第十六話 孤独な光・後編
「俺は好きになれません……千住先生のこと」
「えっ?」
クリスは目を瞬いた。昼休みの中庭は騒がしく、クリスたちもいつもの通り日向にシートを広げ、それぞれの弁当を使っているところだった。時々他人の弁当を拝借する不遜な奴もいるが、それはひとまず置いておいて。先ほど何食わぬ顔でから揚げをさらっていった菜月を横目で監視しつつ、クリスは明音の意味深な発言の方に注目することにした。
「好きになれませんって、どうして?だって、あの人は……せ、生徒会長のお兄さんじゃないか?」
君のお兄さんというところを皆の手前のみこんで、クリスは言葉を継いだ。明音は小さく頷いた。
「そりゃもちろん。でも、あの人は慎様とは違うんっす。何と言うか……完璧すぎて、遠すぎて、自分の卑しさを思い知らされるような……」
「まあ、分からなくもないけどさ。確かに先生は出来すぎた人だとは思うよ。でも、優しい人じゃないか。生徒会長と違って人を見下したようなところもないし」
言った直後に慎の悪口を言ってしまったことに気付いたクリスは、弁当の中身を全て菜月にとられるのを覚悟で逃げ出そうとしたが、明音は乗ってこなかった。その不自然な態度には、会話に加わってなかった他の友人たちも、不審そうに眉をひそめて口を閉ざした。明音はぼんやりと箸先を見つめている。紫色の謎の物体がくっついた箸先を。
「明音……?大丈夫?」
「うん」
恐る恐る真央が尋ねると、明音は上の空で応えた。
「大丈夫。今日の夜ご飯何作ろうか考えてただけで」
「そう……あの、頼むから、その今食べてるのだけはやめてね。あとカレーも」
「うん」
一同はついに顔を見合わせた。これは絶対何かあったというのが、満場一致の見解であった。膝を抱え、小さく上下に揺れながら、明音は四時間目の授業のことを思い出していた。千住薫は知っているのか。あれは自分の思い過ごしなのか。確かめるにも手段がない。もし、薫が、自分が弟であることを知っていたら、自分は一体どうなるのだろう?学校を追い出されるのだろうか。周りは薫を優しい人だというが、自分にそうは感じられないのは、薫が無言の圧力をかけているからなのか。お前が千住家を家族と思うなんて、思い上がりにも程がある、と。
「あっ、千住先生!」
クリスの声を聞いた時、明音はどうか聞き間違いであってくれと密かに願った。こんな時に顔を見なければいけないなんて、タイミングが悪いにも程がある。明音の願いは通じず、朗らかな挨拶が聞こえた後、薫は屈みこんで明音の両肩にそっと手を置いた。思わず箸を取り落とした。慌てて拾おうとしたのよりも早く、薫が取り上げてこちらに手渡した。明音は小さな会釈でしか感謝の意を示せなかった。
「先生、どうしたんですか?」
明音の肩に置かれた手にほんの少し気持ちの良くないものを感じながら、クリスは聞いてみた。薫はやはり平等で、クリスに対しても優しく微笑んだ。
「いや、涌水君の様子が心配だったから。さっきの授業はあまり元気がなさそうだったしね……」
「そうなんですか?明音君、どうして言わなかったの?だったら、保健室に……」
「いえ!あ、あの、別に何でもないんっすよ!俺はこの通りピンピンしてますから!」
クリスの申し出に、明音はわざわざ両手を振り回す妙な振りまでつけて、元気溌剌であることを証明してみせた。友人たちは思わず吹き出し、薫も笑声を立てた。明音はちらりと横目で薫を見た。内心はあざ笑っているのだろうか。やはり卑しい生まれの子供だと。だが、彼の掌は不思議なほどに温かく、細めた青い目は穏やかだった。薫と慎と明音、三人に共通しているこの瞳の色。これまでは誇りだった。でも、今は……
