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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第二章 黙示録
36/82

第十八話 そして光満ちる場所へ

 回転のぞき絵は止まる。「葬送」の調べに促されて――


「ねぇ、白蘭」

「何だよ?」

「聖書を借りにいってくれない?」

「……はっ?」

二人は同じベッドの上にいる。兄の方はうつぶせに寝転んで、弟の方は彼の足元に腰掛けて、枯れたランの花弁をむしっている。振り返った白蘭の顔は、敵意を含みつつも呆気にとられた様子がうかがえる。何だかおかしくて、またそれが悲しかった。

「旧図書館にあるはずだからさ。昨日から外に出てないんだろう?」

「余計なお世話だ。行くんだったら自分で行け」

「まあ、そう言うと思ったけれど」

水無月は少し持ち上げた頭を再び枕に返した。全てが終わるまで、あと何分、あと何秒だろう。足音は確実に近づいてきている。閉じた扉の残響は、目に見えぬ波となって少しずつ鼓膜へと迫ってくる。ただ今はその時が来るのを待ちわびて――否、呼び寄せようとしているのか?僕は?あんなことを白蘭に言うなんて……

 逆接にたどり着いた時、水無月の首に既に指先が触れていた。肩にかかった手で、無理矢理天井を仰がされる。ふいに白蘭の顔がその純白を塞いだ。

「ふざけるな!」

首に巻きつく熱と頬にかかる熱が、同じリズムで温度を上げていく。

「許されたつもりなのか、お前は……っ!」

「ハク……」

「黙れ!俺は……俺はお前を……!」

部屋の戸の開く音に、白蘭は手の力を緩め寝台を飛び降りた。水無月は深く息を吐いた。弟の跳ねた振動が疲労しきった肺を揺らす。締められた首の赤い痕は指で辿って見た。本気で殺されるかと思った。まるで恐怖はなかったけれど。いっそ白蘭に殺された方がよかったかもしれない。いずれ消え行く者の去り方としては。だが、白蘭に人殺しなど出来るはずない。自分に踏みにじられただけで、白蘭の心はまだ純粋なのだ。だから本気で自分に怒りをぶつけてきた。今酸素を蓄える幸福は、弟の本心に触れることができた仕合わせに果たして適うだろうか。

「白蘭様」

あの少年の声が聞こえる。今の彼の声に、ずっと嫌悪してきた甘えるような調子はない。

「ねぇ、付いてきてくださるでしょう?旧図書館?」

「ああ」

いとも簡単に承諾するのは自分への復讐のつもりか。最後まで哀れで可愛い弟だ。共犯者はお前と「彼」じゃないよ。僕と「彼」だ。一瞬振り返った竜胆色の眼には、そんな同情を込めて微笑みを宛がった。勘ぐられないようにするためには、弟の後姿を目に留めるでもなく、顔を背ける必要があった。そして何度も聞いた扉の閉じる音。鼓膜を震わせる冷たく冴えた残響。身を起こし、その音を膝の上に抱え込んだとき、一筋の涙がすっと頬の上を伝っていった。だが、部屋に満ちた乾きを癒すのは、結局その一滴のみであった。水無月は再び天井を仰ぐ。今度は誰の強制でもなく自分の意思で。竜胆色の前髪がパステルブルーの瞳を覆う。色のない唇がそっと呟いた。

「さようなら、ハク……」


「いらっしゃい」

 司書の笑顔は甲斐甲斐しい。ぼくの罪はああやっていつまでも笑っているといい。

 斜め前を歩く人、薄い水色の癖のある髪と、濃く蒼い瞳をした、ギリシャ彫刻のような少年は、結局最後まで白蘭様だった。ぼくはこの人を好いている。愛している。でもそれは尊敬でも崇拝でもなかった。ぼくらは同じものを抱えていたのだ。だから惹かれあった。最愛の人に裏切られたという孤独と悲しみを、胸の奥底に秘めていた。

「白蘭様、そこの本、とって。その棚の一番上の」

「どれだ?」

 むやみな傷の舐めあいは、ぼくらをますます独りにしただけだった。それでも表面上の二人に、ぼくらは何とかしがみついていた。いつしかぼくらは傷を重ねることを覚えた。それだけぼくらのたった一つの共通点だったから。そして行為に伴う痛みもまた、唯一の感情の共鳴であった。神経が尖っていくのを知る度に、僕らは復讐を誓った。復讐は過去への執着を強めるばかりだったのに。そう、ぼくらはいつまでも脱却したがらなかった。

