第十五話 さざなみの上 微睡みの中・後編
「やっぱりプロの画家は違うね。他の子たちと比べては悪いけど、やっぱり絵そのものが生きているように感じるよ」
「いいえ、そんなことは……」
最後の二時限を占める美術の授業では、学園内の景色を場所は構わないので写生するよう命じられた。クリスは、ノアと共に中庭でも行こうと思ったが、生憎ノアが花木先生に捕まってしまったため、一人で少し遠出をすることに決めた。落合も二人と同じく美術を選択していたけれども、何だかまるで元気がなく、話しかけてもろくな返事もしないので、美術室の隅に放っておいた。今、クリスがこうして薫と並んでいる光景を見たら、一体何と言うだろうか。
最初に会ったとき、薫にどことなく生徒会長の面影を感じないでもなかったが、こうして間近で見てみると、目元や口元、小鼻の辺りなどはとりわけてそっくりで、背も二人揃って高いことだし、慎が少し成長すれば見分けも付けがたくなるのではないかと思われた。ただ、あの高慢な少年が、成長に要する数年の間に、ここまで人の心をさざめかせ、同時に安堵させるような包容力を得られるかどうかはまた別の話だった。薫は饒舌だったか、相手――つまり、今の場合ではクリス――の話を遮ることは決してなかったし、むしろ喜んで聞こえてくる言葉に耳を傾けた。話す声は落ち着いて深みがあり、一つ一つの言葉は心の奥にまで染み渡った。そういう摩訶不思議な人物であるので、自分に歩調を合わせながら颯爽と歩く薫をちらと見るだけで、クリスはもう頬に血がのぼる心地がするのだった。
「千住先生はどうして先生になったんですか?」
話の成り行きでクリスは尋ねたが、半分は自身の好奇心によるものだった。薫は首をかしげる。
「どうしてと言われてもね……僕が教職についたら、何かまずいことでもあるのかい?」
「いいえ。でも、お父さんみたいに俳優とかにはならないのかなぁって思って。だって、先生なら絶対に人気が出そうじゃないですか」
「まさか。僕は演技力がまるでないんだよ。芸能的なことに関しては、慎の方が優れてるんだ。あいつは父親似で派手好きだからね。僕はどちらかというと母親似さ。母はこっちが呆れるぐらいおっとりした人なんだが、僕もそういう所を受け継いだらしいね。案外性質は地味なんだねってよく言われるよ」
「そんな。先生が地味だなんて全く思えません。先生が優しすぎるからそう言われるんですよ、きっと」
薫は肩をすくめて苦笑したが、クリスが気を悪くしないようにその肩を優しく叩く気配りを示した。胸の中で一つ泉が湧き上がった気がした。それの水脈を辿ることは困難であったけれども。二人はフェンシング場の横を通り過ぎ、間もなく薔薇の小道に差し掛かろうとしていた。ここを抜ければ旧図書館のそびえる開けた土地へとたどり着く。クリスは実は、旧図書館をスケッチする気でやってきたのだが、この薔薇の小道とて絵になる場所だ。クリスが丁度そんなことを思っていた時、偶々薫が口を開いた。
「そういえば、個展はもうしばらく開かないのかい?僕はとても楽しみにしているんだけど」
薫の目は薔薇の花に向けられている。薔薇たちは季節はずれながらにぎやかだ。
「あっ、はい。しばらくは学業に集中しようと思って。叔父さんと叔母さんにも約束しちゃいましたし」
「そうか、残念だな。でも君はなかなか優秀な方だと思うけどね。化学以外は」
正直に言った方がよいと思ったのか、薫は笑いながら最後の一言を付け足した。クリスは微かな羞恥に顔を赤らめつつも、少し嫌な気がしない自分に気付いていた。
「少し前まではよく出来てたんですよ、言い訳じゃありませんけど……うーん、やっぱり日本史に打ち込みすぎたのかなぁ?」
クリスは薫が聞いてくれるのを良いことに、学業とその他の悩みをごちゃ混ぜにしながら、口にのぼった順に薫に打ち明けた。初対面の人にここまで打ち解けたことはいまだかつてないことであった。だが、薫と一緒にいると、心にあることは粗方話してしまうのが、当然のことのように思われたのだ。薫は辛抱強くクリスの悩みに付き合っていたが、大体聞き終わった後で、ふと思いついたようにして漏らした。