「えっ?」
薫が何か言っているのに気が付いた明音は、急いで姿勢を正して耳を傾けた。
「あっ、今なんて言いました?千住先生?」
「いや、少し君と散歩がしたくてね。僕はまだ学園の様子をちゃんと見ていないんだ。僕が卒業してからどんな風に変わったかみてみたいし……明音君、案内してくれるかい?」
明音はためらった。それは要するに二人きりで話す機会を作るということなのだろうか。もし、そうなれば、今ここでは話せない話題も出るかもしれない。しかし、明音の懸念を知らなかったのか忘れてしまったのか、クリスが明音の代弁でイエスの返答のようなものを口にしてしまった。
「俺も途中まで行きます。有瀬の様子も見にいきたいので。ジャクソン先生に引っ張られていってそのままですから」
薫は満足げに頷いて立ち上がった。今更断る訳にもいかなくなった明音も、仕方なくそれにならった。想像したくはなかった。これからどんなことが語られ、どんな思いがこの胸を突くかを。
「じゃあ、ちょっといってくるね」
「ああ」
来夏はパンを口にくわえたまま、さっと手を振った。薫を挟み、クリスと明音、二人の先輩後輩は、それぞれ対なった表情と心で中庭を後にしたのだった。
クリスは昇降口まで二人に送られ、職員室を覗き込んだが、先生たちは大方出払っており、ジャクソン先生もその多数派漏れなかった。体育科の森先生がカツ丼を掻っ込んでいる姿に、なにやら畏怖のようなものを覚えながら職員室を後にし、クリスはカフェテリアへと出向いた。混みあった店内で、(よく目立つとはいえ)ジャクソン先生とノアを探し当てることは、なかなか難しそうように思われた。クリスはすぐに諦めた。大体弁当を持ってきたノアを、ジャクソン先生がカフェになど誘うはずがない。ところが、カフェを出た途端、ジャクソン先生が鳥居先生の愚痴に付き合いながら歩いている場面に出くわした。クリスは急いで二人の後を追いかけた。
「ジャクソン先生!」
「あら、クリスじゃなぁい。珍しいわねぇ。どうしたの?」
「あの、有瀬は一緒じゃないんですか?」
「ノアちゃん?随分前に別れたけど?」
「えっ?」
クリスはノアの携帯に続けて三回ほど電話を掛けてみた。いずれも留守番サービスセンターに繋がった。一体どこに行ったんだ?どこかですれ違ってしまったのだろうか?自分が千住先生と話すのに夢中だったばっかりに。クリスは校内を駆け回り、副校長に廊下走行の現行犯で見つかって叱られ、そのついでにノアが西校舎の裏にいたという噂を聞いた。クリスは礼を言って、再び走り出した。
「有瀬―?有瀬ー」
焼却炉やら貯水タンクやらで立込んだ校舎裏は、あまり見通しが聞かない。クリスは親友を見落とすことのないよう、名を呼んで歩いた。ふと思い出したのは、そう昔でもない図書室での出来事だ。司書の神経を刺激しないよう小さく名を呼びながら、本の森を進んでいった。そしてその先で、慎とノアの密会の現場に出会ったのだ。まさか、今度も同じようなことではないだろうか――嫌な想像は、すぐさま頭から振り払うことにした。馬鹿げている。有瀬は、友達との約束をすっぽかして、生徒会長といちゃいちゃするような奴じゃない。そう信じたかった。
人の声がした。クリスは足音を忍ばせてそっと桜の木陰に身を潜め、様子をうかがった。林檎の林の入り口で、静かに動く二つの影。果たして、そこにいたのはノアと慎であった。熟れすぎた林檎を見つめるノアの頬に、慎がそっと手を伸ばした。裏切られた。一瞬そう思った。全身が凍る思いがした。しかし、ノアが慎の腕を振り払うのを見たとき、クリスの体を捕らえた氷は一瞬で叩き割られた。クリスははっと息を呑んだ。
