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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
序章 知らせは誰が元へ
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第二話 白のアトリエ・前編

 「夜間の外出に塔への侵入ですか。なかなか元気がありますねぇ。ですが、元気があるすぎるのもどうかと思いますよ。時には危険を招くこともありますし」

 朝一番に呼び出しを喰らった。落合に無理矢理押し込まれたトーストを機械的に齧るクリスに、野瀬先生のお迎えがきた。クリスは温ぬるいミルクティーでパンを流し込み、先生の誘導に従った。来夏たちは驚き、他の生徒たちも転校生の早速の呼び出しにざわついた。道中、野瀬先生はクリスに対し、一言も口を聞かなかった。クリスも何も言おうとしなかった。結果は目に見えている。退学だ。恐らく、三宿学園創立以来最短の在学期間だろう。それを更新できただけでも、名誉なことかもしれない。

 二日目にして二回目の校長室は、やけに広く感じられた。クリスがやって来たとき、三宿学園高等部校長、風間信吾郎かざましんごろう先生は、中庭にやってきている小鳥を観察していた。頭は申し訳程度の髪を残してほとんど禿げ上がっており、「風が吹いても危ない」という表現が、校長の名にかけた洒落として生徒たちに親しまれている。比較的背の高い男性で、顔のパーツもいちいち大作りだった。眼鏡のつるが、朝日に照らされて黒光りして見える。扉が閉められて、部屋に二人きりになっても、校長はしばらく何も言わなかった。それから、くるりと振り返って微笑み、クリスに簡単な朝の挨拶をすると、席に着いてようやく冒頭の言葉を述べたのだった。

 「そう思いませんか、石崎君?」

「はい……」

 クリスは内心苛立っていた。校長の様子は、まるで死期の近づいた患者を扱う医者のようだ。医者は何も知らせず患者に微笑むが、患者は自分の死が近いことを悟っている。退学を言い渡すなら早くしてくれ。

 校長は、クリスの無言の懇願をサファイアブルーの中に見た。校長は分かりましたの意でこほんと咳をした。そして、ゆっくりと立ち上がり、窓辺に寄って空を見上げた。

「よろしい、石崎君、君の罰則を言い渡しましょう。石崎・エーリアル・クリスの罰則は……」


 よろめきながら校長室から出てきたクリスに、三人の友人はいっきに詰め寄った。ふらつくクリスを落合が支える。クリスは感謝を込めて弱弱しく微笑んだが、落合は全く無視してすかさず尋ねた。

「で、どうなった、エーリアル?」

「んー、まあ、その、えーと……」

「えーと、何だよ?」

 来夏が訊いたが、クリスは落合に寄りかかりながら曖昧に首を傾げた。

「はっきりしろよ、エーリアル。あの禿げなんつった?」

「禿げとは失礼ですねぇ、落合君」

 クリスに続き、風間校長が扉から顔をのぞかせた。落合は慌てて押し黙り、いかにも慎ましそうに装って俯いたが、ズボンからはみ出したワイシャツの所為で台無しだった。来夏は落合の背中を叩いて叱った。一方の酒本は、食堂から持ってきた大量のトーストをもぐもぐしながら、校長の前でもちっとも動じていない。こちらも来夏に小突かれたが、意に介さずだ。校長の服装を見て、クリスは唖然とした。さっき見たときは背広姿だったのに。いつの間にか赤いジャージに着替え、首元にタオルを巻いている。何という早着替えの業だ。

「一応こんな禿げでもですね、ある程度の寛容というのは持ち合わせているわけですよ、落合君。だからこそ、今回石崎君は退学にも停学にもならなかった訳です」

「本当ですか?」

 真っ先に喜んだのは来夏であった。だが、校長は片手を挙げて、まだ続きがあることを示した。

「まだ早いですよ、関本君。石崎君は校則に違反した訳ですから、やはり何らかのペナルティを与えなければなりません。そこで、僕は……しまった、説明している時間がないようですね。詳しくは本人から聞くように。では、僕は失礼しますよ」

 校長は、年齢からは想像も出来ないほどの超高速で廊下の奥へと去って行った。クリスたちは、一瞬何が起こったのだかさっぱり分からず、ただ校長の消えた方向を見つめるばかりであった。しかし、間もなく聞こえてきた騒がしい物音を聞き取り、来夏、落合、酒本の三人は納得して頷いた。

