第二十四話 星の波止場・後編
よろよろとホールの扉から転がるように出てきたクリスは、再び不安に苛まれ始めていた。早くパーティに来いとの落合からのメールも、あまりクリスを元気付けなかった。真央の言ったとおり、アニエスと薫は本当に付き合っているのだろうか?薫の心は既にあの可憐な未亡人のものなのか?もし、そうだとしたら――いや、そうだとしたって一体何の問題があるのだろう。自分の薫への気持ちは純粋な憧れだったはずだ。それがなぜ……そんなことはどうでもいい。自分は一体どうしてしまったのか。そしてどうすればいいのか。どんな適当な答えでもいい。他人が投げかけてくれるなら、クリスは喜んで受け止めたはずだった。
「クリス」
名前を呼ばれてもしばらく脳内に留まっていたクリスだが、肩を叩かれるとようやく颯の存在に気が付いた。颯は黒いパーカーを羽織っていたが、袖をまくり、暑そうに手で扇いで風を作っていた。メガネは外しており、携帯用の音楽プレイヤーが首から下がっている。ダンス部の練習をしていたに違いない。三宿学園のダンス部といえば、文化祭の大きな見ものであると聞くから、きっと力も入っているのだろう。
「あっ、こんにちは、先輩……」
クリスは礼儀正しく言ったが、何だか颯に心の呟きを聞かれてしまったような気がして、妙に落ち着かなかった。
「実行委員の仕事だろ?お疲れ様」
「えっ、あっ、はい。先輩もダンス部の練習ですよね?お疲れ様です」
颯はずれ落ちたパーカーを肩の位置まで引き上げて笑った。
「僕の方はいいさ。ダンスは好きでやってることだからね。でも、クリスの方はそうじゃないみたいじゃないか」
「あはは……もしかして、茘枝先輩が愚痴ってたとか?」
「僕は情報が速いんだよ、誰よりね」
颯ははぐらかして言ったが、やっぱりそうなんだと青い顔をするクリスを見て、慰めるように付け足した。
「大丈夫だよ、別に茘枝は怒ってる訳じゃないから。本気で君が嫌ならいくらでも変えることができるはずだし、正直言うとなんだか面白がってるみたい」
「面白……」
噂にしていた本人が出てきたため、クリスはぴたりと口を閉ざし、謝罪と非難の目線を片方ずつまっすぐに送ったが、彼はまるで無頓着だった。クリスには一瞥もくれず、運動後の爽快な輝きを顔にともした友人に挨拶もなく声をかけた。
「颯、先ほど呼び出しがあったようだが、一体何だったんだ?」
颯は思わず苦笑した。ちょうどその時、クリスのポケットの中で、携帯電話が震えだした。クリスは急いで画面を見遣る。関本来夏からの着信。
「もしもし?何?落合?」
「ああ、あれね、校長からの呼び出しってことだったんだけど、実際はジャクソン先生のファッションショーのリハーサルのことだったんだ。ほら、僕たち揃ってボイコットしちゃったから。僕と君は運よく集合しなかったから助かったけど、慎と陽は捕まっちゃったみたいだよ。かわいそうに」
「全く不運だな」
口ではそう言いつつ、茘枝は自らの無事に安堵した様子であった。陽のことはさほど気にならないらしい。というよりは、ファッションショーで衣装を着せられている陽を見たい気持ちの方が強いのかもしれないが。クリスは最後に「分かった」と言って電源を切った。颯はクリスに注目を戻した。
「すみません、先輩。俺、まだ仕事があるんで」
「そう。じゃあ、当日も頑張ってね。ダンス部の発表は絶対に見に来るように」
「分かってますって」
駆け行くクリスと入れ替わりに、慎と陽が揃って不機嫌な顔で廊下の奥からやって来るのが見えた。颯と茘枝は顔を見合わせて笑った。ようやく合流した二人には、颯が「ご愁傷様」とだけ伝えた。
「もう二度と校内放送の召集なんて信じねぇぞ」
陽が忌々しげに吐き捨てた。
「ああ、その方がいいだろうな」
茘枝はあまり同情してなさそうな調子だった。陽に睨み付けられても、どこか楽しそうな微笑は崩さない。
「それで、何を着ることになったんだ?」
「ところで、慎、クラスの方の様子はどうなの?」
陽と慎の表情がいっきに険悪になったのを見て取って、颯が急いで聞いた。慎は無言で肩をすくめた。
茘枝が陽の機嫌を取るためにその手を取ってどこかへ連れて行った。颯は黙り込んだままの慎を、何を思っているものかと興味津々で観察していたが、結局慎の口から零れ出たのは気分を執り成すための溜息のようなものだけだった。慎はふと言った。
