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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第二章 黙示録
32/82

第十六話 孤独な光・前編

 平和な朝の空に歓声が響く。通学路に散在していた人の塊が、誰に唆されたでもなく、自然に一本の花道を編み上げていく。高みの見物を決め込んだ生徒会役員たちは、生徒会室の窓からその様子を眺めていた。けたたましいまでの声の中を、一人の生徒が颯爽と歩いてくる。ここからは紺色の頭がやたら小さく見える。

「よくやるよなぁ……」

茘枝の頭に手と顎を預けながら、陽が半ば感心したように半ば呆れたように呟いた。

「いつものことじゃないか。久しぶりだから余計に盛り上がってるだけで」

「こんなものに毎日接していたなんて。慣れとは恐ろしいものだな」

我らが生徒会長が無事校門を潜り抜けたのを見届けて、三人はようやく窓から顔を背けた。机の上には冷めたり炭酸が抜けたりしたそれぞれの飲み物が、飲みかけのままで放置されている。誰一人残りに手を出す素振りは見せず、颯が何を思ったか、急にコーヒーを淹れ始めたところで、茘枝がようやく口を聞いた。

「ところで、颯、例の化学講師はどうした?」

「千住薫のこと?全く君って人は、慎の家族ってだけで信用しないんだから。この間助けられたんじゃなかったの?少しは恩義を示したら?」

「誰にでも安易に礼を言っていては口が欠ける」

「けっ、お前の口は陶器製かよ」

「試してみるか?」

「別にオレは構わねぇけど?」

「……なんかこのコーヒーをぶちまけたくなってきたよ。生徒会室を汚さない方法があるといいんだけど」

「やめとけ。バカには毒薬も効かねぇぞ」

 降ってきた台詞と扉の開く音に、一同は一斉に反応した。とうとう生徒会長のお出ましだ。意気揚々、凱旋した将軍のごとく華やかにやって来た慎は、右手に脱いだブレザーを持って背中に流し、左手に全国大会優勝のトロフィーを抱えていた。茘枝と陽がすぐに苦々しげな顔を作った。一方で颯は落ち着いたもので、慎からブレザーを受け取ると、引き換えにファイルとコーヒーを机の上に並べた。慎はトロフィーをぞんざいに置いて、すぐにファイルに目を通し始めた。

「お帰り、慎」

颯が言った。

「ああ。相変わらず碌に仕事もしてねぇみてぇだな。安心したと言えば安心したが」

「そいつはよかった。散々サボった甲斐があったってもんだ」

陽は慎の言葉に含まれた刺を全く無視して言った。慎は頬の筋肉を引きつらせただけで、無言でファイルを捲り続ける。遂に元に戻った。一月前の、懐かしい生徒会に。だが、役員全員が揃った訳ではない。四人は芳乃の席を見遣った。校長にも見習っていただきたいまっさらな机には、ただその隅にランの花を生けた花瓶があるだけだ。そしてその水底に古びた銅の鍵が沈んでいる。「旧図書館……」慎は呟いて眉を寄せた。彼の頬は、まだ薄っすらと青白い。

「芳乃は何のつもりで学園に戻ってきたんだろう?」

颯がふと口にした。

「全てを捨てて学園を出て行ったんじゃなかったのかな?罪に耐え切れなくて……ここを去った訳じゃなかったのかな……」

「今度は捨て置くことに耐え切れなかったのかもしれない」

茘枝は紅茶を淹れつつも、決して無関心ではなさそうな口調だ。陽も同様で、頭の下に腕を組んで宛がったが、瞳は前髪越しに蛍光灯を見上げている。

「もしくは、捨ててきたつもりがしっかりしがみ付いて来てた、とかな」

どこかで鶏の声が聞こえた気がした。

「オレたちには一生分かんねぇよ。あいつが何考えてるかなんてよ。まっ、あいつだってこのままにはしとけないだろ。いつまでもぐっすり寝込んでる訳にはいかねぇんだから」

「花はあと一つだ」

慎は険しい目でランの花びらを射た。花はあくまでも純白を主張し続けている。だが、それ故に益々毒々しく、危険なもののように思われるのだ。鍵に張り付いていた泡が一つ弾け、水面で消えた。回転のぞき絵は加速していく。いつか来る終わりに向けて。


