第一話 水晶の導く場所・前編
寝起きのぼやけた視界の中で、クリスは、輝くサファイアの草原を見た。目を擦った後で気付いた。海だ。久しぶりに臨む海だった。結局故郷の海とは別れを惜しむことができなかった。遠いイギリスへの思いが、誰もいないバスの中で募っていく。
石崎・エーリアル・クリスの名を聞けば、例え天才少年画家とまでは浮かばなくとも、二カ国以上の人間の関わりを見出すことができるだろう。彼の母はイギリス人で、彼の父は日本人だった。二人の出会いは、祖父からおとぎ話代わりに聞かされたから、祖父の口調も真似てそっくり繰り返すことができる。老人特有の誇張と美化をきれいさっぱり取り除き、簡略に紹介すれば、英語を教えに来日した母に父が一目惚れし、必死のアプローチの内に見事愛を勝ち得たという、三流小説のネタにでもなりそうなあらすじなのだが。
兎も角、そのようにしてクリスの両親は出会い、一人の健康な男児を授かり、そして我が子が七になるのを見届けずに死んだ――火事だった。日曜日の混み合うデパートに、二人はクリスを友人に預けて出かけた。クリスの誕生日プレゼントを探すためだったと聞く。笑い声、店員たちの明るい挨拶、子供の駄々を捏ねて泣く声、親のそれに答えて怒鳴る声、そういったものが一瞬にして悲鳴に変わった。先ほどまで煌びやかに人々の目を魅了していたものは煙の向こうに消え、人々は身を竦め、火の舌が体を舐め尽すのを待つ他なかった。そういった光景を、クリスは何の抵抗もなく想像することができた。人々の中に、両親が抱きしめあって死を待つ姿を置くことも、クリスには大した苦痛ではなかった。父と母の記憶は遠すぎた。
その後、クリスはイギリスの祖父に引き取られた。父の両親は既に他界しており、クリスはその親戚とも面識がなかったからだ。もしかしたら、外国人との結婚に周囲はあまり積極的ではなかったのかもしれない。しかし、間もなく祖父も死に、クリスの後見は母と二つ違いの弟、ロナルド叔父に託された。叔父には妻はいたが、子はいなかった。故に、叔父は有り余っていた金をふんだんに甥のために使い、叔母は有り余っていた愛をふんだんに甥のために使った。甥に絵の才能があると気付いたときも、二人の反応は素早かった。すぐさま専門の講師をつけ、高価な用具を揃え、暇さえあれば国内外問わず、有名な美術館を回って歩かせた。結果、クリスは、十二歳で画家としてのデビューを遂げ、世界に衝撃と感動を与え、十四歳に達する頃には全世界に名を轟かせていた。
プロの画家としての生活に一石を投じたのは、とある日本人画家の作品であった。投げられた一石も、子供が投げた砂利の塊ではない。宇宙から振り落ちてきた、燃え盛る隕石だ。地元の小さな図書館の片隅で、クリスは卒倒しそうになったほどだ。やっと見つけた――歓喜と陶酔に麻痺する心の中でも、クリスははっきりとそう思った。
クリスはその画家の絵を探して探しまくり、数少ない彼の傑作を日夜研究した。そして三ヶ月前、クリスをここまで導いた一つの噂を聞いたとき、クリスはその真偽も疑わず迷わずそれに飛びついた。叔父は、日本の学校に転校したいという、クリスの突然の願いを快諾しかねたが、叔母も説得してくれたおかげで何とか頷いた。そうして、クリスは来日した。
しかし、ここで遠いイギリスに思いを馳せている通り、クリスは早くも帰国したくてたまらなかった。イギリスで過ごした数年の間に、クリスの心は日本と全く隔離されてしまった。希望が何とか、引き返そうとする足を前に進めてはいたけれど。不安は刻々と膨らむばかりだった。
その時、突然のアナウンスが流れ、クリスは飛び上がった。
「次は、三宿学園前、三宿学園前です。お降りの方はお手元のブザーにてお知らせください」
クリスはつんのめるようにブザーを押した。運転手がミラー越しにだるそうな一瞥を向けてきた。構わない。この離れすぎた土地でかく恥など、何の意味があろう。小さくなった海を眺めながら、クリスはバスが停まるのを待った。
***
朝七時半。私立三宿学園高等部校舎内にて。