「ずいぶん石崎と親しくしてるようだな」
「心配しないで。けじめはついてるさ」
颯ははっきりと言い切って微笑みかけたが、慎はにこりともしなかった。颯は特に気にする様子もなくポケットのメガネをかけ直したが、途端に彼の微笑は冷たい影のある嘲笑へと変わっていった。
「親しい者に裏切られる方が、却ってショックは大きいんじゃないかな?」
彼がやがて紡いだ言葉も声音も、取り付きようがない程の冷酷さを含んでいた。
***
そうすることで、胸に留まり続ける一片の暗雲を吹き飛ばせるような気がして、クリスは階段を駆け上っていた。誰かが開け放った窓から吹き込む風が、加熱していく両頬を冷やす。視聴覚室に飛び込んできたクリスに、来夏は驚いたような顔をして振り返ったが、パネルに掛けられたいくつもの絵の沈黙の中では、その作者の登場が恐ろしく場違いだったせいもある。クリスは運動のせいではなく頬を赤らめた。
「あっ、悪い、別に急ぎって訳じゃなかったんだが」
「いや、あの、俺も別に……」
クリスの言葉は尻つぼみに消えた。咳をしたとき、一瞬うつむきかけたその目で、クリスは来夏の様子をうかがった。なんだか顔色が悪いように見えるのは気のせいか。緑色の瞳も何だか今日は光が薄いし、閉じられた唇がきつく締めすぎて白くなっている。はっきりとではないが、やはりそれぞれに疲労の色が読み取れた。働き過ぎ――もしそうだとすれば、それは一体誰のせいだろうか。
「まっ、とりあえず一回りしてみてくれ。一応石崎の要望どおりに並べたけど、いくつか題名がこんがらがってんのがあってさ。あと、花木先生が取り外して眺めてたのがいくつかあったし。先生がちゃんと戻してるかどうか自信がねぇんだ」
クリスは頷くと、赤い顔をしたままパネルの路に迷い込み、さっさと壁の後ろに顔を隠してしまった。たちまちクリスは、自分の絵の世界へと引き込まれていった。正しく言えば自分の精神世界へと。絵がクリスの精神であり、心である以上、絵もクリスも同一だった。二つはある一点で繋がっており、クリスは無意識のうちにその入り口を探り当てることができたのだ。懐かしいロンドンの人ごみの中に、湖水地方にある叔父夫婦の別荘の庭に、売れない手品師が芸を繰り広げていた夕方の町に、不安と無気力にとらわれていたバスの中に、ほんの目と鼻の先にある三宿学園の中庭がかつて秋の歯にきらめいた頃に、クリスは作者の権限として、誰よりも早く、誰よりも深く、入り込むことができた。そして、ふとした瞬間に、一枚の画用紙に描きこまれた全てのものに対する愛情と、彼らがはかなく消えて滅びていく運命への嘆き、彼らの永遠を深く願う気持ちが、クリスの中に泉のように湧き出てきて、心を満たすのであった。その感情を形容する言葉を、クリスはまだ知らなかった。
革靴が床を打つたった一つの音で、クリスははじめて来夏が後を追ってきたことに気がついた。来夏は音を一つ鳴らしたきりで立ち止まり、放心したような、それでいて厳しい表情で、じっと一枚の絵に見入っていた。一体何を描いた絵だろうか?クリスは遠くから眺め遣ったが、画面の右半分を覆いつくす草の色がどうにか望めただけだった。 クリスは先へと進み、最後の絵の前で来夏を待った。絵の順番などは最早意識していなかった。もし違っていたとしても、これで十分なはずだ。最後の絵は、クリスが様々な思いで胸をいっぱいにさせながら描いた、白のアトリエの絵であった。今はただの残骸となり、無残にも雨風に晒されたままで置かれた懐かしい小さな家。ただ思い出の中だけでも、いつかの午後のように柔らかな日の光に包まれていてくれたら。
「アトリエか」
来夏が隣に歩み寄ってきて言った。クリスは微笑んだが、まだ目はアトリエの庭をさまよっていた。
「懐かしいな。まだ一月も経ってないのに……人間、案外たやすく変化に耐えるものなんだな」
「そうだね」
クリスは頷いた。
「でも、そうじゃなきゃ到底生きていけないもん……」
突然来夏に肩を抱かれ、クリスは唖然として声を上げることもできなかった。縋りつくようにクリスにもたれかかる来夏の顔が、先ほどにも増して蒼白なのをクリスは見た。そして、クリスは来夏の中を巡る恐怖をはっきりと感じ取ったのであった。