「ほら、あの、新約聖書って書いてあるやつ。ここに梯子があるでしょ?ぼく、今日の体育で脚を痛めちゃったみたいだから」

……だから慰めあいは失敗だったね、白蘭様。だけど、この失敗は全てぼくが償います。勝手にこの夢を終わらせることについても全て責任を負います。それでいいよね?貴方の心は結局ぼくのものにはならなかったし。上手く責められないのは辛いけれど、こうしてささやかな仕返しをするぼくの心も最後まで揺れ続けていたんだ。

 白蘭様の履いている革靴の黒い艶が、ゆっくりと視界の上へ上へとのぼっていくのが見える。聖書に行き着く指先は震えているのか。ぼくは見上げもしなかった。肩の上にそっと置かれた手が準備完了の合図だった。落合は慰めるよう、励ますよう、ぼくの体を自分の胸の方へと押し寄せた。同時に、梯子にかけたぼくの手を、力を込めて強く包み込んだ。

 ずっと待っていた。この瞬間を。今、罪を恐れるこの臆病な心は、久方ぶりの安堵を噛み締めている。異国の地に赴いても忘れられなかったものを、こうしてまた手を汚すことで。

梯子が傾く。灰色の床に落ちていく人は、白蘭様ではなかった。


篠木水無月だった。


***

 いつも兄の影を追っていた。幼い頃のことを問われても、白蘭はそれ以上のことを思い出せない。歳の離れぬはずの兄、名前で呼び、同じように甘やかされて育った兄は、弟の目には、なぜかはるかに大人びて何もかも分かりきっているように見えた。白蘭が最初にそれを感じたのは、いつまでも砂場に留まる自分を置き、母が呼ぶ方へと急ぐ背中を見たときだ。泣きながら腕にすがると、水無月はその時初めて止まり、少し笑って振り返った。「バカだな」そんな言葉を呟いて。

 それから何度も兄が振り返って笑う姿を見てきた。白蘭が泣けば、水無月は必ず戻ってきた。喧嘩の後でさえそうだ。怒りに肩を弾ませながらも、兄は、泣き喚く弟を睨むだけではいられなかった――こうした背中と笑顔の積み重ねが、白蘭を幼く無邪気なものに留めていた。初めて兄が振り返らなかった時、それは弟にとってどんなに惨い衝撃であっただろう。

「待ってよ、ミナ!」


 弟の呼ぶ声を、水無月は寂しく切なく聞いていた。彼の視界を離れたところで、ようやく膝を落とした。

 気付いてしまったのはほんの数日前のことだった。

 水無月は同じように膝をつき、ただし全く違う心地で手を組み、祈りの文句を唱えていた。敬虔なクリスチャンだった母親の影響が、この少年にも色濃く出たようだった。哀れな双子の母親は、毎週息子たちを教会に連れ、罪を悔やみ、平和と慈悲を請うように諭したのだ。しかし、そんな母も、今では夫の病死に弱りきり、病室の片隅からでしか神の愛を求めることができない。母の祈りきれない思いの代わりに、また母の無事を祈って、その時、水無月は瞼を閉ざしていた。

「ミナ!」

 部屋に飛び込んできた白蘭の声が、静かなる瞑想を遮った。叱ろうとして、泣きながら抱きつかれてそれを封じられた時、胸の中で舞い踊ったもの、血管の中でときめいたものをはっきりと感じた。その衝動の元で体は凍りつき、重ねた弟の皮膚の熱が溶解を促した途端、言い様のない恐怖が脳の奥から湧き上がってきた。

 膝に顔を埋め、しゃくりあげる白蘭の背を撫ぜながら、水無月は呆然としていた。あの一瞬の昂ぶりは何だったのだろうか。正体を突き止める勇気はなかった。それでも否定するために恐る恐る手にとったものは、どれもずっしりと重い普段のつまらぬ感情ばかり。箱の半分まで腕を突っ込んで、水無月はかき回すのをやめた。ないものはない。有り得ない。自分が白蘭に恋をするなんて。だって、双子だぞ?血の繋がっている兄弟だぞ?水無月は忘れ去ることにした。箱自体を宙高く放り投げて。

