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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第三章 Largo
38/82

第二十話 冬は色めく・前編



第三部 Largo

 ヴィヴァルディ「四季」より「冬」第二楽章が鳴り響く中で。

「これで文句ねぇだろ」

陽が投げて寄越した最終予算案を引きつった笑みで受け取り、慎は咳払いを一つして枠の中に乱雑に並んだ数字を眺めやった。一見何の問題にもないように見える。あくまでも一見は。不信感を隠そうともせず数字のチェックにあたる慎に、陽は腕を頭の後ろで組み、得意げに言い張った。

「おいおい、今回は真面目にやったぜ」

「当たり前のことを偉そうに言うんじゃねぇ」

「三分でそれ仕上げるのが当たり前か?ハードル高すぎじゃねぇの?」

「……陽、何で君って人は三分で仕上げた仕事は完璧で、一ヶ月かかって仕上げた書類は間違いだらけなの?」

「よっしゃ、上がり!おい、茘枝、帰るぞ」

颯の溜息ながらの皮肉に合格サインを聞き取ると、陽は待ちきれないように立ち上がり、窓辺でバイオリンを奏でる茘枝に呼びかけた。茘枝が振り返ると、一つ余分に鳴っていた第一バイオリンの音が止み、CDプレイヤーから流れる音楽は唐突にやせ細った。慎は忌々しそうに予算案を颯に投げ渡し、手の動きだけで校長に持っていくよう指示した。颯はもちろんよく心得て、他に処理すべき諸々の書類も共に抱えて席を立った。

「あっ、そうだ。茘枝、帰るつもりでいるらしいけど、文化祭実行委員の司会原稿、明日までだよ」

「今日の夜ファックスで送るさ」

茘枝はバイオリンをケースにしまいながら、慌てる様子もなく返事をした。

「忘れないでよ。そう言って君が送ったこと一度もないんだから」

「……今夜こそは必ず」

あっ、ダメだな。颯は半ば直感的に悟った。茘枝の悠然としすぎた微笑みや、彼を急き立てる陽の声にも、不安の要素は立ち込めていた。今夜は二人への電話も禁止、と。翌日不機嫌な顔で対面するのはあまり好ましくないと思われるので。慎が乾いた舌打ちを響かせた。

「てめぇらが何で生徒会役員なのか、本来なら小一時間問い詰めてやりたいところだ」

「選ばれたからだよ、慎」

「そう。水晶にね」

「文句ならてめぇの兄貴に言えよ。ほら、行くぞ」

茘枝が陽に手を引かれ、颯が肩をすくめて部屋を出て行ったところで、ちょうど第二楽章が終わった。冬風のような旋律が不意に訪れ、慎一人の生徒会室を冷たく凍てつかせる。それこそが本来冬のあるべき姿なのだろう。だが、慎はリモコンを手にCDを巻き戻した。再び流れる第二楽章の暖かく柔らかな音色。窓の中から見る雪は、白く明るく煌いている。


***

「ということで、ついに十二月に入ったので、文化祭実行委員をクラスから一名選出したいと思います。誰か立候補は?」

 水曜日の四時間目、ホームルームの時間のことであった。野瀬先生はチョーク片手に腕を組み、文化祭の言葉にざわめく生徒たちを見回していた。上がる腕といえば、頭をかく手やら、消しゴムを投げる手やら、プリントを後ろに配布する手ばかり。内心密かに溜息を吐く。別に皆やりたくない訳ではないのだ。それは分かっている。恐らく指名されれば喜んで受け入れるのだろう。だが、担任という立場上、安易に指名する訳にはいかない。後五分待って、それでもいないようなら、推薦という形で生徒の中から出してもらおう――戦略は去年と全く同じだった。

 しかし、野瀬先生にしてみれば去年と同じ話し合いでも、クリスにとっては、文化祭といい、文化祭実行委員といい、目新しい言葉ばかりであった。イギリスでクリスが通っていた学校では、文化祭というものは特になかったからである。そのため、クリスは訳が分からなかったり、どんなものかと好奇心を弾ませたりしながら、ひとまず説明上手の来夏の言葉を聞いていたのだが、野瀬先生の拍手によって中断に追い込まれた。

