第二十四話 星の波止場・前編
「おい、まーお」
「うわぁっ!」
寮のベランダでぼんやりと星を見上げていると、突然後ろから飛びついて、真央を土ばかりの花壇へ突き落としかけた者があった――今夜の明音はいつもに増して機嫌がいい。たらこクリームスパゲッティと称して出した料理も、珍しく(というか奇跡的に)まともな味つけだった。麺に関しては、噛む度にもきゅもきゅという謎の効果音がついてきたが。
「ちょっと!明音、落ちる……!」
何とか足を地面につけたままにすることに成功した真央は、明音がぱっと離れた隙にようやく体勢を立て直した。
「明音!」
真央はくるりと振り返って言った。焦りと恐怖が反動的に怒りになったはずだったが、真央の小さな顔ではとてもその感情を表しきれていない。明音も悪いとは言いつつ、少しも悪びれている様子はなく、却って楽しげに笑声をたてるという有様であった。
「全く、もう……」
真央は溜息をついて、再び星空に帰った。その溜息は、決して明音に対する呆れだけが引き起こしたものでないことを、自分でもよく知りながら。明音はいい。いつもは拒絶されるばかりの人と一緒にコーヒーを飲んだというのだから。一方で自分は――やはり、高望みだったのだろうか――夕方の音楽室で楽譜の端にちらりと見えた来夏の影、その影が扉の向こうに消えた後も、真央は密かに彼がそこで待ち続けていることを期待していた。していたけれど……駄目だ。こんなのは我侭に過ぎない。来夏先輩は後輩として自分を可愛がってくれるだけなんだ。だから、来夏先輩は僕のことなんて…………
「星が綺麗だぜ」
「えっ?……あっ、うん、そうだね」
隣で並んで明音が呟いた一言に、真央は少々呆気にとられて頷いた。星が綺麗?確かに人の届かぬ深海のような暗黒の中に、砕かれた宝石のように星々が煌いている様は美しい。だが、そんなことぐらい目に見えている。真央は今、こうして星を見上げているではないか。なぜ、明音は知らせるように言ったのだろう。
「それでいいと思うぜ」
「へっ?」
「星が綺麗ってだけでいいと思うぜ。くよくよ考えないでさ。誰かを好きになるって、きっとそれだけのことだろ?」
「……言ってる意味が分からないよ」
「だからさ、関本先輩が好きになったなら、もうそれでいいじゃん。先輩が好きになったら、好きになった時点で全部完成。先輩に振り向いてもらうとか、付き合うだとか、そんなことは全く別の次元の話でさ。俺は星が綺麗ならそれでいいと思うもん。だから、真央が今悩んでることは先の話だと思って、今、自分が先輩を好きだと思えてることを喜ぶべきだと俺は思うぜ」
府に落ちないような顔をしている真央に、明音はにこりと微笑みかけた。それでもまだ真央は困惑したままで、どこを見たらよいかさえも分からず、仕方なく夜空に目線を戻した。そして思わず息を呑んだ。本当だ。一体、自分が今まで見上げていたものは何だったのだろう。星が綺麗だった。他には何も考えられないほどに。
これでいいんだな、真央は胸の中で密かに言った。今はただ来夏が好きだという気持ちだけでいっぱいだった。それだけでもう何もかもが完成されて、もう何も付け足す必要がないような気がした。そしてまた、その夜、真央は初めて来夏への恋心と正面から向かい合えたように思えたのであった。
***
もう正面から向かい合うことができない。あの大きく丸い緑の瞳に。かつては愛おしく思えたあの瞳に。
土曜日から今日まで、来夏は怯えるようにして日々を送っていた。追いかけてくる真央の笑顔を見る度に、未だ内側から来夏を見上げ続ける虚ろな笑顔が浮かんで笑えなくなった。それでも真央が何も気付かないのが辛かった。いっそ恐怖を露骨に示すことができたらどれほどよいか。真央に怯える心、それを隠そうする心、妥協しあう二つの心はどちらとも、自分の弱さゆえに生まれたものだった。
