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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第二章 黙示録
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第十七話 夢の終わりの黙示録・後編

 ただいまも言わずに扉を開け、足を忍ばせて階段をのぼった。そっと覗きこんだ部屋は薄い山吹色に染まり、ノアは布団を肩までかけ、手を組んで静かに寝息をたてていた。今朝かゆをよそった空っぽの皿は、ぞんざいに床の上に転がっている。ノアの額の上で、タオルはすっかり温くなっていた。新しく冷たいタオルと換えてやっても、ノアの寝息の調子は変わらず、瞬き一つしなかった。指先で触れた皮膚はやや汗ばんでいた。クリスは皿を拾い上げて部屋を出た。

 居間のテーブルに肘をつき、足を宙でぶらぶらさせながら、クリスはいつもより苦い紅茶を飲んでいた。お前には関係ない――その言葉を発する時、人は一体どんな思いを胸に描いているのだろう。冷たさを装った優しさなのか、それとも他人の介入への恐れなのか。誰にも知られたくないことがある、そんなことぐらい分かっていた。だが、人に秘密を打ち明けるくらいなら身の破滅を選ぶ、その精神がクリスにはどうしても理解できなかった。水無月も落合も、辛く重苦しいことを一人で抱え込み、一人で傷ついている。傍から見ている者には、その姿が痛ましくてたまらないのに。もし「それ」が優しさのつもりだとしたら、泣きたくなるほど立派な失敗作だと思う。水無月と落合とて分かっているはずだ。そう、だから彼らに関しては、「それ」は他人の介入への恐れなのだろう。つまり自分は二人に拒まれたという訳だ。

 クリスは紅茶を飲み残したまま席を立ち、ソファの上に横たわった。では、拒まれた者は対処をどうすべきか。放っておけ、と恐らく多くの人は言うだろう。自分の力を過信するな。他人の心を動かせると思うな。たとえどんなに身近な存在であっても、他人である限り慰めきることはできない、そう言うのだろう。介入すれば却って相手を傷つけるだけだ、とも。クリスは目を閉じた。その理論が本当かどうかはクリスには判断できなかった。それでも納得できないものが、クリスの胸の中に生きていた。介入することで相手を傷つけても反対に傷つけられても、相手の負う深い傷跡を癒すためなら必要な犠牲なのではないかと。そう反論する声があった。

 落合と水無月になら、うっとうしがられても嫌われても構わない。もし自分に出来ることがあるのならば、その方法を何とかして探り出し、そして実行したい。二人と直接語り合いたい。気付いた時には、クリスは立ち上がり、真っ直ぐに玄関へと向かっていた。靴を履き、扉に手をかけた時、ちょうど向こう側から戸が開いた。

「あれ?出かけるの?」

クリスは露骨に顔をしかめた。理事長だった。色々な意味で今は会いたくなかった人だ。まず相手をしている時間がない。それでも学園の理事長という立場の人を、また今度と言って追い返す訳にもいかず、クリスはきちんと頭を下げた。

「こんにちは、理事長」

「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃない。出かけるのを邪魔したりしないよ。僕だってそれほど暇じゃないんだから」

「……それならいいですけど」

礼儀を失うぎりぎりのラインの台詞を、クリスは少しのためらいと共に吐いた。理事長は笑っただけだった。

「それで、ノアはいる?」

「いますよ……熱出して上で寝込んでますけど」

クリスは睨むようにして理事長の顔色の変化をうかがった。養子の病に、養父としての有瀬裕は一体どんな反応を示してくれるか。遠いように思われる昨日、ノアを心無きものとして扱う人間と敵対したクリスとしては、おおいに気になるところであった。理事長は一瞬眉をひそめた後、「そう」とだけ小さく呟いて、くるりと背を返した。

「お見舞いはいいんですか?」

クリスはかたい声で尋ねた。

「だって約束しちゃったからね。君が出かけるのを邪魔したりしないって」

「別に邪魔にはなりません」

理事長は後姿で肩をすくめた。

「それでも遠慮しとくよ。寝てるんだったら起こしちゃかわいそうだ」

「……それが貴方の愛情の示し方なんですか?」

「さあ、僕にも分からないな。愛情なんて示さない方が案外よかったりもするしね」

「一部の人にはね。でも有瀬にはどうでしょう?」

「どうなの?」

「興味もないくせに……」

クリスは花を愛でる理事長の脇を通り過ぎ、一人急いで門を出た。時間の無駄だ。こんな冷徹な人には何一つ分かりやしない。足をせかすクリスの後を、理事長も早足で追ってきた。追い抜き様に、理事長は何かをクリスの手に握らせた。クリスは思わず立ち止まった。右手を広げて中身を見つめ、ふと顔を上げた時、背広姿はもうずいぶん遠くにあった。

