第二十一話 移り行く円舞曲・前編
見上げる空に夜の帳が下りる。月は冷たく冴え渡り、寄り添おうとする星たちを蹴散らかしている。騒がしい虫たちも今は息絶えて冷たい土の下、そして見下ろす町には灯りと人の呼吸が揺れている。開け放った窓から風が吹き、電話に押し当てた耳を凍らせた。それを合図にするように、少年はゆっくりと電話を下ろした。あの明るいはきはきした声が消えたおかげで、背後にかかるワルツがよく聞こえるようになった。少年は振り返った。オレンジ色の光があふれる室内では、男が一人ソファの上に腰を下ろしてくつろいでいる。そっと歩み寄って頬に手を充てると、男は青い目を細く開いた。少年はその胸の中に身を預ける。
「それで、ここにいるためにどんな嘘をついたのかな?」
「嘘なんてついてません。父と一緒に過ごすと言ったんです。間違っていないでしょう?」
「そう……間違ってはない」
男の指が少年の髪を梳る。葡萄酒で染めたような鮮やかな赤紫色に、照明が線を引いていた。男は微かに緩めた口元で続きを紡いだ。
「間違ってはいないけれど、彼が想定している君の父上は違うんじゃないのかな。そこのところを、ちゃんと説明してあげないと」
「嫌です。だって、あの人、きっと妬きますもの」
「妬くの?」
「えぇ。僕は何もかもあの人のことを知ってるから分かるんです。僕は一度もあの人のことをうらやましいと思ったことはない。本当はずっと軽蔑してるんです。光の中の真実は周囲に漏れ出してしまうから。でも、あの人は僕のことを何も知らない。何もかも分かったような顔をしていても、やはり何にも分かってない。気持ち悪い……僕はあの人のこと、好きじゃないんです」
「……随分ひどいことを言うんだね。我が息子ながら」
少年は父の抱擁を得て無邪気に笑った。
「えぇ。だって、僕には貴方が一番愛おしいんですから」
「そう?」
ワルツが止まった。そして、室内にも夜の帳は侵入する。聞こえたのは、小さく息を吐く音だけ。
***
「じゃあ、部屋の内装は今週中に考えてきて。次、メニューだけど」
今日の話し合いでは、来夏が黒板を書き、クリスが司会を進めている。来夏のようにスムーズにはいかず、やはりつっかえつっかえしながらも、何とかここまで辿りついた。休み時間まで後五分もない。メニューの全ては決まらないだろうが、一応大まかなことぐらいは決めておきたい。ケーキが何種類だの、飲み物はどうするだの。来夏と野瀬先生も口出しはせず、黙ってクリスの好きなようにさせてくれた。落合の腕が空中に上がった。
「何、落合?」
「いや、料理の指揮は有瀬が取ってくれるんだろ?だったら有瀬が決めた方がいいんじゃねぇかなって思ったんだけど……」
「あっ、そっかぁ。どうかな、有瀬?」
落合の提案に頷き、急いで見遣った先でノアはにこにこと笑っていた。クラス中の注目を浴びても特に物怖じした様子はない。案外肝が据わっているので、クリスも少し驚いたほどだ。
「いいえ。皆さんで決めてくださって構いません。できないものも特にありませんし、おっしゃる通りにしますから。その方が僕としては楽ですし」
「んー、そうなの?じゃあ、何か皆の意見を聞きたいんだけど……」
考える時間の二分を与えている内に鐘が鳴った。次の授業が体育のせいか、クラスメートたちは皆、来夏の号令を聞くなり廊下へ飛び出してしまった。ノアもその波に乗っていたことに気がついたのは、来夏と共に遅れて準備をしていた時だ。落合も机に突っ伏して眠る菜月を揺すっている。
「えっと、大まかなことは決まったよね。後はメニューを決めて材料の準備をしないと」
「それから内装に使う飾りもだ。今週中に予算を振り分ける必要があるな」
「あっ、そっかぁ」
ぴくりとも動かない菜月をとうとう諦めて、落合は自分の席の上に座り、体育のワンセットがそろっているか確認しはじめた。腰が重いのは、天敵森先生の授業だからだろう。落合はたっぷり時間をかけて体育着を検めていたが、話し合いながら荷物をまとめるクリスたちに、思いついたように口を挟んできた。