 そして最後の数日が恐ろしいほど平穏に過ぎ――部屋の戸を開けた途端、ベッドに横たわる弟の白い腹が見えた。水無月は部屋へ踏み入れる足を止め、しばらくは何の感情もなく立ち尽くしていた。入浴の後なのだろう。呼吸に合わせて上下する膨らみのない平地は、夕顔に降り立つ朝露のような雫に煌いている。閉ざした瞼は微かに震え、癖のない睫毛が揺れている。薄い唇は前歯に食まれて形を歪めていた。水無月は無意識にその表情を真似した。下唇を噛み、掌に掻いた冷たい汗を、強く圧迫して握りつぶそうとした。目を背けることも閉ざすこともできなかった。沸き起こる感情が悲劇的な愛ならまだ受け入れられた。例え実の弟であったとしても、胸の奥に忍んで一人苦しむだけの愛ならば、agapeならば。しかし、こうして弟を凝視する目は、確かな情欲と肉感を帯びていた。弟の寝姿は無造作故に、艶やかに、淫らに、その背徳性を高めているのであった。

 昂ぶりの再来は、胸に確かな証拠を残していった。最早疑いようはなかった。息苦しささえ覚えながら、水無月は静かに部屋の戸を閉ざし、その前に跪いてひたすら祈った。全てが嘘であればいい。これが悪夢だと誰でもいいから言って欲しい。もし誰かがそう宣言してくれさえすれば、自分はその者についていけばいいだけの話だから。例え、そこにどれだけの搾取が待ち構えていたとしても。夕食の席にて。パンを取ろうとして触れ合った指先に痺れるような感覚が走った。微笑み返せない自分の中に、水無月ははっきりと事の終末を悟った。もう嘗てのように弟を抱きしめたり、手を握り合ったりはできないと。三度目の昂ぶりは翌日の朝に。その朝こそ、水無月が弟を拒んだその時であった。


 去り行く兄の背中を見つめながら、白蘭は落ちるはずのない涙を待っていた。演技でも泣かなければならない。それでも胸に毒のように染み渡っていく密やかな満足が、白蘭の微笑を冷たく凍らせた。違うのだ。本当は気付いていたのだ。自分は兄が思うように無垢で純粋ではなかった。無知でもなかった。水無月が胸に感じたものなら、その弟とて同様に感じていた。兄よりもずっと早く。

 水無月に対して白蘭の違うのは、堪えようとしないことだった。何としても兄を手に入れたい。欲望のために、白蘭は今までの世界を全て捨て去った。兄弟愛も平和も宗教も日常も。今まで不自由なく全てを手に入れてきた自分が、実の兄だけ手に入れられないなどということは、許されるべきことではなかった。汗をかいてもいない体に湯を被せ、肌を曝して寝たのも全て故意のこと。白蘭は水無月の心が自分に極めて近いことを知っていたのだ。けれど、お互い愛し合っていればいいなんて理屈が兄に通じるはずがないことも分かっていた。だから水無月を刺激した。こんな淫靡な手段で。兄は恐らく自分を拒むだろう。そして自分はその復讐の名目で、兄を手に入れる。

 傷ついたふりは幾らでもできた。孤独が孤独を呼び寄せ、企みは企みを呼び寄せたから。兄を傷つけるために、不良の道をとった。計画通りに傷ついてくれた水無月を、白蘭は完全に征服した。ただ一つの誤算は、真実が育っていたことと、真実と演技の両方をのせるには、舞台があまりにも小さすぎたことだった。その重みに古く朽ちた杭と木は耐え切れなかった。老いた梯子が舞台の象徴であった。


「篠木君、あのね……落ち着いて、聞いて頂戴ね…………」


 白蘭は小さく目を開いた。潮の音が聴こえる。回転のぞき絵(ゾエトロープ)がぴたりと止まった。どうして今まで思い出さなかったのだろう。水無月はもうここにいなかったのに――水無月は死んだのだ。旧図書館の梯子と共に転倒して。その報せを聞いた時、自分は初めて悔恨を覚えた。初めて兄への愛を知った。今まで水無月が世界の全てだったのに。水無月のために罪を犯し、背徳の道を突き進んできたのに。世の中の全てを失って、ぶつける対象のなくなった罪を負うことに耐え切れなくなって、自分は現実から目を背けた。そして嘘甘い夢の中に浸ろうとしたのだ。水無月が生きているという錯覚を起こそうとして。ただ、自分の罪深さから逃れるために。

