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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第三章 Largo
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第二十話 冬は色めく・後編

 翌日のホームルームの時間に、話し合いは行われた。来夏の予想通り、落合はホストと叫び、野瀬先生に言葉通り手痛い一撃を食らっていた。菜月は昼食前で腹が減っているのか、たこ焼き屋からソースせんべいまでの食べ物屋の名前を言い尽くし、黒板に意見を書き留めるクリスの仕事は、ますます忙しくなった。意見は一通り出たが、正直皆ぴんとくるものはないらしく、何もまとまらないままにその日の話し合いは終わった。昼休み、クリスと来夏、それに野瀬先生の三人は、溜息を吐きながら机を挟んで向かい合っていた。

「どうしよう?」

「どうしようって言われてもなぁ」

「本当。どうしよう、だわ」

三人は同時に、ホワイトボードへと変化しつつある黒板を見やった。

「個性豊かなのは嬉しいんだけどねぇ……」

「というよりは、皆いい物を思いつかないんだと思います。だから適当に思いついたものを挙げてるんでしょう。その……落合と酒本以外は」

来夏は冷静な分析を述べた。クリスは自分の手には負えない問題に、ぐっと腕を天井に伸ばし、そのまま机の上に突っ伏した。野瀬先生も腕を組んで考え込んだままで何も言わない。

「あーあ、何か食べ物の名前見てたら、お腹空いてきたなぁ……」

来夏がちらりと腕時計を見た。

「そうね、そろそろお昼にしようかしら。まあ、また明日一日あるし。何かしらには決まるでしょう」

野瀬先生の言葉に三人が立ち上がった時、ちょうど良いタイミングで、ノアが教室に飛び込んできた。今日はクリスもノアも寝坊したため、昼食は購買で各自ということになったのだ。ノアはクリスの分も買ってきてくれたようで、多すぎる戦利品をクリスに見せてにこっと笑った。クリスも急いで駆け寄った。

「適当にパンを買ってきましたけど、クリス様はどれにします?」

「そんな。有瀬が買ってきたんだから、有瀬が先に好きなのを選びなよ」

「でも、元々は僕が寝坊したせいですから」

「寝坊は両方の責任だって」

「そうですか?……あっ、野瀬先生!」

財布を手持ちに、カフェテリアへと向かおうとしている先生を、ノアが思い出したように呼び止めた。野瀬先生は立ち止まり、珍しく優しげに微笑んで「何?」と尋ねた。

「あの、父は今日高等部には……」

「今日はまだお見えになってないわね。明日には校長先生とお話しに来るそうだけど」

「そうですか」

ノアは相変わらずの笑顔で頷き、礼を言った。


「あれから理事長には会ってないの?」

「えぇ。元々頻繁に顔を合わしてた訳ではありませんから。父のことだから不思議ではないです」

 菜月の鳶のような猛攻からメロンパンを死守しながら、クリスは紅茶でパンの破片を飲み込んだ。

「手紙とかメールとかでも何も言ってこない訳?」

「父は筆不精ですし……それに極度の機械音痴なんです。この間もテレビを蹴飛ばして壊してしまって。これで今年に入って五回目なんですが。今回で今年最後だと嬉しいんですが」

「それはなんか機会音痴と違う気がするんだけどな……」

「そうですか?」

ついにメロンパンを一口やられた。鮫のように食いついてはなれない菜月にそのパンはやることにして、クリスは新しく焼きそばパンの袋を開けた。菜月ががっついている間にさっさと胃に収めなければならない。

 二人のすぐ隣では、来夏が真央に昨日の会議の内容を伝えている。真央ははいはいと素直に聞いているように見えて意外と理解していなく、来夏に何度も怒られていた。ふと話が脱線した拍子に、千住先生との名前が耳に入り、クリスは思わず聞き耳をたてた。込み上げてくる好奇心を抑え切れなかった。

「それで、検査はどうだったんだ?」

「別に問題はありませんでしたよ。だから言ってるじゃないですか。僕はもう大丈夫だって。皆過保護なんですよ。アニエス姉さんも、母さんも。千住先生にまで心配されました」

