第二十六話 Festival rit.・後編
ピアノの壮麗な和音で曲は始まった。人々の閉ざされた呼吸が、小さな会場内の空気を極限まで張り詰めさせている。しかし、真央はまるで別の世界の人のように目を閉ざし、緊張感とは無縁のところをさまよっていた。来夏は何の感情もなく見つめていた。真央の声を聞けばその瞬間に、自分の答えは分かる。心の底から確信していた。
空気が震えた。来夏の目には、振動する一筋の金の糸が見えた。日の出の輝きが地平線から煌き出でるように、真央の歌声は明るく澄み渡り、喜びに満ちていた。隣の老婦人が感極まって息を吐くのが聞こえた。来夏は表情を変えなかった。ただ、真央が今大きな緑色の目を開き、楽しげに歌っているのと代わって、今度は目を静かに閉ざしていた。来夏は初めて朝というものを知った人のような心地がした。
「信じられません……」
四階まで駆け上った直後、ノアが言った。教室の前には見渡せぬほど遠くまで人が並び、わいわいと校舎で一番の賑やかさを見せている。落合が参ったようにそれでも迅速に人を捌き、ノアの指導を受けた生徒たちは、これ以上ない速度でケーキを切り分け、皿に盛っていた。椅子の上には長らく待ってようやく椅子にありつけた、楽しげな客の姿が見える。ここまで繁盛しているとはクリスもノアも思わなかったが、クリスはあえてその驚きを隠した。喜びに頬を染めているノアの肩を叩き、クリスは当然だという顔で微笑みかけた。そして、言うべき台詞を言った。
「当たり前だよ、君の店だもん」
「でも、まさか、こんなに……」
「おい、エーリアル!」
二人の姿を見つけた落合が、倒れこむように教室から飛び出してきた。冬だというのに人ごみの熱気のせいで汗をかき、エプロンがすでによれよれになっていた。
「有瀬も見つかったたみたいだし、ちょうどよかった。もう三時間も店番やってんだぜ?代わってもらえるよな?あっ、待った。あの先頭の女の子たちまで俺が案内してもいいんだが……」
クリスは落合からエプロンとメニューをひったくると、素早くウェイターとしての身なりを整え始めた。ノアも既に厨房に駆けつけており、四苦八苦していた他の生徒たちに大歓迎されているところであった。クリスとノアは一瞬だけ視線を交わした。どちらの目も熱意に輝いていた。
何やら抗議のようなものを始めた落合に、クリスはにっこりと笑顔を向けた。その意は「後は俺たちに任せておいて」であった。もう問題を一人で抱え込んだりしないと誓い合い、手を伸ばしあった自分たちに、超えられない障害などないと思われた。例え、遊園地のアトラクション並みの行列が、目の前に横たわっていたとしても。
***
ちょうど昼食時を過ぎて、特別に一般客にも開放されていたカフェテリアはがらんと空いていた。窓際の、ちょうど日がよく差し込み、風にざわめく木々の緑がよく見える席を、理事長は陣取って座っていた。店番をしているPTAの女性の役員が、先ほどから何かと気を遣ってくれている。息子さんが作ったケーキだからと、2年A組からわざわざケーキをもらってきてくれた。ノアの苺のショートケーキは、自分よりもむしろ妻の方の好物だが、今日は生憎来られなかった彼女の代わりに、理事長が頂くことにした。しかし、一口食べて、妻への後ろめたさとか申し訳なさといったものから、いっきに解放されたことを悟った。
「息子さんのケーキですか?」
「いや、違うね」
後ろから流された雲のように現れて尋ねた校長に、理事長は振り返りもせずに答えた。
「ノアの味じゃないよ。僕はどうも運が悪いみたいだね。まあ、これだって十分美味しいけど」
「息子さんは調理の指導もされたようですからね」
「ふーん、ノアがねぇ……」
目の前に腰掛けた校長に理事長はケーキの残り四分の三ほどを差し出して呟いた。何の感慨もない呟きだ。例の気の利いた婦人がぱたぱたとかけてきて挨拶をしたが、校長は愛想よく頷いて、コーヒーを一つ注文した。
「楽しんでますか?」
理事長に向き直ってから校長は聞いた。
「文化祭のこと?もちろん。とっても楽しんでますよ」
「そうですか。貴方の顔がどこか浮かないように見えるのは僕の錯覚でしょうか?」
「うるさいな。元々こういう造形なんだよ」
「おや、これは失礼しました」
「で、僕の顔の造形について文句を言いに来た訳じゃないでしょ?」
「珍しいところで見かけたものですからね。僕もようやく川内副校長から解放されたところなんです」
「どうせ、またさぼってたんでしょ?」
校長の都合のよいことに、コーヒーが運ばれてきて、話は一時中断した。コーヒーは非常に上手く淹れてあり、原因不明のまま台なしにしてしまったコーヒー豆の全盛期が切なくも偲ばれた。心地よい余韻に浸りながら、校長は少し溜息をつき、それから思いついたように言った。