榊原颯は、教師からの呼び出しに応じ、一階まで階段を下っているところであった。踊り場の東向きの窓から朝日が照りこめば、まだ照明のない校内でも、はっきりと彼の姿を確かめることができた。漆黒の髪は肩に触れないところで端を揃えて丁寧に切られ、眼鏡の奥ではラベンダー色の瞳が慎ましく足元を向いている。指定のワイシャツとネクタイは着用しておらず、代わりに濃紺のポロシャツで済ませていたが、もちろんこれも学園の規則内だ。颯が規則違反をするなど有り得ない。今回、彼が一階に向かっている理由も「呼び出し」と表記したが、これも所謂説教のための呼び出しではなく、特別な用を頼まれてのそれだった。その用というのは知らないが――ふと顔を上げた颯は、昇降口に一人の少年の佇むのが目に停まった。ああ、あの子か。慎が言っていた転校生。あの子が来たのか。颯は内心一人合点した。名前はなんだったかと記憶を辿っていると、少年もこちらに気付いた。彼は、一瞬ほっとしたような表情を浮べたが、慌てて仕切りなおし、唇を引きつらせた。その様子が思わずおかしくて、颯の笑いを誘う。
「えっ?あ、あの……」
「悪い、つい面白かったから」
「お、おもしろ……?」
笑って細めて目の奥で、颯は転入生を観察した。写真で見た通りだ。ウェーブがかった金色の髪に、澄んだ青い瞳。西洋人の血を引いていると聞いていたので、背は高いかと勝手に想像していたが、意外とそうでもないし、体躯も決してよい方ではない。仕立てたばかりのワイシャツの袖からは、細い腕がむき出しになっている。それでもやはり肌は白いし、目の周りなど陰が立つほど彫が深く、鼻も目と目の間からすっと通っている。歩み寄ると、少年は、びくっと肩を跳ねさせたが、肩に手を回しても特に反応はなかった。あちらで生活していたから、スキンシップには慣れているようだ。馴れ馴れしすぎるかと案じていた颯も、にこっと笑った。
「石崎クリス君かな?」
「えっ」
「名前」
「あっ、はい……」
クリスはそうしないと意味が通じないとでも思っているように何度も頷く。
「僕は生徒会役員だから。職員室まで案内するよ。僕も用があるし。さっ、行こうか」
颯はクリスの肩を後ろから押して進むよう促すと、自身はその前に立って先導を始めた。颯は、背をぴんと伸ばし、大股ですたすたと歩くので、クリスは付いていくのに必死だった。トランクも引き摺っていたからだ。それでも何とか周りを見回す余裕だけはあった。床は、つい最近ワックスがけしたように白く、埃一つ落ちていない。壁も同様だ。傷、しみ、落書き一つなく、掲示物はきちんと四隅を画鋲で止められている。何もかもが、清潔で、秩序通りであった。クリスは、段々トランクが床に醜い痕を付けていないか不安になってきて、思わず振り返った。途端にトランクを踵にぶつけた。
「大丈夫?」
「は、はい……」
見られた恥ずかしさと痛みで、クリスは顔を赤くしながら答えた。颯が小さく笑う声が耳に入ってきた。
「ほんと、面白いね、君って」
「嬉しくないです……」
「そう?じゃあ、悪かった」
「いや、あの……」
「褒め言葉のつもりだったんだけど。やっぱり、絵のこととか褒められる方が嬉しい?」
「別にそうでもないです」
「そう?」
二人は暫くの間黙して歩いた。景色が白いばかりであまりにも代わり映えしないので、まるで二人が歩いているのではなく、周囲の壁や床が勝手に後ろへ流れていくようだ。窓から入り込む太陽は、晩夏の熱を以って二人の肌を刺す。
「暑いね」
「はい」
再び黙す。
職員室との緑のプレートが掲げられた部屋の前で、颯は立ち止まった。扉に嵌められた凹凸のあるガラス窓の向こうでは、黒い人影が何度も行き来していた。教師というのは、朝早くから忙しない生き物なのだ。クリスは、颯が中に誘導してくれるのを待ったが、颯がスライド式ドアの取っ手に手をかける前に、ものすごい勢いで戸が開いた。クリスは仰天して飛び上がった。白髪交じりの髪をポマードで固め、屈強な身を固そうな浅黒い肌で覆った、四十代がらみの強面の男が、サングラスの向こうで白目を剥いていた。鼻腔の広い低い鼻や、興奮で波打つ四角い額には、青く太い血管が浮き出ている。まさかこの種の方に学校という施設の中で会うとは。クリスは唖然とする余り断末魔の声も出なかった。
「おはようございます、花木先生」
颯は礼儀正しく頭を下げた。クリスは聞き流し、それから自分の耳を疑った。えっ、先生?
