第一話 水晶の導く場所・後編
「はい、じゃあ、石崎・エーリアル・クリス転入を祝って、乾杯!」
「乾杯!」
一体これはどういうことだろうか。クリスは夕食の条件として挙げたことを、再度思い出してみた――もちろん、口に出して述べた訳ではなく、落合が「飯だ!」と騒ぎ始めた時分に胸中密かに挙げた条件だ。静かであること。質素であること。平和であること。しかし、十六畳半の共同寝室を見渡せば、クリスの期待はあっさり裏切られたことがすぐに分かる。床は、食堂からうんとくすねてきた食べ物、パーティ用のカラフルな紙皿と紙コップ、炭酸飲料やジュース類の入ったペットボトルに埋め尽くされ、賑やかな小さな都会を創り上げていた。関本、落合、酒本は、二名は笑顔で、一名は無表情のまま、クリスに拍手を送っている。
「おめでとう、エーリアル!」
「いや、おめでとうとかその前にさ……何これ?」
「何って、歓迎会に決まってんだろ」
「あのさ、もしかして、俺たち同じ部屋?」
「おう、見ての通り」
「まじかよ……」
来夏に勧められるまま、クリスは、ペットボトルのコーラを避けてあけた場所に腰をおろした。うっかりポテトの上に座らないよう慎重に、だ。クリスが座った途端、三人の手によってクラッカーが打ち鳴らされ、色とりどりの紙ふぶきが料理の上に散った。
「遠慮するなよ、石崎」
当初は必要かと思われた忠告も、部屋中に広がる匂いによって、次第に重要性を欠けてきた。揚げたてのポテト、トマトとチーズのピザ、カルボナーラとペペロンチーノのスパゲッティ、言葉通り山積みになったから揚げ、トマトとレタスとセロリのサラダ、ざっと確認できただけでもこれくらいだ。他にも皿を掻き分けていくうちに、クラブサンドイッチや夏野菜のカレー、フルーツの盛り合わせなども見つかった。
「そういえば、関本ってベジタリアンだったよね」
来夏がサンドイッチからベーコンを取り除くのを見て、クリスは思い出した。ベーコンの行き先は落合の皿の上だった。
「おっ、覚えてたのか。で、そういう石崎は野菜が嫌いだったよな?」
「駄目だろ、エーリアル。野菜は食わなきゃ」
「いやあ、なんか食感がほら……」
「んなこと言ったって、トマトとレタスで同じ食感な訳ねぇだろ」
「んー、じゃあなんだろう。気持ちの問題かな?」
その時、クリスは、ふと、隣に無言で座っていた酒本の、怪しげな行動に気付いた。ピザの上のトマトをクリスの皿に移しているのだ。わざわざ箸を逆さにして使う配慮はありがたいが、明らかに今の話を無視した行動である。だが、酒本はクリスに気付かれても構わぬ様子で、ピザから丁寧に赤色を排除している。クリスはポテトをウーロン茶で飲み込むと、こう切り出した。
「あの、酒本君?」
「酒本でいいよ」
もしかすると初めてになるかもしれない会話だった。
「ありがとう。で、えっと、何してるのかな?」
「トマト嫌い」
「はっ?」
「トマト嫌い。茄子も嫌い。うなぎも嫌い」
「えっ?」
「でも、残すのもったいないし。食べてよ、石崎」
「あの、俺、野菜嫌いって言ったよね?」
酒本は聞こえなかった振りで我儘を押し通した。
嫌いなものの押し付け合いも来夏と落合の食欲によって治められ、後半になると、パーティはおおいに盛り上がりを見せた。主に落合が場をしきり、来夏がそれを手助けした。酒本は静かだったが、嫌な顔は決してせず、寧ろどこか楽しそうに場の流れを受け入れていた。クリスも同様だった。予想もしなかったこの温かな待遇に、今まで固く緊張していたクリスの心も、大分ほぐれてきていた。嬉しかったのだ。ここにいる三人は、クリスを単なる新参者として歓迎してくれている。クリスの名声に媚びることなく、ただ、クリスを思いやり、そして自分の楽しみも尊重して、この歓迎会を開いてくれたのだった。イギリスではなかった付き合いだった。イギリスでは皆……違う。そういえば、人と打ち解けるのを自分の方から嫌っていたんだ。自分は崇高な思想の中にいると思い込み、周囲をいつも見下していた。平面の世界ばかりに夢中になっていた。そのせいで、今まで友達と騒ぐ楽しさを知らなかったのだ。もったいない――惜しまれるほど、クリスはこの晩、沢山笑い、沢山驚き、沢山慌て、沢山喋った。