「あっ、そうだ、エーリアル。一つ確認したいことがあるんだけどよ……」
「何?」
クリスが訊き返すと、落合の歯切れは急に悪くなった。
「いや、あのさ、有瀬のことなんだけど……本当に大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「別に非難してる訳じゃねぇけどよ、あの調子でちゃんとやってけるかなーんか不安で。大丈夫なのかなって思って……」
「大丈夫だよ!」
クリス間髪入れずに答えた。その語気の強さには、菜月も目覚めてようやく顔を起こし、眠たげに目をこすった。
「えっ、なに?」
「有瀬は大丈夫だよ!まだ少し慣れないから、自分の意見とか考えとか、素直に言えないだけなんだ。有瀬は頼りなくなんかないし、料理のことなら、それこそ……!」
感極まって言葉につまったクリスの頭に、来夏がぽんと手を置いた。クリスの憤りに近い興奮は途端に鎮まり、クリスはきょとんとした顔で前のめりになった。落合もからからと笑っていた。
「おいおい、エーリアル、そんなにむきにならなくても、俺は何もそこまで言ってねぇぜ。あっ、もしかして、お前、有瀬のこと……」
むきになった恥ずかしさからか、それとも照れからか、クリスの頬はたちまち真っ赤になった。
「な、何言ってるんだよ!有瀬は友達だってば!それに、俺は……」
クリスは思わず息を呑んだ。瞼の裏を横切った微笑み。風になびく紺色の髪、眼鏡越しに優しくこちらを見つめる青い瞳と、白衣を纏ったすらりとした姿。まさか、でも。違う。そんなはずはない。だって、だってあの人は――
菜月が立ち上がる音で、クリスは我に返った。菜月は大儀そうにあくびをし、それからぐっと伸びをして、さほど感情のこもっていない口調で一言だけぼやいた。
「颯は渡さないから」
「……はっ?」
去り行く菜月に、クリスはしばらく何も言い返せないでいた。今のは一体何のつもりだろう。自分が想像していたのは颯先輩とは別の人だったはずなのに。単なる警戒だろうか。いつしか仲良くしているところを目撃されてしまったからか。
「何?お前、榊原先輩が好きなの?」
来夏はからかうように尋ねてきた。クリスは急いで首を振る。
「ま、まさか!」
落合もそろそろ動かなければいけないことを認めだし、三人は並んで菜月の後を追った。階段を下る途中でその人とすれ違った。だが、その人は鳥居先生と話すのに夢中でこちらに気付いてくれない。
「おっ、みちるちゃんにもとうとう春が来たな。よかったじゃねぇか、千住先生なんて玉の輿だし」
クリスはその人の影を目で追うのをやめた時、薫はようやくクリスを顧みたのであった。
***
「なあ、ライ、今日の授業がAB合同だって知ってたか?」
「あぁ。前回の授業の終わりに言ってたからな」
「じゃあ、今日の授業がダンスっていうのも?」
「あぁ」
「じゃあ、最後に授業に来た奴はあの髭と組むっていうのも?!」
「うるさいぞ、落合、静かにしろ!」
あの髭こと森先生に叱られ、落合は青ざめた顔で肩を落とした。来夏と菜月の慰めには、あまり気が入っていなかった。体育館の壇上で、森先生が演説している。
「毎年恒例だが、文化祭の後夜祭では三宿市の方々も交えて盛大なダンスパーティがある。この授業を使ってそのための練習をしておきたい。まあ、いくら張り切っても、残念ながらうちの真奈美は来ないがな」
「誰が四歳児と踊りたいと思うんだよ……」
落合がぼそっと呟いた。
「という訳で、怪我をしない程度にやってきたいと思う。という訳で、まずはステップの復習から始める。適当にペアを作れ。落合はすみやかにこっちに来るように」