「勉強なら、僕が見てあげてもいいんだけどね。一応化学の他にも教えられる科目はいくつかあるから。といっても、僕がここにいられる時間はそんなに長くはないんだけど。中途半端になっても構わないなら僕は喜んで教えるけど……」
「お、お願いします!」
クリスは誰と競うわけでもないのに、先を急ぐようにして口走った。二人は一瞬きょとんとして立ち止まり、見つめあい、そして一緒に吹き出した。晴れやかな気分というのは、全く今のような心地のことをいうのであろう。
「じゃあ、よければ明日の放課後から……」
薔薇の小道という細長い舞台の上で、二人の傍らを、新たな役者たちが追い越していった。黒い艶やかな髪が風に伸ばされて、クリスの視界の端に入り込んでくる。彼が後姿となってから、クリスはようやくその正体に気が付いた。茘枝だった。いかにも素封家らしい銀髪の青年に連れられ、青年の急ぐような足取りに遅れをとることなく、優雅に毅然と歩き進んでいる。まるで、優雅であることが、青年への唯一の反抗であるかのように。焦点の合わぬまま確かめた一瞬の横顔が、クリスの脳裏に鮮やかに蘇った。重なったのは、ダヴィットによる処刑前のアントワネットのスケッチだった。誇りを失わず、背を伸ばし、真っ直ぐ前を見据える彼と彼女――不吉な予感がした。
「どうかしたかい?」
薫が尋ねた。クリスははっと我に返った。肩が何やら温かいのは、薫の手が優しく添えられているかららしい。クリスはまた真っ赤になった。
「い、いいえ……大丈夫、です……」
***
司書室は散らかっていた。巨大な映写機が彼方の顔の左半分を覆うのはいいとして、少し手を動かしただけで、本やらペンやら紙くずやらが、机から落ちるような始末だ。おまけに床では鶏が暴れ、そこら中に白い羽毛を撒き散らしている。潔癖症のお坊ちゃま彼方が、なぜこんな場所を自分との会見の場所に選んだのかまるで分からない。部屋の持ち主である一穂も、散乱の様をまるで恥じる様子もなく、微笑みを携えて客人のためにティーカップを温めている。一穂がポットを手にとると、ハーブの香りが微かに鼻をついた。それにしても彼女は変わらない。記憶から抜け出てきた時のように、相変わらず三年前に見た時のままの若さと美貌を保っている。強いていうなら、少女のようなあどけなさが掻き消えたことぐらいか。茘枝は一穂が紅茶を淹れ、頭を下げて部屋を出て行くまでを見守っていたが、彼方が咳をして彼の関心を引き戻した。いつか遠くから眺めた青い野心に満ちた目は、氷室一族というおおまかな括りだけを通して、何とかその眼光を緩めていた。だが、直に化けの顔も剥がれるだろう。彼方が旧交――それもあるかないか分からないほどの――を温めるために学園に来た訳でないのは分かっている。茘枝はきつく唇を閉じた。
「さて、何やら話したらいいのだか。挨拶は先に済ませてしまったし。とりあえず、僕は聞き手に回るとしようかな。まず訳を聞きたいね。氷室財閥の跡取りであった君が、名誉も権力も捨て、ライバルであった川崎陽と共に一族の元を逃げ出したか、その訳を」
「……お話するほどのことはありません」
彼方が眉を顰めたのが見えた。だが、この青年に不快感を与えずして、今の日々を守ることはできない。最初から反抗の態度を示しておくのは、せめてもの礼儀だった。それよりも、陽との思い出をこの無粋な青年にけがされたくない気持ちの方が強かったが。彼方は散らかりっぱなしの机に肘をおき場所を見つけて手を組んだ。容疑者に口を割らせようとする、いやみったらしい刑事のように。
「君にとっては話す価値もないことだとしても、僕らにとってはぜひ聞いておきたい話なんだ。君が事の重大さを理解していないはずがない。親御さんを捨て、一族の名を汚し、君を愛してくれていた多くの人々を悲しませた。君の良心は少しでも痛まないのかい?君には話す義務があるはずだ」