瞬く間に時が過ぎ、来夏の冗談に皆で腹が痛くなるほど笑っているうちに、消灯時間がやってきた。時間に関してはやたら厳しいこの学校は、外から灯りが消えているかチェックされ、消えていないと厳しい罰則があるという。しかし、事務員の準備が悪かったために、ベッドは三つしかなかった。クリスはどこで寝よう。落合がにやにやしながら「一緒に寝るか」と誘いかけたが、そちらは丁重にきっぱりと断り、クリスは布団だけ借りてきて床で寝ることにした。ところが、クリスがシャワーから戻ってみると、用意したての寝床では酒本が丸くなっていた。
「おい、酒本」
もう既に熟睡モードに入りかけた酒本を、来夏がつついた。
「布団の方が好きなんだもん。石崎は僕のベッドで寝るといいよ」
酒本は自身のベッドを指差してそう言い残し、瞬きもせずに眠りに落ちた。クリス、来夏、落合の三人は、顔を見合わせて肩を竦め、それぞれのベッドに横たわった。灯りが消され、しばらくは他愛もない話題がだらだらと口を継いでいたが、会話も次第に途切れがちになり、遂に誰もが黙り込んだ。クリスだけが起きていた。
やがて、枕元のデジタル時計が午後十一時を示した。もう大丈夫だろう。学園を覆う重々しい沈黙は、この部屋をもみっちりと埋め尽くしている。聞こえてくるのは、落合の怪しげな寝言と、来夏の微かな寝息、そして酒本が時折何かを蹴飛ばす音のみだった。クリスは膝で掛け布団を退け、ゆっくりと上半身を起こした。ベッドからそっと飛び降りた瞬間、酒本が空っぽのベッドの脚を蹴って何事かむにゃむにゃと呟いた。クリスは暫く様子を窺った後、背後に気を遣いながら、慎重に、素早く扉を開け、そして閉めた。扉に耳を充ててみたが、誰も起きた気配はない。よかった。成功だ。クリスはほんの少しの罪悪感に駆られながらも、しゃんと顔を上げて進み始めた。まずは寮から出なければならない。
廊下は暗かった。灯りといえば非常口への誘導灯のみで、クリスは部屋に来る途中頭に叩き込んだ地図を、何度か立ち止まって思い出す必要があった。次の角を左、それから非常用の階段を二階分下りる。それで出口にたどり着くはずだが……
「やった!」
見事にその通りだった。ガラスの巨大な回転扉は、誘導灯の緑色の光に反射して、きらきらと輝きながら、夕刻から相変わらずのリズムで回り続けていた。誰にも望まれぬ舞を、こんな夜にもたった一人で。彼女は前例のない夜中の観客に驚き、喜んでその透き通ったほっそりした手を差し出した。クリスは誘いを受け入れ、そして、夜へと飛び出した。
月の美しい晩であった。風は凪ぎ、夏の遺産と秋の挨拶が混ざり合って、汗ばむような、それでいて心地よいような、不思議な温度を縫い上げていた。草むらの宿では、虫たちが発声練習に励んでいる。石畳の道は月光を浴びて、晴れた日の浜辺の白い砂のように煌き、クリスの進むべき道を教えてくれた。クリスは素直にその案内に従った。悔いも不安も伴わず、ただ真っ直ぐに歩いた。彼の両眼のサファイアを、一筋の白い線が割いていた。
校舎に庇われながら誇り高く頭を掲げてそびえる白い塔を、クリスが意識しないはずがなかった。学園のシンボルとも云える存在だ。塔の外見は、ピサの斜塔によく似ているが、それよりは細身でやや高く、巨大な鐘を頂いている。初めて見たその瞬間に、クリスは悟った。自分の追い求めてきたもの、自分を学園へ導いたものは、塔の上にあると。一般生徒の立ち入りは禁止されていることを、昼の間に確認した。ならば、教員の目がない夜に行こう。クリスは決めた。それほどまでに確信していたのだ。