忍び笑いが各所から漏れた。大河内もそれにならって微かに笑っているのを、落合は見つけた。クリスは自然ノアを求めて人ごみの中を探し始めたが、どこにもそれらしい姿は見当たらない。もう既に他の人と組んだのだろうか。いや、それならそうで構わないし、むしろ喜ばしいことなのだが。それでも……菜月が袖を引っ張ったので、クリスはノア探しを中止せざるを得なかった。しかし、三拍子のリズムを踏む足音にも、壊れかけたカセットテープが流す途切れ途切れのメロディーにも、ノアの影はちらりとも現れなかった。その代わり、菜月には「石崎、ダンス、下手」とのお言葉を脳が勝手に再生し始めるまで頂戴することになった。
「石崎、ダンス、下手」
「あぁ、有瀬なら頭痛がするとか言っとったぞ。保健室を見に行ってみたらどうだ?」
森先生の忠告を得て、保健室へと駆け行こうとするクリスを、何者かの声が呼び止めた。しまった、クリスは思った。そういえば、この間、廊下を走って副校長に怒られたばかりだったっけ。だが、両肩を包み込んできた手は、とても元体育教師の厳ついそれとは思えない。不思議に思って振り返ると、黒いポロシャツにグレーのパーカーを羽織った颯が笑いながら立っていた。
「なんだ、颯先輩かぁ。びっくりさせないでくださいよ」
「ちょっとからかってみただけだよ。実際に廊下を走るのは危ないんだから、気をつけなきゃ」
「はーい」
クリスは頭をかきながら聞こえだけいい返事をした。颯は満足したように二三度頷く。
「それでよし。ところで、クリス、今度の文化祭でダンス部も公演をやるんだけど、その時の背景、また頼んでもいいかな?」
「えっ、あっ、はい」
あっさり受け入れた後でクリスは内心首を傾げた。そんな時間が自分にあるのかといぶかしんで。しかし、颯はもう微笑んでおり、その微笑を打ち壊すには、かなりの勇気と非情さが必要だった。クリスはごくりと唾を飲んだ。
「ありがとう。いつも助かるよ、クリス」
「いいえ、そんな……」
「今度何かご馳走するよ。何がいいか考えておいて」
「あ、ありがとうございます!」
颯が去り、再び走り出そうとしたところで、副校長が踊り場から姿を現した。クリスはスタンディングスタートの体制を普通の徒歩の姿勢に大急ぎで改め、結果、不自然に進んでよろめいた。その様子はもちろん副校長にはばっちり目撃されており、恐々顔を上げたクリスはまともに目が合ってしまった。
「お、おはようございます……」
クリスは愛想笑いを浮かべようとして、今度は思いっきりこけた。副校長は不思議そうな顔をした。
「大丈夫か?」
「あっ、はい」
どうやら再び罪を犯そうとしていたことはばれなかったようだ。クリスはひとまずほっとして、一刻も早く副校長の目から逃れるべく、早歩きで行こうとした。
「あっ、石崎、待て。話がある」
やはりそうは問屋がおろさないのか。渋い顔で振り向いたクリスに、副校長は慌てて駆け寄ってきた。少なくとも人のことは言えないんじゃないか、とクリスは思った。しかし、副校長の話題は、廊下走り抜けの件とは、全く別のことであった。
「石崎、今度の文化祭のことなんだが、個展を出してみないか?」
クリスは数度目を瞬かせた。
「……えっ?」
「いや、無理強いはしない。そもそも君は実行委員で忙しいだろうし、別に客引きのために君を使うつもりもない。だが、もし、君にその気があるなら、派手な宣伝は特にしないという方向で、小さな個展をやってみてはどうかと思ってな……といっても、これは千住先生の提案なんだが。ちょうど視聴覚室が毎年空いてるから、そこを使ってはどうだろう?まあ、判断は君に任せるよ」
「えっ、千住先生が……?」
クリスは胸元に手を充てた。どうしよう。先ほど颯に頼まれたこともあるし、副校長の言うとおり実行委員の仕事もある。その上、日々の宿題が積み重なっているというのに、ここで安易な判断はできない。だけど、千住先生がわざわざ提案してくれたのだ。いつか自分の絵が好きだといってくれた先生が――唇に触れた指先が桜色に染まっていた。副校長は待っている。恐らく保留したいとの答えを聞くために。後になったら頷けなくなるかもしれない。忙しすぎる現実に埋もれて、この想いを台なしにしてしまうかもしれない。そうなる前に、自分を縛り付けてしまいたかった。埋もれて、二度と身動きがとれないように。クリスはそっと口を開いた。