「あー、なるほど。ランニングにしてはずいぶん速いと思った」

 校長の行き先と反対側からやってきたのは、六人の男性の先生だった。誰もが背が高く屈強そうで、腕にオレンジ色の腕章を着けている。そのうちの何人かは、同じ色ののぼりを掲げていた。校長捜索隊、とクリスには読めた。先生方は、校長室の前で立ち止まり、ぜいぜい息を切らして膝に手をついていたが、やがて先頭の川内副校長が言った。

「君たち、校長先生は、どこに、いらっしゃるか、知ってるかい?」

「ついさっき逃げていきましたよ。あっちの方」

 来夏が素直に答えると、副校長先生は拳で腿を叩いて叫んだ。

「校長先生、今日は会議があるって申し上げたじゃないですかーっ?!」

 明らかに校長捜索隊の士気は下がったが、ここで諦めていては、校長は愚か、生徒の世話などとてもやっていけない。副校長が一声あげると、捜索隊はすぐに元気を取り戻し、口々に校長を呼びながらまた駆けていった。生徒指導部の森先生は、のぼりを振り回しながらも、通り過ぎざまに落合にこう言うのを忘れなかった。

「落合、服装を正せ!」

「やっべ」

 落合は急いでシャツをズボンの中にしまったが、校長捜索隊の足音が聞こえなくなると、再び元に戻した。

「で、どうなったの?」

 酒本が四枚目のバターつきトーストを貪りながら言った。その一言で三人は我に返り、来夏と落合はクリスに迫った。クリスは頬をかきながら、考えつつ言葉を継いだ。

「えっとー、それが、寮が変わることになって……『白のアトリエ』ってところなんだけど……」


***

 白のアトリエ――何を目的に建てられたかは分からない一般寮とは遠く離れたところにある小さな館を、生徒たちはそう呼んでいた。黒い屋根に白い壁の品のいい建物で、見た目は普通の一軒屋と変わらない。それより少し小振りなぐらいか。通常、普通の生徒がここに住むことはない。特別な理由などで隔離すべきと判断された生徒のみが、ここに住まうのだという。そして、ここに移住することがクリスの罰則となった訳だが、悪いようには感じられなかった。まず、アトリエという名前が、クリスにはとても魅力的な名前に思えたし、来夏たちと離れるのは残念だったが、交流を禁止された訳でもないからだ。

 その日の放課後、クリスは荷物を持って白のアトリエへと向かった。来夏たちも一緒だった。一度どうしても見てみたいのだという。実際に行ってみると、期待通りに住みやすそうな明るい家であり、クリスは胸が弾んだ。一人の方が色々と集中しやすいかもしれない。来夏と落合も羨ましがった。

 アトリエには、小さな黒い門までついていた。門から玄関までの階段には、様々な花の植木鉢が、上の段から色が鮮やかな順になって並べられている。クリスが門を押して中に入ろうとしたその時、館の中から人が出てきた。ノアだった。クリスは立ち止まった。何故、ノアがここにいる?昨夜の光景が蘇ってくる。水晶を見上げていたノア、塔の窓から飛び降りようとしていたノア、生徒会長に接吻されていたノア――今の彼は果たしてどのノアか。どれにも当てはまらなかった。四人に柔らかく微笑む彼は、昨日手品をしてみせた、あのときの彼に一番よく似ていた。

「おう、有瀬、新入りをよろしく頼むぜ」

 昨日の「関わると碌なことがない」はどこへやら、落合が明るく手を振った。ノアの登場に驚いた様子はない。知っていたのだ。彼がここにいることを。クリスはノアを見つめる視線に戸惑いを込めた。しかし、それに気がつく様子もなく、ノアは淑やかに頭を下げ、四人に、否、若しかしたらクリスだけに、歓迎の意を示したのであった。


 「悪いな、有瀬。俺たちまで上がらせてもらっちゃってさ」

「よく言うよ、元から乗り込むつもりだったくせにさ」

「いいえ、構いません。滅多に人の来ない場所ですから。どうぞごゆっくり」

 アトリエの中は見た目よりずっと広く、快適そうに感じられた。建物は二階建てで、一階には、居間や台所、風呂や洗面所などがあり、二階には寝室が二つと小さな物置のようなスペースがあった。どこの壁紙も白で統一されており、日がよく入る方角に窓が置かれている。水場は乾いて綺麗に掃除され、物置に詰め込まれた古い家具も埃がすっかり払われているなど、ノアの整頓癖がうかがわれた。来夏は彼を褒め、「どこかの誰か」にも見習ってほしい旨を漏らした。だが、来夏が視線を投げかけても、当人二人は平然としていた。クリスとノアが笑った。

