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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第二章 黙示録
37/82

第十九話 大空の名前

「なぁ、大河内ー」

「何だ?」

「何で俺ってさ、全ての鳥類から嫌われてる訳?」

「……知るか」

 十一月最後の土曜日は肌寒かった。間もなく冬が訪れるのだから、半袖姿で校庭の端を歩む二人の少年たちにとっては凍えるほど寒い日でもよいはずなのだが、今日は嬉しいことに日差しが強く、風がない。学園内のビオトープに遊びに来ていた水鳥に石を投げ、鳥類にあるまじき執念を以て復讐された親友・室井を連れ、サッカー部部長の大河内孝則は、体育倉庫の鍵を受け取りに向かっている途中であった。今日の練習メニューを復習しながら、大河内は室井の戯言も軽く聞き流していたが、ふと友人の言葉が答えを求めていることに気付いて黙り込む。室井はこのように尋ねたのだった。

「なぁ、大河内ー」

「今度は何だ?」

「お前さ、実際どう思ってる訳?秋元のこと?」

 大河内はふと、部員たちが忙しなく走り回る方を振り見た。いつも正面の木陰に佇んでいる小さな姿は、今日は見当たらない。確か用事があると言っていた。昨夜の電話では。明るくはきはきした、十六の少年にしてはやや高い伸びやかな声を、大河内の耳ははっきりと覚えている。その声が愛しくて、眠れぬ夜もあったからには。だが……大河内は小さく肩をすくめた。呆れたように、しかし決して自嘲気味でなく、口元を緩ませて。

「……今は、何とも思ってない」


***

 病室は思いの他明るかった。以前に見た病室が祖父の死に場所であったせいか、どうも病院には暗く陰湿なイメージを描きがちであったクリスは、朝日の眩しさに金色の睫毛を数度瞬かせ、そしてようやくベッドに腰かけるノアの姿を見つけた。ノアは既に着替えて荷物をまとめ終わり、こちらに向かって手を振っていた。調子は良さそうだ。そもそも炎による外傷はなく、あの火事の中で密室に閉じ込められていた恐怖が、風邪で弱ったノアの心身によい影響をもたらしたとは言い難かったので、理事長が大事をとって病院に行くよう命じたのだ。結局、火事のあった一晩と昨日一日様子を見ただけで、ノアは無事退院の許可を得た。その報せを聞き、クリスはどうしても待ちきれずに彼を迎えに来たのだった。

「おはよっ、有瀬」

「おはようございます、クリス様。わざわざ来てくださったんですね。学園からは時間がかかったでしょう?」

「そんなことないよ。バスで町に下って一本だったし。それより、調子はどう?」

「えぇ、大丈夫です。今すぐにでも出発できますよ」

ノアは元気よく立ち上がったが、ふいにクリスの背後に目を遣ると、慌てて慎ましさを取り戻して小さく頭を下げた。クリスもくるりと振り返った。病室の入り口に、灰色のトレーナーにジーンズというラフな格好――つまり、いかにも高速で着替えてきたような格好――で野瀬先生が立っていた。顔つきは晴れやかだが、何だか生徒たちの手前無理に真面目さを繕っているように見える。やたら血色がいいのは、クリスと同様、急いで病院にすっ飛んできた証だろうか。しかし、いかなる推測にも表面上には何もにおわせず、先生は微かに切らした息を静めながら、二人の元へ歩み寄ってきた。

「あっ、先生、おはようございます!」

クリスの挨拶にも、野瀬先生はわざとらしいそっけなさで頷いて見せた。

「おはよう、石崎。それで有瀬、体は大丈夫なのね?」

「はい、ご心配をおかけしました」

ノアは丁寧に言って再度お辞儀をした。顔を上げた時の彼の微笑みにほだされて、先生もようやく薄っすらと笑った。クリスの胸も弾んだ。

「それならいいわ。とりあえず、学園までは私の車で送るけど、先に言っとかなきゃいけないことを伝えとくわね……運転中に喋るのって好きじゃないのよ、どうも。まーず、そう、貴方たちは今日から他の寮に引っ越してもらうことになったから。生徒会用の個別寮ね。ほら、生徒会役員ってそれぞれ寮を持ってるけど、小杉と川崎が同居してるから、今は一つ余ってるでしょ?そこに住んでもらうことになったわ」