「ところで、ノア君はどうしましたか?」
「話を逸らすつもりだね」
理事長は、再び手をつけたショートケーキの甘さに反して苦々しげに顔をしかめてみせた。ちょうど二人の他にいた三人連れが席を立ち、静か過ぎる店内に曲がかかりはじめた。ヴィヴァルディの「四季」冬の第二楽章。
「ノアのことは石崎・おせっかい・なんちゃら君に任せましたよ。彼がすすんでやってくれるっていうもので。ノアにとってもそれが一番いいだろうし」
「彼のことは信用していないんじゃなかったんですか?」
「そりゃもちろん。でも、父親っていうのは子どものために、苦しくてもベストな道を選ばなきゃいけないものなんですよ。君には分からないだろうけど」
「そうですね。残念ながら」
同じメロディが先ほどから繰り返されている。店番の婦人が首を傾げながらCDプレイヤーをのぞきこんでいる。ある一定のところまできて、音楽はそれ以上進むのをためらっているようだ。このなごやかな時間が終わるのを恐れているのだろうか。冷たい冬の中の束の間の安息、暗闇を照らす小さな蝋燭の火、それらが掻き消えてしまうその時を。
「どうすれば」
理事長はクリームをフォークですくいあげ、校長のコーヒーの上に垂らした。今度は校長が笑みを閉ざす番であった。これでこの人は気を利かせたつもりなのだろうか。
「どうすれば人は子どもの頃を忘れないでいられないんだろうね。文化祭を見て思ったよ。人はいつから大人になるんだろうねぇ。生徒たちはなんだかんだいってもまだまだ子どもです。無邪気で明るい。何もかもが楽しくてたまらなさそうで、嫉妬さえ覚えそうになりますよ。子どもたちの明るい笑顔を見ていると、僕たちは何だか腐りきってしまった気がするね」
「大人と子どもは対にあるものではありません」
校長はコーヒーカップにかけていた指を取り払いながらきっぱりと言った。
「子どもは自然に大人になる。光があれば影ができるのと同じです。しかし、その影とて見つめてみれば美しいものではありませんか。僕たち教師が道を教えてやりさえすれば、生徒たちは影の見つめ方、影と共に生きていく方法を身につけ、自分を卑しめることなく人間として正しい道を選ぶことができます。僕はそれを教えるために教職を選んだんです。最も……」
思慮深そうに聞いていた理事長が訝しげに顔を上げた。ウィンナーコーヒーの仕返しにと、校長は口走った。もうすでに椅子から腰が浮いていた。逃げ出す準備は万端だ。
「貴方に関していえば、腐ったという表現もあながち間違ってないんじゃないんですか?」
***
午後四時に三宿学園の文化祭の全ての演目は終わった。門へとなだれ込んでいく人々を見ながら、生徒たちは皆クラッカーを鳴らしたり、誰彼かまわず抱きついてみたり、かと思えば何とかして教室を片付けるべく駆けずり回ったりした。こうしたイベントが終わると、無気力に襲われる者も多々あるが、残念ながら脱力するにはまだ早かった。七時になれば、一度は退散した一般客が今度は美しく着飾って現れ、華やかなダンスパーティが始まる。誰もがその時を忙しない中で楽しみに待っていた。
アニエスに渡された手鏡を、真央は教室の隅っこでそっとのぞきこんだ。目の腫れはもうほとんど分からなくなっている。静かでささやかな嬉しさがこみ上げてきて、しっとりと胸を濡らした。それは、今まで真央が共にしてきたどの感情とも違う、少しほろ苦い心地であった。
来夏の答えはダンスパーティの時に聞こうと真央は決心していた。人ごみの中ならば、例え拒まれたとしても互いの顔が見えないところへ紛れ込むことができる。そして、闇夜が夏の日のように輝かしい日々を覆い、愛しい記憶との決別を促す。それはきっと、心の平穏なうちに。
真央は潰しかけていたダンボール箱を片手に持ったまま、開け放った教室の窓から顔を出した。冬の風が火照った頬に触れた。見上げる夕暮れの空に星をのぞむ時、自分はどんな思いでいるのだろう。
「間もなく七時になります。生徒たちは各自体育館に集まること。尚、校長先生、至急川内のところまでお越しください」
スピーカーから流れた副校長の声を機に生徒たちは昇降口へと流れ出し、冷気と興奮に震えながら、体育館へ進む足を急かし始めた。クリス、ノア、菜月、来夏、落合の五人も点在する黒い塊の一つとなって、緩やかに傾斜した丘の道を歩んでいた。菜月と落合は相変わらずふざけているが、来夏は押し黙りがちであり、誰かが話題を振っても応じないことが多々あった。その一方で、ノアは初めてのダンスパーティでよほど上がっているのか、いつもより多く話し、同じ話を二回も三回も繰り返した。