「有瀬……!」
「ごめんなさい、千住様。でも、僕はもう……貴方の影ではいられません」
一度拒んだ手を両手に包み、相手に返すノアの気遣いは、クリスの目には残酷すぎるように見えた。ノアは静かに微笑んでいた。まるでやるべきことを遂げた人のような、満足感を以て。だが、その微笑は激しい揺さぶりと詰問の中に消えた。
「なぜだ?!」
「先輩……っ!」
「理由を答えろ!お前は今までずっと俺に従属してきただろうが!お前は水晶の意思の通りに動くはずだ。今更になってなぜ俺から離れていこうとする?!」
「違います……違います……っ!千住先輩!」
「何が違う?!兄貴が来たからなのか?!兄貴が学園に来たから、俺は既に……!」
「やめろ!」
考えるよりも先に飛び出していた。慎の剣幕に怯えるノアを、大切な友達を、これ以上はとても見ていられなかったから。クリスは二人の間に割って入ると、ノアの前に立ち、庇うように右手を突き出した。「クリス様……」ノアが震える声で呟いて、クリスの肩に縋った。クリスは驚いた。真正面から睨んで見る慎の顔は、最後に球技大会で見た時からは信じられないほど蒼白だった。華やかに学園に舞い戻ってきたのかと思ったのに、疲れきり、光を失い、全てを消耗しきっていた。表情からはいつもの余裕が消えうせ、目元や口元に見える感情は露骨であった。それでも今の行為を許す訳にはいかず、クリスは勇んで彼に歯向かった。
「会長、どういうことですか?」
「よう、石崎か。久しぶりだな」
慎は微かに皮肉っぽい笑いを示した。相当無理にこしらえている笑みだった。
「挨拶は後です。とりあえず説明してください!どうして、有瀬にこんな風に迫ったりしたんです?貴方らしくない」
「はっ!『貴方らしくない』だと?笑わせる。てめぇが俺の何を知ってやがる?いちいち口を突っ込むな。これは俺と有瀬ノアの問題だ」
「違う!有瀬をこんなに怖がらせて、貴方には有瀬を引き止める権利もない!大体……大体、従属って何なんだよ?!有瀬を一人の人間としてすら見てない証拠じゃないか!」
「クリス様……」
「俺は有瀬のことをてめぇが転校してくる前から知ってる。親友面するのもいい加減にしろ」
「そっちこそ!有瀬に所有物みたいな扱いをするな!」
もういいですから、それだけ口の形で呟いて、ノアはクリスの手をとった。しかし、クリスも引けない所までやって来ていた。生徒会長然り、理事長然り。ノアを孤独に追い込み、自分の都合のよい時だけ利用し、その上で平気な顔をしている。そんな奴らの根性を叩き直してやりたかった。慎の顔からも不自然な笑みが消え、冷徹にクリスとノアを見下ろす青い瞳だけが、真昼の高い日に照らし出され、鷹の目のように鋭く光った。
「……そこまで友達が大切なら、いっそ綺麗に決めてやろうじゃねぇか。今日の放課後、フェンシング場に来い。決闘だ。負けた方は今後一切有瀬に干渉しない。それでいいな?」
「はあっ?待てよ、そんなのこっちが不利に決まってるだろ!そっちはプロ、こっちは剣にさえ触ったことがないんだぞ!」
「時間は五時だ。遅れるな」
「千住先輩待ってください!そんなの幾らなんでも……!」
「幾らなんでも無茶、じゃないか?慎?」
三人は同時に林檎林から顔を背けた。声の持ち主は見なくとも分かった。慎にとっては一番聞きたくない声、クリスにとっては一番頼りがいのある声だったから。白衣を脱ぎ、長い散歩の後で汗ばんだのかシャツの袖を捲くった薫は、信じられないように目を見張る明音を隣に、悠然とその場に立っていた。この修羅場を前にして、薫には余裕があった。まるで弟から奪い取ってきたかのように。薫は明音の頭をそっと叩いて言った。
