第二十六話 Festival rit.・前編
鏡で見た瞼は惨めなほどに腫れていた。こんな顔でミュージカルの主役を務めていたのかと思うととんでもなく申し訳ない気持ちが沸いて来る。閉幕時の拍手喝采がなければ、今頃首を吊っているところだ。衣装を着替え、真央は里見先生に渡されたばかりの保冷剤を、赤くなった目にそっと押し当てた。せめて、一時間後に待つ単独での歌の発表までには治したい。保冷財に巻いたクリーム色のハンカチは、アニエスに借りたものだ。真央の顔を見た時の彼女の驚きぶりといったらなかった。最近の真央は精神的にもすこぶる調子がよく、アニエスも「いつでも国に帰れるわ」と冗談を言っていたのに。従姉のいつになく艶めいた肌の上に不安の翳りが現れるのを、真央は確かに見た。そして心苦しく思った。上手くいっていたのは自分だけではなかった。
「来夏……」
せんぱいという言葉は喉元で空回りした。もう一度呟こうとしてみた。かつては恐れていた名前を、何度も何度も。それでも名前はついに声にはならなくて、代わりに少しだけ涙が零れた。乾ききった瞳からやっとしぼり出した一滴であった。
関本は多分怖がってるんだと思う――クリスの言葉が蘇った。返した言葉は今も尚正しいままだ。一体何を?来夏が怖がらなければならないものなんて、真央にはまるで思いつかなかった。それよりも、来夏が真央に嫌気がさしたのだという説のほうが、ずっと信じやすく、現実的であった。嫌気がさした原因ならいくつか考えられたからだ。先輩は気付いたのかもしれない。自分が先輩に恋心を寄せてることに……胸に鋭い痛みが走った。
「マオ?」
防音加工が施された重たい音楽室の扉が開き、アニエスが小鳥のように慎ましい頭をのぞかせた。
「マオ、大丈夫?」
真央は微笑んで見せた。保冷剤が瞼に重かった。アニエスは考え深げな顔をしながら部屋に入ってきた。もう本番用の衣装に着替えている。冬にはずいぶん涼しげに見える薄い紺色のドレスで、開いた胸元に白い薔薇のコサージュを咲かせている。今は黒いコートをその上から羽織っていた。
「姉さん、きれいだね」
「ありがとう」
アニエスは笑いもせずに言った。
「マオ、少し来てほしいわ。私について来て」
「でも、リハーサルは?」
「後でいいわ。早く」
従姉がいつになく振り下ろすように命令するのにやや驚いて、真央はピアノの椅子から飛び降りた。アニエスは真央を待たずにさっさと踵を返しており、支える細い腕をなくした扉が、真央の目の前でばたんと音とたてて閉まった。
***
冷ややかな沈黙が二人の肺を蝕んでいた。かつて二人がこうした呼吸をしていたことは一度もなかった。文化祭の色と音が届かない静かな林檎林の真ん中で、来夏と大河内は黙り込んだまま向き合っていた。
騒がしい休日のきらびやかな真昼の陽光が、二人の皮膚に枯れた小枝の影絵を投げかけていた。降り積もった葉の表面が微かに湿っているのを、靴の裏で感じる。風はない。小鳥が楽しげにさえずっている。それさえもわずらわしく感じるのは、きっと大河内の目をまっすぐ見返せないからであろう。苛立ちと焦燥と臆病と自己嫌悪が、来夏の胸でもどかしげに身を捩っていた。先ほどから口元に自然に浮かんでくる、自己嫌悪を駆り立てるだけの笑いなくしては、口を開くことなんてとてもできそうにない。
「何か用か?」
大河内の目がきらりと光った。軽蔑と静かな怒りに満ちた黒い槍を、来夏は蒼白な頬の上で受け止めた。
「……自分のしたことが分かっているのか?」
「ああ、分かってるさ」
来夏は林檎の幹を蹴った。途端に笑いも弾けとんだ。こんな風な説教が始まることはとっくに分かっていたし、もううんざりだった。今朝の石崎との怒鳴り合いで十分だ。来夏は吐き出すように言った。
「分かってるし、俺だって好きでこんなことをした訳じゃない。確かに最良の方法ではなかった。だが、もう弁解もしない。言い訳がましいから」
「なぜ、秋元を拒む?」
「だから何も言わない。悪いが説教は間に合ってる」
「いや、間に合ってなんかいない」