 そっと身を起こす。旧図書館の司書室だ。ここで、水無月の死の責任を問われた司書が自殺した。その司書は今椅子の上で、鶏を乗せた膝を閉ざし、寝かせた白蘭を見下ろして静かに笑っている。水無月の棺の横で零れ出なかった涙が、今ようやく落ちてきた。

「ここで夢を見ていただけだった……」

塩辛い唇で小さく紡ぎだした言葉。学園はようやく眠りから覚め、世界はようやく正常に動き始めた。椅子の上には鶏が鳴いている。微笑んでいた女の影はない。恐らくそれが真実であるから。


***

「夢は終わったよ。正しい光のおかげでね。だが、その光は決して私たちの味方ではない。それだけは忘れてはならないよ」


 ゆっくりと開いていく門の横で、彼は待っていた。木陰から乳白色の陽光の下にゆっくりと身をさらし、彼は不器用に微笑んだ。自分も不器用に笑い返した。歩み寄り、ふと立ち止まった二人の踝を長く伸びた草がくすぐる。二人の頭上には波を映した青い天蓋が拡がっている。棚引く雲はあわ立つ波の白、澄明な空気は潮で洗われた後で。鳥のような風が過ぎ行く。

「どうしても行くのか?」

「うん……」

頷いたまま顔をうつむけた芳乃の顔に、落合はそっと手を伸ばそうとして躊躇した。零れ出たため息は、恐らく答えを予想していたからか。

「白蘭が退学したからか?」

「それもあるけどね、もっと重要な理由があるよ。分かってるでしょ、君なら?」

「芳乃……」

「知らないふりはもういいよ、落合。ぼくが辛いだけだから。ぼくは償いきれない罪を犯したんだ。例えそのことを知ってるのがぼくと君だけであっても、犯した罪の重さに変わりはないさ。ぼくは……」

「芳乃!」

「ぼくは……!」

遮った強い口調が、落合に今は亡き友人の言葉を思い起こさせた。「言うな」彼は静かにそう言って落合の口を封じたはずだ。落合に続きを言わせないために。芳乃が今力強く落合の言葉を断ち切ったのは、自ら続きを口にするために。

「ぼくは人を殺したんだ。篠木水無月の死は事故なんかじゃなかった。ぼくが殺したんだ。旧図書館で、彼を乗っていた梯子ごと転倒させて。そうすれば白蘭様の心が手に入ると思ったから。でも、白蘭様はますます水無月を慕うようになっただけで、その姿を見ているのがあまりにも辛くって、ぼくは白蘭様に嘘をついた。まるで水無月が生きているかのように。その嘘は次第にぼくを取り込み、遂に学園全体に蔓延した。学園の夢の中で、篠木水無月という人間は生きていた。ぼくの水無月殺しの罪は消え去った。それでもぼくが犯したもう一つの罪が、絶えずぼくを苦しめ続けていた。水無月の死の責任を問われて自殺した司書は、決してぼくの罪を忘れさせてはくれなかった。耐え切れなくなって、ぼくは旧図書館を閉ざし、学園から逃げ出した。それでも罪はぼくの後を追いかけてきたんだ。どうせ罪に負われるなら学園にいても外にいても同じだと思った。そしてできるならば、愛しい白蘭様の傍にいたいと。だから、ぼくは学園に戻ってきて、あの夢を再開させたんだ。全ては失敗に終わってしまったけどね」

一度落ちた落合の腕が、再び持ち上げられ、芳乃の頬にそっと触れた。芳乃は触れられた箇所から微笑を繕った。落合は眼鏡を外した。反射する朝日が、ぼやけてきた視界をますます歪ませるため。零れ出た涙を、芳乃は少し背伸びして唇で拭った。

「落合、ありがとう。ぼくのために泣いてくれて」

「……バカ、泣いてねぇよ!あくびをこらえただけだ!」

「相変わらず素直じゃないね。でも、きっといつか君の心を汲み取ってくれる人が現れると思うよ。もしかしたら今もう傍にいるかもしれない。君が気付いてないだけで。ぼくはそんな人にはなれなかったけど……早く心から愛し合える人を見つけてね。ぼくの願いはそれだけだよ」

「じゃあ」そんな言葉で行こうとした。幼馴染は許してくれるはずもなく、後ろから手首を掴んで止めようとしたが、芳乃はその手を振り払うと、真っ直ぐ開いた門の向こうへと歩み進んでいった。門の外、光満ちる場所へと。落合の問いが和やかな風をつんざいて追いかけてくる。どこに行くつもりかと。その問いに、芳乃は少しだけ振り返って答えた。

