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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第二章 黙示録
29/82

第十四話 ガラス越しの記憶・後編

 回転のぞき絵(ゾエトロープ)は回る。「葬送」の調べに促されて――


「起きてよ、桃真」

 乱暴に肩を揺する手が、落合の意識を夢の世界から引き戻す。甘く重たい液体から足を上げ、天井に向かって両腕をぐっと伸ばした。長い旅をしていたような気分だった。目が覚める時はいつもそうだ。擦ったせいで微かに痺れた瞼には、真っ先に幼馴染の顔が映りこむ。天使を思わす黄土色の巻き毛、小さな頬と額、弓形の眉と二重で丸い山吹色の瞳――これらの内のたった一つパーツ、否、一つのパーツにも満たないものを示されても、落合には誰のものかと見分ける自信があった。

 そんな見慣れた顔の後ろには、次々に、旧図書館、当時は唯図書館と呼ばれていた建物の内装が浮かび上がってくる。どうやら自分は宿題の途中にすっかり居眠りしていたらしい。ぼやけた落合の表情が、急に苦々しく引き締まる。長机の上に落とした目には認めたくない現実、算数の問題集は依然として三ページのままだった。

「図書館でも居眠りするなんて。もうすぐ閉館の時間だよ?閉じ込められたらどうするつもりだったのさ?」

「んな心配しなくっても、大丈夫だよ。いっちゃんはそんなことしないから。優しいし」

「先生をちゃん付けで呼ぶなんてダメだってば。吉川先生にも言われてるじゃないか」

「いいの、おっさんの言うことは無視」

「もう……」

落合の肩に後ろから抱きついたまま、少年は呆れたように溜息をついてみせる。落合は彼の頭を笑いながらそっと叩く。当時の彼らにとっては、これが日常であった。

 雲居芳乃の存在は、物心ついた時には既に、落合にとってなくてはならないものになっていた。中学時代以来の親友であり、また政友でもある二人の父は、息子たちにも同様の友情を強いたのだ。二人は常に隣に並べられ、互いの両親にも我が子と隔てのない愛情を受けて育った。母たちがお茶を楽しみ、父たちが忙しく語らうその膝元で、二人は共に積み木を重ね、ヒーローの人形を戦わせ、絵本を読み、習ったばかりの童謡を歌った。外出する時も一緒だった。公園でボールを投げ合い、野良猫を追いかけ、ある時は、危険だからという制止も振り切って、川辺の冷たい水に足を浸して遊んだ。そして一緒に怒られて泣いた。その結果、二人の間には、父たちにも劣らぬ、友情というか絆というか、そういった結びつきの類の中で、最も強力なものが生まれたのであった。落合は芳乃であり、芳乃は落合であった。二人は心を共有する相手に、互い以外の誰も知らなかった。母が「芳乃君と同じ小学校に行くからね」と言った時、幼い落合はこう言い返したほどだ。「えっ?あたりまえでしょ?」

「あら、もう帰り?」

 出て行こうとする小さな少年たちの背中に、司書がそっと問いかけた。伯父の勧めで今春に学園に赴任したばかり、いっちゃんこと屋城一穂は、まだあどけなさを残した、少女のような女性だった。尋ねる声は幾分高い。白いスーツもなで肩に馴染んでいない様子である。落合はきらきらした目を向けて返事以上の言葉を返そうとしたが、芳乃に引っ張られてついに扉の奥に消えてしまった。一穂は微笑み、手を振りながら彼らを見送った。これで最後の客が去った。ふと腕時計を見る。時刻は五時三分前。今日は来るはずがない。期待するなんて馬鹿げているし、間違っている。それでも落ち着かないのは、やはり疚しい女の心が自分の中にあるからだ。

 振り切るように身を翻した。散らかった司書室を何とか片付けないといけないし、返却が遅れている生徒へ督促状を出さなければならない。五時を知らせる鐘が鳴り、一穂は自分をあざ笑う。散々ふみつけておけば、明日からはもう、こんな惨めな恋心は立ち上がれまい。だが、その時、確かに背中に風を感じた。