「理事長、これ……!」

「あげるよ、それ。旧図書館の鍵。僕の手には余るから」

「そんな。俺に渡されたって……」

クリスは仕方なく、ポケットに突っ込んだ右手を解き、再び歩き始めた。


***

 必然的に最初に向かったのは旧図書館だった。足を踏み入れてみて、今日はやけに利用者が多いことにクリスは少し驚いた。見知った顔もいくつか見えた。菜月がぴょんぴょん飛び跳ねてもとれない本を、腕を伸ばしただけで手にしてしまう颯、部活はどうしたのだか来夏とそれに付きまとう真央、窓辺に佇む茘枝と陽、など。しかし、水無月の髪はその中に見当たらなかった。クリスはため息をつき、それからいつかも水無月を求めてここに来たことを思い出した。そうだ、あの時から水無月は、クリスにずっと何かを隠し続けていたのだ。

 もしかしたら本棚の影にでも身を潜めているのかもしれない、意図的にせよ、偶然にせよ。クリスは知り合いたちの視線をくぐり抜け、宗教書のコーナーへと足を運んだ。水無月がいるとすればそこしか考えられなかった。棚の前に立ち、水無月が愛読していた新約聖書の背表紙を探して目をのぼらせていると、急に隣から肩を叩かれた。視界の片隅に入った手の持ち主をクリスはっとして振り見たが、そこにいたのは水無月ではなかった。黄土色の巻き毛と山吹色の瞳を持ち、口元に微笑をさざめかせる、見覚えのある少年だった。名前は確か……思い出せない名の代わりに、クリスは小さな「あっ」という音を発した。

「やあ、久しぶり、クリス君」

「あっ、うん、久しぶり……えっと……」

少年は目を細めて穏やかな笑顔をとどめた。

「芳乃だよ。雲居芳乃。そういえば自己紹介はしなかったね」

「うん、でも校内新聞で見た気がしたから……あれ、何で俺の名前を?」

「何言ってるんだよ。君は有名人じゃないか。それに颯先輩が君の名前を呼ぶのを聞いていたしね」

「あ、そっかぁ」

芳乃はくすりと微かな笑声をもらした。初めて見た時も思ったが、柔らかな雰囲気の、それでいてどこかかげりのある少年だ。何か後ろめたいことがあるような、そんな笑い方をする。水無月と似ているような気もした。差し伸ばされた救いの手を拒み、自分一人で苦しみを背負おうとする――人とは所詮皆そんなものなのかもしれない。孤独なさびしい生き物。自分の弱さを必死で押し隠し、誰のことも信用できずにいる。だから、愛は奇跡なのだろう。弱みを曝しだせる人を見つけられたという意味で。

「クリス君?」

「えっ?」

水無月の悲しい面影に思いを馳せていたクリスは、芳乃の言ったことを理解できずに聞き返した。

「何か探し物でもあるの?」

「ああ、うん。まあ、探し物っていうか人っていうか……あっ、そういえば雲居君は生徒会役員だよね?旧図書館の管理もしてたよね?」

「そうだけど……」

芳乃は話が読めないような顔をしつつ頷いた。クリスはほっとしたように口元を綻ばせ、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。理事長に押し付けられた面倒を片付けるために。

「さっきね、理事長から旧図書館の鍵をもらったんだけど、俺が持ってても仕方ないし……雲居君が持ってた方がいいよね?」

「理事長が?何でだろ?変なの……」

芳乃の呟きは、手渡された物体のざらつきによって封じられた。水底に沈めたはずだった。もう二度と使用しないと誓ったはずだった。罪の真ん中に置き去った鍵が、どうして再び酸素に触れることになったのか。クリスの手が退けられ、茶色く錆付いた金属がずっしりと重く掌に圧し掛かっても、芳乃は衝撃のあまり何も言うことができなかった。

「えっと、雲居、君……?」

芳乃は鍵を握り締めることで、視界から覆い隠した。そしてクリスが戸惑いながらそうしたように、ポケットの奥深くに急いで押し込む。早急に光をつぶさねばならない。真実を照らし出してしまう、自分たちには眩しすぎる輝きを。そしてその時、鍵は再び永遠の水底の闇に沈むのだ。