「まずは水無月の墓参りへ。それから……そうだな、それからはまた考えるよ。白蘭様と同じ場所にはいられないから、多分どこか別の場所へ」

***


 きっと私が死んだら、誰もが責任に耐え切れずに自殺したのだと言うのでしょうね。現にこれを読んでいる貴方の世界では、皆がそう囁いていることでしょう。けれども、それは違います。私は貴方のためだけに死ぬのです。貴方には光がある。もし私との関係がばれたら、貴方は永久にその光を失ってしまう。貴方にはいつまでも光り輝く存在でいてもらいたい。それが私の願いです。だから死にます。責任に耐え切れずに自殺した、無責任な司書を装って。これがきっと神様のくださったチャンスなのでしょうから。

 本当は何も言わずに死ぬべきなのでしょう。貴方のことを思いやれば。それでも私は自分の心に抗うことができなかった。まだ生徒である貴方を愛してしまったように。私のことはどうか忘れてください。貴方になら出来るでしょう。貴方が優しいふりをして実はとても冷たいことを、私は知っています。本当は私を殺そうと考えていたのではなくて?だったら手間が省けたと喜んでください。私は貴方の手を汚さずに済んだことを喜びますから。もう時間がありません。私は最期まで貴方の輝かしい未来を祈っています。死後の世界は信じていませんから、この命が消えた後のことは約束できなくってよ。この遺書は焼き捨ててください。もしくは誰にも見られない場所に……いいえ、やはり破って焼き捨ててください。偽物の遺書には手を触れないようにね。

                                        三木ゆりか


「先生!」

 自分を呼ぶ声に、薫は静かに顔を上げた。古びた紙切れはポケットの奥にしまった。まだ捨てられないでいることなど、誰にも知られたくはなかったから。司書室の入り口に、クリスが立っていた。鶏のオーガスタを胸に抱えてひどく慌てている様子だ。薫はふっと口元を緩め、伸びやかな脚で椅子から立ち上がった。窓の外には、鶏の白い羽毛のような朝日が地上に降り注いでいる。

「おや、君か。どうしたんだい?」

「オーガスタがあんまり外で騒いでたので室内に入れてあげようとしたんですけど、気付いたら……ほら」

かつての恋人の忘れ形見をそっと受け取りながら、薫はクリスの指差した先を見遣った。クリスをここまで狼狽させているものの正体を、薫はすぐに見つけた。白いはずの鶏の羽毛が、茶色く剥げているのである。

「どうしたんでしょう?つい最近まで真っ白だったのに」

「さあ。もしかしたら、チャボにただペンキで色を塗っただけだったのかも。色が落ちたのかもしれないね」

「ま、まさか……白いチャボ?」

「そう、ようするに、見せかけだけのものだったってことさ。真実というものは曲げられないものなんだよ……彼女はそれを教えてくれた」

「彼女……?」


や し ゛ ろ い ち ほ


薫は読みかけの聖書のページに急いでペンを走らせると、本は開いたまま、クリスの肩を優しく押して部屋を後にした。


***

 丘の上の墓の前に積み上げられたランの花は、今は風に吹かれて散乱し、墓石の名前をさらしている。篠木水無月、その名を読み取って、芳乃は新しい花を一輪手向ける。だが、跪く前にその花は、ふいに訪れた冬の澄んだ風に浚われてしまう。絶対に許されない罪がここにあるのだと、芳乃は遠く飛んでいく花を見つめて知った。やはり残された道は一つだけだったのだ。


 かつて四人で走り回った砂浜に、もうあの日は戻ってこない。今、日の光に薄く面を反射させて、波に煽られつつある一足の革靴とて運命は同じだ。その持ち主はもう永久に戻ってくることはない。宣言通りに、愛しい人とは違う場所へ、否、正しくは違う世界へと行ってしまった。己の罪深さと、知ったばかりの愛だけを勇気に変えて。


 彼は今、光満ちる場所にいる。波音だけが響く、その場所。



第二部終



本編を読んだ方のみ↓




・三木ゆりか

旧図書館の司書。理事長の姪。

当時生徒だった薫と恋人関係にあった。

水無月の死の責任を取り、自殺したと思われていたが、実際は薫との関係を苦に思っての行動であった。

屋城一穂というのは、水無月同様死者の幻としてよみがえった彼女の仮の名前。並び替えると……


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