茘枝は紅茶を啜り、哄笑を押し隠した。親御さん?あれを親と呼ぶのか?子供のことを、名誉と金を得るための道具としか思っていなかったような奴らを?「君を愛してくれていた多くの人々」の件もまた面白い。その多くの人々のたった一人として、自分が知らなかったのは、一体どういうことか。氷室彼方はどう釈明してくるだろう。茘枝は思ったままを述べてみることにして、カップを置いた。
「義務やら良心やら仰いますが、私にはさっぱり分からないお話です。義務というのは親の義務のことでしょうか。確かに親には子を愛する義務がありますが、私の両親の場合はそれを果たしませんでした。ですから、彼らのために痛む良心を私に求めるのは、甚だ筋違いというものでは?それに、一体誰が私を愛してくれていたでしょうか?私は残念ながら一人としてそんな人物を知りません」
彼方はため息をついた。実に芝居がかった仕草だった。
「君は何も分かっていない。そんなことを言って、自分の振る舞いを正当化しようとしているだけだ」
「まさか、正当化など……」
「君のご両親も、君の伯父さんも、皆、君を信用し、愛していた。それは周知の事実だろう。そんな人たちの信頼を裏切っておいて、何も話したくないでは済まされないと思うがね」
全く面倒な男だ。いちいち返事をしている限り、同じ話を何遍も繰り返すのだろう。茘枝はまたカップを持ち上げたが、今度は口に運ばずにいた。このハーブの香りはどうも好かなかった。返事の代わりには、小さく肩を竦めておいた。それが彼方の目にどう映るかは、半分投げやりな気持ちで。彼方はようやく紅茶に手を出して続ける。
「君もそろそろ大人になる。自分のしたことにはきちんとけじめを付けるべきだ。罪を犯した者には懺悔が必要だ。それをなくして、君に輝かしい未来など……」
「一つよろしいですか?」
「何か?」
「貴方はそんなことを言うためにわざわざ私を連れ出したのですか?」
「何?」
「私は後悔もしなければ反省もしません。私にとっても陽にとっても、氷室財閥やそこに関わる人間はもう捨て置いたものでしかないのです。そんな私を、これ以上何を言えば説得できるとお思いです?」
彼方はふと沈黙した。好都合だ。あまり軽薄な口を聞いているとうんざりしてくる。茘枝が馴染めない紅茶をもてあましている間、彼方の中で、降参とも諦めともつかない何かが決議したようだった。それは、綿に含ませていた針を、絹で覆っていた剣の切っ先を、ついに露にするということであった。彼方の顔から馴れ馴れしい笑みが消え、鋭い青い目はついに野生を取り戻した。彼方は煙草に火をつけた。煙は狭い室内にゆっくりとひろがっていく。
「もちろんそんなことのためじゃない」
咳き込む茘枝に、彼方は擦り切れた声で言った。
「見逃してもらえると思ったか?お前たちの身勝手な行動のせいで、氷室財閥がどれだけの損害を被ったか、知らないとは言わせない。お前たちのことを押し隠すために大金を要した。俺の突然の養子入りについても、うるさいマスコミや世間の口を黙らせるために多くの犠牲を払う羽目になった。今でこそ財閥は安定しているが、そのために一族の人間がどんなに奔走したか。お前たちは俺のことを甘ったれていると嗤っているだろうが、甘ったれてるのは自分たちの方だ。許された気になって、すっかり安心しやがって。氷室家の人間は残念ながら寛容じゃない。制裁はきっちりと受けてもらう。幸せな生活がこのまま続くと思ったら大間違いだ」
茘枝の手首を、突然彼方の手が取った。カップに添えられた指に熱湯が零れ、茘枝は思わず抗うのを忘れる。彼方は茘枝を強く引き寄せて襟を掴み、後方の壁へと投げ飛ばした。何とか持ち直したものの、煙草の煙が喉を痛めつけ、視界を歪ませる。彼方はいつもの坊ちゃん気取りはどこへやら、歳より老けたえらく人相の悪い男となって、茘枝の方へと歩み寄っていた。逃げるのは癪だが、憎悪に取りつかれたこの男が何をしでかすか分からない。案ずる間にも再度襟をとられた。浮いた顎の左下に彼方は小さな痣を見つけ、煙草の先を押し付けた。茘枝は歯を食いしばり、必死に弱い声を漏れるのを堪えた。首元の拳に手をかけるも、煙草の火の先がそちらに移っただけ。気道は序々に圧迫されつつあった。