一方で、来夏はそればかりを悩む訳にもいかなかった。時は順調に進んでおり、今こうして一人で廊下を歩んでいる時分にも、文化祭は翌日に迫っていた。クラスではちょうど装飾が行われているところだ。何人かの生徒には材料の買出しも頼んだ。そろそろ帰ってくる頃だろう。彼らが帰ってきたら、またノアと一緒に作り方の手順を最終確認しなければならない。誰かと話したい気分ではないのに……校舎は興奮と歓喜と期待とで爆発寸前といったところであった。笑っている者、怒っている者、仕事をしている者、つかの間の休息に浸る者、いずれの生徒たちも、その表情は不思議な期待で輝いている。来夏には、自分と彼らとが同じ世界の人間だなんてとても考えられなかった。もう喜びとか嬉しさとか、そういったものとは全く隔絶されてしまったようだった。落合の冗談に笑う時、来夏は自分の笑い声に、声を失った真央が託した、乾いた虚ろな音を聞くのであった。
「あっ、関本」
自分を呼ぶ声で、来夏は我に返った。疎外感を胸にぶらさげたまま他人と話すほど、来夏は愚かではなかった。来夏はいつもの明るく活動的な表情を、西洋人の血が多く通った端正な顔に映すと、心の中の鬱々とした暗い森からは到底考えられない朗らかさで、相手を振り向いたのであった。
「ちょうどよかった。ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど……」
その頃、クリスはできる限り無表情を保ちながら、目の前の敵と対峙していた。目の前の敵とは、つまり理事長のことで、文化祭前日の視察とやらで高等部の校舎を訪れたらしいのだが、いつもどおりの恐ろしく気のない挨拶を投げかけても、理事長の反応はなかった。これは、火の海となったアトリエの救出劇をもっと評価するべきだとの無言の批判だと思ったクリスは、今度はもう少し明るい調子で「こんにちは」と言ってみたが、それでも理事長は黙したままだ。そこまで嫌われているのではしょうがないと、理事長の脇を通り抜けようとすれば、今度は黙ったままの状態で通行を妨害する。クリスは忙しいのと明日を不安に思う気持ちで気が立っていたため、怒鳴りつけないにするのに八割がたの精神力を浪費した。
「あの、理事長」
クリスは深く息を吸い込んでから言った。
「僕に何か用ですか?そうでなければ、そこを退いて……」
「君はなーんにも気付かないの?」
理事長の第一声は、いつもと変わらぬ調子であった。だが、クリスはそこに、何やら無視できないものを感じ取った。
「はい?」
「君、ノアと一緒に住むのをやめた訳じゃないでしょ。それなのに何も気付かないの?食べてるものも分からないほど忙しいから?」
「一体何の話です?」
理事長は答えなかったが、クリスはそのことを半分予想していたため、特にいらだちも驚きもしなかった。その代わり、落ち着いた声でちゃんと反撃はした。
「言ってくださらなければ分かりません」
肩をすくめた理事長に呆れている様子は見えなかった。
「……別に僕は怒ってる訳じゃないから。ただね、まあ、少しね、ノアが「可哀想」だなぁって思っただけ。それに、そうだね、ほんの少しだけ君に失望したんだよ」
「有瀬に関係あることなんですか?」
クリスがはっとする思いで尋ねても、理事長は返答を拒否し、何も言わず足早に去っていった。追いかけてまで答えを聞くような気力も時間もなかった。ただ、乱雑になりながらも透き通っていたクリスの心に、一つ暗い影が落ちただけだ。
しかし、一体どういう意味なんだ?有瀬がかわいそう?俺に失望した?自分は有瀬に対して何かひどいことをしたり言ったりした覚えはない。それなら逆なのか?自分が有瀬に対して何もしなかったから……
クリスは急いで首を振った。そんな懸念をする必要があるなんて、考えたくもなかった。ノアと自分との友情をかたく信じる気持ちがあった。まさか、その中に、意地やらプライドやらいうものが混じっているとは思わなかったが。
「クリス様、チョコレートケーキがやっと出来ましたよ」
「あっ、焼けた?」