クリスとノアは顔を見合わせた。意外な気はしたが、特に飛び上がって驚くほどでもなかった。あの快適な白のアトリエの焼失は、確かにクリスの胸にも応えてはいたけれど、二人で一緒にいられるのならば、どんな所に住まわされても怖くない気がした。野瀬先生も、二人の反応は待たずに続けた。

「今、関本たちが引っ越しを手伝ってくれてるわよ。早く戻って参加しなさいね。しかしねぇ……こんなことならいっそ普通の寮に住まわせばいいのに、校長先生も何を考えていらっしゃるんだか。夜間外出ぐらいの罰なら、火災の被害で十分取り消しよね、石崎?」

「い、いや、あの、俺には、何とも……ほら、先生がそんなこと言うべきじゃありませんし……」

クリスは嫌な汗をかきながら、出来るだけこの話題を早く切り上げられるように努めた。野瀬先生は「そう?」と言って首を傾けただけだった。


「よっ、お帰り」

 野瀬先生の素晴らしいハンドルさばきによる眩暈がまだおさまらぬまま、二人は歴史ある新たな住まいの前へとやって来た。知り合いの顔が荷物を持って忙しく出入りするこの家は、白のアトリエよりは一回りほど大きく、壁の色は茶色っぽい紫色をしていた。建物の構造自体はアトリエとさほど変わらない。二階建ての建物で、門をくぐって階段をのぼった先に入り口がある。この階段には早く花を飾るべきだとクリスはくらくらする頭で思った。

 クリスとノアの姿に真っ先に気付いたのは来夏で、彼は二階の窓から顔を出して二人に手を振ると、準備が大方終わった旨を伝え、早く上がってくるように言った。慣れない門をくぐりながら、クリスは波の音を聞き、潮の香を胸いっぱいに吸い込んだ。新居は海に面しているのだ。ふと隣を見て、クリスは唖然とした。何と、生徒会長の寮があるではないか。

 最初の衝撃は、新居に対する感動で次第に和らげられていった。風呂掃除をしていた明音がスポンジを動かす手を止めて、泡まみれのまま二人を案内してくれた。廊下を過ぎて広々とした応接間、大きな窓から波の模様を取り込んで、真っ白い天井に網目模様を描き出している。アトリエには花咲き零れる庭があったが、こちらには代わりにバルコニーが付いており、波のさざめきを眺めながら、潮風を堪能できるようになっている。スケッチをするのに丁度いいかもしれない。フローリングの床は、真央が一生懸命にぴかぴかに磨き上げていた。応接間には脚の長いガラスのテーブルと、古いがスマートなデザインの木製の本棚、それと黒い革の椅子が二脚あった。

「あっ、先輩、こっちはキッチンっすよ。ノア先輩はよく使いますよね」

明音にそう案内されてのぞいてみると、台所は奥行きのある空間で、シンクもタイルも白い蛍光灯の光に反射していた。クリスは、アトリエの台所とこちらのと一体どちらがいいのかはよく分からなかったが、少なくとも、冷蔵庫が大きい点ではこちらの方が優れていると思った。ノアも電子レンジの機能を確かめて楽しそうだ。 ちょうど二階へ上ろうとしたところで、来夏とぶつかった。来夏はひとまず引っ越しの準備が終わったのを祝って、ささやかながらパーティを開きたいと言った。クリスとノアはもちろん賛成し、ノアは何か軽食を作るべく早速台所へと走って行った。

「元気そうだな」

その背を眺めて来夏が呟いた。

「うん。一時はどうなるかと思ったけど、何ともなくてよかった。もしあの時、理事長が有瀬を助けてくれなかったから、俺、どうしてたかな……なんか想像するのも怖いな」

二人が黙ると、波の音が微かに聴こえてきた。それから、その音に被さって、真央と明音が何やら騒ぎ立てる声が。クリスは笑い、来夏は溜息を吐いた。

「全く、あいつら早速この家を破壊する気じゃねぇだろうな」

「そりゃ困るよ。また新しく寮を見つけなきゃいけなくなるし。そういえば、落合は?酒本もいないし」

「落合は知らねぇけど、酒本なら……」

ちょうどその時扉が開き、満杯になったビニール袋を数個ずつ抱えて、菜月と颯がやって来た。「颯先輩!」クリスが声を上げると、颯はビニール袋をひとまず着地させてから、汗ばんだ額を拭って手を振った。前方と後方を交互に見てその光景を確かめるなり、菜月は靴を脱ぎ捨てると、つとクリスの方へ歩み寄ってきた。