「こんな時どうすればいいと思う?俺としては、恋人に連絡するっていうのを推したいところだけど」
「陽は、関係ない……っ!」
彼方の口元に冷笑が閃いた。
「なるほど。恋人に危害を与えたくないという訳か。だが、俺がやらなくとも誰かがやる。罪は必ず糾弾されるものだ」
彼方の言葉に、茘枝は確かな戦慄を覚えた。もしや陽にも、何者かの手が忍び寄っているのではあるまいか。制裁を名乗る、残虐で冷ややかな指先が、彼の心臓の元に――
***
「おい、茘枝」
そう呼びかけて覗き込んだ音楽室には、ヴィオラを持った後輩一人の姿しかなかった。陽は少し嫌な顔をした。彼のことなら前に見たことがある。しかも茘枝とのツーショットで。自分をからかうための演技だったとは言え、茘枝があんな風に他人と接している姿は好ましく映らないものだ。ヴィオラの少年は演奏をやめてこちらを仰ぐ。竜胆色の髪に水色の瞳をした、聡明そうな顔立ちの少年だ。確か名前は……篠木白蘭、じゃなくてもう一人の方、水無月だ。つまり、あの問題児の双子の兄という訳だ。しかし、双子というからにはもう少し似ていてよさそうなものを。あまり気乗りはしなかったが、陽は似ていない双子の片方に声をかけてみることにしてみた。
「なぁ、茘枝は?」
「部長ですか?部長ならさっき校長先生とお客さんに連れられてどこかに行きましたけど」
お客さん――嫌な響きだ。隠れていた藍色の目が前髪に透けて見えるようになった。
「おい、客ってどんな奴だ?」
「男の人です。若い人でした。髪が銀色で……」
そこまで聞けば十分だった。陽はくるりと身を翻し、盛大な音をたてて音楽室の戸を閉じると、全力で階下へと駆けて行った。校一階の校長室の扉を無断で開く。部屋には山積みになったファイル以外に誰もいない。すぐ傍を通りかかった副校長を捕まえ、校長はどこかと聞いてみたが、我々も探している最中だとの返事。鳥居先生に至っては、氷室の名を聞いた途端逃げていった。陽は毒づいた。校長とて、客人との面会となれば、堂々部下に宣言できるはずだ。となると、彼方と茘枝は二人でどこかへ出かけたこととなる。荒げた息の代わりに悪態が出た。一体どこに行った?職員室も先生がごった返しているばかりで、最も期待の高かった応接室にも灯かりはない。その時、陽の視界に、踊り場に消える小さな物陰が映った。陽ははっとした。あれは茘枝のバイオリンケースではないか。
「おい!」
ケースの運び主は答えない。足音だけがする。陽は急いでその後を追ったが、四階で足音が消えるまで、ついに犯人の姿は拝めなかった。夕日に浮かび上がった影絵だけが、一瞬壁に映るのだ。彼方ではなさそうだったが、自分の声に応答しない場所、茘枝が誰にも触らせないバイオリンケースを持ち歩いているところ、何か一枚噛んでいるかもしれない。茘枝の居場所を一刻も早く見つけ出すのが先決ではあったが、手がかりがまるでない以上、この怪しげな人物を片付けた方がいい。
「おい!てめぇ、どこ行きやがった?!」
陽がたどり着いたのは三年B組の教室であった。普段授業を受けている場所である。陽を散々翻弄した人物は、茘枝の机の上にバイオリンケースをそっと置くと、陽の方をゆっくりと振り返った。篠木水無月――そう一瞬見えた。だが、違った。冷酷な笑みを浮かべ、曝した白い胸もそのままにいるのは、彼の弟、白蘭であった。似てないという前言は撤回だ。何せ、一瞬見間違えたのだし。兎に角双子のどちらであろうが、陽は彼を問い詰めなければいけなかった。陽は焦燥と怒りを抑えて言った。
「てめぇ……何でてめぇが茘枝のバイオリンを持ってんだよ?茘枝はどこだ?」
「さあ、知りません。俺はただ、先輩たちに制裁を与えるっていう人に協力しただけですから」