 最後に案内されたのは居間だった。広々としたこの部屋は、右と左とで用途が別れており、台所と直結している左の間は、主に食事の場所として使われ、天然木のダイニングテーブルと椅子が置かれていた。右の方は談話の間で、ふかふかのクリーム色のソファに、部屋の隅にはグランドピアノが一台、壁には海や草原の風景画が数枚飾られている。クリスと落合が絵の方に近づき、来夏がピアノに感嘆している一方で、酒本は勧められてもいない椅子に座り、テーブルにぐったりと伏した。

「おい、酒本」

「喉渇いた」

 来夏の注意もどこ吹く風で、酒本は言った。

「今、お茶を淹れますから。どうぞ皆さんもお座りになってください」

「お腹もすいた」

「こらっ」

「では、お菓子もお出しします」

「やったー」

 クリスたちは顔を見合わせて溜息を吐いた。ノアは、酒本の態度に気を悪くするでもなく、むしろ彼の要求を満たせるのを、喜んでいるようであった。そういえば、彼は誰に対しても敬語を使うし、クリスを石崎様と呼ぶ。なぜそこまで謙る必要があるのか。酒本の隣の椅子に腰をおろしたとき、クリスはふと思い当たった。もしかして、孤独がそうさせるのか。

 「しかしさ、こんな家に一人で寂しくないか?まあ、これからはエーリアルが一緒だけど」

落合も同じことを思ったのだろうか。砂糖入れから角砂糖を一つ取り出し、口の中に放り込んで尋ねた。

「いいえ。でも、石崎様が来てくださって、僕は嬉しいです」

後ろ向きのノアの表情は見えない。

「おいおい、羨ましいじゃねぇか、エーリアル」

「何だよっ」

「そういやさあ、玄関の前に花があったよな?あれって、有瀬が育ててるのか?」

来夏が指摘すると、「はい」とノアは頷く。

「まめなんだな」

「でも、花は気まぐれですから。手を加えなくても、自分の咲きたいときに咲きますよ。僕は時々手伝ってあげてるだけです」

 ノアが銀の盆にティーセットと菓子を載せてきた。酒本は餌を前にした犬の如く、きらきらと目を輝かせている。来夏と落合は肩を竦めたが、漂う紅茶の香りには二人とも関心を示した。紅茶大国と云われるイギリスに住んでいたクリスも(クリスにその自覚はなかったが)、こんな香りの紅茶は初めてだ。酸っぱい柑橘類の香りだったが、既に加えられたミルクがまろやかさと甘みを醸し出し、シェイクスピアの悲劇のように、胸に染み、ミレイのオフィーリアの如く陶酔させるものを描き出していた。舌を包んだのは、遠い美意識への懐古であった。

 薔薇の模様の陶器の皿には、クッキーとチョコレートが盛られ、更に一人一切れずつレモンのタルトが出された。クリスはどうも甘いものが好かず、クッキーには手を伸ばせなかったが、タルトは頂いた。非常に美味であった。


  午後五時の鐘を聞いて、来夏たちが帰ってしまうと、クリスは、ノアと顔を合わせているのが気まずくて、ずっと新しい自分の部屋に閉じこもっていた。クリスに宛がわれた寝室は、ノアのより二畳ほど広かった。窓は南向き、風通しもよく、環境は悪くない。こもっている言い訳はいくらでもあった。宿題が大量に出されていたのだ。だが、ノアはわざわざそれを求めようとはせず、クリスが階上に留まっていたのと同様、ずっと階下で活動していた。ノアが食器を洗ったり、掃除をしたりしている音が、開けっ放しの居間の窓から漏れ出して、この部屋まで伝わってきた。手伝うべきだろうか、いや、今はどうしても一人でいたい。

 去り行く来夏たちの背中を見送るのは辛かった。やはり此処に住まうということは罰であった。折角できた友人たちと、共に夜を楽しみことが出来ないなんて。昨日より前のクリスならば、この罰にも耐えられただろう。だが、クリスはもう友人と騒ぐ楽しさを知ってしまっていた。