「ま、だ、かっ?」
男は響きの悪いバスで一語一語区切って言った。その形相たるや、肉を噛み砕く鬼の如くだ。
「今ここに」
颯はクリスの肩を抱えて前に押し出した。「えっ?えっ?」とクリスが訳も分からずきょろきょろしていると、突然、肩を掴む手が、颯の細い手から、一応先生らしい男の黒い手に代わり、クリスは恐怖のあまりさっと青くなった。
「石崎・エービーシー・クリス、だなっ?」
花木……先生は、クリスの肩を、もし今地震が起きたとしても分からぬほど激しく揺さぶって尋ねた。
「エーリアルです」
訂正したのは、颯の方だった。
「どっちでもいい。とにかく、本人だな?」
「はい」
「本人だなっ?」
「は、はい……」
本人に確認が取れたため、花木という男、否、花木先生は肩を揺する手を止めた。クリスは泡を吹きかけていたが、もしそうでなければ、なぜこんな男が花木という愛らしい名前なのか、悩んでいたところだ。名は体を表すとは、どうやら迷信だったらしい。
「石崎……よくきた」
「はい?」
逝きかけた意識を取り戻したクリスが見てみると、花木先生は、感涙に咽びながら、クリスの手をとって大きくぶんぶん振り回していた。クリスの目に、黒いワイシャツの上のネームカードが見えた――3年学年主任、花木星彦・美術科――自分を歓迎する理由には納得した反面、この人の担当が何故美術なのかは疑問であった。それ以前に、この人はどのような奇跡を起こして教員になったのかのだろう。
花木先生がいつまでも調子を変えないので、颯が頃合を見計らってクリスを救い出してくれた。
「じゃあ、先生、石崎君は野瀬先生に用がありますので」
クリスはほっと溜息を吐いた。花木先生は「そうか」と頷いて二人のために道を開けつつ、まだ名残惜しそうだった。しかし、颯の理性は、見るべきでないものはきちんと補正し、やるべきことを主人に遂行させる力を持っていた。まだ少しどぎまぎしているクリスを後ろに従え、颯は澄んだ当たりの良い声を上げた。
「失礼します。野瀬先生」
職員室は広かった。この部屋だけは既に蛍光灯が灯されており、多くの先生が、飲み物を啜りながらテストの採点をしたり、立ち上がって書類を配布したり、プリントを印刷したりしている。颯の呼び声に反応したのは、クリスたちから最も離れたところに座っていた、ジャージ姿の中年の女性だ。しっかりした体格の、背の高い野瀬先生は、コーヒーカップを置いてこちらへ近づいてきた。
「おはようございます」
「おはよう、榊原。石崎君を連れてきてくれたの?」
野瀬先生は訊いた。生徒をしゃきっと目覚めさせるような、教師に相応しいはきはきした口調だ。
「はい。昇降口で見つけたので」
「そう、ご苦労様。じゃあ後はこちらに任せて。石崎君、来て」
「はい」
クリスは礼を言おうと颯の方を振り見ようとしたが、それより先に、颯がクリスの肩に手をかけて屈み込んだ。尼そぎのように梳いた髪の端が、クリスの頬をくすぐる。ぎりぎりクリスの視野に入る場所で、颯は物柔らかな笑みを浮かべた。その刹那、彼の微笑が消えたかと思うと、今度は耳の傍で囁かれる。
「頑張って。僕、君のこと気に入った」
「私があと十年若ければねー」
それが、颯が去った後の野瀬先生の感想だった。職員室に笑いの波が起きた。
***
野瀬先生に説明を受けたクリスは、自分が2年A組に転入して、担任は野瀬曜子先生であることを知った。寮の部屋も、丁度定員より一名かけているところがあるので、そこの仲間に加われば良いらしい。クリスが引き摺ってきたトランクは、職員室で預けられることになった。クリスは、今日必要な科目分の教科書を鞄に詰め、それから校長先生――禿げ上がった髪の、眼鏡をかけた、朗らかな男性だった――と少し面会した後、野瀬先生と共に教室へ向かった。地下を含め、全五階の建物の中で、二年生の教室は三階にあった。同じ階に三年生の教室もある。最上階は生徒会役員が占拠しているらしい。クリスは呆れた。そういえば、さっきの人も生徒会役員だったっけ。
八時二十五分にチャイムが鳴り、廊下で騒いでいた生徒たちも吸い取られたように教室へともどっていった。野瀬先生は、クリスに廊下で待っているよう指示を出すと、一人教室に入り、うるさい生徒を数人叱り付けて出席をとった。それから、重々しい咳ばらいを一つし、けれども調子は明るくこう言った。