大河内を睨みつけたとき、初めて来夏は正面から彼の顔を見た。いつもなら好ましい大河内の乱れぬ口調が、今となっては憎らしかった。何も知らないくせして、なぜ断言ができるんだ。叫び出したいのを喉元で必死にこらえ、来夏は友人から顔を背けた。ここからそう離れない場所を、子どもたちが明るい声をたてながら横切っていく。
「なんで俺に構うんだ?」
来夏は自分の声に哀れさが滲むのを聞いた。
「こんなこと、俺とあいつの問題じゃないか。俺があいつとこれ以上付き合わないと決めたらそれでもう何もかも終わりだ。そんなにあいつが落ち込んでるなら、頼むからあっちの方を慰めにいってくれ。俺がいなくても大丈夫なようにしてくれ。何を言われたって、俺には何もできない。俺はあいつが怖い。あいつの傍にいるのが怖い」
「バカを言うな。お前と秋元の問題なら周りが介入する隙を与えるんじゃない」
「……その隙を見つけて入ってくるのは誰だ?」
「何を怖がる必要がある?秋元に慕われて、ゾラさんにも頼りにされてるお前が……」
「あいつが壊れていくのを見るのが怖いんだ!」
クリスに告白したときとは違う、強く猛々しい勢いで、来夏は怒鳴った。
「慕われてるから苦しいんだ!頼りにされてるから辛いんだ!あいつの傍にいて守ってやらなきゃっていう重圧に耐え切れないんだ!ああ、俺はあいつが好きだ、愛してる!だからこそ、こんなこと俺には出来ない!もしも病気が悪化して、あいつの声が失われたら……?あいつが声を失ってく様を、じっと見てなければならない。俺には何もできない。あいつの傍にいるっていうのはそういうことなんだ!俺はできない!どうしても!」
来夏は袖で目元を拭った。涙だか汗だかは分からなかった。一言叫ぶたびに恐怖が倍増した。脆い心ではとても包みきれないほどに。恐怖は成長し、来夏の血となり、来夏の全身を駆け巡っている。楽になる方法が全く分からないまま、来夏は絶望の淵に立ち尽くしていた。
来夏は前髪越しに大河内を見た。大河内の表情はまるで変わっていなかった。相変わらず厳しく強固で、来夏に対する哀れみを微塵も見せようとしなかった。人の憐憫を乞うなんて、絶対に自分にはないと思っていた。来夏は情けなさに声をあげて泣きたかったが、真昼の明るさがそれを許してくれなかった。光とて人を苦しめることがあるのだ。光と影は紙一重。
「大河内……!」
ふと目を瞬いた隙に、大河内の表情が豹変した。来夏が求めていた色が彼の顔にあった。腐りきった安堵が胸の中で踊った。大河内はこちらに歩み寄ってきた。差し出された手を来夏は握りたかった。そして、あいつを任せると言いたかった。それで、自分が楽になれる。
だが、大河内の手は来夏の手を取ることはなかった。高く振り上げられたその手は、乾いた音をたてて来夏の頬を打った。世界が真っ白になった。やがて聞こえてきたのは、大河内の激しい息遣いだった。
「ふざけるな……!」
来夏を叱り飛ばしているのは、来夏が今まで聞いたことのない声だった。
「ふざけるな……!お前のためにあの子がどれだけの恐怖を乗り越えたかも知らないで、よくそんなことが言えるな。あの子は夏を連想させるお前の名を怖がっていた。あの子の声が持つのは来年の夏までだと医者に言われていた。せっかく心から尊敬したその人が、自分の最も恐れるものを持っていたことで、あの子はどんなに苦しんだか。ああ、あの子以外には何も分からないだろう。そんなくだらないことでと笑うかもしれない。だが、あの子にとっては何よりも重要な問題だった!俺もそれを知っていたし、ゾラさんも知っていた。あの子を大切に思う人ならみんな理解した……お前だって分かるはずだ。冷静になれ!声を失うことを一番恐れているのは誰だ?お前じゃない!あの子だ!周りで見守る者にとっては、あの子が壊れていくのは苦しい光景かもしれない。だが、自分が次第に壊れていくことがどんなに恐ろしいことか。それでも、あの子はちゃんと立ち向かおうとしている。お前を受け入れたときに、あの子はもう病に打ち勝つ勇気を得た。次はお前の番だろう!お前があの子を受け入れる勇気を得る番だろ!あの子を愛してるなら、あの子を支えろ!それであの子ははじめて救われる!」
