第十五話 さざなみの上 微睡みの中・前編
誰かの視線に射られて目を覚ました。穏やかな波の上で得るような、優しい眠りから。犯人は分かっている。人の寝顔を観察するなんて、そんな悪趣味なことをする者は、この家にはたった一人しかいないから。
「陽……」
「あっ、生きてた」
あっ、生きてた、じゃない。茘枝は手の甲で両目を覆い、意識し始めた日光から安穏の暗闇を守った。監査人は二度目を防ぐべく、早速その手をとって退かしてしまう。開けつつも眩しげに細めた視界に、見慣れたいとこの顔が映った。小さな吐息が漏れる。口元が笑っているのはいつものことだとしても、なぜこんなにも嬉しそうなのだろうか。悪戯をしかけて楽しいというのだったら、まだ理解ができるのだが。まともな人間との自覚がある、少なくともまともな人間を自称している自分には、それがさっぱり分からない。
「わりぃな、起こしちまったみてぇで」
ちっとも悪いなんて思ってないくせに。極限の呆れは微笑みに変わった。
「構わない。どうせ片付けなければならないことがあったから」
「ふーん。忙しいのな」
「何を。いつものことさ」
寝そべっていたソファの上から、茘枝はゆっくりと半身を起こした。陽はソファの背もたれに肘をかけ、のぞきこむようにしてこちらの様子を窺がっていたようだ。まだぼんやりする頭で座りなおすと、空いたスペースに猫のようにひらりと飛び移り、また何が楽しいのか嬉しいのか、口の端を吊り上げている。本物の猫の方は、白くしなやかな身を真昼の日の中に伸ばしながら、二人の飼い主の様子を高飛車な緑の目で眺めていた。
「シャネル、おいで」
茘枝が呼ぶと、牡猫は美しい姿勢で歩いて膝の上に丸まった。毛並みの艶やかなことといったら、全く他の猫とは比べ物にならないと、茘枝と陽は密かに自慢に思っている。「片付けなければならないこと」を整理しながら、その毛の上に何度も手を這わせていると、急に陽が肩を抱きすくめてきた。いつもの甘えるような調子ではない。その腕には、遠のいていくものを引き寄せるような強さがあった。少し意外そうに見上げた先に、無理に繕ったような無表情が見つかった。
「どうした?」
「別に。なんも」
「私に構ってもらえなくて拗ねていたのか?」
「ちげぇよ、バカ」
「そうだと言ってくれたら私だって素直に喜ぶのにな」
「だから、ちげぇって。ったく、これだから温室育ちは……」
未練がましく「自意識過剰」だのなんだの呟いているのを見ると、何か思うところでもあるのだろう。茘枝は陽の好きなようにさせておくことにした。こちらが黙って身を預けると、あちらも口を閉ざした。触れ合う箇所が、肩が、腕が、背中が熱い。時折髪にかかる息や、右手に絡みついた指も、汗ばむように熱い。シャネルはぴょんと跳ねてベランダへ出る。その後姿を追った後で、どちらから仕掛けた訳でもなく、双方が示し合わせていたように互いの唇を奪った。胸にこみ上げてくるもののせいで、今はもう全身が熱い。それは愛だとか幸福だとかいうものであったか。
「バカ」
長いキスの後で陽が言った。
「いつも拗ねたり寂しがったりすんのはそっちじゃねぇか」
「たまには妬いてくれたっていいだろう?」
「夢にでも妬けと?」「それも一興だ」「はっ!んなもんが分かってたまるかよ!」分からなくてもいいさ。茘枝は余裕の笑みで答える。癪にさわったのだか、呆れたのだか、陽はそれを自分の胸に押し付けて見なかったふりを決め込んでしまった。今度は笑いが音となり、静かながらに喉を震わす。
「何だよ?」
問いかけも無視した。「片付けなければならないもの」は「永遠に片付けられないもの」になりそうだ。この少年といる限り。