***

「……母親の夢を見た」

「母さんの?」

 冷たいシーツ、冷たい部屋、冷たい体、冷たい花。この身と部屋を形容するのは、どれも同じ言葉であった。だが、ふと語られた言葉には、その声に似つかわしくない温度があった。白蘭の言葉に驚いたのも、あの山吹色の瞳の少年ではなく、語り手の兄の方だった。裸の腕にシャツを通しながら、水無月は白蘭の言葉に耳を傾ける。

「何も映らなかった。何も覚えてねぇから……ただ白いだけの夢だった。でもこれが母親だと分かった。何となく、そんな気がした……」

「分かるよ」

水無月はボタンにかけた指を止めて言った。

「分かる。僕も時々そんな夢を見るから。僕も何も覚えてないんだ。写真なら父さんに何度も見せてもらったはずなのに、すぐに忘れてしまう。僕には母さんは遠すぎるよ。それなのに、なぜか何ともない感覚が母さんのように思われて……」

「言うな」

水無月はベッドに腰を預けたまま、そっと首だけを動かして振り返った。白蘭はこちらに背を向けるように寝返りを打ち、何も纏っていない身をシーツで覆った。言うな、そう言って自分も落合桃真の言葉を封じた。認めたくない真実、否、一重に愛の奇跡のために。だが、それがいかにおぼろげで曖昧なものかを、水無月は知っている。それこそ、母親の夢のように。言葉にした瞬間、全てが砕け散ってしまう――そんな気がするのだ。誰もが言葉によって傷つけられたこの世界を見ると。

「ハク」

「……その呼び方で呼ぶんじゃねぇ」

「僕は構わないんだ。ハクにどんなに傷つけられても」

「はっ?」

微かに衣擦れの音がした。シャツの落下を、灰色の絨毯受け止める音。

「僕は……僕はね……」




母さんの顔を知っているんだ――


「母の夢を見ました。今日」

「お母さんの?」

 当校時刻が比較的のんびりなクリスとノア、そして、珍しい夢に戸惑い、朝のお勤め(つまり慎へのストーカー行為)を怠った明音は、慎の凱旋も知らず、人も疎らな小道を抜けていた。ノアが登校中の花木先生に捕まり、なにやら楽しげに話している間に、明音は思い出したようにそう言った。明音は、腹違いの兄たちと同じ青い目を済んだ空に向けた。

「久しぶりでした、何か。母さんのことって、普段はあまり考えないし。いつも頭の片隅にいるから、何かわざわざ思い出したりしないんっすよね。だから怒るのかもしれないっすけど」

「怒ってたの、お母さん?」

クリスが尋ねると、いいえ、と明音は首を振った。

「反対っす。笑ってました。そういえば俺、母親が怒ってる顔とか、泣いてる顔とか、見たことないかもしれません。俺を叱る時まで笑顔でしたから」

「優しいお母さんだったんだね」

「さあ。何が楽しかったんだかよく分かりませんけどね」

「そういえば、明音君もそうだよね」

「えっ?」

花木先生の早足に付き合い、クリスたちより一足先に校門にたどり着いたノアが遠くで手を振っている。クリスも大きく手を振り返し、すぐに走り出す準備をした。だが、まだ唖然としている明音が気になって、肩をぽんぽんと叩いて言う。

「明音君もいつも楽しそうだよ。少なくとも、俺が見てる限りでは」

クリスは走り出した。すぐに友人の横に並んだクリスは、花木先生がノアに吹き込んだ渋い話題に苦笑いをしながら、どんどん明音から遠ざかっていく。明音は「あっ」という形で口を開けたままにして、その場にしばらく立ち尽くしていた。冷たい風が吹き付けて、ようやく彼の意識を再起動させる。何が一体楽しいのか。母ではなく、自分に訊いてみた。答えはあまりにも明快だった。慎様がいるから。誰よりも素晴らしく、誰よりも崇高な存在として、慎様が存在しているから。そして、その慎様と同じ学園に通い、同じ空を見上げ、同じ血を分け合っているから。