「関本?」
クリスはそっと呼びかけた。
「大丈夫?」
「ああ」
来夏はうめくように言った。掴まれた手が怖いほど冷たかった。
「どうしたの?」
クリスは近くにパイプ椅子があることに気がつき、そこに来夏を座らせようと少し体を動かしたが、来夏はクリスの体を離そうとはしなかった。
「関本、何があったんだよ……?」
その時、クリスは、来夏が没頭して眺めていた絵の正体に気がついた。9歳のときにピクニックで訪れたイギリスの村の風景だ。村の名は忘れたが、のどかな田園風景の端からひろがる黒々とした森が恐ろしくて、その二つの対比がいつまでも脳に残っていたのだろう。あの絵は、温かな人々の営みのすぐ近くに深い闇があることを、光と影との繋がりを暗に示したものであったのだ。
「人は変わるんだな」
来夏はクリスの肩の上でそう紡いだ。クリスは何も言えなかった。何かを言う資格が自分にあるとは到底思えなかった。
重たく冷たい沈黙を、二つの携帯電話による二重のバイブレーションが打ち破った。凍りついたままのクリスを置いて、来夏が先に手を動かした。来夏はボタンを数回押して無表情で画面を見つめると、すぐに電話をポケットの中にしまいこんだ。来夏の腕がクリスを離す。彼の顔に例の疲労は見られなかった。
「……関本?」
「落合からだ。主役がいなきゃパーティが楽しくないらしい」
来夏は悪戯っぽく笑った。
「野瀬先生にサプライズを仕掛けるらしいぜ。参加しねぇ訳にいかねぇだろ?」
「でも……」
「ちなみに有瀬のケーキは間もなく品切れだそうだ」
同じことが恐らくクリスにきたメールにも書いてあるのだろう。携帯電話さえ開けばすぐにでも分かる。それでもクリスは、パーティをしたがる人の気持ちが知れなかったし、来夏の気持ちについてはもっと知れなかった。人は変わるんだな――来夏のその呟きが、脳内で皮肉っぽく響いていた。
***
パーティが楽しくなかったといえば嘘だった。ノアはクリスが見た中で一番頻繁に笑っており、落合はいつもに増して機嫌がよく、クラスをおおいに盛り上げた。菜月は用意された菓子を誰よりも素早く多く食べたが、これは別に愉快な出来事でもなかった。来夏はいつもの調子に戻っていた。先ほど彼の顔に見た疲労は、幻覚だったのではないかとクリスが疑ったほどだった。来夏の合図で材料の買出しにまぎれて買ってきた花束が渡されると(なぜかこれを渡す大役はクリスに任されたのだが)野瀬先生はしばし笑顔を固めて言葉を失い、少し潤んだ目を花束の中にうずめた。何枚か花びらが散ったが、誰も気にしようとしなかった。明日の文化祭に向けた意気込みは、この出来事のおかげで異様なほどに高まった。夕方になり、日が傾きはじめると、皆は清潔で華やかな小さな店内を見回し、非常に満足して帰っていった。
「そんな、いいよ!先に帰ってて!」
律儀にクリスを待とうとするノアを、実行委員のミーティングがどれくらいかかるか分からないからといって説得し、クリスは会議室へと向かった。来夏はやはり先にいたが、その隣の席はとうに真央によって占められており、真央は興奮しきった様子でしきりに来夏に話しかけていた。だが、そこにきてようやく来夏の表情には青白い緊張が戻っており、口を開くことさえ厭わしいと思っているようだった。クリスは少なからずショックを覚えた。確かに、来夏は今まで真央に優しい態度でのぞんだことはなかったが、それもまあ、幼い男の子がよくやる、好きな子に対するいじわるというか何というか、そんな類のものだった。それなのに、今の来夏ときたら、あんな冷たい言葉と態度の裏に、愛情が感じ取れるとでも本気で思っているのだろうか。真央の口数が次第に減っていくのを、クリスは離れた席から聞いていたが、やがて二人の収まったところは、先ほどのクリスと来夏のような気まずい沈黙であった。
文化祭の前日になっても、2年A組のように士気を高めるとか、一致団結するとか、そういったことに興味がないらしい生徒会役員は、淡々と事務的な口調で最終確認と注意を終えた。委員会は長々とついた。一時間、二時間――カーテンで閉ざされてはいるが、冬の夜のひえびえとした暗闇は教室の中にも入り込んできており、間もなく赤と緑の二枚のジャージを着込んだ橋爪先生が暖房をフル稼働させた。だが、生温い空気は委員たちの眠気を誘う仕事を実によく頑張ってくれたので、副校長がスイッチを切って窓を開け、生徒たちはブレザーの下で凍え、橋爪先生は三枚目のジャージを羽織って着膨れする始末だった。ゴミ箱がカタカタ言いながら教室から出ていった事実には、わずかに何人かの生徒が気付いただけだったが、恐らく校長も寒さに耐え切れなかったのだろうなとクリスは思った。