大河内はそこまで言い切ると、口を閉ざし、それから深く息を吸ってまた言った。今度はがらりと調子を変えて、優しさと悲しみが入り混じった、ゆっくりとした声で話した。
「ずっと見ていた……俺はあの子が好きだった……あの子を守っていくと密かに誓っていた。だが、あの子がそれを求めたのはお前だ。いや、実際はそんなことを求めるほどあの子は欲深くはない。ただお前の傍にいて、お前の役に立ちたがっている。優しい子だ。俺の光だった……でも、今は違う……」
再び沈黙が訪れた。来夏は近くの木に体を預け、大河内は根が生えたようにその場に立ち尽くしていた。来夏は顔を空に向けて、大河内は顔を俯けて、各々に声もなく泣いていた。たった一人の少年を愛するという奇跡が、こうして二人をこの林檎林に呼び寄せた。来夏の見上げる空に小鳥が飛んでいた。明るい声をたてて、どこまでも楽しげに。
「来てほしい」
大河内が口を開いた。
「見てほしいものがある。石崎の個展は見たか?」
「ああ。昨日のうちにな」
「だったらもう一度見直した方がいい。一緒に来てくれ。そしたら、秋元の歌を聞きにいく。無理にでも連れて行くつもりだ」
来夏は何も言わなかった。まだ決心はついてなかった。それでも、大河内に手を取られれば、歩き出せそうな気がした。
***
「有瀬!有瀬!」
例え呼び声が届く場所にいたところで返事をしてくれるだろうか。クリスは確証が持てなかった。自分はノアの返事を聞く資格なんてないと、そればかりが胸を突いた。それでもクリスは叫ばずにはいられなかった。この声が枯れて、足が疲労に悲鳴をあげるまで。
「有瀬!」
「呼んだ?」
クリスは振り返った。中庭の噴水前、いつもの昼食会場でのことだった。反射的に振り返ってしまったのだが、もちろん尋ねたのはノアではない。その養父の有瀬裕の方だ。黒いスーツにしみ一つない真っ白なシャツ、折り目のついたズボンの下にぴかぴかに磨き上げた靴という完璧な格好だ。この嫌味らしい衣装にも、クリスはまっすぐに目を向けることができなかった。理事長の前で恥じ入るという侮辱は二度目だった。何も知らないと思っていたのに、この人はとっくにお見通しだったのだ。
「理事長……」
「おや、その反応だと、僕を捜してたようじゃなさそうだね。大方、ノアの方でしょう?」
「……はい」
理事長は真っ青な空に向かって両腕をぐっと伸ばした。逸らしたクリスの目にも一瞬だけ、手の火傷の痕が映った。
「……理事長は、いつからご存知だったんですか?」
「ずっと前からだよ。そう、厳密に言えば火事のあった直後にはもう分かってた。血は繋がってなくとも親子だからね。君よりも、ノアとの付き合いは長い」
「俺を怒ってますか?」
「別に。君にそこまで期待したつもりはないよ。この間言ったことはただの冗談さ。別に気にしなくていい」
「俺は気にします」
「そう?じゃあ捜索活動を続けたら?」
理事長がふいに冷たく言い放った。クリスはごくりと唾を飲んだ。言い返したいのに言い返せない。理事長に背を向け、行こうとしたとき、同じくクリスに背を向けた理事長が、諦めたようにこう言った。
「ノアなら保健室にいますよ。里見先生にも席を外してもらってます。早く行ってあげなさい。あの子は結局君を必要としてるみたいだから」
一瞬言葉を失ったクリスは、理事長の姿が遠のいていくのを振り見てもしばらく黙ったままだった。それから静かに頭を下げ、「ありがとうございます」とだけ言うと、理事長を追い越して校舎の方へと向かっていった。今度は見る側になった理事長が肩をすくめた。
保健室には電気もついていなかった。人の気配もまるでしない。扉にかけられた「先生はいません」の看板がますます人を追い払っているようだ。クリスは葬儀の場に入るよりも、厳かに部屋に入った。
「失礼します」