 分かった気がした。母がいつも笑っていた理由が。息子のように現在進行形の喜びではなかったが、母もまた嬉しかったのだ。千住法正に愛されたこと。千住法正を愛したこと。そして、千住法正の子供を授かったことが、彼女にとって最大の喜びであったに違いない。だから、母はいつもこの血の中で笑っているのだ。


***

 慎を迎える声はどれも盛大で、温かいを通り越して熱かった。慎自身は知らないところだが、その騒ぎようは、クリスたちからも、原因不明で欠席している落合への心配を追いやるほどであった。クリスは様々な思いで顔を歪ませ、また、真央は、周囲はあれほど騒いでいるが、自分は来夏先輩のことしかみていないと宣言し、見事に来夏に頭を叩かれた。菜月は颯と過ごせる時間が減ると言って不満げだった。ノアは皆を見てくすくす笑っていた。

 しかし、こうした個々の声を無視したとしても、慎はどこかで煮え切らない思いを抱えていた。それは欲望のようなものであったが、何をどうしたい故の欲望なのかは自分でもよく分からなかった。心が勝利に慣れきってしまったせいか。優勝したとはいえ今回で連続四回目であるし、実際に同年齢で自分に適うものがいないことは知っている。だが、その勝利は当然であればこそ、それを得た者の自尊心を益々高めるのだ。他に何かがある。自分が手に入れられない、何かが。

「やあ、これは千住君。お久しぶりですね。優勝、おめでとうございます」

 そう言って歩み寄ってきたのは校長だった。慎は慇懃に礼を言ったが、警戒心を決して解いてはいなかった。いつかの校長室での攻防のことを、慎はまだ忘れていない。

「しばらく姿を見せなかったので心配しましたが、元気そうで何よりです。しかし、学生の仕事は一にも二にも勉強ですからねぇ。それを怠るのは、僕の立場としては少し嬉しくないところですが」

「今後は文武共に精進いたします」

慎が素直に言うと、校長はその表面的なのを悟りながらも、満足そうに微笑んで頷いた。それから、慎の肩越しにとある人物の姿を見つけ、快活に挨拶を飛ばした。慎は振り返り、そして眉をひそめた。白衣を纏い、生徒と話しながら悠然とこちらへ歩み寄ってくる人は、紛れもなく実の兄ではないか。千住薫、見慣れた名前がネームプレートに揺れていた。そして彼の腰元にいるのは、何とかの石崎・エーリアル・クリスと有瀬ノアである。慎は見られないように下唇をわずかに噛んだ。

「おはようございます、校長先生」

「いや、今日は見事に晴れましたね。千住君、おっと失礼、千住慎君の華々しい功績に、実にふさわしいお天気です」

クリスとノアは次の授業があるからといって、薫に会釈をして階段を駆け上っていった。慎は二人の後姿をじっと見つめている自分に気がついた。一瞬こちらを見たクリスと目があったが、クリスは慌てて視線を戻して去ってしまった。水晶の指輪を外した今、クリスの心にあるものは一体何なのだろう。一方で、ノアは見向きもしなかった。

「しかし、慎君はまさに学園の誇りですね。千住先生も鼻が高いのではありませんか?」

「いや、実の弟のことですから。こうやって褒められると、何だかこっちまで照れくさいというか……」

困ったように笑う薫。慎は表情一つ変えようとしない。

「全く以て謙虚なご兄弟ですねぇ。これからも期待していますよ、千住君。もちろん先生の方も……ところで、僕は少し急用を思い出したので失礼いたします」

校長は笑いながらさりげなく二三歩後ずさると、くるりと向きを変え、射られた矢のように猛烈な勢いで駆け出した。残された兄弟の脇を、彼らを避けるように二手に分かれた校長捜索隊のメンバーが、雄たけびと共に走り過ぎていった。捜索隊が遠くになると、廊下はふいに静かになった。慎は兄の視線を額の辺りに感じつつも、観察するように自分を見るその目を見つめ返せないでいた。担当科目のせいだろうか。液体の形や色の変わり方、原子の結合、そういったものばかり見つめているから、弟を見守る目の色さえも無機質で冷たいのだろうか。そんな薫の表情が変わった。薫は口元を緩めると、率先して重苦しい沈黙を破った。