「何の夢見てたの?」

「はっ?」

 踵を並べ、帰路を駆けながら、芳乃が唐突に訊いた。今まで怒って黙っていたくせに、急になんだろうと落合は戸惑う。風にさらわれ、芳乃の言葉がよく聞こえなかったのも真実だ。芳乃は怒りを思い出して一度諦めかけたが、見つめる落合の顔に悪意がないのを認めて繰り返した。

「何の夢見てたの?さっき」

「ああ。別に……どうして?」

「ぼくの名前を呼んでた」

「嘘だ」

「嘘じゃないよ。それにうなされてたんだから」

「夢のことなんていちいち覚えてねぇよ、バカ」

「バカは桃真の方でしょ。ぼくに嘘がつきとおせるとでも思ってるの?」

落合は小さく舌を打った。こういう時、本当にこういう時だけは、この関係が何だか重々しくて面倒なものに感じられる。芳乃だって、隠したい落合の心まで分かっているはずだ。それでも聞き出そうとするのは、ただ好奇心故ではなく、落合のことを案じているからだ。落合は立ち止まった。ほぼ同時に芳乃もそうした。黙り込んだ落合の前に立ち、その胸に頭を預ける。この態度の変わり様に呆れながらも抱きしめたのは、訊かれた記憶の所在を探り当てたから。

「桃真……」

「いいんだよ。芳乃がここにいてくれれば」

「でも……」

不安に揺れる声を鎮めるたった一つの方法――顎に手を充てて、額の上に一つのキス。

「いいんだよ」

「本当に?ぼくが一番好きなのは桃真だけなんだよ。分かってる?」

「当たり前だろ」

母と交わした会話がふと頭に浮かんだ。「芳乃君と同じ学校よ」「当たり前でしょ?」芳乃が見つめていなければ苦笑したくなる。いつもいつまでも一緒だと思っていた。今もそう信じている。無理にでもそう思いこませている。芳乃と離れてしまったら自分は終わりだ。芳乃に大切なものを全て与えてしまった。こちらから離れていくようなことは決してない。でも、もし、芳乃に何らかの変化が起きたら?その時、自分はどうすればいいのだ?漠然とした不安が夢に出た。落合は再度芳乃の背に手を回した。その背を追うだけの自分にはなりたくない。彼に愛されていたい。大人になっても彼と全てを共有していたい。

「なぁ、芳乃、もう一度……」

言いかけた途端に芳乃は落合の胸を突き放し、強い目で彼を睨みつける。言いたいことはすぐに分かった。落合は了承の印に肩を竦めたが、芳乃は少しも表情を和らげようとしない。

「ダメ。もう一度は言わないよ。言ったってますます不安になるだけだから」

当たり前だ。心で繋がっている二人なのだから。言葉で何度「好き」と言ってみたところで、心が伴わなければすぐに見抜いてしまう。こういった言葉は最高に気持ちの高まった時に、静かに寄り添って呟くべきだ。そして「知ってるさ」と返される――


***

 それから二年後の春のことである。

 初等部を「リストラ」されることもなく無事卒業した二人は、中等部のレモン色の校舎に足を踏み入れることになった。寮も変わった。今まで六人部屋だったのが、今度は四人部屋だ。頬をすり寄せるようにして二人で覗いた部屋割りの一覧表には、202号室の列、自分たちの名前の隣に、篠木水無月、白蘭の名が連ねられていた。

「ああ、あいつらか」

落合は特に何とも思わずに頷いて見せた。似ていない双子として有名な篠木兄弟の父親は、かつては衆議院議員だった。三年前にガンで死亡していて、落合と芳乃の父たちとも関わりはあったようだが、その子供たちに校外での面識はない。仲の良い双子であることだけは確かで、初等部の頃は、気が弱くてすぐに泣き出す弟を、兄がたしなめつつも守っている、という状況に何度か遭遇した。さすがにこの歳になると、白蘭の涙腺もきつく閉じてきたようだが、兄に甘えっぱなしという状況はそう変わっていないようだった。同室ともなれば、目の前であの甘い言葉の応酬を繰り広げられるということになる。落合は一瞬嫌な顔をしたが、少なくともこちらに干渉されることはないと気付いて安堵した。