 振り切りたい気持ちもあったのだろうか。三十分ほど日本史のノートと睨めっこを続けていたクリスだが、何も詰まらない頭に寂しさが募るばかりなので、遂に諦め、ノートを閉じて代わりにスケッチブックを取り出した。ぱらぱらと捲って、今年の七月から書き溜めてきた絵を見直した。最後の絵は、忘れないようにと描いたイギリスの家の庭だった。自身の成長を確かめたあと、クリスはまっさらなページを出して絵筆を握った。さあ、何を描こうか。

 クリスはすぐに思いつき、紙の上に筆を滑らせはじめた。ここで出会ったものに、クリスはまだきちんと挨拶をしていなかった。


***

 「石崎様、夕食です」

 部屋の戸をノックする音で、クリスは初めて我に返った。霞んだ眼で周囲を見渡し、壁の時計が七時過ぎを指していることに気付く。二時間近く描いていたようだ。扉を開けると、エプロン姿のノアが、なにやら食べ物の匂いを纏ったままで立っていた。幾分まだぼーっとしながらも、鮮やかな色の世界は食欲によって次第に退散していき、席についたときにはすっかり目が覚めていた。丼には白米が並々と注がれ、その上に、金に輝く卵にとじられた玉ねぎと鶏肉が載っていた。驚くクリスを見て、ノアはにこっと笑った。

「親子丼です。お気に召しませんか?」

「いや、そうじゃないけど……」

「では、召し上がってください。冷めてしまいますから」

 ノアはエプロンの紐を解くと、手を合わせて箸をとった。クリスもならった。わずかに手で丼を持ち上げてみると、卵の匂いが一層立ち、クリスの胃をちくちくと刺した。クリスはこれ以上感心だけしていられなかった。卵の破片とご飯を口に運んだ。含んだ瞬間に卵が解けた。馴染みは薄いが、舌を包むような優しい味だ。クリスは思わず口元をほころばせた。

「おいしい……これ、有瀬が作ったの?」

「えぇ」

「すごいなあ。有瀬は料理上手なのか」

「必要に迫られて、です。一人で暮らしていると、どうしても」

「もしかして、さっきのクッキーとか、タルトとかも?」

「えぇ」

「へぇ。やっぱりすごいよ、有瀬」

 すると、ノアは箸と丼を置き、少し顔を赤くして俯いた。クリスが「どうした?」と尋ねると、ノアは首を小さく横に振り、答えるのを渋りながら、やがて消え入りそうな声でこう言った。

「初めてですから……人に食べていただいたり、褒められたり……」

 クリスの顔から笑みが消えた。自分の特技を人前に晒す機会もなかった。それほどまでに、ノアは孤独だったのだ。彼と比べてみると、自分は何と恵まれていたのだろう。絵の才能を叔父に発見され、その上、才能を世界の人々に評価される幸運を、自分は持っていた。そのことに感謝しなかったにも関わらず、幸運に見捨てられることもなく、自分は生きてきた。その間にも、ノアは一人でこの才能を持て余していたのだ。一人であるが故に。ただ、学園長の息子に生まれたが故に。

 クリスはもう半分の重さになった器を置いた。同情で滲んだその胸に、たった今浮かんだ台詞を、言わなければならないと思った。言葉が強くなりすぎないように笑みを携え、口を開いた。

「そんなの勿体ないよ。もっと色んな人に食べてもらうべきだ。だって、この腕だったらプロにだってなれるじゃないか。有瀬には料理の才能があるよ」

「まさか」

ノア静かに首を振った。

「僕にはそんなものありませんよ」

「バカなこと言うなよ。そりゃ、会ったばかりの俺が言うのもどうかと思うけどさ。謙虚になる必要なんてないじゃないか」

「僕から謙虚を抜いたら何が残るんです?」

「有瀬……?」

 一瞬、ノアの目元が見えなくなった。だからだろうか。彼の言葉が刺々しく聞こえたのは。

「……僕はこれで満足しています」

「これって?」

 ノアは食べかけの料理に再び箸をつけた。その顔は微笑んでいた。

「石崎様に食べていただけるだけで」

 クリスは何をどう言えばいいのか分からなかった。やや感傷的になって麻痺した脳は、食事を終えることだけが、自分の義務だと判断した。あまりにも出来すぎてしまったその料理を、咀嚼そしゃくし、飲み込み、この身体の一部とすることを。食器の触れ合う音だけが、二人の沈黙の中の唯一の要であった。


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