「大丈夫だよ、涌水君……慎、お前は後輩相手に何をむきになってるんだ?少し頭を冷やせ。初心者相手にフェンシングで決闘を申し込むなんて、卑劣極まりないやり方だと思わないのか?それでよくフェンシング部のキャプテンを務めてられるものだ。見損なったよ、慎」
「千住先生……!」
今度は明音が薫の肩に縋ったが、薫は兄の義務の名の元に優しく彼を押し返して続けた。
「慎、俺の先ほどの注意は、どうやらお前の言うとおり不必要だったようだな。今のお前には自尊心なんて欠片もない。生徒会長の資格どころか、誰かに何かを命令する資格もない。お前にはつくづく呆れた。まあ、それほどまでに執着したいものがあるということは認めてやる。決闘なら俺が石崎君の代わりに受けて立つ。相手に不足はないはずだ。お前にとってはな。俺にしてみれば、そんな風に誇りを失った相手など……」
「もうやめてください!」
再び明音だった。明音は叫ぶなりその場に崩れ落ち、言葉も嗚咽も伴わずに泣き出した。薫はそれ以上喋る気などなかったようにぴたりと口を閉ざした。薫の手がかけられると、明音の涙は一層速度を増して頬を流れ、膝頭に染みを作った。薫では逆効果になることに気がついて、クリスは明音の傍に寄っていったが、慎が後ろから追い抜きざまに言った言葉は、はっきりと聞き取れた。
「それでいい」
それだけだった。
***
フェンシング場へ向かう足を取られた。明音は、白亜の建物に吸い込まれていくクリスを見、ノアを見た後で、薔薇の小道を走るようにして突っ切った。季節はずれの汗を瞼から払えば、目の前に現れたのは、皆が噂するあの旧図書館であった。
明音は名画の階段を踏み、薄暗い館内の中へと進んでいった。なぜここへ来てしまったのかは分からなかった。初めて来る場所だ。そもそも高等部の校舎にある図書室ですら、慎のストーカー以外にはクリスに誘われた時にしか使用しないのに。今はたった一人で壮大な本棚に囲まれて立っている。微かに埃っぽい空気が、明音の喉を濁らせた。明音は咳をした。どうしようもなく切なく、さびしく、苦しく、物狂おしいなかで。入り損ねた扉の外から、剣を振るう慎をずっと見つめてきた。慎はまるでこちらには気付いていなかったけれど、それでも構わなかった。心から尊敬する慎と、例え半分でも血を分けた兄と、思いを同じに出来るのならば。
慎はずっと悩んでいた。彼はいつも薫の影に苛まれていた。それは、学園創立以来の天才と呼ばれた兄が、その栄光の元に落としていった影であった。幾ら進んでも、幾らのぼっても、決して兄には追いつけない。劣等感――最も慎に似つかわしくない言葉が、あろうことか、慎の胸に常に居座り、毒の鍋をかき回し続けていたのである。フェンシングに取り分け懸命に励んでいたのは、五年連続優勝を果たした兄に、今度の勝利でようやく追いつけると思ったからだろう。これでやっと高等部最後の年で、兄の記録に並んだのだ。明音は慎の優勝を知って誰よりも高く飛び上がった。これで慎様は劣等感から解放されるんだ。そう強く信じて。