「信用ならねぇんだろ、お前のことが」

「あっ、ひどい!」

「まあ、それは冗談にしても……用心するに越したことはねぇんだぜ?検診の日も忘れんなよ。毎回千住先生に送ってもらえると思ったら大間違いだ」

「分かってますよ……でも、千住先生って素敵な先生ですね。優しくて、それに頭もよくて、かっこよくて、車の運転もすごく上手かったし。昨日も病院の看護婦さんたちがすっかり見惚れましたよ。ほんと、先生には見えませんよね」

他の者の目には、来夏の顔が微かに引きつった気がした。

「お前、まさか……」

「違いますよ!ぼ、僕はただ……」

真央は頬を赤らめて少し俯いた。クリスの不吉に高鳴った胸の音に、ノアの灰色の目が素早く移動した。

「僕はただ……その……高望みかもしれませんけど……あの人がアニエス姉さんとお付き合いしてくれたなぁって……」

小さな安堵の息がどこから漏れたのか、クリスにも分からない。二箇所から聞こえたように思うが。来夏はわざとらしく呆れたような顔を浮かべてみせた。

「お前なぁ」

「いいえ、別に本気で願ってる訳じゃないんですよ!でも、ほら、この間の石崎先輩たちの引越しパーティの時も二人で楽しそうだったし。姉さんがあんな表情もなんだか久しぶりに見た気がして。僕の方は安定してきましたから、あとは姉さんかなって……」

「クリス様」

ノアに肩を叩かれ、クリスはようやく手に持っていた食べかけのパンがいつの間にか消え去っていることに気がついた。超特急で振り向いた先に菜月はいない。沸きあがる水のカーテン越しに向こうを見やれば、もぐもぐと口を動かし、こちらの様子をうかがっている菜月の姿があった。

「あいつ……!」

ノアはくすっと笑声を漏らした。

「クリス様も懲りませんね。油断しちゃダメだってことぐらい、分かってるくせに」

「あっ、先輩、俺の弁当分けましょうか?」

明音の有難い申し出を、クリスは丁重に断った。彼が緑色のスライム状のものを差し出してきたので。

「だ、大丈夫。お腹は別に空いてないから」

「そうなんっすか?」

「うん……多分」

「無理しないでくださいクリス様。後でケーキでも……作りましょう」


***

「それで、あれから息子さんには会われていないのですか?」

「当たり前じゃない。用もないのに」

 正午の日のよく当たる校長室で、理事長はコーヒーをすすりながらいつもの通り淡々と呟いた。全ての衣類をオーダーメイドにするのもいかがなものかもしれないと考えながら。なぜなら、ぴたりと理事長の腕の長さに会った裾は、右手の火傷の痕を隠してはくれなかったからだ。校長は時々そちらに、痛ましいような、皮肉っぽいような視線を送っていたが、理事長は平然としている。だが、何か反応してやりたくなって、理事長は右手を持ち上げてしげしげと眺めながら、芝居がかった調子で言った。

「あーあ、これじゃあ天下の色男が台無しだ。そりゃ、男はちょっとぐらい傷があった方がいいとも言うけどね」

「あんな無茶をされるからです。命があっただけでも有難いと考えなければ」

「君は意外と冷たいんだね。普段は散々ノアにもっと構え構えってうるさいくせに。いざ命を助けたとなると皮肉ばっかりだ」

「息子さんを助け出されたことについては尊敬も覚えましょう。しかし、向こう見ずにも程があります。あの状況で火の中に飛び込むなど。もし貴方が亡くなったら、奥様はどうなりますか?」

「喜ぶんじゃないかな、美和子なら」

校長は何も言わなかった。あの可憐な貴婦人が未亡人となった時のことを思うだけで、哀れが身に染みる。校長はカップを持ち上げ、口に運びきれないまま受け皿に戻して再度説教を開始した。

「それにこの学園はどうなります?貴方がいなくなったら、誰が学園を引っ張っていくのですか?」

「僕の仕事ぶりを見といてよく言うよ。あのねぇ、僕も不死身じゃないの。今日だって帰り道にトラックに轢かれるかもしれないし、上から落ちてきた植木鉢に当たって死ぬかもしれないの。僕がいなくなったら動かないようじゃ、こんな学園は終わりだね」

「……そうですかねぇ」

校長の口を、扉をノックする音が閉ざした。校長は訪問客が副校長だった時に備え、素早く臨戦態勢を取ったが、理事長の勝手な指示で入ってきたのはジャクソン先生だった。ジャクソン先生は痩身に紫の衣装を身に纏い、理事長の顔を見て長い睫をぱちぱちと瞬かせた。