ところが、塔が近づくにつれ、置いてきたはずの不安が、再び壇上に駆け上ろうとしているのを感じた。クリスは寝巻きの胸元を手繰り寄せた。希望だけが不安を押さえつける役目を担った、唯一の要員だった。いいのだ。あの絵さえ見られれば。この学園に来た理由はあの絵のためだ――退学なんて、代償としては軽すぎるぐらいだろう。クリスはまだ気付かなかった。退学や名誉よりも、もっと大切に思い始めたものの存在に。それらと出会って、まだ一日も経っていなかったから。
闇夜に輪郭ばかり浮かんだ校舎を横切り、花も眠る中庭を通過し、噴水も今ばかりは憩っていることを確認して、クリスはとうとう秘宝の下までやってきた。足元から仰ぎ見る塔は威圧的であった。昼間は、日の眩しさに色が紛れてしまうことも手伝って、なんだか遥か遠くに霞がかって見えた。だが、夜の黒に塔の白は対照を成し、世の他のものたちから孤立してしまったようだ。そのことが、塔の神秘性を一層増していた。クリスはためらわなかった。塔の後ろに回りこみ、立ち入り禁止の看板を右手で退けると、閉ざされたアーチ型の扉の前へ進み出た。扉の縁をぐるりと薔薇の彫刻が巡り、中央にはクリスの知らない言語で警告らしきものが刻まれている――Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate'
クリスは警告の窪みに両手を充てた。頂上で鐘が鳴る。鐘の振動で戸が震え、摩擦で手の平が熱くなった。クリスが目を閉じたその刹那に、扉は真ん中で割けてスライドし、左右の壁の中に吸い込まれた。
塔の中央は筒抜けになっており、丸い天井が、壁に沿って延々と続く螺旋階段に影を落としている。ガラスのない窓から月光が差し込み、足元を照らし出す。幅の狭い階段を通るのに、銀の灯は絶対に不可欠であった。少しでも足場を踏み外せば命はない。階段を上るクリスの顔は、決闘を前にした人のように真剣で、同時に何か深い思索に耽っているようでもあった。呼吸を荒げることさえも、足を痛めることさえも、クリスは忘れていた。求めるものは既に頭上にある。あと何十メートルか。あと何メートルか。
終着点が見えてきた。階段は、丸天井に空いた小さな穴に続いている。興奮が胸を捕らえた。頭が、肩が、胸が、腹が、円蓋上の広場の空気に触れ、そして爪先が石灰岩の床にして天井を踏んだ。
何よりも先に目に入ったのは、水晶のシャンデリアでも、部屋の中心にそそり経つ巨大な円柱でもなく、佇む一人の少年だった。少年は、月光の助けも受けずに輝く水晶を見上げ、殉教者の如く静かに手を組んでいた。柱の影が少年の顔を覆い隠してしまい、着ている白いローブだけが確認できた。クリスは彼につられて天を仰ぎ、漸く頭上の奇跡に気付いて呆然とした。巨大な水晶の群れは、目前に迫るばかりで、今にもクリスのサファイアと重なりそうだ。クリスも少年も、全ての意識を頭上に奪われていた。二人は互いの存在も意識できないまま、暫く同じ行為に没頭していた。
クリスの意識を呼び戻したのは、鐘の鳴る音だった。十二時だ。塔が震える。何を思ってか見回してみると、いつの間にか少年は窓枠に立っていた。皮膚を剥かんばかりの激しい風が、彼のワインレッドの髪を乱し、ローブをはためかせている。ちらりと背後に巡らせた灰色の瞳は、恐怖のあまり大きく揺れていた。水底に沈めた煙水晶のように。有瀬ノアは体を前に傾け、空中に一歩踏み出した。星空にその身を捧げんとして。空は彼を抱きとめようと待ち構えている。ノアの体が窓から消えた。クリスはもう動いていた。
「有瀬!」
風に痛めつけられて萎えながら、それでも救いを求めて伸ばした手を、白い手が取った。虚空に蝕まれかけた身は引き摺りあげられ、彼の救い者に衝突し、二人は床の上に倒れこんだ。激しい呼吸が唇を歪める。目にはまだ何も映りこまない。だが、クリスは、有瀬ノアの手をしっかりと握っていたし、腹の上にその重みを感じていた。
「なんで……っ!」