「どうした?いつもみたいに突っかかってこないなんて、お前らしくないな」

それは、教える者と教わる者の壁を取り払った言葉だった。慎も微かに笑い返す。

「いつまでもガキみたいな真似をしてられるか。生徒会長たる者が、みっともねぇとこを周囲に曝す訳にもいかねぇしな」

「なるほどね。自覚がある、というのはいいことだ」

「どういう意味だ?」

先ほどの言葉はどこへやら、頭に乗せられた手を払いながら、慎は早速怪訝な顔で聞き返した。薫は返事代わりに微笑を繕い、弟が背中を向ける方に向けてゆっくりと歩き出した。白衣の裾をはためかせ、授業用のファイルとノートをしっかりと腕に抱えて。だが、薫は何を思ったか、慎の肩から数歩歩いたところで急に立ち止まり、顔は真っ直ぐ前へ向けたまま、言葉にしなかった釈明を述べた。

「自分が高位にあるという自覚のことさ。適度な自尊心は人を高めてくれる。だが、結局は薬と同じようなものだ。過ぎれば毒となる。用心しろ。お前は薬をやや服用しすぎる傾向にあるからな」

薫が横目で確かめた時、慎も既にこちらに背を向けていた。慎は笑うような音を発しただけだった。

「おい、慎……」

「そうか。わざわざありがとよ、兄貴」

「慎、俺は結構本気で言ってるつもりだが……」

「分かってる。だから礼だけは言っといた。だが、生憎十分間に合ってるぜ。今の俺にその薬だかなんだかは必要ねぇ」

慎は制服の脚を伸ばすと、兄の顔は一度も顧みず、手だけ振って歩き出した。もし薫が止めなければ、慎はたちまち曲がり角に消えて、階段を突き進んでいただろう。余裕の笑みを称えたままで。だが、薫は残酷だった。慎の姿が見えなくなる手前、彼が思わず足を止めるほど穏やかな調子で、こう投げかけたのだ。

「慎、優勝おめでとう」

 フルーレの風を切る音が、ふと耳元で聞こえた気がした。


***

 呼びかけともつかない弱弱しい声にも、芳乃は反応した。ロの字型の白い建物に囲まれた、寮の中庭での出来事である。落合は歩み寄ろうとして躊躇した。調子が悪いと嘘をつき、友人たちをベッドの中から見送ったのが今朝のこと。今は日も高くのぼり、体力をもてあました落合は、窓から幼馴染の姿を見つけ、慌てておりてきたのである。芳乃が見つめていたのは、四階の角にある小さな部屋の窓だった。落合はその部屋の持ち主を知っていた――篠木兄弟だ。全部屋共通の水色のカーテンが閉められ、窓の中の景色は到底のぞめそうもない。普段はその内側にいるはずの芳乃が、どうしてこんな風に外から見上げているのか。落合には分からなかったが、理由を聞くほどの勇気も沸かなかった。

「なんだ、落合か……」

芳乃は口元を緩めた。手には萎れかかったランの花を持って。

「学校は休んだのか?」

「もちろん。じゃなきゃ今頃こんな所にいる訳ないでしょ?で、そういうそっちも?」

「まあ、な……」

「ふうん。具合が悪いようには見えないけど」

「そっちもな」言いかけて落合は口を閉じた。揺れる山吹色の瞳、目元や頬を覆う深い影、芳乃はとても好調そうには見えなかった。落合は空で何度か唇を動かした。舌がもつれて上手く言葉がでてこない。自分に尋ねる資格があるのか、それさえも分からないというのに……