「どうだったの?秋元君の発表」
クリスが尋ねても、来夏は頷いたきりで何も言わなかった。誰に対しても、本人に宣言するまでは答えは明かさないつもりらしい。
「おい、エーリアル、明日の打ち上げ、四時からの予約でいいか?」
「あっ、うん、任せるよ」
クリスは一人「そっか」と呟いて溜息をついたが、それでも来夏は何も言わなかった。
体育館の窓はどこも全開にされていたが、室内の熱気のこもり具合ときたらそれでも十分なぐらいで、誰もが頬に化粧を施したように見えた。生徒たちはいつもの黒いブレザー姿だが、生徒会役員たちだけは特権なのか義務なのか、それぞれ正装して、熱気とは無縁のギャラリーから群集を興味なさげに見下ろしていた。ノアを腕に引っ付けて体育館にやってきたクリスは、一瞬慎と青い目をぶつけあったが、慎は不敵な笑みを浮かべてくるりと背を返し、クリスの目の届かないところへ行ってしまった。再度出没した時、慎は腰にまとわりつく明音をしつこそうに追い払っていた。クリスは少し笑った。 七時を知らせる鐘が鳴ると、校長と来賓の方々の挨拶があり、ざわめきにしみこむようにワルツが流れ始めた。クリスはノアの腰をとった。ノアははにかむような上目遣いで、黒目勝ちな灰色の目でクリスをじっと見上げ、クリスは応えるように微笑んでみせた。二人の動きは完璧からはほど遠かったが、形だけはなんとか出来あがっているようで、クリスはほっとした。次第に館内の前方に押し出された二人には、自然、先生方が手を取り合って踊る姿がよく見えるようになった。桜木先生と橋爪先生がぎこちない動きでステップを踏んでいる。校長は誰か知らない女性の手を取っていた。白髪交じりの髪を優美に結い、サーモンピンクのドレスを纏った中年の婦人だ。ジャクソン先生は副校長と踊っているが、意外にも二人は息がぴったりで見事な足さばきを見せ付けていた。我らが野瀬先生は森先生と、鳥居先生は先ほど市議会議員として紹介された男性と、里見先生は花木先生と、それぞれペアを作っている。ターンをしたついでに、クリスは生徒たちの群れに目を凝らした。生徒会役員たちは市や学校の関係者の相手に回っていたが、落合は大河内をしっかりとリードしており、菜月も剣道部の仲間と(何度も颯の方を仰ぎながらだが)踊っていた。
一曲目が終わると、茘枝と陽、颯と菜月の当たり前のペアが、磁石で引き付けられたように出来上がった。壁際でひとまず息をつくクリスとノアの元には、校長と踊っていた優雅な女性がやってきた。女性は挨拶するより早くノアを抱きしめ、ノアも細い腕で女性を抱き返した。
「養母です」
女性から離れたノアがそう言ったので、クリスは驚いた。そういえば、養父である理事長とはしっかり対面を果たしていたけれど、母の話は聞いたことさえなかった。並んだ二つの顔が似ていなかったが、どちらの顔も久々の再開の喜びにきらきらと輝いていた。
「初めまして。有瀬美和子と申します。石崎君ですわよね?主人から話は伺っております。ノアがいつもお世話になって」
「いえ、俺の方こそ、迷惑かけっぱなしで……」
今日の事件が脳を横切って、クリスはその言葉に一層力を込めて言った。ノアの母親は柔らかな笑い声をたてた。
「まあ、そんな言葉、とても信じられませんわ。ノアに友達が出来たって聞いた時、どんなに驚いたことか。貴方のことは天才少年画家として存じておりましたけど、優しい方だとは知りませんでした。今日の個展も本当に素晴らしくって」
「ありがとうございます」
クリスは丁重に頭を下げた。それから、有瀬夫人が息子と話し始めたので、クリスは気付かれないようにその場を立ち去り、少しでも涼しい空気に当たろうと入り口付近に足を運んだ。もう既に姿を見つけた友人や知り合いの他に、もう一人だけ捜している人物がいた――千住先生はどこだろう。クリスは手を取られた記憶をふと思い出し、一人左手をぎゅっと握った。奇跡をもう一度望むのは愚かなことであろうか?チェロが奏でる重厚な三拍子が、軽やかなメロディを越えてやたらと耳についた。色彩の多様さに目も疲れてきたその時、クリスは薫の姿以外にもう一つ注目すべきものを見つけた。来夏と真央だ。ちょうど踊り終わった真央に来夏が何やら話しかけている。クリスは二人の表情をじっと見つめていたが、著しい変化をそこに認めることはできなかった。クリスは二人が踊り出すものと思ったが、真央はこくりと頷いた後、来夏に続いて体育館を出た。二人がどうなるかは、クリスにも分からなかった。躊躇が足をとどめようとしているが、これは彼らを追ってもよいのだろうか?