「……と、酒本」

「ふーん。僕は颯のついでなの?」

「いや、そうじゃなくて、ただ先輩がいたことに驚いただけで別に……痛い痛い痛い痛い!」

「こーら、ナツ、ふざけてないで、さっさと冷蔵庫にしまうものはしまっちゃわないと……」

「そうだ、酒本。今まで仲良くデートで楽しんでたんだから、少しは働け」

「デー、ト……」

来夏がからかうと、菜月の頬は仄かな朱に染まった。菜月はその色のまま、かくかくとロボットのような動きで台所の奥へと消えていった。蒸気さえ出していれば、機械そのものだったのに。つねられた頬を擦りながら菜月の後姿を見守るクリスの肩に、颯はぽんと手を置いた。

「あっ、先輩」

「大変だったね。まさかアトリエが火事になるなんて思わなかったよ。学園内で火事が起きるなんて、前代未聞だ」

「は、はあ……」

クリスは身を捩りつつ言った。こんな所を菜月に見られては堪らないし、しかも来夏が不審そうな目線をぶつけてくる中でなんて。クリスの祈りは通じたのか、遅すぎる颯を案じて菜月がちょこんと顔を出し、見事なまでの速度で颯はクリスの肩から離れた。菜月の呼び声に、颯は重そうなビニール袋を再び持ち上げて行こうとした。クリスはひとまず安堵の息をついたが、ふと思いついた疑問をどうしても後回しにすることが出来ず、急いで颯を呼び止めた。

「あの、先輩!」

颯が振り返ったのと、菜月が見張りのために再度顔をのぞかせたのが同時だった。

「あの、なんで白のアトリエって、あんな名前で呼ばれてたんでしょうか?」

颯の表情を、波の模様が遮った。彼の薬指に嵌められた水晶が、その一瞬に煌いていた。

「さあ……それは僕にも分からないな」


***

 今は何とも思っていない――すでに口に出してしまった言葉に背を追われながら、大河内はその日の午前を終えた。室井は相変わらず疑うような視線を向けてくる。練習に集中しろと言いたかったが、そういう自分とて気が散ってどうしようもない状態であることに気付き、口を閉ざした。ベンチに無造作に積み上げられたタオルで首筋の汗を拭い、何の気もなく空を見上げようとすると、途中で人影らしきものに目線が引っかかった。行き過ぎた目を引き戻して思わず「あっ」と声が漏れた。見知った赤い髪の少年がそこに立っていた。

「落合……」

「よう。やっと休憩か?」

「ああ、まあそうだが……」

落合はタオルを退かしてベンチに座ると、誰もまだ口を付けてないスポーツ飲料を口に含み、苦いものでも噛んだような顔をした。

「ぬるっ」

「今日は比較的暖かいからな。それで、何か用か?」

文句を言いつつ飲み物の容器を傾けて、落合は頷く。

「そっ。デートのお誘い。一名ほどこの休憩中にお借りしようと思って」

大河内は微かに苦笑を示した。

「あまり部員を長いこと連れ出さないでくれ。それだけ守ってくれれば、本人はともかく、俺はかまわないが……」

「じゃあ、オッケーだな。行くぞ」

「えっ?」

ベンチ越しに腕を取られる。まだ事態をよく飲み込めていない状態で、大河内はそのまま落合に連れ去られていった。その様子を目撃していたのは、鳶に弁当を寄越すようせがまれて大河内に助けを求めていた室井だけだった。


***

 クリス、菜月、来夏、真央、明音、颯の一同が応接間に集まると、眩いまでに磨きあげられたガラスのテーブルの上にはパーティ用の料理を持った皿と、ジュース類を注いだグラスが飾られていた。クリスがグラスと取り皿の数が人数より多いことに気づいて間もなく、玄関の呼び鈴が鳴り、出迎えた颯が新しく来客を引き連れてきた。慎、茘枝、陽と生徒会が勢ぞろいし、そしてその後に続くのは……