「今日からこのクラスの生徒が一人増えることになりました」
ざわついていたクラスがしいんとなった。クリスは心臓の高鳴りが、生徒たちに聞こえるのではないかと冷や冷やした。逃げ出したい衝動に駆られた。だが、決心をつけかねている間に、中から野瀬先生の声がかかった。
「石崎君、入ってきて」
クリスは、群集に顔を向けないようにして、教卓の側に急ぎ足で歩み寄った。耳のシャッターを閉め忘れたと気付いたその時、一人の生徒が「あっ」と叫んだので、皆一斉にそちらを向いた。クリスもつられて顔を上げた。白いワイシャツの群れの中、一人すくっと立っている顔は、懐かしいイギリスの匂いを呼び覚ます。
「石崎!」
「関本!」
二つの名が重なって教室に響いた。
関本来夏、それが旧友の名前だった。旧友と呼べるほど親しい仲であったかと云えば、素直にうんとは頷けなかったが。古い知り合い、といった方が格段に正しいだろう。彼、来夏とは一時期――といっても数ヶ月ほど――同じイギリスの学校に通っていたことがあった。彼も、クリスと同様イギリス人と日本人のハーフだったから、周囲は二人を仲が良いものと思い込んでいたようだが、実際は時々会話するぐらいの関係であった。それでも、二年ぶりの対面ですぐにお互いを思い出すことができたのは、やはりお互いそれなりに印象に残っていたからだろう。若もしくは、懐古の思いが、とりとめのない記憶を磨き上げるのか。
「知り合い?」
野瀬先生は問うのが一応の義務だと考えたらしい。生徒たちを黙らそうと、張った手の平で教卓を数度叩きながら尋ねた。
「あっ、はい。イギリスの学校で一緒でした」
「そう。よかったわね。他にも知っている人もいるかもしれません。石崎・エーリアル・クリス君です」
クラスが再びざわついた。天才少年画家の名はやはり知れ渡っていた訳だ。先生はこの反応を予期していたようだが、「よっ、エーリアル」との野次が飛んだ時はそちらを一睨みした。クリスはただ赤くなって俯いた。
「まあ、仲良くするように。といっても、小学生じゃないから、これくらい分かるでしょう。連絡は特になし。ああ、そう、落合、服装をどうにかしろと森先生からの伝言がありました」
何人かの生徒が手を打って笑った。先生はまた教卓を叩いて黙らせた。
「じゃあ、一時間目の授業は家庭科ね。遅刻しないように。関本、石崎君を被服室まで案内してあげなさい」
「了解」
先生がいなくなると、生徒たちは教室移動の準備を始めた。クリスは壁にかけられた時間割を見た。一時間目家庭科、二時間目現代文、三時間目が数学――そこまで理解したとき、肩を叩かれた。来夏だった。その後ろには、二人の少年が立っていて、片方は先ほど「エーリアル」の名をはやしたてた生徒であった。
「久しぶり、石崎。元気だったか?」
「あぁ、うん、久しぶり」
クリスは、余所余所しさが微塵も感じられない来夏の態度に少し驚いた。毎日顔を合わせていた二年前よりずっと親しみがある。
「噂は聞いてたけどさ。色々活躍してるらしいじゃん。すごいな」
「関本のことも聞いたよ。日本の名門校に特待生で入れることになったから、日本に行くって」
「まっ、その名門校がここなんだけどな。帰国した理由もほとんど父親の仕事の都合だし」
来夏は冗談めかして快活に笑う。
「とりあえず被服室に行こうぜ。遅刻したくねぇし。あっ、そうだ。後ろの奴、落合と酒本」
「よろしくな、エーリアル君」
落合は愛想よく微笑み、顔の横で手を振って見せた。よほどエーリアルの名が気に入ったらしい。背の高い少年だ。酒本の方はクリスに大した興味もなさそうだ。目も合わさずに小さくお辞儀した。
四人は、一緒に一階の被服室へ向かい、一時間目終了後も共に行動した。落合はよく喋った。人が好きでたまらない性分らしい。先生に注意されていたことからも分かるよう、制服は確かに乱れていたし、不良っぽいところも所々に覗いているが、愛嬌があった。落合は、自分が美術部部長であることを明かし、早速クリスを勧誘しはじめたが、クリスは断った。部活動には入らない方針一本で決めていたからだ。だが、落合の目を見る限り、諦めていなさそうだった。反対に、酒本は滅多に話さなかった。落合がからかったりすると、好意を以って迷惑そうに応じたけれど、自分から話しかけはしない。それでも、来夏が彼を「照れ屋」と称すると、頬がほんのりピンク色になった。