「何?」

芳乃は刺のある聞き方をした。まるで弱った動物が怪我を庇って威嚇しているようだった。自分は決して彼の敵ではない。彼に救いの手を伸ばそうとしているのだ。そう信じて問うことを決めた。落合は一歩芳乃に近づいた。芳乃は立ち尽くしたまま、落合の顔を睨むように見つめるばかりだった。

「お前さ、その……白蘭とは上手くやってるのか?」

「上手くいってないとでも言ってほしいの?」

芳乃の唇が冷酷に歪んだ。

「芳乃、俺は……」

「君の気持ちは知ってるよ。ぼくのことをまだ忘れられないでいる。でも自分で突き放したからには戻って来いとは言い出せない。だから自然にぼくが戻ってくることを望んでる。そうでしょ?」

「芳乃……!」

「君には残酷すぎる答えだったかな?でも真実はそういうことさ。それに、悪いけどぼくは君のところには戻らないよ。復讐してやるって決めたから。ぼくと白蘭様を傷つけた奴らにね。例え白蘭様が他の人を愛していようが、最後に白蘭様の心を手に入れるのはぼくだ。その日まで……ぼくはどんな荊の道でさえ進んでみせる。白蘭様の心を手に入れるために、ぼくは白蘭様の望む世界を作り出してみせる……そうだ……そう……そう決めたのに……」

芝生の上に崩れ落ちた芳乃の体を、落合は駆けつけて抱きとめた。抗ってこの手を抜け出すかとも思われたのに、意外なことに、芳乃は落合の腕の中でおとなしく俯いていた。久しぶりに抱く幼馴染の体は、異様なほど軽かった。落合は少なからずぞっとした。まるで終わりの間際の人のようではないか。ふと、セーターの袖を濡らすものがあって、落合は黙り込んだ肩をそっと揺さぶってみた。芳乃はゆっくりと顔を上げた。疲れきった頬の上を、小さな雫がきらきらと光って伝っていた。

「ぼくはどうすればいいの……?もう何をやっても苦しいだけだ。どこにも逃げ場なんてない。いつか至福の時がくると思ってひたすら足掻いてきたけれど、その時が遠いのか近いのかも分からない。すぐだと思い込んで一歩進んでもますます遠ざかる気がして……もう何もかも嫌になった。でも投げ出せない。白蘭様の心を求める気持ちが、そうさせてくれなくて……」

二人は同じ窓を見上げた。まだカーテンは閉じたままだ。誰も中にいない他の部屋と同様に、じっと動かないでいる。呼びかければ果たして応えてくれるのか。

「ぼくは白蘭様のことを愛してると思い込んでたんだ。自分を犠牲にしてもいいほど愛してるって。でも、違った。結局まだ我が身が可愛くて。白蘭様のために犯した罪が苦しくって……」

「もういい、芳乃。もうやめろ。今なら俺から言える。戻って来い。戻って俺の隣にずっといろ。もう苦しむな。あの頃に戻ろう。なっ?」

芳乃はふるふると首を振った。涙の粒が飛んだ。

「出来ないよ……もうここまで進んでしまった。あと一つ、あと一つ花が残ってるから……!」

「おい、芳乃!」

「これで全て決着をつけるんだ。今度こそ白蘭様の厭うものを消し去ってみせる。そして復讐を……ぼくは完全な夢を作り出すんだ。安らかな夢、永遠の夢を。ぼくたちはそこで生きる。その完璧な箱庭の世界で。全ての罪さえも忘れて」

その時既に、芳乃は落合の腕を振り払っていた。涙を花弁に受け、ランの花が瑞々しく蘇っていた。酔うほどの芳しい香を匂わせて。落合は止められなかった。後一つ、余計な芳乃の苦しみを見ることになるにも関わらず。