だが、慎が抱えた影は、たかが一つ兄と並んだぐらいですぐに払拭されるような、色の薄いものではなかった。明音が汲み取れるような、生温いものではなかった。兄の影は現実に彼の目の前に現れ、慎を惑わせ始めた。惑わせたばかりではない。弟に追いつかれても悠然と微笑み続ける兄の態度、近づいたと思えばまた離れていく絶望、これらが慎の劣等感を歪曲し、プライドという名の心の箍を外したのだ。慎は兄を追い抜けるものを手に入れようとして暴走した。そして、かつては自分の隣にあったもの、今は奪われてしまったもの、光を引き立てる影としての有瀬ノアを欲したのである。 明音の胸を突いた思いはありすぎた。言いたい言葉はあまりにも多すぎた。慎を救いたかった。ただの引き立て役、添え物、一個としては不十分なものになっても構わない。慎の影の役割を担いたかった。何でも投げ出せる覚悟があった。命、名誉、記憶、友人、感情、或いは世界でさえも――それでも、慎は明音にその役割を与えようとしない。それは、自分があまりにも小さすぎる存在であるから。ただの熱烈すぎるファンの一人なのだ。画面の端にちらりと映っているだけの、名もない役者なのだ。
「どうして……?」
そうは言っても誰も責め立てることは出来ない。クリスも、ノアも、慎も、薫も、自分でさえも。自分は舞台の上にすら立てていないのだから。
脚に触れた何か柔らかな感触に、明音はびくっと身を震わせた。生物以外ではありえない、絶え間なく脈打つ温度。恐る恐る見下ろしてみると、何と信じられないことに、真っ白い羽毛を膨らませた雌鶏が、明音の足の間を通過していったところだった。
「チ、チ、チキン……っ?!」
「貴方、泣いてるのね」
明音は素早く振り返った。白いスーツを纏った浅黒い肌をした女性が、司書室の入り口からこちらをじっと覗いていた。指摘の意味がよく分からず、明音は指でそっと泣き黒子から伸びる涙痕を辿った。湿った冷たい道であった。
「あっ、あの……」
「初めてここに来たのね?私は司書よ。今日はお客さんがいなくて暇を持て余していたの。だから、少し司書室でお付き合いしてくれると有難いわ。お茶とお菓子はいかが?」
「あの、その……」
一穂はルージュを引いて薄紅色に光る唇の端を高く引いた。
「いらっしゃい」
すわり心地の悪いパイプ椅子の上に、明音はぎこちなく腰掛けた。司書室は散らかっていた。映写機は巨大なスクリーンに古い邦画を映し出し、その周りにノート、鉛筆、紙くず、本、鶏の羽などがばら巻かれている。それでもティーセットだけは清潔で、一穂は純白のカップの内側を、透き通った琥珀色に染め上げた。差し出されたカップは、礼を言って受け取り、一口飲んだ。熱すぎて舌を火傷したが、香の良い紅茶であることはよく分かった。
「貴方、名前は?」
一穂がフルーツケーキを分厚く切り分けながら尋ねた。
「わ、涌水明音っす。明るい音であかね……」
「あら、可愛い名前ね。女の子みたい、と言っては失礼かしら?でも素敵。それで、涌水君の学年は?」
「一年生っす」
「そう。本はよく読むの?」
「えっと、正直言うとあまり……」
一穂はくすくすと笑った。明音は赤くなった顔を背けた。この司書に、母親の面影を認めた気がして。放り出した視線は、先ほどまで一穂が手にしていた童話の表紙に着地した。人魚姫の金文字が辛うじて読み取れた。
「あぁ、その本ね、破れてたから何とか修復しようと思って……」
一穂はフルーツケーキの残りをしまいこむと、明音に差し向かいになって座った。ますます落ち着かなくなった。ケーキを端からフォークで削ってみたが、口の中がからからに渇ききり、とても胸より高い位置には腕を運ぶ気になれない。少し冷めた頃を見計らってもう一度紅茶に挑戦したが、濃く淹れた茶は胃に重く圧し掛かり、舌の表から僅かに残った水分をさらっていったばかりであった。
「ねぇ、涌水君、貴方はどう思う?」
「えっ?」