「もう一度聞きます。立候補する人は?」

予想的中。もちろん誰もなし。かといって、誰かがやることを期待して見回す顔もなし。

「じゃあ、推薦という形でいきたいと思うんだけど、誰か推薦したい人がある人は?もちろん忙しい仕事だから、推薦されたからといって必ずやらなきゃいけない訳じゃありません。自分の都合ともよく考えてみてください」

直後にまっすぐ上がった腕に、野瀬先生の注目は引き付けられた。正しくは、腕の持ち主の腰元に。

「はい、落合。誰かを立候補する前にそのシャツを入れるように」

「了解。じゃあ、シャツも入れ終わったんで、ライを推薦します」

「俺かよ?」

関本来夏の名前が黒板に書かれると、クラスメートから承認の歓声と口笛が起こった。どうやら決まりそうだ。もちろん問題はない。それどころか野瀬先生としてみれば大歓迎だ。それでも一応確認はしておかなければならない。先生はくるりと振り返った。

「ということで関本の名前が出てるけど、他には?」

「ありません」

最前列で菜月が呟いた。それがクラスの意見だった。

「関本、できそう?」

野瀬先生の問いに、来夏はためらいがちに頷いた。

「まあ、推薦までされた以上は何とか」

「ありがとう。でも、関本は学級委員長も弓道部もやってて忙しいでしょう?誰か補佐についてもらった方がいいんじゃない?誰か指名したら?」

「そうですね……そうします」

呼ばれて来夏は教室の前に立った。どうせ一緒にやるなら仲のいい人の方がやりやすいだろう。といっても、来夏はクラスメートの大半と良好な関係は築いていたのだが。仲がよくて、真面目そうな人がいい。ふと来夏の目にノアの姿が留まった。特に会話をする訳でもないが、真面目な部類に入るはずだ。授業中鶴を折っていようが、落書きをしていようが、クリスの世話のために飛び回っている様子を見ていれば分かる。そして何より、ここで彼を補佐として選べば、クラスの中での彼の存在感を、もっと引き立てられるかもしれない。ノアは視線に気付いて顔を上げた。首を傾げて浮かべた笑顔は、どう見ても注目を浴びることを望んでいる顔ではなかった。

「どうする、関本?」

視線は自然に右に寄った。その中で特別目立って目についたのが三つの顔だった。菜月はまず剣道部部長で忙しいし、何より望まない仕事をさせようとすると逃げ出す癖があるので却下だ。落合もほぼ同様の理由だ。後の一人はどうだろう。慣れない仕事となるだろうが、誰よりも熱心に取り組んでくれそうな気がするのだが……

「石崎、やってみねぇか?」

「えっ、俺?」

よほど想定外だったのだろう。クリスはきょとんと青い目を丸くして見せた。

「で、でも、俺はほら、文化祭のこととかよく分からないし……補佐どころか、多分関本の足手まといになる気がするから……」

「あら、いいんじゃないの。最初の方は研修ってことで、慣れたら手伝えばいいでしょ。やったことのないことだったら今のうちに挑戦しときなさい」

「そ、そうですか?でも……」

「おい、エーリアル、遠慮すんなって」

落合が横から手を鳴らしてクラスメートを煽ると、あちこちから賛同の拍手と歓声があがった。かくしてクリスは文化祭実行委員の一人となったのである。だが、これから彼を待ち受けている忙しい日々のことを書く前に、クラスメートたちに決して悪意はなく、むしろ好意から彼を実行委員に任命したことを言及しておこう。


***

 第一回文化祭実行委員会は、その日の夕方四時から行われた。掃除をさっさと抜け出たクリスと来夏は、野瀬先生から伝えられた通りに一階の会議室に赴き、集う人々の顔を部屋の端っこで眺めていた。生徒会役員たちが仕事らしい仕事をしているのを、クリスはこの時初めて見た気がした。副校長と森先生の目があるからかもしれないが。いや、教師の目など気にするような人たちではないだろう。実際対立関係にあるという噂も聞くし。

