた。

 クリスは目を瞬いて、睫毛で邪魔者を除けた。奇跡的な一瞬は既に終わっていた。ただ、ほんの名残として、顔からそう大して離れないところで、薫が笑いかけていた。背伸びさえすれば、届く距離。

「どうしたの、クリス?」

「……薫さん」

今度こそ想いが受け入れられる時と信じて。クリスはすっと爪先を伸ばした。

 同じ感触だった。甘く、切なく、狂おしいほど熱く、そしてほのかに塩辛くて。もしかしたら、それは少し、溶けたチョコレートの味に似ていたかもしれない。しかし、クリスの胸にあるものは、そんな比喩的で曖昧なものではなかった。薫への強い愛情だけが、たった一人で心を占めていた。

「薫さ、ん…………」




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