突然の問いを受け、明音は皿から顔を上げた。思いつめたように人魚姫の表紙を撫でる一穂の背後には、千住法正として活躍していた頃の父がいた。スクリーンの中で、父は何かを憂うるように腕を組んで立ち、ぼんやりと遠くを見つめていた。明音はそのシーンを知っている。華族の家に育った主人公が一人の町娘と恋に落ち、彼女のいない舞踏会の会場で密かに思い悩んでいる場面だ。
「人魚姫の話って悲劇的すぎると思わない?どうしてこんなに悲しい話を子供に聞かせなきゃいけないのかしらね。違う世界の人に恋しても、所詮その恋は叶わない。全てを捨てて恋に見を捧げても、結局はただの海の泡になってしまう。せめて子供だけには夢を見させてあげればいいのに」
それからふと一穂は口を閉ざし、突然何かに気付いたかのように明音の顔に目を凝らした。
「ねぇ、貴方、兄弟はいる?」
「えっ……?」
映写機は微かに揺れて狙いをはずれ、一穂の頬にも千住法正の一片を投げかけた。一穂の顔に父が重なり、父の顔に薫が重なった。怯えながら臨んだ昼休みの尋問が蘇ってきた。それは、同じ質問で始まった悪夢だった。
「明音君、兄弟はいるかい?」
「えっ……?いいえ、いませんけど……」
「そうか、一人っ子なんだ。それじゃあ部屋は友達と一緒なのかい?」
「はい、そうです」
「羨ましいな。僕はずっと弟と一緒じゃなきゃいけなかったから、友達と一緒に生活してみたかったんだ。兄弟だと何かと揉め事が多いからね」
「そう……なんですか?」
「うん。大体そんなものさ……ところで、話は変わるけど、涌水静香って女優さんを知ってるかい?」
「えっ?」
「いや、涌水って珍しい名字だから、もしかしたら親戚じゃないかと期待したんだけど。父の昔の映画に出ていてね。とても美しくて、演技力も素晴らしい女優さんだった。残念ながら、その後女優としての活動はやめてしまったようだけどね……」
明音は拳をきつく握り締めた。汗ばむ手に力を込めすぎて肩が震えた。薫は嘘を吐いている。体面を整えるだけの嘘、見透かされるためだけに用意した嘘を――母は千住法正と共演なんてしていない。母は妊娠が発覚した時点で役を降ろされた。主人公に仕えるメイド役を務められる女優ならば、他に幾らでもいたから。母の名はどこにも記されなかった。千住法正と涌水静香は出会わなかったことになっているのに――やはり薫は知っていたのだ。
「ねぇ、涌水君、どうかしら?」
ここが司書室だか、尋問を受けた林檎並木の道の上だか、明音にはまるで分からなくなっていた。ペンと本が路上に散らばっているのが見える。人魚姫の本は新しく蘇り、真っ白いページを風に煽られている。陸に立っていた父と海の底にいた母は確かに出会い、恋をした。その結果として明音が生まれた。母は人魚姫などではない。彼女の恋は一時的であったとしても実ったし、彼女は永遠に幸せだった。そう信じたかった。だが、果たしてそうだろうか?母の思いも記憶も何もかも、この世界から綺麗に抹消されてしまったではないか。まるで消えいく海の泡のように。いや、泡はまだ弾けていない。この血の中に流れている。だが、もし明音の身が消えてしまったら?全ては本当に忘れ去れてしまう。薫たちにしてみれば、その時こそ本当に全てを忘れ去ることができるのだ。慎様も自分のことを知っているのだろうか?慎様も、自分の消滅を願っているのだろうか……
映画の中の父は、当時の大女優演じる美しい令嬢と踊っていた。明音は虚ろな目を白黒のスクリーンに向けた。たった一枚の画面越しにも、父らが嗜むワルツは聞こえてこない。踊る二人の背後を、様々な人の顔が飛んでいく。明音はフォークを取り落とした。