「千住先生!」

「アニエス姉さん!」

薫は白衣を折りたたんでシャツの片腕に持ちながら、アニエスは空いたもう一方の腕にそっと手をかけながら、二人はそれぞれ、教え子たち、或いは従弟とその友人たちに向かって笑顔を向けた。白衣を纏わぬ薫の姿は、クリスの目に新鮮に映った。一度、フェンシングの試合の際に薫の防護服姿を見たことはあったとはいえ、あの時は友人の行方の方にすっかり気を取られていた。シンプルだが洒落た装いが薫らしかった。アニエスも、豊かな髪を白い帽子の中にしまい、レモン色のワンピースで身を包んでいる様子が美しく、並んで立たれると恋人同士のようにしか見えなかった。アニエスが真央の元へ駆け寄って行ったので、二人の手はようやく離れたが、クリスはしばらくアイスコーヒーを注いだグラスから目線を上げることができなかった。

「姉さん、どうしたの?」

「フランスのお友達に日本のおみやげ頼まれたから、町にお買い物に来たの。ついでに学校に寄って行こうと思って。サッカー部に行ったけど、マオ、いなかったから、校長先生に聞いたら、多分ここにいるって。来る途中でこちらの先生たちに会って、それで一緒に来たのよ」

「あれ?日本語上手くなった?」

「そう。レッスンに通ってるから」

アニエスは何か悪いことを自慢するようにくすくすと笑った。

 クリスがぼんやりと見つめていたコーヒーのグラスを、何者かの手が持ち上げた。見上げてクリスは露骨に顔をしかめた。先日のことをまだ許していないという意味で。だが、生徒会長はクリスの渋面をあっさりと受け流して鼻で笑った。

「寮が焼けたっていうんでどうなったかと思えば、案外元気そうじゃねぇか」

「おかげさまで。生徒会の方でもっと防火をすすめたらどうですか?日本の冬は乾燥してるんだし……」

クリスは目を逸らしながら呟くように言った。何だ、生徒会長だって結構元気そうじゃないか。

「それで、わざわざ人の顔見物に来たんですか?生徒会長っていうのも案外暇人なんですね」

「その通りだよ、天才少年画家君。もっと言ってやった方がいい」

「てめぇが生徒会役員で一番の暇人っていう噂もあるけどな」

「おや?それは謂れのない中傷だ。心外だな」

慎を挑発するように優雅に髪をかき上げて、茘枝が微笑を浮かべる。こちらに向けられた彼の視線に、クリスは同志を歓迎する色を見た。何か秘密めいた煌きを持った色だった。茘枝が首を傾げたのでは、クリスは慌てて薫が話し始めた方を仰いだが、薫がつまらぬ言い争いを諦めるよう求めて伸ばした腕で、慎こそ抱き寄せることに成功したものの、茘枝のことは取り逃したことに気がついた。陽が超特急でその肩をキープしたので。

「おい、兄貴……!」

「何をバカなことを恥ずかしがってるんだ。別にかまわないだろう。兄弟なんだから。さあ、せっかく有瀬君が用意をしてくれたんだ。食事にしよう。といっても、僕は招かれざる客かな、クリス君?」

「い、いえ、そんなことないです!あっ、アニエスさんも、どうぞ」

「あら、ありがとう」

一同が席に着く中で、一向に動かないのが茘枝と陽だった。というより、陽が茘枝を捕まえたまま離さないというのが本当のところだったが。クリスがノアを手伝い、来夏がアニエスを英語で語らい、明音が慎の隣の席を取り損ねて泣き喚く楽しげなざわめきに紛れて、陽は長い髪に隠れた耳にそっとささやきかけた。

「てめぇ、全部見えてんだよ」

「何が?」

陽は海原が望める広い窓を指差した。

「お前が石崎なんちゃらを誘惑してるところ、全部窓に映ってんだよ」

「誘惑だなんて……」

「謂れのない中傷か?おい?」

茘枝はするりと陽の腕の中を抜けると、空いていた颯の隣の席に腰を下ろし、首をかしげて陽に向かって微笑みかけた。今さっき、クリスにそうしたように。

「陽も早く座ったらどうだ?」

「てめぇ……絶対覚えてろよ」

 