***
里見沙織先生の夫、里見務先生がぎっくり腰を理由に休暇をとってから初めての授業は異例だった。生徒たちは代理講師千住薫の美貌に当てられて、すっかり高揚し、口早に囁きあっていた。一体どこの女子高かと来夏は呆れてみせた。クリスはつられて苦笑しながらも、先生が再テストの監督を休んだのも実はぎっくり腰のせいなのだと思って同情したり、気付けば薫が背後に来ていて、実験器具の使い方について手をとって指導してくれるのでどきまぎしたり、周りの生徒同様少しも落ち着かないのであった。
「慎様のお兄様なんです。高等部の卒業生で、今は大学の方で教師になるための勉強をしてるらしいっすよ。そりゃ、あの容姿っすからねぇ、他にも道はあったんでしょうけど、なんでも教職が一番性に合ってるとか言って。成績優秀で運動神経も抜群、高等部在籍中の賞状とメダルの数はダントツで、生徒会長兼フェンシング部の部長も務めてたらしいっす。慎様のことも考えると、やっぱり千住家の血はすごいんですね……」
「来夏先輩みたい」と頬を染める真央を殴る来夏をよそに、クリスはちらりと目線を明音に寄越した。千住家の血は少なからず彼の中にも流れている。その血を褒め称えるとき、明音はどんな気持ちで賞賛の言葉を口にしたのだろうかと純粋に疑問に思って。明音はぼんやりと考え込むような顔をしていたが、弁当箱の中でふらつく箸先は、きちんと得体の知れない緑色の物体――作った本人曰く卵焼き――を掴んで口まで送り届けた。もきゅもきゅという奇妙な咀嚼音もこの際そっとしてあげることにして、クリスは、廊下を横切る影の中に薫の白衣を見つけ、一人胸を密かにときめかせた。生徒会長に翻弄され、惑わされた時とは違う。人並みはずれた才能を決してひけらかせず、優しく生徒たちを指導する薫に対し、クリスは早くも憧れに似たものを抱いていた。それに――自分は他の生徒たちよりも早く薫の存在を知っていた。再テストの時に、薫はクリス一人だけに向かって微笑み、褒めるかわりに頭を軽く叩いてくれた。一緒だったノアにも落合にもなかったはずの経験だ。その優越感が、薫への憧れをますます確かなものへと固めていた。
「やっぱり、千住先生ってさ、彼女とかいるのかなぁ?」
菜月の冷めたような口調にも、落合はものめずらしそうな目を向けた。
「おっ、どうした。おまえにもついに浮気でもするつもりか?」
「バカいわないで。落合と一緒にしないでよ。僕は颯一筋……じゃなくて、この間屋城さんと一緒に歩いてるの見たからさ」
「いっちゃんと?」
落合の眉間を狭めた微かな暗雲に、気付いたものは誰もいなかった。落合の頭の中では、封じ込められた記憶がしつこく鐘を鳴らしている。だが、その音色を思い出せない。菜月が赤い顔のまま頷く。
「うん。中庭を散歩しててさ。なーんか、楽しそうに」
「そういう相手がいない方がおかしいけど。あの先生だったらな」
「そうですよ。あの慎様のお兄様なんですから」
「何で生徒会長が中心なの?」
「クリス様、お弁当、なくなってますけど……」
薫の影を限界まで追いかけていたクリスは、ノアのその一言ではっと我に返った。ノアの言葉が真実か否かは、わざわざ見下ろさなくとも弁当箱の軽さで分かる。「酒本!」叫んでクリスが立ち上がらぬ内に、菜月は靴を履いて駆け出していた。クリスも挑戦を受けてその後を追う。ノアが何やら止める声も、クリスの耳には全く入っていなかった。
「クリス様ったら。僕の分を召し上がればいいのに……」
「そうもいかねぇよ」
ノアはふと来夏を仰ぐ。
「お前な、いい加減気付いたらどうだ?そんな親切で石崎が本当に喜ぶと思ってるのか?」
「えっ?」
「考えろ。友達なんだから」
ノアの疑問は、抱きついた真央を振り払う来夏の声に掻き消された。なぜだろう。つい先ほどまで厳しく説教していた人の顔が、今はなぜか仄かな紅を帯びている。光の加減だろうか。それとも……