「あっ、来夏先輩!」

「……お前かよ」

明るい声にふと横を振り見ると、来夏の元にぱたぱたと駆け寄ってきた真央の姿があった。来夏は口調こそ落としつつも、口元の緩み方から言えば決して嫌がってはいなかった。

「先輩も実行委員だったんですね!」

「あぁ。お前と一緒って知ってりゃ辞退したけどな」

「ひどい!そんな言い方ないですよ、先輩!」

「あー、もううるさい黙ってろ」

「石崎先輩、来夏先輩って結構冷たい人なんですね」

「えっ、そうかなぁ……?」

「お前にだけな」

「何でですか?!」

「なんとなく、だ」

 手を掴んで揺すってくる真央から、来夏は静かに目線を逸らした。自分は本当にこの少年に惚れているのか。アニエスに彼を託された日、自分は戸惑いと共に喜びも感じていた。人に信頼される喜び、それだけはない。真央を守ることを、言わば義務にされたことに対する喜びだ。明るく純粋で脆い真央の心を、そして喉を、誰にも壊されたくないと思った。だが、それだけの気持ちで彼のことを好きだと言い張ることができるのかは、来夏にも分からなかった。真央にしても、自分のことを慕ってはいるが、その尊敬が恋愛と結びつくかはまた別問題だ。ただ分かることは、今握られている腕が嫌に熱いことだけだ。

「先輩?来夏せんぱーい」

うるさいと言って真央の手を振り払おうとしたその時だ。人ごみを掻き分けてやって来た里見先生が、真央の背後から肩をとんとんと叩いた。不思議そうに振り返った真央に、先生は真面目な顔でこう言った。

「秋元君、今日定期健診の日よ。忘れてたでしょ?」

「……あっ!」

里見先生は少し笑って溜息をついた。

「とにかく、今病院から電話があったから急いで行ってらっしゃい。千住先生が車で送ってくださるそうよ」

「えっ、千住先生が?」

「なあに、石崎君?」

「い、いえ、べ、別に」

今度はクリスが顔を背ける番だった。こちらもまだ気持ちの整理はついていない。薫に憧れのようなものは感じているし、薫が誰かと睦まじくしているのを見ると掴みきれない感情が沸いてくる。しかし、だからって……

「でも、実行委員の方は……」

「代理をたてれば大丈夫よ。関本君に頼んでおきなさい。よろしくね、関本君。さっ、早く行かないと、千住先生をお待たせしちゃうわ」

里見先生に背を押され名残惜しげに部屋から去り行く真央を、クリスと来夏は別々の想いを胸に見送っていた。あいつ、まだ病院に行ってたのか。来夏は胸の中で密かにつぶやいた。不思議ではない。健康そうに見えても、真央の中にまだ病魔は潜んでいるのだから。それさえも忘れていた。自分の手はまだ小さすぎる。

「もう開始時間を五分も過ぎてるぞ。いい加減席につけ」

赤いジャージを膨らませて森先生が怒鳴った。クリスと来夏は野太い声にびくっと肩を震わせ、顔を見合わせて少し微笑んだ。教室の前方では、慎が不機嫌そうに頬杖をつき、いらいらと机に指を叩きつけている。空いている席を適当に見つけると、二人は人ごみを抜けて素早く腰を下ろした。

 結局開始予定時間を十分ほど過ぎて、第一回文化祭実行委員は始まった。まずは颯によってレジュメが配られ、茘枝がプログラムに従って議事を進めた。周囲の静けさがクリスの緊張感と責任感を助長させた。クリスは、陽の居眠りを副校長が注意する一二分を使い、慎の連絡を必死でメモに取っていたが、ふと来夏の見事に要点を得たメモを見て感嘆し、自分は到底かなわないと思って諦めた。金曜日、あさっての第二回実行委員会に行わなければならないことも、彼のメモを見れば一瞬にして読み取れる。クラスの演目を決めてくること、だ。演目というものが具体的にどのようなものを指すのか、クリスには想像がつかなかったが、話を聞く限りでは劇をやろうが模擬店をやろうが何でも良いらしい。クリスは更に文化祭が楽しみになってきた。