「雲居君?俺、何か変なこと言った?」

芳乃は無理矢理笑みを繕って首を振った。不自然に見えようが、そんなことはお構いなしだった。

「ううん、まさか。ただ、少し足が痛んで……今日の体育で痛めたみたいなんだ」

「えっ、ほんと?大丈夫?」

「うん。それで悪いんだけど、この本棚の一番上にある本を取って欲しいんだ。童話がいくつかまとまってあるでしょ?白雪姫とか、人魚姫だとか。ぼくはどうも梯子はしごはのぼれなさそうだし」

「うん、分かった。任せて」

クリスの履いた白い靴が次第に高くのぼっていく。焦点も合わさぬままそれを眺めながら、芳乃はチャンスの到来を待っていた。あと数秒間。あの時を思い出しそうになる。舌の上で酸っぱく苦いものが踊っている。違う、あの時を忘れるために自分はやらねばならないのだ。ゆっくりと梯子に手をかける。汗ばんだ手に木の感触が冷たい。そして、力をこめて、強く――

「あっ……!」

足元がぐらついたと思ったとき、クリスの足は踏み場を失い、体は既に宙に放り出されていた。梯子が傾くのが見えた。来る衝動に備えて目をぎゅっと閉じる。死ぬかもしれない。そんな危惧が、一瞬のうちに何度も頭を駆け巡った。

 黒い世界にノアの顔が見えた。髪と同じワインレッドの睫毛がきらきらと濡れている。泣いているのだ。泣かないで、そう言いたくて思わず手を伸ばした。その手は、伸ばした相手よりもはるかに大きく、力強い手によって包まれた。肩を包み込む温かな胸と長い腕の存在を感じ、クリスはそっと目を開いた。

「千住先生……」

「大丈夫かい?」

「は、い……」

薫の安堵のため息がクリスの鼻にかかった。心臓がとくんと高鳴った。こんなに間近に先生の顔がある。メガネの反射光が、その奥の優しい眼差しが、唇が。酔いかけたその時、クリスは初めて現場の状況に気が付いた。生徒たちは梯子の倒れた大きな音に群がってきていた。薫は床に座り込むようにしてクリスを受け止め、クリスは薫に強く抱きしめられて密かにときめいている。投げ出した薫の脚の上にふと視線を伸ばせば、傾いた梯子が足首に倒れ掛かっている。クリスははっと身を起こした。

「先生!脚が!」

「はは、何てことはないさ。どかしてもらわないことには動けないけどね」

クリスは誰よりも速く梯子の元へ駆け寄って、恩人の足を救い出した。薫は笑いながら、足を引こうとして小さく不自由そうな音をあげた。周囲にざわめきが広がった。

「先生!」

「残念だな。やっぱりおとぎばなしの王子様のようにはいかないもんだね……」

「何言ってるんですか?!早く、早く手当てしないと……!誰か、里見先生を……!」

「大丈夫よ。手当てならここで出来るわ」

人の輪を掻き分けて現れたのは一穂だった。クリスは縋るような気持ちで彼女を見つめたが、一穂はまるでいつもの調子で微笑んでいた。

「誰かその頼りない王子様に司書室まで肩を貸してあげて。今道具を取ってくるから」

一穂の足元で、鶏が羽を広げて大きく鳴いた。


「ごめんなさい、俺のせいで……」

「いや、君のせいじゃないよ」

「そうよ、貴方のせいじゃないわ。だから心配することは何にもなくってよ」

 赤く腫れた薫の足首は、クリスにとって直視しがたいものであった。だが、幸いにも骨に損傷はなかったようで、薫も一穂と軽口を叩き合っている。クリスは二人の姿を離れたところから眺めながら、なぜ二人がこんなに親しそうに話し合っているのか疑問に思った。一穂は先ほどからずっと薫のことをからかいっぱなしで、薫は女性に対する礼儀を重んじつつもそれに乗っている。二人は付き合っている?疑問が頭を掠めた。その刹那、何ともいえない複雑な感情が、心に立体の迷路を浮かび上がらせた。確かに、二人が一緒に歩いているところは何度か目撃されていたけれど……

 結局聞く勇気は沸かず、クリスは雌鶏に餌をいくらか撒いてやった。鶏はすぐについばんだ。一穂と薫を見ているのが何だか急に辛くなって、クリスは司書室内を見回した。相変わらず物が散乱している。本、紙くず、ペン、映写機はともかく、かじりかけの林檎、おもちゃの短剣、安産のお守り、割れた貝殻などは一体なんのつもりでここにあるのか。椅子の下に放り出された古い靴は一体誰のものだろう。その椅子の背にもたれたロープは、一体何に使われたのだろう。