委員会が儀式的な礼で終わると、クリスは人ごみの中で来夏を探したが、彼はそそくさと帰りの準備を進めて会議室を出ていた。真央だけが寂しそうに、ぽつねんと腰をおろしたままでいた。
「僕の方を向いてもくれなかった」
共に廊下を歩くとき、真央は悲しげに笑って首を振った。
「どうしちゃったんでしょう。これまでも……機嫌が悪いときだって何度かあったけど、あんな様子じゃなかったのに。確かに最近疲れてるのかなとは思ってたけど、でも……ついこの間まで何にもなかったのに、僕が何か……」
真央の目に涙がたまっていくのを見て、クリスはいたたまれない気持ちになった。関本に起こった変化は一体何なんだ?人は変われるのだと彼は言ったが、はたしてその意味は?どうして急に真央に対する態度が激変したのだろう?まさか今日突発的に真央が嫌いになったとは考えにくかったが、彼に対する冷たい態度の発端としては、あの絵のことが考えられた。穏やかな人々の生活の傍に暗い森がある。そして、恐らく来夏の愛情の傍にも――クリスは来夏から感じ取った恐怖を再度思い返してみた。
薄暗い廊下の奥から、クリスは昇降口の戸をくぐりぬけていく来夏の後姿を見つけた。真央は怯えたように立ち止まった。
「さあ」
クリスがすぐにその背中を押して、追いかけるように促した。真央は暗闇でも分かるほど真っ青な顔でクリスを見上げ、涙で潤んだ目にクリスの青い目を映し出した。
「でも、先輩……」
「直接話して来いよ。それしか事実を確かめる方法はないんだから。ほら、早く!」
真央はまだ戸惑っていたが、クリスが再度「さあ!」とささやくと、鹿のようにとたとたと駆けていった。後は全て天に任せるしかない。
星が夜空に散っている。月に追われるように真央は夜道を駆けていた。冷気が開いた口から入り込んできて喉を冷やす。切きつく巻いたマフラーがいやに熱く感じられた。もっと速く走らないと、来夏先輩は足が速いから。いつか後を追ったときはこんな風ではなかったはずなのに……
「先輩、待って、ください……!」
息も切れ切れに真央は叫んだ。喉に切られるような痛みが走る。来夏には無視することもできただろうが、彼は振り返った。しかし、その目は明らかに真央を疎んでいた。真央は一瞬言葉を失くした。
「先輩……僕……」
「もう俺の後は追うな」
実行委員たちが遅すぎる帰宅に急ぐ声も足音も、寮に灯る数々の灯も、二人には遠すぎた。寒さが一層身に染みる夜だった。初雪が降り注いでくる。二人の制服のブレザーに、鞄に、髪に、いつかは繋いだこともある手の皮膚の上にさえ。真央は白い息を震わせることしかできなかった。
「どうして、でも、先輩……!」
「俺はお前に何もできない。俺に期待しないでほしい。アニエスさんにそう言ってくれ」
「何言ってるんです?そんな、姉さんは……」
「もう耐えられないんだ!」
真央の肩が跳ねたのは、来夏の大声だけが原因ではなかった。もう耐えられないという、来夏の悲痛な言葉こそ、真央を慄かせた元凶であった。
「もう耐え切れない!自分の臆病さにも、無力さにも……何もかもに腹が立つ……!」
ごめんなさい……!
くるりと踵を返し、白い粉雪の向こうに去っていたその人の叫びに、真央はいつかの自分の声を聞いた。そして気が付いた。あの人も怖いのだと。 涙がぽろぽろと零れ出てきて留めようがなかった。膝をつき、見上げた星たちはただ明るく美しく、寡黙で非情だった。自分はどうすればいい?雪の一片が真央の涙に触れて解け、頬の上の雫をひろげた。来夏先輩が恐れているものを、僕は何か知らない。例え知っていたとしても、僕のために克服してくれなんて、言えるはずがないじゃないか。ああ、やはり――星が綺麗なだけでは、誰も救われるはずがなかった。
今宵は波の上に星がさすらう。昨夜から今夜まで心の船を渡す星の波止場。そしてまだ、明日の夜の岸は見えなかった。