 掲示板にたかる同級生の群れから抜け出し、ふと、芳乃の顔を見ると、芳乃はなにやら考え込んでいるような顔をしていた。

「どうした?」

落合は声をかけた。篠木兄弟との同居に何か不都合でもあったのだろうか。思い当たる節はまるでない。そのことが、落合を余計に不安に駆り立てる。芳乃はゆっくりと口を開いた。

「あのさ、ぼく、あの二人見てるといつも思い出すんだよね」

「あの二人って、篠木水無月と白蘭のことか?」

「そう」

「思い出すって何を?」

分からない?とでもいうように、芳乃は首を傾けた。

「ほら、あれだよ、あれ。国語の授業の時に源氏物語をやったでしょ?それの……」

「スズメがいなくなって泣くガキとその婆さん」

「そう、それ」

二人は同時に吹き出した。

 初めてでもない対面は、部屋の中で行われた。今日からよろしく、と水無月は礼儀正しく頭を下げた。白蘭はベッドの陰でゲームに夢中だった。全く対照的な双子だと、落合と芳乃はつくづく感じた。容姿についてもそうだ。水無月の髪が濃い青なのに比べて白蘭のは色が薄く、瞳の色においては逆のことがいえるのだ。

「ハク、えっと、弟の方はあんな調子だけど、話しかければ応じると思うから。林檎を餌にすれば大抵のことはやるし……」

「んな、コインいれたら動くおもちゃみたいな言い方しねぇでも」

落合の言い方に、水無月は笑った。仲良く出来るな、落合と芳乃は顔を見合わせてそう確信した。兄が他人と笑っているのが気に食わないのか、それとも単に言われ方にむっとしただけか、白蘭がベッドの後ろから水無月を呼んだ。水無月はすぐに飛んでいく。

「何だよ、ハク?」

「ここ出来ない」

「ここ出来ない、じゃないよ。攻略本はどうしたの?」

「なくした」

「あのねぇ……」

「そんなものなくてもミナならできるでしょ?頭いいんだから。さっさとやってよ」

結局それから一週間、白蘭が二人に十分以上水無月を貸したままでいることはなかった。


 だが、同じ屋根の下に住みながら、存在を無視しあう訳にはいかない。一ヶ月、三ヶ月と時が過ぎると、四人も段々打ち解けてきて、一緒に昼食を広げたり、図書館まで出かけたりするようになった。白蘭は口を開けば「ミナ、ミナ」だったし、落合と芳乃も相変わらず離れられずにいたが、その二人対二人の構図が、双方を安心させ、友情に潤滑油を刺していた。中学二年の夏休みには、四人ですぐ近くの海岸で遊んだ。本来は難しいことなのだが、生徒会役員選挙に当選した芳乃の権力を使えば、あっさりと許可は得られた。白蘭が波にさらわれそうになったときには三人とも寒気がしたが、花火に火をつけ、スイカを貪る頃には、全員の顔に笑顔が戻っていた。

「このままずっと一緒だったらいいのにね……四人とも」

芳乃が帰り道に呟いたのを、落合は純粋な感情で受け取った。夏にも関わらず、三宿学園の近くは空気が澄んでいる。空に輝く星が、芳乃の山吹色の瞳の中に煌いていた。芳乃は遠くを見ている。届かないほど、遠くを。

 今思えば、それが最後の日だったのかもしれない。穏やかだった時代の終末。九月の始業式で森先生に目をつけられ、長い説教を食らって寮へ帰れば、芳乃と白蘭が楽しげに話している。落合の到着を認めると、二人の会話はすぐに三人の会話となったが、芳乃の声が、自分に対するのと白蘭に対するのとで、何だか違うように思われた。気のせいだ。違うと感じるのだとしたら、それはもちろん、自分が芳乃の唯一無二の親友であるからに決まっている。だが、無理に呑みこもうとすればするほど、異物感が喉を圧迫した。どうして?以前に芳乃の声にこんな違いはあっただろうか?