真っ白い部屋の中で、ソファを囲うカーテンだけが揺れていた。クリスも以前そこに避難されられたことがある。野瀬先生に横っ面を張られた直後の話だ。意を決してカーテンへと歩み寄り、引き裂くように布を開くと、ノアが不安げな顔でじっとクリスを見上げていた。肩が微かに震え、祈るように組んだ手が白くなっている。小さな唇が微かに動き、声を出そうとして躊躇し、それからまた動いた。
「クリス様、ごめんなさい、僕……」
「ごめん、有瀬!」
クリスはノアの前に跪いた。ノアよりも震えた両手で、親友の手を握った。慄くノアの膝元で、言葉が勝手に口をついで出た。
「君は何も謝らなくていいんだ。謝るのは俺の方なんだ……」
「クリス様……」
「俺は君の親友だって思ってた。俺だけが君の苦しみを全部分かってあげられるって思ってた。でも、全部思い込みだったんだ!俺は何も知らなかった……知ろうともしなかった……君が……」
「クリス様!」
「君があの火事以来、ずっと火を恐れていたってこと!」
あの事故以来、ノアは「焼く」という言葉を使わなかった。クッキーやケーキを焼くことは全て「作る」と言っていた。味噌汁の味が変わったことに、クリスは気付いた。ノアは火を使えなかった。市販のインスタント食品を彼なりに上手く味付けして出していたのだろう。他の料理も全てそうだったはずなのに、クリスは他には何も気付かなかった。文化祭で料理の店を出したいと言った時、ノアがケーキならよいと言ったのは、直接火を使わないからだ。昨夜の違和感のあるキッチン、あそこは清潔すぎた。なぜなら、ノアはコンロをまるで使っていなかったから――
調理室では他のクラスが火を使っていた。ノアはそれを見て恐れて逃げ出した。当たり前だ。あの火事のとき、火の中で自分が焼け死ぬのをじっと待つしかなかった。クリスはかつて、両親が同じ目に遭っているのを静かに想像したことがある。全く同じ場面に、ノアは現実として直面していたのだ。 顔を上げる勇気さえでなかった。ただ謝罪してし続けて、この内気な友人にできるものなら、口汚く罵られたかった。
「助けてあげられなかった……いつも傍にいたのに。いつも隣で寝ていたのに。君が俺に縋ってきたときにすら、俺は……」
「いいんです、クリス様……」
ノアの手がクリスの手を握り返すのを、クリスははっきりと感じた。
「あなたには他にやるべきことがあったから。あなたは僕に対して何も義務を負ってはいなかった。本当は僕の方から打ち明けるべきだったんです。だって、僕たちは……」
クリスはそっと顔を上げた。ぼやけた視界では何も見えなかったが、冷たく熱い何かが手の中に零れ落ちてきた。
「僕たちは友達だから……隠すべきじゃなかったのに、全部打ち明けるべきだったのに」
「友達でもいえないことだってあるさ。それでも俺は分かってあげなきゃいけなかったんだ。ごめんね、有瀬……」
「やめてください、そんな言い方……」
クリスはノアの隣に腰掛けた。ノアの濡れた顔がクリスの胸元に寄せられ、クリスはワイレッドの頭をそっと抱きしめた。
「もう謝らないで。あなたが苦しければ、僕も苦しい。お願いだから笑ってください。そうしたら、僕もきっと笑える気がするから……」
「お願いだから来てください。そうしたら、僕もきっと歌える気がします」
大河内が見せたいと言った絵の前で真央と出会った。目を晴らした真央は、はっきりとした声で、失われることなんて到底考えられないような声で、来夏にそう言った。来夏は目を見張った。真央の表情は強く凛々しく、いつもの手折られた花のようなか弱さはどこにも見られなかった。
「僕の歌を聞いてから、先輩が恐れているものを克服できるかどうか考えてほしいんです。お願いします。来夏先輩」
真央は一礼して去っていた。来夏に残されたのは、アニエスの微笑と、大河内と、たった一枚の絵。来夏が真央の頭をくしゃくしゃにして笑っている。何も考えていなかった時代の二人。溢れるばかりの光に影なんて一点もなく。
来夏は大河内を見、腕時計を見た。あと三十分だ。「楽しみだな」と呟くと、大河内も祝福するようにやっと笑ってくれた。