ノアが一瞬ためらうような素振りを見せたのは、理事長との会話を聞いたせいなのかもしれなかった。しかし、とりあえず、ノアは頷いた。
「えぇ……『出来』ました。これならお店に出せそうです。間に合ってよかった」
もうすっかり模様替えした教室の中からは、ケーキを絶賛する声が溢れ出てきていた。ノアは照れたように、クリスは嬉しげに笑った。
「オッケー。じゃあ、後は材料がくるのを待って、全部冷蔵庫に詰め込めば完成って訳か。午前で全部片付いたよ。意外とあっさり行くもんだね」
「えぇ、でも、喫茶店が大変なのはどちらかといえば本番の方ですから、気は抜けませんけど。ミュージカルなんてすごく忙しいって秋元君が言ってましたよ。リハーサル中なんて怒鳴られてばかりだって」
「へぇ、俺ならとても耐え切れないや」
クリスは腕時計を見た。そろそろ弦楽部のリハーサルの時間だ。クリスは実行委員の仕事の一部として、弦楽部の発表の際の照明の役目を背負わされており、全く関係のない減額部の練習に召集されたことが、これまでも何度かあった。幸い茘枝と知り合いであったから、優雅ながら皮肉的な微笑を数度向けられただけで済んだものの、クリスの照明の腕は実際のところ半殺しものだった。同じ実行委員で、弦楽部の発表ではマイクの設置を担当する真央からは、「石崎先輩って何ていうか……ステージクラッシャーですね」とのありがたい言葉を頂戴した(真央はとりあえずカタカナを使っておけばかっこよく聞こえると思ったらしい)。
「じゃあ、有瀬、俺、そろそろ行くから……!」
「えぇ。クリス様が帰ってくるまでに、『完成おめでとう&成功祈願パーティ』の支度を終わらせておきますから。野瀬先生も連れてきてくださいね」
「そのパーティ、何か間違ってる気がするんだけどな。まあ、いいや。落合にくれぐれも装飾を壊さないよう言っておいてね」
「大丈夫ですよ、クリス様。いってらっしゃい」
笑顔で手を振るノアを見た時、彼に対して何かし損ねたのではないかというクリスの懸念が完全に消えうせた。ノアは全てに満足そうだった。クリスとの関係においても、自分が2年A組というクラスに貢献できたことにおいても、ケーキの味においても、自分の顔だけ見て去っていった養父に関することにおいても、本当に何もかも。二人の絆を妨げられるものなんてない。クリスは強く確信した。
しかし、ノアとの会見がもたらした明るい気分は、長く続いてはくれなかった。階段を駆け下りる途中で、クリスは薫とアニエスが仲睦まじげに立ち話をしているのを、偶然見かけてしまったのだ。クリスは薫が女性教師と話していても勘ぐるようなことはしなかった。まず、野瀬先生、里見先生は既婚者だし、桜木先生は歳も歳だし、すでに橋爪先生という素敵な恋人がいる。ジャクソン先生は何の理由を捻らなくとも論外と考えられ、鳥居先生については、落合がしきりにはやし立てていたが、本人がいるところでは口が裂けてもいえないような理由で、恐らく恋の萌芽はあり得ないだろうとクリスは思っていた。薫が生徒に優しくしているのをみても、そういう先生なのだとばかり思って尊敬がますます強まるだけだったし、クリスは他人と薫との関係のことでは、多少揺さぶられようが、最終的には何もないところに落ち着いて、ただ自分ひとりのもどかしさに悶えていればそれで済んだ。でも、アニエスは例外だった。あの美しいフランス人の未亡人を、クリスは心の底から好いていたが、彼女が薫の隣に連れ添っているのを見るときだけは、心がざわついた――アニエスは真央の歌の練習のために、最近は足繁く学校に通っていた。そのために、アニエスが薫や校長先生あるいは里見先生に、校内を案内されている光景を見ることも珍しくなかった――誰もが認める似合いの二人だ。二人とも絵のような美しさを持ち、善良で親切で才能に溢れ、欠点がまるでない。相性がよく、話題も合うようで、よく二人で夢中で討論している。おまけに、アニエスは再婚を、薫は結婚を考えてもおかしくない頃だ。それに、思い込みかもしれないが、薫もアニエスに対する態度だけは、他のどの女性とも違うような気がする。