「あのな、芳乃」

 焦りの中で、落合は説教でもするように切り出した。双子に双子として接するのは良いが、個人個人に踏み込むのはよくないと。あの二人は、双子という関係の中で均衡を保っている。二人は二人で一人なのだ。自分と芳乃がそうであるように。自分たちが踏み込めば、その関係が崩れてしまうと。何でと語調を荒げた芳乃に、落合はついにあの言葉を口にした。

「だって、ミナとハクは双子で、俺とお前は幼馴染だろ?しょうがねぇじゃん。こいつだけは変わりっこないんだから」

感じた。最後の結びつきの中で。砕けて散った芳乃の心の破片を。信じていた者への失望、反抗、拭いきれなくなった不信感。


 以来、二人でいる場面を何度も目撃した。芳乃は本格的に桃真を避けはじめ、白蘭の傍にばかり侍るようになった。白蘭がまだ「ミナ、ミナ」の調子であってくれれば、何とか救いがあるのだが、見ていると何と驚いたことに、水無月と白蘭の仲まで疎遠になっていくのだ。落合は恐怖を知った。なぜだ。こんなことは起こり得るはずがない。水無月と白蘭は同じ部屋でまるで口を聞かない。白蘭はどんどん奔放になり、乱暴になった。若紫に例えられた彼が、学園中の不穏分子を統率しはじめた。それでも水無月は何も言おうとしない。彼が体を売り始めたとの話が流れた時も、一晩じっとベッドに横たわって動かなくなったきりで、白蘭をいさめようとはしなかった。白蘭も芳乃も、もう部屋に帰ってくることは相当に少なくなっていたのだが。落合は水無月を叱った。それは、ほぼ八つ当たりに近かったが、彼の本心を聞き出すのにはおおいに効果があった。水無月はベッドに腰掛け、薄い水色の瞳に絶望と自嘲とを躍らせて語った。

「僕に何ができるというの?僕はハクを拒んだ。理由もなく突き放した。わざと冷たく振舞った。怖かったんだ。自分の想いを知ってしまったんだ。罪深いことだった。僕は最早神に顔向けできない状態にまで来てしまった……実の弟を愛するなんて」

 衝撃を受けた。水無月は涙を落し、微笑みながら、聖書のページを捲っていた。落合はそれ以上何も言えずにその場を立ち去り、寮を出、引きつけられるように図書館まで来た。とっくに閉館時間は過ぎていたが、扉の鍵は開いていた。決して届かぬ空を求めるようにそびえる本棚の線を目でなぞり、灯かりのない暗い天井を仰ぐ。黙示録――水無月が表紙を開いたのは一体いつのことだったのだろう。その時、隠されていた彼の心は明らかになった。血の繋がった弟への切ない恋慕。信仰心の強い彼の中にはたちまち恐怖が生まれた。白蘭は水無月に甘えっぱなしでいた。いつでも水無月の後ろを追い、肩に抱きつき、沈んだ時には頬にキスを求めた。そんな白蘭の近さが、水無月には恐ろしかったのだ。このままでいれば、いつかたがが外れてしまうような気がして。そうでなくとも、既に水無月は背信の道を辿り始めていたというのに。だから、彼は語った通りに弟を拒んだ。突き放し、距離を遠ざけようとした。理由の分からぬ拒絶はどんなに白蘭の心を傷つけたことだろう。傷口から毒が染みこんだ。純粋な兄への愛は、兄への復讐心へと色を変えたのである。白蘭は最愛の人を傷つけるためだけに毒を受け入れた。 真逆だ。落合は思った。まるで対照的だった。自分と芳乃、水無月と白蘭。自分は遠ざかる距離に恐怖を覚えて無理に引き寄せようとし、関係を壊した。水無月は近づく距離に恐怖を覚え、無理に突き放した。愛情、嫉妬、復讐、失望、こうした四人の思いは複雑に歪み、絡み合い、もう解けぬところまでにきてしまったのだ。