「はぁっ?制裁?」
白蘭はすぐ隣の陽の席の前へと移動した。陽は目を細めた。自分の机の上に何かある。花瓶だった。白いランの花を一輪生けたガラスの花瓶だ。白蘭は花の萼を二本の指でとって持ち上げ、花弁にそっと唇を落とした。一枚の白い破片がはらはらと宙を舞った。
「何のつもりだ?」
「別に。ただ先輩たちが妬ましくなって。だってあんなに仲がよさそうだから」
「おいおい、ふざけたこと抜かすのも大概にしとけよ。オレだって、いつも優しくいる訳にはいかねぇんだからよ」
「でも、その通りなんです。だから、二人の恋が家族を裏切って実ったものだって知った時、罰しなきゃって思ったんです。何か罪を犯して、のうのうと生きられると思ったら大間違いですよ。先輩?」
埒があかねぇ。陽は思った。こんな少年相手に話をしようとしたのがそもそもの間違いだったのだ。陽は踵を返した。こうなったら、校内中のものをひっくり返したって、さっさと茘枝を見つけなければならない。彼方が茘枝に何もしないはずがないのだから。足を踏み出そうとしたその時、胸にしっかりと絡みつく白蛇のような腕の存在に気がついた。いつの間にか白蘭が陽の背に回り、その身を拘束していたのだ。その腕は、今にも獲物を絞め殺そうとしていた。
「おい、怪我したくねぇなら離れろ」
「随分物騒なことを言いますね、先輩」
白蘭は陽の肩に頬を寄せていた。
「このままじゃ言うだけじゃ済まねぇんだよ。とっとと離せ」
「駄目です。制裁を下すまでは、ね」
陽の喉に手がかかる。白く細い手は、以外な力を持って、陽の首を締め付けた。白蘭を突き飛ばそうとするも、彼は蛇のようにしなやかに陽の手足を交わす。その内に酸素が足りなくなってきたのを感じた。首にしがみつく手を引き剥がそうにも、指先に力が入らない。息苦しさの中で却って克明になるのは、茘枝を案じる心だった。「そこまでにしとけ」
酸欠の中で陽は耳を疑った。白蘭の手の力がふっと弱まった。その隙に白蘭の体を抜け出し、廊下の壁に寄りかかって小さく咳き込むが、目は既に声のした方へと向けていた。紺色の髪、青い瞳、そして憎憎しい口元の黒子と傲慢な笑み。紛れもない。生徒会長千住慎が学園に舞い戻ってきたのである。まるで不死鳥のように。
「慎、てめぇ……!」
「なんだ、会長か。いつの間に戻ってきたのか?」
白蘭は却って馴れ馴れしい敬語を投げ捨てて問う。慎は鼻で笑った。
「ちょうど試合から戻ってきたところだ。おい、白蘭、悪いことは言わねぇ。とっとと失せろ。てめぇの商売は今の客だけで十分成り立ってるだろうが」
「偶には他の層にも興味が沸いただけだ。まあ、いい。会長直々の命令とあれば、そうするさ」
白蘭はランの花を放り捨てると、陽の前を堂々と横切って階下へと消えて行った。陽はすぐに我を取り戻した。白蘭はどうでもいい。会長の復活記念パーティも後だ。まずは茘枝の居場所だ。だが、走り出そうとした陽の肩を、慎が掴んで制した。陽は前髪を退けて慎を睨みつけた。
「おい、何のつもりだ?」
「歓迎の言葉がそれか?」
「わりいけどな、お前に構ってる暇はねぇ」
「さあ、それはどうだかな」
慎は陽の肩から手を引くと、忌々しげな舌打ちと共に、青い目を踊り場の方へ放り投げた。駆け上ってくる足音がする。陽ははっとして動き出し、階段を数歩下りたところで茘枝と再会した。二人は信じられないように互いの姿を数秒間見つめあっていたが、やがて茘枝の方が相好を崩した。軽やかな笑いが彼の胸から喉を突き抜けていた。
「何だよ?彼方に頭までおかしくされたか?」
一瞬でいつもの様に戻って陽。茘枝は笑いながら首を振る。
「いや、何だか慌てていたのは急に愚かしく思えただけだ。そっちは何ともなかったか?」
「……お前の方は?」
「彼方様が少し暴走しかけたが、あいつはとことん運のない奴らしいな。人を旧図書館まで連れ出しておいて、間際というところで、せっかくのお楽しみを奪われた。千住薫にね」
「兄貴が?」