***

「どこに行くんだ?」

 ようやく事態が飲み込めた頃には、ただ学園の中をうろうろするだけかと思っていた。だが、落合は中等部、初頭部の校舎の真横を過ぎ、ついに門を潜って大河内を学園の外へと引きずっていく。何度行き先を尋ねても、落合は笑って誤魔化して答えようとしない。だが、そんな彼に戸惑いこそ覚えながらも、大河内は不思議と落合を信頼している自分に気が付くのだった。何がここまで自分を無防備にさせるのだろうか。落合とはせいぜい昨年クラスが同じだった程度で、試合を共にした来夏とのような深い絆もないというのに。彼の目がどことなく寂しげなせいだろうか。一体どうして――

「はい、移動完了」

 濃度を増した潮の香と、靴を包み込む柔らかな砂の感覚に、大河内は立っている場所を知った。落合は宣言してきつく握り締めていた大河内の腕を手放すと、一人先にふらふらと波に沿って歩き始めた。大河内は一瞬ためらい、それから少し走って落合の真横に追いついた。落合は口の端が上がりきらないような笑い方をした。

「サンキュ。一緒にここまで来てくれただけで十分だぜ。あまり休憩時間もねぇんだろ?見送りは出来ねぇけど、帰ってくれて構わないぜ」

「まだろくに会話もしてない。あんなのはデートとは言わない。これからだ」

そう口走った自分に、大河内はゆっくりと頬を染めていった。何をバカなことを。落合の言うとおりで、時間に余裕はないし、まだ昼食もとっていない。大体、部長が時間に遅れていくなんて許されるはずがない。分かっているのに、足は砂浜に留まりたがっている。気持ちに整理をつけるためだと自分に言い訳して、大河内はそのまま歩みを進めた。落合は意外な返しに少し唖然としていたが、砂の上にきらきら光る白い貝殻を集めつつ、胸のわだかまりのようなものを語り始めた。

「俺さ、失恋したみたいでさ」

「意外だな」

「そうか?」

「……百発百中のプレイボーイとの噂を聞いたが」

「だったらいいんだけどな」

「同感だ」

二人の乾いた笑声は、無人の冬の海岸に広がっていく。

「まっ、そもそも俺が何にも気付いてやれなかったのが悪いんだけどな」

「そう言ってみたいものだな。俺は単なる実力不足だ」

「おいおい、二人そろって失恋かよ」

「それを知って俺を誘ったんじゃなかったのか?」

「さあな」

「ずいぶんと傷口を抉ってくれるな」

「その傷口に漬け込んでやろうっていうのが俺の魂胆だから」

「……油断ならない」

落合はポケットいっぱいになった貝殻を、今度は左手に集め始めた。何となく大河内も、白の上に一層煌く白さを求めてしまう。ウミネコが遠くで鳴いているのが、とぎれとぎれに聞こえてきた。

 そうか、失恋か。大河内は密かに頷いた。自らすすんで諦めたのではなく、実力不足を理由に諦めさせられた。秋元真央のことを守りたいと心の底から願っていたし、今とてその気持ちは変わらない。だが、真央にはもう自分一人で立ち上がれる心がある。頼りたい時には頼れる、尊敬できる相手も自分で見つけた。かつて真央を庇護してきた彼の従姉も、彼が選んだ相手にその役割を授けた。自分は少しも必要とされてなかったのである。彼にも、今まで彼を守ってきた者にも。何も言葉はないまま引き離された。そして、今はその面影を偲ぶことしかできなくなっている。

「まっ、人生色々っつーしな」

 落合が集めた貝殻を波に向かって投げ始めた。立ち止まった落合の傍らに立ち、大河内は水平線の揺らめきに思い出を馳せる。初めて真央の歌声を聞いた時の衝撃、健気で純粋な翡翠の瞳に目を奪われて動けなくなった春の午後、その病を知った時のやるせない怒りと悲しみを。

 大河内は落合が投げ損ねた貝殻を一つ拾い上げた。落合がポケットを空にした頃を窺い、大河内は貝殻を水平線の方へと放り投げた。


***

「僕は昔ここに住んでいたんです。慎と同じで生徒会長をやっていたので。あっ、自慢のつもりじゃないのですが……」

「いいえ。どうぞ、お続けになって」

「ありがとうございます。貴女が寛容な女性で助かりましたよ」

「あら、寛容ってどういう意味?」

「クリス様?」

 この十分ほど、すっかりアニエスと薫の会話に聞き入っていた。久しぶりに我に返り、コーラの入ったコップを倒しかけたクリスに、菜月が口笛を吹く真似をした。颯が優しくそれをたしなめる。予想外のクリスの慌てぶりに、ノアは二度ほど目をぱちぱちさせた。