「クリス君?」
クリスの罪悪感にとってはちょうどいいタイミングで、進もうとする背後に話しかけるものがあった。クリスは鼓動が一つ高鳴るのを、耳とは別の場所ではっきりと聞いた。クリスは振り返った。その間も思考は絶えなかった。ネクタイが曲がっていないか、シャツが出ていないか。しかし、照らし出されたような薫の立ち姿を見た瞬間、そういったくだらない懸念はいっきに吹き飛んでいってしまった。真央と来夏のことすら、頭の片隅にほんの少し引っかかった程度であった。
「千住先生……!あっ、こんばんは……!」
「こんばんは。パーティは楽しんでるかい?」
「えっ、あっ、はい」
薫はクリスの隣に並んだ。クリスは心臓が正しいリズムを刻めているか不安になった。顔や胸が燃えているようだ。ここはこんなに風通しが良いというのに……
「君の個展はすばらしかったね」
「……本当にそう思います?」
「もちろんさ。どうして?」
「いいえ。だって、お世辞だったら嫌ですし。悪いところは指摘してもらわないと……」
どうしてだろう?有瀬夫人も用いた「素晴らしい」という言葉が、いつのまにかこんなにも重要な意味を持っている。たった数分の間、取るに足らない時間で。頭に置かれた大きな手が、クリスの不安を削いだ。目だけでじっと頭上を窺えば、薫の笑顔はこの上なく優しかった。
「悪いところなんてまるでないさ。君の絵は本当に素晴らしかった。これ以上の言葉は見つからないよ。僕の我侭を聞いてくれて本当にありがとう。とても素晴らしい贈り物だった。二日分早いクリスマスプレゼントというべきかな?君のような生徒と出会えて、僕は幸せだ」
クリスの両目が揺れた。抱きしめた左手が疼くのを感じる。喉元まで声が出掛かっている。苦しいほど溢れ出る思いを、どうやって言葉にすれば――
「千住先生、俺……」
その時、クリスは雷鳴が轟いたかと思った。胃袋に直接響くすさまじい音量で、オーケストラがわめき始め、館内にいた全ての人が慌てて耳をふさいだ。誰かが音量調節を間違えたらしい。曲は急いで止められたが、人々が立ち直るのにはしばらく時間がかかり、クリスが言いかけていた言葉を忘れるためにも、時間は十二分に足りていた。
***
体育館の外の世界は恐ろしいほど静かだった。大地と夜が紡ぎ出した沈黙を安っぽい言葉で破るような真似など、真央にはとてもできなかった。恐らくそれは先を行く来夏も同じだったのだろう。二人は何も話さず進んだ。目的地は分からなかったし、感覚もほとんど失っていた。指先を擦り合わせる動作さえ、かじかんでいくのを感じない体にとっては、本能的な動作であった。
最初の一曲はアニエスと踊り、アニエスが薫に奪われてしまってからの一曲は、近くにいた貧相な体つきのオウムのような老女と踊った。それから来夏がやって来た。来夏は極めて無頓着を装っていたが、その頬の白んだ部分に緊張が露わになっていた。却って真央の方が落ち着いていたくらいだ。
「秋元」
真央がまっすぐ自分を見つめていたにも関わらず、来夏は呼びかけた。「はい」と、真央も聞き返した。
「少し話がある……大事な話だ。外に出ないか?」
真央は迷わず頷いた。来夏はまだ緊張を宿したまま、それから十分近く保つことになる無言を携え、まるで一人で散歩にでも行くように体育館を後にした。真央もそれを追った。そして、今、こうして冬空の真下を歩いている。各々に、懐かしい記憶を手繰り寄せながら。
僕は先輩が好きだ――真央は暗い足元を見つめながら密かに呟いた。でも、先輩が僕を受け入れられないなら、それまでだ。僕は十分に幸せだった。明音が言ったように「星が綺麗」という事実だけで、僕はこの上なく楽しい時間を過ごせたのだ。だから、僕は答えを恐れない。僕は先輩のおかげで前向きになれた。先輩のおかげで強くなれた。本当は傍に寄り添うことで恩返しをしたいけれど、それが単なる我侭にしかならないのなら、僕は身を引くことで恩を返そう。