クリスはそこで息を継いだ。
「なんで、こんなこと……しようと……っ?!」
「石崎様……」
「どうして……」
やっと確かめたノアの表情からは、何の感情も見出すことができなかった。クリスはそれを見て言葉を失ったのだった。これが先ほどまで自分の命を投げ捨てようとした者の顔なのか。絶望がそうさせるのだろうか。どうも関係ない気がした。若しや、ノアは二重の人格を持っているのか。先刻身投げを試みたノアは、不思議そうにこちらを見下ろすノアとは違うノアなのだろうか。クリスが唖然と黙ったままでいると、ノアは無邪気に首を傾げた。思わずぞっとした。彼の手を握る力も失せていった。
「どうして……」
ノアはその言葉を聞かず、何かに目線を奪われて立ち上がり、目の向く方向へぱたぱたと走り出した。クリスははっと身を起こしたが、倒れた拍子に頭でも打ったのか、足が上手く地を捉えてくれない。よろめきながら立ち上がると、ノアが誰かの袖に幼子のように縋っているのが見えた。すらりとした長身の黒い髪の男性だ。面識はないが、名前は知っている。学園中の至る所に彼の写真があった。生徒会長、千住慎だ。
「どういうことだ、これは?」
慎の口調はいらついていたが、面白がってもいた。
「何故ここに一般生徒がいる?」
「えっと、それは……」
クリスは俯いた。苦く酸っぱいものが舌の奥から込み上げてくる。クリスは夢から無理やり引き上げられたような気がした。引き上げられる前は、自分だけの世界だった。「絵」はここにあるべきだったし、確かに存在していた。自分が「絵」と出会うのは必然だった。「絵」の存在は強く求められていた。だが、今この瞬間――千住慎が現われた瞬間――「絵」を必要としない世界が押し寄せてきた。それは、クリス以外の全ての人々が共有している世界であり、クリスが名声を響かせる世界であり、クリスを褒め称える世界であり、また、彼が来夏たちと笑った世界でもあった。そこでは、「絵」はただの幻、妄想の産物だと片付けられ、「絵」を求めたクリスには、世の秩序が罰を下すのであった。失望が、綿に染みる水のように、クリスの心を重く湿らせていった。
慎はノアの頭を撫ぜ、その顎をとって頬に接吻を落とすと、ゆっくりとクリスの方へ接近してきた。こんな時間にも関わらず、しっかりと身を制服で固めた慎は、顔立ちも端正そのものであった。口元の黒子が不敵に吊上がり、青い目は少なくはない興味を以ってクリスを観察している。その奥で、ノアはにこにこと微笑んで二人の様子を見ていた。
「石崎・エーリアル・クリスだな?」
「……はい」
「ふん、今日転校してきたばかりってやつか。ノアが理事長の息子っていうのは知ってたか?」
「……一応」
「じゃあ、扱いには気をつけろ。怪我なんかさせたら、碌なことにならねぇぞ」
「なっ……!」
抗いかけたクリスの口を、慎は人差し指一本で止めた。そして彼の金色の髪をくしゃくしゃにすると、くるりと振り返ってノアの元へ戻った。ノアは嬉しそうに慎に寄り添った。慎も彼の腰に手を回し、また一つ額に接吻を与える。一人さっぱり訳の分からないクリスは、慎が何か説教か説明を続けるのを待っていたが、彼はクリスを見ないまま、手だけ振ってこう言い捨てた。
「ガキは早く戻って寝るんだな。落ち着かない首は枕の上に預けとけ」
「おやすみなさい、石崎様」
水晶の部屋から完全に抜け出す間際、ノアは微笑みながら丁重に頭を下げた。慎がその肩をとっていったのが、クリスの見た二人の最後だった。
疲労が膝を落とした。脳も心も酷使されすぎてくたくただった。答えもできない疑問ばかりが吐き出されていく。自分はどうするつもりだったのだろう。何が自分をここへ導いたのだろう。どうしてノアは身投げの真似などしたのだろう。何故、慎は自分を咎めなかったのだろう。そして、あれ程までにここにあると確信していた「絵」は、一体どこにあるのだろう。
頭上の水晶は眩しすぎて理解できなかった。