「しかし、屋城さんも物好きだね。この部屋を改装もせずにそのまま使い続けてるなんて」

「だって、私、別に幽霊なんて信じてませんもの」

「おや、意外だな。女性は皆そういうものを信じてるのかと思ってたよ」

「それは女性に対する偏見ですわ」

「幽霊?」

口を挟んだクリスに薫は頷き、周囲を憚るように声のトーンを落としてゆっくりと説明を始めた。

「昔、ここで女性の司書が自殺したんだ。生徒が一人、この図書館でなくなってね。梯子が転倒したらしい。何しろその梯子が相当古かったようだから。司書は管理責任を問われた。周囲から攻め立てられて、すっかり行き場を失ってしまった。そして、この司書室で首を吊って死んだんだ」

クリスは再度司書室を見渡した。首吊り自殺を連想されるようなものはどこにもなかったが、背中にぞくっとするものを感じた。いい気分はしなかった。

「まあ、幽霊が出るって話は聞いたことないけどね」

「当たり前ですわ。ですから、そんなものいませんもの」

薫の言葉に、一穂はぴしゃりと返した。

 異変に気付いたのは、直後だった。図書館内がなにやら騒がしいのだ。クリスの転落騒動から数分が過ぎ、すでに館内は元の落ち着きを取り戻していたにも関わらず。嫌な予感がして、クリスは司書室を飛び出した。南東向きの窓に、生徒たちが集まっていた。中には外に出て様子を見にいくものもいる。クリスも様子をうかがおうと思ったが、人を押し退ける作業を始める前に颯に捕まった。

「クリス……」

「あっ、颯先輩。何かあったんですか?」

「何か燃えてるみたいなんだ。煙が上がってる。方角的にどうも白のアトリエのようなんだけど……」

「……えっ?」

クリスは颯に手を引かれ、共に図書館の外へ出た。クリスは声にならない声をあげた。黒い煙が灰色の空にもくもくと上がっている。林檎林の上辺に、なにやら赤いものがちらちらと見え隠れしているのも見えた。間違いない。あれは白のアトリエだ。確かアトリエには――

 睫毛を濡らしたノアの泣き顔が瞼の裏に浮かんだ。

「有瀬!」

 クリスは駆け出した。薔薇の小道には向かわなかった。一刻も早くアトリエに帰るため、林檎林の中を突っ切った。走りながら、汗を滲ませながら、息苦しさにさいなまれながら、一心に思っていたことはノアの無事だった。お願いだ、有瀬。死なないでくれ。もう誰かに助け出されていてくれ。ああ、どうして自分は有瀬一人を置いて出かけたりしたんだ。有瀬が一人じゃ何にもできないことを知っていたくせに。最低だ。これでもし有瀬に何かあったら自分のせいだ。でも、お願い、責めならいくらでも負うから、どうか無事でいてくれ。

「有瀬……っ!」

燃え盛るアトリエの前には、人だかりが出来ていた。先生、生徒交じって必死の消火活動に務めている。クリスの登場に、人々ははっと表情を慄かせた。ノアの顔はどこにもなかった。

「有瀬!有瀬っ!」

アトリエの中へ飛び込もうとしたクリスを、森先生が抑えた。クリスはずっと喚き続けていた。自分でも何を言っていたかは覚えていなかった。ただ必死でノアの名を繰り返したような気がする。クリスの声が途切れたのは、森先生の横を何者かが豹のように過ぎていった時だった。皆が悲鳴を上げた。

「理事長!お戻りください!」

校長が叫んだ。理事長は振り返りもせずにあっという間に炎の中へとのまれていった。絶望を帯びた周囲の声を、クリスは呆然として聞いていた。どうして?理事長はノアを愛していなかったはずなのに。なぜ危険を冒してまでノアを助けようとする?