「芳乃……」

 そっと名を呼んでみた。遠くなってしまった名前。冷たい図書館の椅子に腰掛け、机に顔を突っ伏す。かつてこうしていた時、自分を揺り起こしたのは芳乃だったではないか。瞳を揺らして落合を案じ、キスをせがんだのは芳乃ではなかったか。もう芳乃は変わってしまったのか。過去の芳乃はもう戻ってこないのであろうか――違う、自分が変えてしまったのだ。あの言葉で芳乃を引き寄せようとした。自分は芳乃の腕を引く手に、冷たい刃が握られていることを知らなかったのだ。

「だって、ミナとハクは双子で、俺とお前は幼馴染だろ?しょうがねぇじゃん。こいつだけは変わりっこないんだから」

 自分が憎い。思いっきり痛めつけて殺してやりたい。それができない悔しさに、落合は声もなく泣いた。司書室の扉の隙間から、一穂がその様子をそっと窺がっている。虚ろな琥珀を、大きな手が覆った。




梯子はしごが傾いて落ちた。




***

 鶏が鳴いている。司書室の中で。オーガスタ、名を呼んで一穂は微笑む。机の上には学園長からの誕生日祝いのメッセージ。これで夢から覚めることができる。いつでも、好きな時に。


 芳乃の留学の話は風の噂で聞いた。直接口をきいてくれるとは思えなかったが、重大なことを打ち明けられなくなった自分へは、かつてない程の嘲りを投げつけてやった。 卒業式が終わるなり、落合は図書館へと駆けつけた。芳乃の留学と共に、この図書館が閉鎖になることも知っていた。芳乃が決めたのだという。理由は建物の老朽化。だが、本当にそうであったのか。今となっては思い出せない。

「芳乃!」

 叫べば彼は振り向いた。図書館に二人以外の影はない。倒れた梯子の前に、芳乃は立ち尽くしていた。あの決別以来彼の瞳を占めていた、敵意と憎悪の光はなかった。芳乃は祈るように手を組み、苦悶に瞳を揺らしていた。

「芳乃……」

「ぼくは行くよ。それしかぼくの道はない」

「どうしてだよ?俺は……俺は、誰にも言ったりしねぇし、何も知らねぇ。芳乃、考えなおしてくれよ。お前がいなくなったら、俺はどうすればいいんだよ?」

芳乃は指を振りほどいてふっと笑った。優しい顔だ。幼い日の懐かしい日々が蘇った。「芳乃……」

「知らないよ。桃真、君とぼくは別の世界の人間だ。小さい頃はよかったよ。ぼくも、君とぼくはいつまでも一緒だと信じてたし。でも、もう分かっちゃったんだ……ねぇ、桃真、ぼくの罪は消えないんだよ。あの人を独占しようとして、あの人の最愛の人を奪った。永久に許されないのさ。ぼくは罪と一緒になんか生きられない。君と生きられなかったようにね。だから、ぼくは学園を離れるんだ。全部忘却のためさ。ぼくは罪をここに置いていく。罪と、最愛の人をね」

芳乃は落合の肩を通り抜けていった。止められなかった。膝が崩れた。芳乃に置いていかれるのは、彼の罪と最愛の人だけはない。彼を最も愛している人も置いていかれるというのに。それでも、芳乃は知らないふりをして微笑んでいる。それはどんなに残酷なことであろう――