空を見上げた。よく澄んだ十一月の晴れた青空だ。冷気は漂う埃や澱みを凍てつかせ、地表に屈服させている。きれいだな、その時ノアは素直に思った。
***
「さ、桜木先生……」
「何です、鳥居先生?お顔が青いわよ」
「ちょ、ちょっと、せ、背中を貸してもらえませんか?」
「背中?えっ?あらっ」
桜木先生は、橋爪先生と話しながら階段を下りてきたところであった。職員室に向かおうと右方向に折れた瞬間、鳥居先生に出くわした。二人でいたとなれば絶対にからかわれる、何とか言い訳を考えなければ。桜木先生と橋爪先生は必死に脳を捻り始めたが、既に真っ青になっていた鳥居先生は、上のように断るなりいきなり桜木先生の背後に回りこんだ。桜木先生は驚きつつも、その小さい背中に鳥居先生を隠してやった。橋爪先生も困惑の下で協力する。
「いいですか?私は空気です。幽霊です。ここには存在しないんです……!」
鳥居先生は声を押し殺してささやいた。
その直後だった。三人、正面から見れば二人の前を、校長と見知らぬ男性が過ぎていったのは。桜木先生は普通に会釈しようとして、鳥居先生を隠していることを思い出し、小さく首を傾けるだけに留めた。校長は老教師二人に気付くと足を止め、賓客の注意をそちらへ促した。鳥居先生が小さく「このバカ!ハゲ!」と毒づくのが聞こえた。
「おや、おはようございます、桜木先生、橋爪先生。こんなところでお二人で立ち話とは、相変わらず仲がよろしいことで」
「な、なにを……!」
二人は顔を染めて慌てふためいた。校長はにこりと笑い、まあまあと手を突き出して恋人たちを鎮める。
「冗談ですよ。全く、お客様の前で取り乱すなんて、お二方らしくもありませんねぇ。氷室さん、当校音楽教師の桜木と数学教師の橋爪です。お二方、こちらは氷室彼方さんです」
氷室彼方と紹介された若々しい青年は、二人に向かって愛想よく微笑みかけ、礼儀正しく頭を下げた。彼のすらりとした姿には、先生方もついつい背後のことを忘れてしまいがちになり、おかげで鳥居先生は、桜木先生がきちんと腰を折るのにあわせてしゃがまざるを得なかった。
「これから理事長のところへご案内するのですがね、一向に理事長室の電話が通じないのです。一体どこに行ったのでしょうね。橋爪先生、ご存知ありませんか?」
「さあ……あの方も神出鬼没ですからね」
「あの方『も』?」
「い、いえ、こっちの話です」
彼方の指摘を橋爪先生は急いでごまかした。仮にも名門、三宿学園高等部校長の名誉を守るべく。彼方が興味を示した校長捜索隊の腕章も、腕を後ろに引っ込めることで隠した。が、引っ込めた手がついでに鳥居先生の額に直撃し、鳥居先生は思わず蛙が踏み潰されたような声をあげた。
「おや、今何かおかしな音がしたような……?」
「き、気のせいですよ!校長!」
桜木先生と橋爪先生は声を揃えて叫んだ。
「そうですか。まあ、いいとしましょう。では、先生方、お話ししすぎて次の授業に遅れないようにしてくださいよ。もっとも、僕のような人間にこのような忠告をする資格はありませんがね。いえ、こっちの話です、氷室さん。さあ、こちらへどうぞ」
校長と彼方の背中がついに豆粒ほどになったのを見て、鳥居先生はやっと安心して真っ赤な額をのぞかせた。変な鳥居先生、桜木先生と橋爪先生は密かに思ったが、彼女と同じように、氷室彼方を遠くに認めてから、やっと影をのぞかせた者が他にいた。茘枝だった。彼は踊り場の上、先生方のちょうど後ろから、今の光景を観察していたのである。何を思うまでもなかった。茘枝は腕を組み、唇を噛むと、素早く優雅に身を翻した。行き先は生徒会室だ。