***

「秋元君、悪いけど、電気を消してもらえるかな?」

「は、はい」

 若い新任講師に頼まれ、真央が目の前を慌てたように駆けていく。友人たちは半ば興奮状態だ。普段は目だけでも前方なんて見ないくせに、今日は体ごと黒板に向けている。いつも通り机に頬杖をついているのは、明音ぐらいだろう。彼とて内心は決して平常ではなかったのだが。化学室を益々白く染め上げていた蛍光灯の灯が落ち、ぼんやりと眺めていた顔が暗闇に消える。だが、耳元で交わされるささやき声は更に音量と速度を増すばかり。ざわつく生徒たちに先生が静粛を求めると、ようやく生徒たちは唇を閉じた。薫はおかしそうに微かに笑った。

「協力ありがとう。それじゃあ、今からこの液体に火を近づけるから、反応をよく見ておいてノートを取ること。いいね?」

 明音は目を閉ざし、暗闇に暗闇を重ねた。今、すぐ目の前の教壇に立ち、教室中の注目と尊敬を集めているこの講師は、例え半分だけにしても紛れもなく血の繋がった兄なのだ。この兄は明音と十ほども歳が離れていたから、明音は幼い頃に既にその偉業を聞くことができた。母はまるで自分の子のように話して聞かせ、明音もどこかで親しみを覚えていたが、実際対面してみると、それがいかに浅はかで傲慢なことだったかよく分かる。千住薫という男性はあまりにも出来すぎていた。まるで雲の上の人間だ。この男性と血が繋がっているなんて、到底信じられない。クリスは彼に対する尊敬と親愛を同時に得たが、どちらも当初から持っていた明音の場合は、尊敬しか残らなかった。慎を追う勇気と根気はあっても、薫の後を追う勇気はわかなかった。なんだかあまりにも圧倒されてしまって。

 ため息は二度目の歓声に掻き消された。やはりそうだ。千住家と自分には計り知れぬほどの隔たりがある。今まで慎を慕ってきたこと――カメラにその雄姿を収め、行動を一々書きとめ、その後をひたすら追ってきたこと。心の中では密かに兄と思っていたこと。プレッシャーと兄への劣等感にさいなまれ、フェンシング場に入り浸りになった姿を、密かに見守ってきたこと――全て出すぎた真似のように感じられた。自分にはきっとそんな資格はないのである。ホウセイ・チズミにおいても同じことが言えた。千住家を囃す声を耳にする度、実は自分の家族なのだと内心誇りに思い、おこがましくも他の者たちに対する優越感まで覚えたものだが、今となってはそんなことはできそうにない。薫という人間が目の前に立って示してくれたのだ。この完璧すぎる、水晶の輝きのような人間が。千住家と涌水親子との壮大な距離を。母は今泣いているだろうか。

「涌水君、大丈夫かい?」

 明音ははっとして目を開けた。化学室は元の白い空間に立ち返り、クラスメートたちが自分の顔に注目している。明音の背中に立ち、その肩に手を置いているのは薫だ。明音は赤面した。どうやら具合が悪いものと勘違いされたらしい。大急ぎで首を振った。

「い、いいえ……な、何でもないっす……!」

「そう?それならいいんだが。じゃあ、各グループで実験を始めること。涌水君、話は分かるかい?」

「えっ、えっと……」

「いいよ。僕が教えるから。ほら、その試験管を取って」

「は、はい……!」

明音は高まる温度を感じていた。薫に直接手をとられて指導される。自分と千住家の人間では、こんなことでさえ本当は許されないのに。生徒と教師であるから初めて許される。自分がただの生徒に過ぎないから、優しく微笑んでもらえる。でも、もし、薫が、自分が腹違いの弟であることを知ったら、その時は――


 えっ?


 明音は思わず叫びそうになった。ビーカーを持った手が止まり、透明な曲面に映し出された青い瞳が見開かれる。母の姿が揺れている。

「涌水君?」

気のせいだったのだろうか。耳元でそっと囁かれた気がしたのだ。「知っているよ、全て」と。

 化学室の窓に、背を返す一人の少年の影が映る。芳乃だった。行き場のない白いランを握り締め、彼の行き着く先はいずこ。

 水底の鍵に寄生した泡が、一つまた弾けて消えた。




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