真央は足音が止まったことも、自分が何か温かいものに包まれていることも、来夏の息遣いが耳元に聞こえることにも、長いこと気がつかないでいた。潤んだ目で星を見上げようとしたときに、やっと事実を知り、体を震わせた。声を出していい瞬間が、やっと訪れた。
「先輩……?来夏、先輩……?」
「何も言うな」
来夏の声は掠れていたが、真央が口を噤んだ。二人は薔薇の小道の真ん中に立っていた。もしも陽光さえ差し込んでいれば、一年中花をつける、美しい花びらがのぞめるはずだった。来夏の鼓動がすぐ傍に聞こえる。
「秋元……悪かった」
ゆっくりと引き離されて、真央は今にも泣き出しそうな自分に気付いた。何もいえないのが楽であると同時にとても辛かった。
「許してくれ、秋元。俺は弱かった。今も弱いままだ。これからもきっとな。それでも、約束だけはきちんと守る。俺はこれからどんなことがあってもお前の傍にいると約束したい……俺は、真央のことが好きだ」
抱き合いもしなかった。唇を重ねあうこともしなかった。ただしばらく硬直したように見つめ合った後、恐々と差し出された右手の小指が二人の距離を結んだ。真央は息をつまらせ、来夏は笑った。そして、二人はようやく強く抱きしめあった。
「先輩のバカ!」
「すまなかったな」
「先輩のバカ!僕は先輩にずっと憧れて、本当に本当に大好きで……!」
「あぁ」
「でも、好きでいられるだけで幸せだって、そう思い込もうとしてたのに!ついさっきまでそんな気分だったのに!今は……先輩と離れたくなくって!ずっと一緒にいたくって!時間なんて止まればいいのにって願ってて!」
「……俺もそんな気分だ」
「バカ、バカ、バカッ!」
「おいおい……」
夜空には満点の星空が輝いている。凍える日にも煌いていた星たちは、今日も全く同じ光を以って浮かんでいる。さながら高飛車な恋の女神と同じで。それなのに、なぜ今宵の星はこんなにも優しく思えるのだろう。真央は今、この上なく幸せだった。
***
夜明けの空に小鳥が羽ばたく。右手から飛び立っていったその小さな影を見て、アニエスは満足そうに微笑んだ。抱き寄せられた肩から触れる愛しい人の温度。黄土色の髪を撫ぜていた指が白く尖った顎に触れ、頬を持ち上げる。交わした接吻の甘さに、アニエスは目を閉じた。名をささやく隙すら与えてくれない、その人。
「カオル……」
生徒会室には楽しげなメロディが響いている。ヴィヴァルディ「四季」より「冬」第二楽章。生徒会役員たちは各自の仕事を片付けるべく、黙々と手を動かし続ける。茘枝さえもリズムをとろうとしない。黙殺された第二楽章が終わると、慎が急いでリモコンを取り、曲を巻き戻した。ちょうど二曲分だ。始まるのは第一楽章――冬の寒さの中で凍える人の歌。
「嵐が来る」
慎の言葉に、役員たちは唇をきつく閉ざした。空は灰色で見るからに寒々しい。冷たい風が、容赦なく飛ぶ鳥と木と人々の肌を切りつけていた。
「遊びは終わりだ。水晶は目的のために本格的に動き出すぞ」
「どうやら僕たちも嵐に巻き込まれずにはいられないようだね」
颯が言った。
「僕らは全てを試される。試されて、認められた者だけが生き残る。例え仲間を切り捨てても、僕たちは水晶の命令を遂行しなければならない」
「仲間など元からいない。私たちはただ同じ主人に仕えているというだけのことだ」
「全く、どいつもこいつもえげつねぇな。まっ、うかうかしてると蹴落とされるってこったな」
冬の風が吹いている。その声よりも酷く。