「氷室彼方、山上産業代表取締役・山上孝蔵の三男。その後、氷室弘毅の養子に入り、氷室財閥の跡取りに決まる。でも、確か養子に入ったのは君たちが逃げ出してから二ヶ月後だったよね?面識があるの?」
キーボードを打ちながら、頭の抽斗から情報をいくつか取り出して颯が尋ねる。腕を組む茘枝に寄りかかりながら、のんきそうに頷いたのは陽だった。
「あぁ、例のパーティにいたからな。オレンジジュース浴びせてやったからよく覚えてるぜ」
「何だよそれ……」
颯がため息をつく。
「でも、どうしてこんなところに?君たちのことを嗅ぎつけた訳じゃないんだろ?」
「さあな。理事長の客として呼ばれた様子だが……或いはそういうことなのかもしれない」
「んなバカな。だったらとっくに一族総出でお迎えにきてるはずだぜ。こそこそあいつだけ送り込むような真似なんかするかよ」
「まさか連れ戻しに来た訳ではあるまい。既に勘当された身だ」
「だったら尚更あいつがオレたちに何の用があるっていうんだよ?」
颯はそっと席を立ち、一生懸命ノートに何やら書き込む芳乃を連れて外へ出た。陽の顔から笑みが消えているのに気が付いたのだ。氷室彼方の登場は、程度の差こそあれど、少なからず二人に動揺を与えている。きょとんと自分を見上げる芳乃に微笑みかけながら、颯は部屋の前で議論が終わるのを待った。颯と芳乃が退室した途端、生徒会室は急に静かになった。どうにも嫌な予感がする。二人が喧嘩しているところなど、今まで見たことはないけれど……
「制裁、ってやつか?」
颯の悪い予感はどうにか外れたようだ。一方が肩を竦める気配がする。恐らく陽だろう。
「んなこといってもよぉ、雨に打たれた子犬みたいにぶるぶる震えててもどうにもなんねぇし。出来る限りじっとしてるっきゃないんじゃねぇの?」
「……そうかもしれない」
「堅苦しくなるなよ、な?いざとなったら氷室の坊ちゃんぐらい打ちのめしてやりゃいいんだから」
「ああ……」
「もういいから。とりあえずお前はオレの隣にいりゃ安全だって」
「陽……」
「あの、ぼくたち入るタイミングを完全に失ってませんか?」
「……少し、散歩でも、いこうか?」
颯はわざわざ気を利かせたことを多いに悔いながら、芳乃の肩をそっと押して最上階を後にした。芳乃の山吹色の瞳が一瞬無慈悲に光り、その中に二つの人影が映りこんだ。
***
頬を包む手は冷たい。押し付けられた唇も、絡みつく舌と唾液も、敬愛するその人は何かもが生きる氷のようだった。
「どうしたの?」
校舎の壁と氷のような身との間に挟まれて、芳乃は微かに身じろぎをする。それさえも許さないで、再度攻め来る白蘭に、芳乃は昂ぶりと恍惚の中で、そっと尋ねたのであった。白蘭は何も答えない。ただ返事の変わりに冷たいキスを寄越す。ランの花は二人の頬に擦られて花弁を落す。酸欠の息苦しささえも、二人にとっては最早快楽であった。
「白蘭様……ねぇ、ぼくのことを愛しく思ってくださるの?貴方のためなら何でもできるぼくを、愛してくださる?」
「愛してるさ、とっくの昔から」
「……そんな言葉信じられないよ」 「芳乃?」
「でもね、いつか信じられるようになってみせるから。ぼくは決して許さないよ。ぼくたちをここまで陥れた奴らをね。この手で制裁を下すんだ。そして、思い知らせてやる……」
芳乃は空に高くランの茎を放り投げた。
「もういいから。とりあえずお前はオレの隣にいりゃ安全だって」
もういいから、つまり、もう心配しなくていいからとの意だったのであろう。お前は余計なことは考えなくていい。何かあったらオレが守ってやる――消えたバイオリンの音の代わりには、ため息が一つ奏でられた。いつまでそんな気でいるのだろう、陽は。いつでも一人で何かもかも片付けようとする。茘枝のこととなると不必要なぐらい干渉してくるくせに、こちらにはまるで手の内を見せようとしない。そもそも今回のことは二人の問題ではないか。彼方に何らかの腹があってここに来たのだとしたら、それはこの満ちたりた生活の終わりを意味することになる。