「芳乃!」

また引き止めた。

「ほんとに……本当に、これでよかったのか?!」

返事はなかった。両手で戸を押す音だけが、芳乃の残した最後の音だった。それは、勢いよく本を閉ざす音に、どこか似ていた。


***

 屋城一穂は二冊の本を手に、梯子の一段目にそっと足を踏み出した。エナメルの靴で包んだ小さな足は、慣れたようにとんとんと、綺麗に並べられた背表紙の前を登っていく。梯子の下では雌鶏のオーガスタがコッココッコと大騒ぎをしているところだ。先ほど司書室に掃除機をかけたのがいけなかったのだ。飼い鳥の掃除機嫌いは分かっているくせに。

「オーガスタ、もうそろそろおとなしくなさい。閉じ込めてしまうわよ」

一穂は梯子の上から声をかける。反応は期待通りではなかった。鶏はすっかり、元々あるかどうかも分からない理性を失ってしまっている。一穂は早々と諦めることにした。まだ生徒がくるような時間ではい。もう少しぐらいは興奮させておいてあげてもいいだろう。

 本棚の空のスペースに、運んできた二冊の本が並ぶ。一冊は汚れたピーターパンの本、もう一冊はフランス語の古ぼけた本。またここに本が並ぶことになるのだろう。否、自分はきっとそうしなければならない。なぜならそれが自分の仕事だからだ。後悔やためらいはなかった。退屈さえもない。ただの仕事。ひたすら微笑んでいるのだけが、唯一の「彼」への復讐だ。

 その時、扉が開いて何者かが旧図書館へと入ってきた。一穂は怪訝な面持ちで振り返る。まだ生徒は授業中なのに。序々に描かれていく顔に、一穂は目を見開いた。胸元で十字架をかたどった水晶のペンダントが揺れる。鶏はいつの間にか騒ぐのをやめていた。

「どうして……だって、貴方……」

梯子の足元で咲き誇る微笑み。一穂は出来る限り身を返し、片手でペンダントをつかみながら、懐かしさだけをただ胸に。

「だって、貴方……」

 二年後の同じ場所、掛け直された梯子の上で、一穂は声を震わせている。水晶のペンダントを胸元できつく握り締めて。見下ろした先で男は笑っている。

「すみません、黙示録を探しているんですが」

一穂は深く息を吸った。ひとまず動揺を収めることから始めた。もう会えないと思っていたのに。どうしてこんな形で、こんな場所で――なるほど、全て図書館で犯された罪のせいか。一穂は口元を緩めた。ようやく落ち着きを取り戻して切り出す。

「黙示録は、今はありませんのよ。いいえ……あるにはあるのですけれど、貸し出しできない状況ですの。一人の生徒が隠してしまってね。もう少ししたらいらしてくださいな」

「それはいけない。探し出すのが貴方の役目でしょう」

「えぇ、でも……私にはこの子がいますから……」

一穂が雌鶏に視線を落としたその時だった。

「あっ」

男の手が梯子を傾けた。足の踏み場を失って、一穂の体は落ちていく。鶏が再び騒ぎ始めた。一穂は目を瞑った。旧図書館、もうそう呼ばれるようになった場所の灰色の床は、既に目前に迫っていた。

 大きな手が彼女を抱きとめた。温かな胸の中で、愛する人の鼓動を聞き、一穂は小さく身じろぎした。顔を覆う影と、ルージュを引いた唇を包んだ温もり。なぜ忘れていたのだろう。こんなにも痛く、優しく、淫靡なものを。

「誰も忘れられないんだ、犯してしまった罪を。誰も目を背けることはできないんだよ。それこそ、最も罪深いことなんだから……」

目を開ける。間近で反射するメガネ、その奥に佇んでいるのであろう群青色の瞳に想いをはせ、一穂は唇を微かに開く。ますます近づく距離の中で、薫の紺色の前髪が頬にかかる。黙示録なんかいらない。ガラス越しのキス、ガラス越しの愛、ガラス越しの記憶、今はそれでいい。



 回転のぞき絵(ゾエトロープ)は回る。「葬送」の調べに促されて――

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