「エーリアル、昼飯どうする?」
四時間目の世界史が終わり、ノートの端っこの落書きに書き足しをしていると、落合がやってきて言った。
「そういえば考えてなかったなぁ。えっと、落合たちはどうするの?」
「俺は弁当。ライと酒本は購買で買うらしい。エーリアルも買いに行ったら?そのあと教室で一緒に食おうぜ。金あるか?」
「あっ。そういや、トランクのポケットに入れっぱなしだった気がする……」
「おいおい、大丈夫なのか?」
「うん、職員室にあるから。取りに行ってくる」
クリスが席を立つか立たない内に、視界がすっと黒く染まった。一体何の手品だろう。クリスは目を瞬いた。サファイアの輝きを遮った黒には、艶と皮革製品特有の匂いがあった。黒の革の財布――三年前に叔父に誕生日プレゼントに買ってもらったものだ。探し物が目の前に差し出された。口をぽかんと開けたまま、クリスが恐る恐る視線を昇らすと、見知らぬ少年の満面の笑顔が映し出された。
クリスははっと息を呑んだ。図書館の隅で絵を見た時と同じ感覚がした。やっと見つけた。何故かそう思ったのだ。霧の立ち込めた迷路の中を彷徨さまよい続け、漸く出口を見つけたような、そんな感覚。しかし、そこからもまた新たな迷路が始まる。それを知っていて、自分は出口に駆け寄る。出口にして入り口のその場所――そんな感動を以って、クリスは少年を見つめていた。首を傾け、葡萄酒色の髪を、翳りのある黒目勝ちな灰色の瞳の脇に垂らした少年を。まるで花でも捧げるかのように、クリスに財布を差し出す少年を。
「種も仕掛けもないんです」
少年は囁いた。雨風に曝されたことのない花瓶の中の百合のような、棘のない薔薇のような、清水のような、羽毛のような音楽であった。少年はクリスに財布を握らせた。クリスの拳を覆ったのは冷たい手であった。何も言えないクリスに感謝さえ求めず、少年は静かに姿を眩ました。脇で落合がその名を呼んでいた。
「おい、有瀬!」
有瀬?
「おい、その財布、エーリアルのか?」
「そうだけど……」
「中身は?ちゃんと入ってるか?」
クリスは財布を開けた。千円札が七枚と、五百円玉が一枚、十円玉は面倒だから数えないことにしても、大体バスの中で確認した通りである。クリスは大きく頷いた。
「変な奴。何で有瀬がエーリアルの財布なんか持ってんだよ?」
「有瀬って、さっきの人?」
「ああ」
「このクラス?」
「そうだ」
「それで、何かまずいことでもあるの?」
腑に落ちないような表情をしっかりクリスに見られ、言及までされた落合は、クリスを一瞬見つめて目を逸らし、決まり悪そうに頬をかいた。口は開いたが、しばらくは言葉も見つからないようだった。数十秒の時間を要してから、彼は慎重に言葉を選んで話し始めた。
「いや、別にどうってことないんだけどな。あいつ、理事長の息子でさ。まあ、それで、何ていうか……良い噂聞かないんだよな。悪い奴じゃないんだけど。おとなしいし。校則もきっちり守る良い子ちゃんだし」
「だったら、俺に財布の中身確認させる必要なかったじゃないか」
クリスは微かに憤慨さえ覚えて言った。落合はまあまあと両手を幾度か押し出して、彼の小さな怒りの種を鎮めた。
「それはまあ一応確認のためってことで。あんま気にすんな。有瀬と関わると碌なことないって噂だから、ちょっと心配になっただけだ。面識はないんだろ?」
「多分ね」
クリスの返事はぶっきらぼうだった。
「まあいい。財布も見つかったことだし、さっさとおまえも飯買ってこいよ。俺も腹減ったし。あっ、購買は二階だからな」
人ごみを掻き分け、二階へ降りる階段へと向かいながら、クリスは大勢の人の頭の中、あの目立つワインレッドの髪を探した。だが、どこにも彼はいなかった。群れる生徒たちの笑い声は、そんなものは存在しないと否定しているようだった。太陽を仰ぐ人が、自らの足元に横たわる影のことなど忘れてしまうかのように。人々に影を忘れさせるのは何だろう。向上心か。魔法か。奇術か。
種も仕掛けもないんです――あの時確か、彼はそう言った。