「あら、クリス君」
アニエスが気付いて笑いかけた。クリスは軽くお辞儀した。浮上したクリスの目線を捉えたのは、薫の目だった。
「おや、石崎君、急ぎの用かな?」
「えぇ。ちょっと実行委員の仕事があって……」
「仕事熱心だね、君も」
脈打ちながらも共に不安を噴出している心臓は一体何なのだろう。
「クリス君、お仕事頑張ってね。クリス君の絵の展覧会は、絶対見に行くわ」
アニエスが日本語をたどたどしくなぞった。それは愛らしく微笑ましい動作であった。クリスにはあまり喜ばしくないことに。
もっと立ち止まって話していたい気もしたが、前回の練習の惨憺たる結果を考えると、遅刻なんてすれば、さすがの茘枝も黙ってはいないだろうと思われた。クリスはまたお辞儀をして、踊り場の方へ舞い戻った。アニエスと薫はまるで子どもを見守る夫婦のように、クリスの後姿を見送っていた。薫の腕がアニエスの白いワンピースの腰のラインを撫でた。
***
「あら、里見先生、どなたかお探し?」
「あっ、桜木先生、アニエスを見ませんでした?」
「ゾラさん?いいえ。学校にいらっしゃるの?」
「えぇ。秋元君が文化祭で発表をするので、その練習に。一緒に昼食でもと思って、音楽室を見てみたんですけど、誰もいないし……」
「変ねぇ。ピアノの伴奏ならどうせ音楽室しか使えないでしょうに」
「ごちゃごちゃうるさいわね!いいからさっさと捕まえていらっしゃい!」
「無茶言わないでよ、ジャクソン!生徒会長なんて絶対無理!内心私のこと見下してるオーラ醸しすぎだもん!捕まえて、その上ファッションショーに引きずりだすなんて芸当なんて出来っこないわよ!」
「あんたそれでも教師なの?!みちる、あんた独身のこと気に病みすぎよ」
「おい、誰が三十路で独身なことに負い目を感じてるって言った?!」
「まあまあ、淑女がそんな騒いではしたない。あなたたちは何なんです?」
「聞いてくださいよ、桜木せんせっ!あたしのファッションショーのリハーサルに、生徒会の子たちだけ集まってくれないのぉ。全く、素直じゃなくて困っちゃうわぁ」
「だからって、生徒会長を引っ張ってくる役目を私に頼むのはどうなのよ?」
「あらあら、そんなことで。皆さん人探し中でことですね。よろしい、私が校内放送でもかけてみましょう」
「そんな、桜木先生、悪いですよ。アニエスはきっとどこかにいますから……」
「いいのよ。その方が時間の短縮になるでしょ?それに、『葉桜』はもうすぐ混んでくるわよ。貴女方も、私が適当な理由をつけて呼び出しますから、さっさとさらっていきなさいね。私も恨まれたくはないから」
「はーい」
「あら、早くしないともうすぐ三味線のお稽古の時間だわ……」
「先輩、そこ、もうすこし左ですよ」
「えっ、あっ、うん」
真央に耳元でささやかれ、クリスは急いで後輩の指示に従った。しかし、どうも照明の位置を左に向けすぎたらしい。楽譜を見つめる茘枝が眩しげに眉をひそめるのが見えた。クリスは今すぐにも逃げ出したい衝動に駆られた。
「こりゃ照明の方が練習しないといけねぇよなぁ」
生徒会の仕事を抜け出してきたのだか何だか、陽が背後でぼそっと呟いた。おっしゃる通りです、と、クリスは冷や汗をたらし、照明の微調整をしながら密かに頷いた。 その時、美しい弦楽四重奏の後ろにくぐもった女性の声の放送が入った。クリスの耳には一言として届かなかったが、陽は放送を聞くなり怪訝そうな顔をしてホールを出て行った。茘枝も少し顔を上げた。
「なんだろ、アニエス姉さんも呼び出されてるみたいだけど……」
クリスよりスピーカーに近い位置にいた真央は首を傾げた。曲が終わった。ハイドンの「皇帝」第二楽章だ。急いで照明のスイッチを消す。別の照明担当の少年は、抜かりのない動きでフットライトをともした。
「さあ……」