「あらぁ、理事長じゃないですかぁ」

「やあ、久しぶり。元気そうだね」

「おかげさまで。理事長はお元気?お怪我の具合はどう?何だか奇跡の大脱出を経てますます男ぶりが増したって感じもしますけどぉ……ごめんなさぁい、私お邪魔でした?」

「いや、構わないよ。校長に何か用があるなら座りなよ」

「ありがとうございます」

ジャクソン先生は腰をくねらせて薦められた席につき、理事長が背後から見守る中で、一枚の紙切れを校長に差し出した。

「これは何です?」

「企画書です。私、洋服のデザインが趣味なんで、今回の文化祭で是非ファッションショーをやりたいと思って。校長せんせっの許可をいただきたくて」

校長より先に理事長が企画書を手に取った。理事長は部屋を歩き回りながら楽しそうに口元をゆるめて何度も頷き、それから一頻り声を上げて笑って校長にも手渡した。ジャクソン先生は睫毛を高速に動かして、理事長の様子を観察していた。

「いいじゃないの。僕はいいと思うよ。生徒たちも面白がるんじゃないかな?ねっ、風間校長?」

ジャクソン先生は嬉しそうに手を叩いた。校長も一回だけこくんと大きく頷いた。

「えぇ、面白いと思いますよ」

「ありがとうございます!じゃあ、校長せんせっ、ここにサインを……」

「まずい!」

校長は突如叫んでひらりとデスクを飛び越え、窓から飛び出していった。唖然とするジャクソン先生と理事長の前に、飛び込んできたのは副校長と橋爪先生だった。副校長はなにやら書類の束を抱え、橋爪先生は黒いジャージの膝に手をついてはあはあ息を吐いている。

「校長はっ?!」

「今飛び出していきましたよぉ」

ジャクソン先生が答えた。副校長はがくりと肩を落とし、それからふと気が付いたように言った。

「あれ、理事長、校長との会談は明日だったはずじゃ……?」

「うん。ちょっと明日だと面倒だったからね。それより昼食は何がいい?うなぎ?寿司?蕎麦?うどん?天ぷら?」

理事長は、校長の机からファイルを取り出してぱらぱらと捲っていた。ジャクソン先生の「うなぎ!」の一声で、その場にいた四人分の昼食は決まった。


***

 台所からうなぎの香ばしい匂いがする。理事長がわざわざ夕食を送り届けてくるなんて一体どういう風の吹き回しだろう。ノア曰く「どうせ昼食に余分に注文したんでしょう」とのことだったが。ちなみに、魚の区別がちゃんとついているかどうかについては、「父はうなぎが好物なので大丈夫です」とのことだった。

 込み上げてくる唾液をごくりと飲み込み、クリスは小さな二枚のメモ用紙を見比べて、順にチェックを付けていた。もう出し物が決まったクラスには何をするのか聞き込みに回り、出すぎた案の中から被ったものを消去しているところだった。別に被っていてもよかったのだが、集客という点でやはり不利になるし、似たりよったりではつまらない。ミュージカルは1年B組と被るが、演目さえ違えば何とかなるかもしれない。三角っと。お化け屋敷は3年A組とB組が合同でやるようだ。三年生がやるものにはとても適わないだろう――こうしてチェックをしていくと、残ったのは菜月が余すことなく挙げてくれた食べ物屋ということになる。しかし、三宿学園の生徒は一般以上に味に厳しい。具材を余らせることはかたく禁じられているし、衛生管理も大変だ。恐らく全て却下となるだろう。すると、やはりミュージカルか劇となるのか?野瀬先生は裏方に回る子が多いからあまり好きじゃないと言っていたが……