母がいた。主人公と令嬢が微笑みあう画面の隅に、ぼんやりと佇んでいる。共演していたという薫の言葉は嘘ではなかった。壁の花となってしまった乙女の一人の役で、彼女は確かに父と同じ画面に映されたのである。母の目が、ふと画面を向いた。横切る人に度々遮られるその小さな視線には、きっと今まで誰も気が付かなかっただろう。母は一瞬笑った。燕尾服の男性の影に隠れるまでのほんの一、二秒の間だけ。そして、その瞬間だけ、母は映画の中の人ではなかった。涌水静香という実在の女性であった。
「バカね」
母の声が聞こえた気がした。
「全てを賭けてもの恋が、儚く弾けて消えてしまう訳ないでしょう?」
パイプ椅子は背中から転げ落ちた。明音は立ち上がっていた。忙しない動悸と、さざなみのような興奮を胸に抱えて。人魚の泡が消えてしまう恐れなどない。泡は丘にのぼったのだから。母は明音を陸の世界で生み落としたのである。明音は最初から兄弟たちと足の踏み場を共にしていたのだ。行かなければならなかった。母が与えたこの足で、走っていかなければならなかった。慎が戦うあのフェンシング場へ。
「涌水君……?」
「全てを賭けてもの恋が、儚く弾けて消えてしまう訳がないっす。人魚姫の恋はまだどこかで息づいてますよ、きっと」
挨拶もお茶と菓子の礼も、全部その言葉に込めた。明音は倒れたパイプ椅子を蹴飛ばして、もう暗くなり始めた外の世界へと駆け出していった。一穂は椅子に座ったまま、膝の上の愛鳥を機械的に撫でていたが、やがて破顔した。その時だけ、彼女は与えられた役割から離れ、屋城一穂という一人の女性でいた。
「やっぱり貴方の弟ね。私はまるで歯がたたなかったどころか、彼を勇気付けてしまったわ。だから……彼を影に追い込むのは、貴方たちが代わりやって頂戴ね……」
剣が宙を舞い、その切っ先がランの花から花弁を奪っていった。残ったのはたったの一枚。それでも花はまだ死んでいない。芳乃はランの花を祈るように持ち、フェンシング場のギャラリーを後にした。その姿を見ていたのは、勝利に悠然と顔を上げていた薫だけだった。
***
寒さが身に染みる。冷気は皮膚を抜け、肉を裂き、骨を突き通す。入ってきた順番と同じで、野次馬どもが先に去り、審判を勤めた森先生が退出し、最後にクリスとノアが白亜の建物を後にした。全ての影が薄れ始めた夕暮れのことだ。今や濃紺の空に星が光り、下弦の月が天頂に霞んでいる。慎と薫はまだ出てこない。二人の存在を示唆するのは、フェンシング場の窓から漏れる微かな灯かりだけだ。きっと慎様はまだ喪失を認めきれずにいるのだ。せっかく並んだと思ったフェンシングで兄に負けた。そんな劣等感も追い討ちをかけたはずだ。それでも慎様は必ず戻ってくる。誰に頼るでもなく、兄の影を打ち負かし、自分一人の力で華やかな凱旋を遂げるだろう。明音にできるのは、その時をひたすら信じて待つことだけだった。たった一人の弟として。震える肩を抱きしめて、空っぽの腹をなだめる。後一分だけ、後一秒だけ、それだけ待てば、きっと慎様は……
フェンシング場の灯かりが消えた。
「慎、強くなったな」
「何を……」
「嘘じゃないさ。心からそう思ってる。俺は嬉しいよ。兄として、お前が誇らしい。だから、自信を取り戻せ」
「違う、俺は……」
「大丈夫だ。お前なら出来るさ。俺はお前のことを信じてる。それにほら…………こうしてみると敗北もそう悪くないものだと思わないか?」
「兄貴……!」
慎、夢の中は心地がいいだろう?今、学園は眠っている。そして、嘘甘い夢に耽っている。だがその夢も直に終わるだろう。虚構の世界は所詮長くは続かない。
慎、この夢の中で、俺とお前が感じているものだけが本物だ。俺ならお前を救ってやれる。さあ、俺を信じて……全てをゆだねて……全ては水晶の意思のままに……