「クリス様、大丈夫ですか?」

「あっ、うん、ごめん。ぼーっとしてて。それで何?」

薫と真央が交互に寛容の意味について語っている。気をとられないようするには結構な努力を要した。あっ、明音君が生徒会長に携帯を取り上げられてる……

「いえ。父が引っ越し祝いにメロンを送ってくれたそうなので、皆さんにお出ししようと思って」

「……今度はペンキを塗ったスイカじゃないだろうね」

「まさか。この時期にスイカはありませんよ。今切りますから、運ぶのを手伝っていただけますか?」

「あっ、うん。もちろん」

クリスが立ち上がったのとほぼ同じタイミングで、薫が席を立った。目線を背ける努力も忘れて、クリスは思わず薫を見た。目が合った。両頬に火が灯る。俯いたクリスの耳に、薫の声が響いた。

「盛り上がってる最中に申し訳ないが、そろそろ僕は失礼させてもらうよ。二時から補習教室があるからね。仕事をさぼる訳にはいかないし」

「あら、もうこんな時間なのね。私も行かなくちゃ」

アニエスも続いて腕時計を見て驚いたような声を上げる。真央が「どうせ先生と一緒に帰りたいだけでしょ」と呟くと、彼女は珍しく必死になって弁明した。

「ち、違うわよ!変なことを言わないで……サオリと約束があるから、私……!」

「おい、秋元、あまりアニエスさんを困らせるようなこと言うなよ」

「はーい」

来夏の忠告には、真央も素直に応じた。それでもまだ何か言おうと口をぱくぱくさせているアニエスを、薫が親密になりすぎない程度に肩を抱いて鎮めさせた。アニエスはぎゅっと閉ざした唇を落ちかけた口紅で彩らせて、帽子の影に表情を押し隠した。

「そんな風に思ってくだされば光栄ですよ。さて、では大人は大人の時間に戻るとしましょう。行きましょうか、アニエスさん?」

「え、えぇ……」

「今からメロンをお出しするつもりだったんですが、召し上がっていきませんか?」

ノアの問いにも、薫はアニエスの肩に触れたまま笑って首を振った。

「ありがとう。でも、今日は時間がないからね」

「そうですか。では、お気をつけて」

 大人二人が立ち去ると、会場は益々騒がしさを増した。一段と静かになったのはクリスだけだった。行ってしまった。結局一言も言葉を交わせなかった。話したいことなら山ほどあったのに。ノアに突かれて重い足を運んでいる途中で、クリスはノアが台所への入り口を見逃したことに気が付いた。指摘しようとした目の前で、ノアは二階へと続く階段を上っていった。階上にメロンを置いておいたのだろうか。尋ねる気力もなく、クリスは黙って導かれるままに進んで行く。ノアは三つある寝室の内の一つに入り込み、一つしかない窓の前で立ち止まった。元々備えられていた白いカーテンを開けると、明るい午後の陽光が真正面から差し込んできた。ノアは少し体を避けた。

「クリス様、ほら、見てください」

クリスはそっと近づいて窓を覗き込み、思わず感嘆の声を上げた。そこから望めるのは、町の風景だった。学園は町よりのぼった所にある。そのために、南向きの此の窓からは、海の煌きと港町の活気とが同時に見下ろせるのであった。船が汽笛を鳴らしているのが聞こえる。道路を走るミニカーより小さな色とりどりの車も、反射する浜辺の白い砂も、美しく精巧な建物の群れも見える。狭い窓枠に二人並ぶのはやや厳しくて、二人は窓枠で手を重ねた。二人の瞳は同じ輝きに満ちていた。

「わぁ、すごいなぁ」

「……白のアトリエが燃えてしまったのはショックですけど、きっとこれからいいことがありますよね。現にこんなにすばらしい景色が見られる場所に住めるようになったんですから」

「うん、そうだね」

「クリス様、この新しい家でもお互い助け合って、仲良くしていきましょうね」

「うん、絶対に……」

 大丈夫だ。二人なら何でもできる。どんな困難だって乗り越えられる。クリスは強く確信していた。そう遠くない場所で大河内が、落合の横顔にそんな気配を感じたように。アニエスが薫に取られた手の熱にそんな予兆を読み取ったように。



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