「クリス様、夕食ができましたよ」

「あっ、うん」

クリスはひとまず筆記用具をしまうと、ガラスの平面の上に食事が並ぶのをおとなしく待った。その間も、頭の中では考えを巡らせながら。

「大変ですね。実行委員は」

「まあね。しょうがないよ。でも、本当に何をするのかなぁ……この調子だと劇かミュージカルになりそうなんだけど。後は食べ物関係かな」

「劇でいいんじゃないんですか。ありがちで」

「ありがちで?」

「えぇ、ありがちで」

クリスは箸とお椀を取った。一口含んだ味噌汁は何だかいつもと違う気がした。なぜだろう。口当たりから香り、味に至るまで、まるで馴染みがないのである。

「でもさ、劇だとやっぱり舞台に立てない子とか出てくるだろ?そういうの、野瀬先生はあまり好きそうじゃないんだ」

「そう言われても……僕なんかは、舞台裏の方が性にあってますし。そういう人たちは大勢いると思いますよ」

ノアはクリスに水を注いで渡した。

「そりゃあ、そうかもしれないけど。やっぱりつまらないよ。だとしたら、やっぱり食べ物関係なのかなぁ。でも、色々と大変そうだし……あっ」

「どうしました?」

尋ねてもしばらく返事のないクリスに、ノアは訝しく思って顔を上げた。クリスはうなぎを箸でほぐしたまま自分を見つめ、ぴたりと固まって動かない。ノアは首を傾げ、すぐにまた食事に戻った。自分の作らない料理を食べるのは久しぶりだ。父はもしかして気を遣ってくれたのだろうか。もしかして、全て見通しているのだろうか。

「そうだ……君が指揮を執ってくれればいいんだ」

そして、全て見通せていないのはこの人。

「……何のですか?」

「料理のだよ!だって、有瀬が作るものなら絶対人気が出るはずだし、お客さんだって絶対集まるよ」

「ご冗談を」

クリスの表情の輝きが一層強まっていくのが視界の端に見えた。そのまま目を逸らそうとして、何の気なしに机の上に置いた左手をぎゅっと握られていることに気付いた。途端にノアの頬が仄かに赤くなる。

「ねっ、有瀬」

「でも……」

「食べ物は何でもいいよ。有瀬の得意なもので。色々あるけどさ、焼きそばとか、ドーナッツとか。あっ、ほら、今日作ってくれたケーキとかでも」

「……えぇ、じゃあ、ケーキなら」

ノアは小さく頷くと、クリスは飛び上がって喜び、席を立ち上がった。テーブルの上で皿がかたかたと音をたてる。

「本当?ありがと!じゃあ、ちょっと関本に電話してくるね!あっ、今日のケーキ余り、明日学校に持っていこうよ。皆に食べてもらえば、絶対にそれで決まるからさ」

食事中にも関わらず、クリスは携帯電話を取って二階の部屋へと駆け上がっていった。行儀の悪さも忘れて飛び出していくなんて、ノアに文化祭の主役になってもらうということが、よっぽどの名案に思われたのだろう。戸が二度三度と閉じる音を聞きながら、ノアは静かに肩を落とした。ちょうどいい。味噌汁も冷める。何とか上手く誤魔化すことができる。


「そうだね、じゃあ喫茶店とかでいいかな?うん。うん。大丈夫。有瀬は色々詳しいから、何でも指示してくれると思うよ。一応明日皆に聞いてみるってことで。うん。ありがと。関本が賛成してくれてよかったよ。野瀬先生もきっと良いっていうよね。先生って結構有瀬をひいき気味だし……あはは、冗談だよ。うん、じゃあ、また明日ね、おやすみ」


 一階へと戻ってきたクリスを、ノアは黒い海原を背景に、どこかはにかむような笑顔で迎えた。クリスも笑った。いつか言った言葉を思い出す――もったいないよ、こんなに上手なのに。もっと色んな人に食べてもらうべきだよ。あの時、自分とノアの絆はここまで深くはなかったけれど。でも、こうして友情で強く結ばれた今、あのふと零した言葉を叶えることが出来るのだ。

「じゃあ、クリス様、僕は食事が終わりましたから」

クリスが席についたのと入れ違いに、ノアは食器を持って立ち上がった。普段はクリスが先に食事を終えて待っている、というのが決まりのパターンなので、こういったことは珍しい。

「あっ、そうだ、有瀬、一つ気付いたことがあったんだけど」

ノアの背中が止まった。

「あのさ、お味噌汁の味変えた?」

「えぇ。お気に召しませんか?」

「うーん、俺は前の方が好きだけど……」

「そうですか」

ノアは相変わらずの笑顔で頷き、台所に向かって歩み始めた。ただ、一つの問題は、その笑顔がクリスには見えていないということだった。そして、ノアの表情は再びかたく閉ざされていく。

 不意に訪れる冷たい旋律。ただ巻き戻して、冬は色めき進み行く。



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