「やります」
副校長は少し驚き、それから激励と感謝の言葉を述べてクリスの肩を叩いた。クリスにはほとんど聞こえていなかった。気のせいだったのだろうか。踊り場を見上げた時、一瞬薫の姿見えたような気がしたのだ。だが、追いかけることもできない今は、確かめる術もない。
***
「へえ、今日の授業はダンスだったんですか」
「うん……それより、頭が痛いって聞いたけど、大丈夫?」
「えぇ。少し横になったらすぐに治りましたから」
「そっか。よかったね」
里見先生からノアを預かったクリスは、昼休みの騒がしい廊下をのんびりと歩んでいた。ノアは元気そうだった。頭痛の原因はよく分からなかったが、大方睡眠不足とかその辺りだろう。昨日はひさしぶりに理事長と会ったそうだし。理事長とノアが会って何をするのか想像つかなかったが、彼らは彼らなりに楽しくはしゃぎまわったに違いない。クリスは嬉かったし、いつもより浮かれた調子にも見えるノアが微笑ましかった。 だからといって、決して恋をしている訳ではないけれど。
「ダンスの授業だったら、ちゃんと出ておけばよかったかもしれません。僕、ああいうの苦手ですから」
ノアが言った。ああいうのとは、つまり運動全般を指すのだろう。僻むような調子もなく、ノアは続けた。
「まっ、どうせパーティには出ないんですけれどね。人の多いところって何だか気後れがしてしまって。知らない人が多いと、特に」
「そんな。もったいないよ、せっかくの後夜祭なのに。
不満を覚えるのは、文化祭実行委員の性なのか。ノアは笑って首を振った。
「いいんですよ。毎年そうしてましたから」
「今年ぐらい出てみようよ。後二回しかないんだよ?それに、俺、来年は学園にいるか分からないし。有瀬と一緒に出てみたいな」
「えっ?」
二人は同時に顔を見合わせた。一人は憂いを含んだ表情で、一人で意外なことを聞いたような面持ちで。
「クリス、様……?」
「いや、なんでもないよ。ほら、前も言ったじゃないか。俺は絵を探しにこの学園に来たからさ、絵が見つかったあとはどうするかあまり考えてないんだ。叔父さんは多分帰ってこいって言うだろうけど……どうなるんだろ。その前に、絵はちゃんと見つかるのかな?最近なんにもしてないや。このまま絵のことなんか忘れて、普通の生活に埋もれていくのかもしれないな。それもいいかもね……でも、いつか絶対後悔する時がくるんだろうな。先のことなんて、分からないもんだよね。今、くよくよしてても、しょうがないか」
「クリス様……!」
突然胴に手を回されて、クリスは唖然とした。空っぽの教室の前、誰も見てない廊下の上でのことだ。ノアの高めの体温が、ブレザー越しに感じられる。見上げたノアの灰色の瞳に、昼の日差しが揺れていた。クリスは一瞬言葉を失くした。何を言ってるのか、自分でも分からなかった。
「ノア……?」
ノアはクリスの胸元に顔を沈めた。彼がしゃべる言葉が直接心臓に当たって響く。
「お願いです。絵を諦めるなんて言わないでください。クリス様が絵を求めてこの学園に来たから、僕たちは出会えたんです。僕はクリス様と出会えて本当によかったと思ってます。例え、いつか別れなければならないときが来たとしても、クリス様には絶対に夢を諦めてほしくないんです」
「有瀬……」
「ダンスパーティ、一緒に出ましょうよ。僕、頑張って練習しますから」
「うん……ありがとう、有瀬」
クリスはノアの小さな頭を抱きしめて言った。踊りだすような優しい感情が何なのか、クリスには言い表すことができなかった。ただ、ノアが愛おしかった。