必要もない応答をしたことを、クリスはすぐに後悔した。真央が不思議そうな顔でこちらを見ているのが分かる。クリスは弦楽部のメンバーたちが何事か打ち合わせているのを確認し、こほんと咳をしてから言った。
「そういえば、さっきアニエスさんを見たけど。千住先生と一緒にいたよ」
「あーあ。姉さんってば、千住先生とばっかりいちゃいちゃするんだから……いや、他の人とされても困るんですけどね。最近学校来てるのだって、僕のためというよりかはずっと先生のためみたいなもんですもん」
「そうなの?」
クリスが精一杯の平常心を保って聞くと、真央は呆れたように頷いた。
「えぇ。姉さんは何も教えてくれないけど、僕、あの二人が付き合ってるような気がするんです――こういう話は来夏先輩が好かないから、石崎先輩に話しますね――でも、そうだったらいいな。だってそうしたら、千住先輩が僕の従兄に……」
「中断してすまない。続きをしよう」
茘枝の声が真央の楽しげな想像を突き破った。クリスはそれでほっとした。これでやっと神経を、アニエスと薫のいないところに注ぎ込める。だが、クリスの照明の腕は下がる一方で、ついには2度目の「ステージクラッシャー」の称号を授かることになった。
***
何もかもが上手くいっている、それが理事長の感想であった。それ以上何か意見を求めても理事長が何も言わないことは知っていたし、あえて聞く気もなかったので、校長はただ、「そうですか」とだけ言って特製のコーヒーを差し出した。理事長はすぐに飲むと舌を火傷することを既に学習しており、湯気が活発なうちにはカップに手を伸ばそうとせず、一緒に出されたカステラだけ手で掴んで二口で食べた。
「息子さんの様子はどうでした?僕の記憶では、クラスでもずいぶん活躍していたように思いますが……」
「ふーん、そうなの?知らなかった」
「えぇ。料理のことに関しては、ノア君の右に出るものはいないでしょうからね」
「じゃあ、一言ぐらい何か言えばよかったかな。忙しそうだったから、声かけるのやめたんだけど。珍しく大勢の友達に囲まれてたしね」
「石崎君のおかげですよ」
校長は嫌に苦いコーヒーを含んで顔をゆがめた。どこで失敗したのだろうか。コーヒー豆がいい加減古くなってきているのか、それとも機械が悪いのか、それとも作る人間がぼけてしまったか……
「石崎君?石崎クリス君?」
「えぇ、もちろん彼のことです。彼はノア君にとって最高の友人と言えるでしょうね」
ソファから立ち上がり、ガラスの瓶越しにコーヒー豆の様子をうかがった。特に問題は見られなかった。蓋を開けて匂いを嗅いでみても異臭はない。その時、「最高の友人ねぇ」との皮肉っぽい呟きが聞こえたため、校長はさっと顔をあげた。
「何か異議がおありですか?」
校長にとっては予想外だったことに、理事長は曖昧な唸りと共に首を縦に振った。
「あぁ、多いにあるよ。君でも納得しそうな正当な理由でね。でも言わないさ。答えは彼が一人で見つけるべきだもの。君に話したら、君はまた余計な忠告をしそうだし」
「……言っておきますけど、僕は結構放任主義ですよ」
「おや。僕には散々ノアに構えっていってるくせに?」
「あなたのはただの放置、虐待でしょう?」
「他の先生方に君を探させといて放置するのも僕は虐待だと思うな」
機械にも故障がないことを確かめて、校長はソファの上に戻り、再び理事長に正面から向かった。先ほどのことが思い違いだったことを祈ってもう一口飲んでみたが、やはり露骨な苦味は健在だ。カステラの甘さで何とか舌の不快感をかき消した。当分コーヒーを淹れるのはやめよう、紅茶にしよう、と校長は心の中で決意した。
「それで、火傷の具合はどうです?」
「ん?今日はまだ舌を火傷してないけど」
「舌ではなくて右手の方です。病院には行きましたか?」
理事長は何も応えずに、ただ実物を示すことで答えを出した。校長は深い溜息をついてから、差し出したその右手でコーヒーカップを取ろうとしている理事長に忠告した。
「そのコーヒーは飲まないほうがいいですよ」