茘枝は目を閉じた。ネックは掴んだまま、バイオリンの胴を胸に預ける。弓は膝の上に置く。名誉を破り捨て、家を逃げ出したとき、長年馴染んだ楽器は当然手元になかった。解放された反発で、一族に対して苦いまでの嫌悪感を抱いた茘枝も、本気で取りに帰ることを考えた。陽は茘枝に新しい風をもたらし、彼を常に驚かせて全く退屈させなかったが、ふとした瞬間にたった一人の幼馴染が恋しくなった。既に体の一部となって、自在に美しい音を奏でられたあの楽器を、せめて一瞬だけでも触れることができれば、と。新しい生活への動揺と、川崎陽という少年へ抱き始めた見知らぬ感情の裏に、茘枝は憧憬を隠していたつもりだった。だが、やはり陽には何もかも見透かされていた。ある日突然投げ渡された。オレのお古でよければと言われて。手にした時、久々に見た飴色のなめらかな肢体が、どんなに茘枝を感激させたか。自分でも定かではなかった。
陽の楽器を手にし、陽に翻弄され、陽を心から愛した。そういう日々だった、この四年間の生活というのは。最早一人で生きていけるはずがない。もし、彼を奪われたとしたら、自分は一体どうすればいいのか。
ただ今の暮らしを守りたかった。陽に頼るのではなく、自分の手で、この幸福を守って生きたい。そんな強いけれども漠然とした思いが、茘枝の心の中で、地平を舐める炎のように、ゆっくりと広がっていた。
「部長」
肩を遠慮がちに叩かれた。ようやく目を開くと、ヴィオラを持った水無月が立っていた。やや緊張気味の面持ちだ。この間からかいすぎたのがいけなかったかな、茘枝は反省紛いのことをこっそりしてみた。
「おや、君の方から声をかけてくるなんて珍しいな。どうかしたか?」
「い、いえ、出来たら、一緒に弾いていただけないかと思って……」
茘枝は愛器の頭にそっと頬を寄せて口元を緩めた。出来る限りその音を聞かせる機会をあたえてやれなければ、陽とて、やった甲斐がないというものだ。曲はヴィヴァルディ、「弦楽のための協奏曲 ト長調 アラ・ルスティカ」第3楽章、軽快なソロの部分だ。無言の内に承諾がなされ、二人はそれぞれ楽器を構えて立ち上がった。
その時、音楽室の扉が開いた。迷惑そうに二人が見つめた先には、何と我が校の偉大な校長が笑顔を覗かせているではないか。水無月は恐縮だとばかりにヴィオラをおろし、急いで頭を下げた。なぜこんな所に校長が?隠れ場所に困った訳ではあるまい。茘枝は鼓動が早まるのを感じた。弓を持つ手は自然に下りた。
「校長……」
「これは失礼。今からいざ演奏というところを邪魔してしまいましたね。おや、篠木君はいつの間に部活に復帰したのですか?」
「えっ、えぇ、今度の文化祭には出ようかと思って……」
「それは喜ばしいことですねぇ。いや、小杉君と篠木君の名演を聞いてみたいのはやまやまなんですが、楽しみは後にとっておきましょう。老いぼれの先は長くないでしょうが、そこまで切羽詰ってもいないでしょうから。小杉君、君にお客様がお見えになっていますよ」
客?とわざわざ聞き返すようなことはしなかった。もう分かっていた。決して不要な懸念ではなかったのだ、先ほど陽と語り合った事柄は。星のような銀髪が現れる。それからいやに整った若々しい顔立ちと、野心に燃える切れ長の瞳も。非の打ち所のない笑み、冷ややかな刃を宿した笑みが、茘枝に向かって繕われた。
「やあ、茘枝君……久しぶりだね。元気だったかな?幸せそうで何よりだよ。僕としては、ね」