「愛情なんて示さない方が案外よかったりもするしね」


理事長の淡々とした口調が、クリスの頭の中でそう繰り返した。知らず知らずのうちに涙が零れていた。あの言葉の意味を、今すぐ教えてほしかった。

「理事長……!」

 その時、煙の奥から転がり出てきた人影に、わっと歓声が上がった。先生方がすかさず駆け寄った。理事長は芝生の上に倒れ込み、手で口を覆ってごほごほと激しく咳をしている。負われていたノアは、養父の背から校長の手に引き取られた。小さな咳がクリスの耳にも聞こえた。クリスはその場に崩れ落ちた。ノアは無事だったのだ。そう、無事助け出された。あの冷たい養父によって。ノアが父を呼ぶ声が聞こえる。校長が怒鳴りながらなにやら指示している。だが、クリスには、全てが何事もなく終わったような気がしてならなかった。白のアトリエは赤く朽ちていった。


***

 人気のない廊下を、芳乃は歩いていた。

 薬指の水晶がもう外した。水晶は最早自分を助けてくれないことを知っていたから。終わったのだ。結局水晶の意思には敵わなかった。これからどうやって生きればいい?あの人を殺すか、それとも自分が死ぬか。

 部屋の鍵は開いていた。荒れに荒れ、出かける前のきちんと整頓された様子は見る影もない。そんな部屋の真ん中に、ただそこだけは出かける前と変わらないベッドの上に、落合が座っていた。落合は眠ったように顔をうつむけていたが、芳乃の姿に気が付くと、上げた顔で優しく微笑んだ。メガネはケースにしまって手の中に抱えていた。

「よっ」

「……落合」

「悪いな、散らかしちまって」

「別に構わないよ……」

芳乃は落合の隣にそっと腰掛けて呟いた。意地を張る気力もなかった。落合に肩を抱かれ、寄り添われて静かに泣いた。光をつぶそうとして梯子を押し倒した。それを妨げられれば、今度は光が最も大切に思っているものを奪おうとした。だが、結局何もかもが完遂されぬまま終わってしまった。自分にはもう罪を重ねる力さえもない。孤独なさびしい生き物。それでも、自分の弱さをさらけ出せる人は見つけられた。最初から隣にいた。ずっと拒み続けた手を、芳乃はようやく握り締めた。

「芳乃……」

「落合……全部終わったんだ。最初から全てが終わりだったのに、ぼくはそれに気付かないふりをして、取り返しのつかないところまで来てしまった」

「……そうかもな」

「君に裏切られた日、ぼくは本当に傷ついた。だって、あの時、ぼくはまだ君を愛していたから。君はあの日初めてぼくのことを疑った。だからその疑念に応えてやりたかった。白蘭のことなんて本当は愛していなかったんだ。それでも君への復讐のために好きになった。過剰なまでに崇めた。不必要なくらい体を重ねた……でも、その内に、段々と惹かれていったんだ。白蘭の心の中に孤独があった。ぼくと同じ、愛していた人に裏切られた故の孤独が。その孤独を癒せるのが水無月一人だけだって気付いた時、ぼくは、ぼくは始めて激しい嫉妬を覚えたんだ。そこで自分が本気で白蘭を好きになっていることに気が付いた。そして、そして、ぼくは……」

芳乃は深く息を吸った。言葉は続かなかった。完全な沈黙が、ベッドで寄り添いあう二人を包んでいた。花瓶の中には萎れた花、床一面の衣類、倒れた椅子、色あせた壁の絵。

「芳乃」

「何?」

呼吸を重ねる、その瞬間。

「今度は俺も共犯者になる。元からそうだった。お前のやったことを、俺はずっと黙ってた……今度は一緒に手を汚す。二人で幸せにはなれねぇけど、二人で苦しむことは多分あいつの信じる神様とやらも許してくれる気がする。だから、なっ?」

 子供たちの笑い声が遠くに聞こえる。初等部の生徒たちだろうか。この辺にどんぐりでも探しにきたのだろう。自分たちもかつてそうして遊んでいた。押し寄せてくるのは共に駆けた日々、共に笑った日々、共に泣いた日々――ずっと一緒だと思っていた。素直で純粋だった。好きという感情は、言葉で伝え合えていた。

「芳乃」

幼い落合が隣にいる。夕暮れの道。どんぐりをポケットいっぱいに詰め込んで、図書館で司書にお茶とお菓子をもらった後。

「何があっても俺が一緒だから、な?」

差し出された手。微笑む幼い自分。

「うん、ずっとずっと一緒だよね」

繋いだ手。懐かしすぎて胸が痛いあの時よりもずっと強く。


「いいの、落合?……本当にそれで?」

並んで部屋を後にした。無理に合わせようとした歩調は何だかぎこちないけれど。

「いいんだよ。芳乃がここにいてくれれば」

答えは何気なく言われたあの言葉にあった。

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