その一言で、ようやく茘枝は慎の存在に気が付いたらしい。突然の慎の登場は、茘枝を相当驚かせたに違いないが、さすがに慎の天敵と謳われたもので、すぐにいかにも嫌そうに眉の根を寄せた。茘枝は腕を組んで一歩後ずさると、慎の頭から爪先まで観察するように眺めた。慎も黙ったままにはしておけず、わざわざ聞こえるように大きな舌打ちをしてみせた。久しぶりではあったが、互いに何とか皮肉っぽい笑みを浮かべることができた。
「これはこれは生徒会長。授業にも出ず生徒会にも出ず、こんな所で何をしているのかな」
「状況説明ならてめぇの相棒にもくれてやった。後はゆっくり寮で話でも聞くんだな」
「生憎そんなことに感けている時間はないものでね。では、生徒会長、明日こそ生徒会室でお目にかかれることを期待しておくよ。陽、行くぞ」
茘枝に手を引かれ、陽は結局慎に一言も言えぬまま去って行くことになった。いいだろう。どうせ明日にはまた顔を合わせなければならないのだし。慎は変わらぬ天敵の様子に一先ず口元を緩めたが、ふと先ほど浮かんだ疑問が笑みを貶めた。兄がなぜ旧図書館などにいたのか、と。
***
白猫は長い尾を揺らし、駆け回る鶏を爛々と輝く目で見つめている。旧図書館前の薔薇の小道でのことだ。やがて鬼ごっこが始まり、辺りの暗闇は突然騒々しくなった。
今夜はいつかと立場逆転だ。ソファで眠るのは陽の方で、茘枝が背もたれに肘をついて、ぼんやりとその寝顔を観察している。寝顔だけはやたらと無邪気だと茘枝はいつも思う。これが目を覚ますとあちこちにちょっかいをしかけたり、嵐を引き起こしたり――それでも愛しいことにはまるで変わりないのだが。
茘枝は床に座り込み、ソファの反対側から背もたれに背を預けた。そういえば、愛しいと素直に口に出したことはあっただろうか。あったとしても多分少ない。陽の方はもっと少ない。言わなくとも動作で分かっていた。四年の月日を寄り添って過ごせば。そんな日が、今日で終わりになったかもしれなかったことに、茘枝は薄っすらと恐怖を感じないではいられなかった。私は――目を閉じる。私は、陽なしで生きることなどとても出来そうにない。
茘枝は淹れたての紅茶を口に含んだ。やはり飲みなれたものでないと美味しく感じられないものだ。それに、愛する相手を一緒でなければ。あのハーブティも、もしかしたら悪くないのかもしれないが、共に飲んだ相手が最悪だった。指先でやけどの痕にそっと触れてみる。顎の左下と右手の甲に一箇所ずつ。陽に打ち明けはしなかったが、どうやら気付いていたようで、帰るなり救急箱を取り出したのは思わず笑ってしまった。それで気を悪くして、ソファで不貞寝という訳だ。しかし、何分陽は薄着だし、被せた毛布もすぐに落としてしまう。風邪を引かれても困るので、そろそろ起こしてやることにしよう。茘枝はソファの正面に回りこみ、陽の肩をそっと揺さぶった。何度か揺すって名を呼んで、ようやく大儀そうな応答があった。安心したのも束の間、陽の伸ばした腕が茘枝の体をソファの上に横たえた。狭いソファの上から転げ落ちないためには、二人ともぴったりと密着している他ない。こんなことには慣れているはずなのに、頬が仄かに赤らんだ。
「陽!」
「うるせぇ。眠いんだから寝かせとけ」
「こんなところで寝てたら風邪を引くぞ」
「だからこうしてんだよ。少しは暖が取れるだろうが」
「私を一体何だと思って……」
「だからうるせぇ。今日一日誰のために学校中走りまわったと思ってんだ?」
「……私のため」
「……分かってんならこのままでいろ」
分かっている。陽の無言の愛、言葉ではなく動作で示す愛、身に染みるほど感じている。だから多少窮屈でもここにいようとするのだ。思い出すのは初めて思いが通じた日のこと。無言で後ろから抱きしめられ、体の感覚が信じられなかったのあの日。
茘枝もいつしか眠りの中に引きずり込まれていた。それは穏やかな波の上で得るような、優しい眠りだった。荒い航海の後に戻ってきたのだと感じた。さざ波の上に。微睡みの中に。