「えーと、最後に」

副校長が挨拶のために前に出て言った。

「我が校の文化祭には非常に多くの方が見に来てくださる。三宿市の方、学園の受験を考えている中学生や小学生、その親御さん、そしてもちろん君たちのご両親や兄弟もだ。そういった方たちに恥ずかしくないよう羽目を外さず、しかし、三宿学園らしい文化祭を作ってほしい。それが我々三宿学園の教師の一番の願いだ。私たちは皆、君たちを信頼しているよ。何かあったら生徒たちだけで解決しようとせず、先生にも頼るように。教師と生徒が一体となってこの第46回目の文化祭を成功させていこう。以上だ」

会議室の後方から、大きな拍手が聞こえてきた。一同不思議に思って音源を捜し求めると、上下逆さまに置いてあったゴミ箱からふいに足が生え、教室の扉に向かって動き出した。「校長!」副校長が声を上げた時にはもう遅かった。校長と思しき人影は、被っていたゴミ箱を勢いよく放り投げ、廊下の向こうへと疾走していった。

「校長!待ってください!まだ予算書に判子を押してもらってません!」

「オレがせっかく三分で仕上げたのに……」

陽がぼそっと呟いた。


「関本は去年の文化祭は何をやったの?」

「あぁ、何だっけ。確か迷路かなんか作った気がする……」

「へぇ、そんなのもやるんだ。楽しそうだね」

「やめといた方がいいぜ。あれ準備と後片付けが大変だから」

「ふーん」

 校長の乱入と逃走により一時中断された実行委員会だが、茘枝の何事もなかったかのような進行で無事終了した。冬の夕暮れは早い。最終下校時刻にもまだ余裕があるというのに、もう日は暮れている。鐘の音だけが薄暗い中に反響していた。遠くに寮や校舎の灯りがちろちろと揺らめき、濃い紫色の空には帰りを急ぐ鳥たちが、捉えがたいシルエットを浮かべている。クリスは鞄から手袋を取り出した。氷のような冷たさに、皮膚はぴんと張り詰めていた。

「今年は何をやるのかな?」

「まあ、明日相談ってとこだな。落合はどうせホストとかくだらねぇこというんだろうけど」

クリスは学園祭とホストを上手く結びつけることができず、しばらく悶々としていた。

「俺としてはあまり手のかからねぇものをやりたいところだけど。石崎は何か案でもあるのか?」

「ううん、まだよく分からないし。でも、やってて楽しいものがいいな」

「それは俺も賛成だ」

いつもの分かれ道に立ち、来夏に手を振ろうとしてクリスははっとした。そうだ。もう白のアトリエには戻らないんだった。友達ともう少し長く一緒に帰ることができるようになった。少し嬉しく、少し寂しかった。ノアと二人で辿った道が恋しく懐かしく思えた。だが、その道を辿っても、二人で共に過ごしたアトリエには戻れないのだ。

「石崎?」

来夏の呼ぶ声に、クリスはゆっくりと振り返った。今まで背後にあったものは、今は目の前にあるのだ。

「道、こっちだろ?」

「うん……」

「大丈夫か?」

「……うん」

深呼吸を一つして道を正したクリスの肩を、来夏は手を置いて引き寄せた。クリスは顔を上げた。案外間近に親友の顔はあった。

「関本……」

「ぐずぐずしてる暇はねぇぜ?英語の宿題もいつもより多く出てるしな」

「……そうだね」

「引っ越したって何にも変わってないだろ?この学園の中にいることも、俺たちと友達でいることも、有瀬が待ってることも。慣れない場所で有瀬は一人で待ってるんだから、早く帰ってやれよ。これから忙しくなるぜ」

「うん……あっ、そうだ。文化祭で何やるか、有瀬にも聞いてみようかな」

来夏に促され、クリスも新たな家路を進み始める。ただし郷愁は未だ胸の中に。



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