第十四話 ガラス越しの記憶・前編
第十四話新登場人物
千住薫
臨時の化学講師で慎の兄。
学園の出身であり、在学中は他の追随を許さない天才少年だった。
「すみません。黙示録を探しているんですが」
馴染みのない手に差し出された白い花は、目で捉えるまでに少し時間がかかった。その隙に額に落とされた唇の熱を、白蘭は手の甲でそっと確かめる。疲れた体では身じろぎするのすら億劫だ。それでも眠気を瞼から払い、重い上半身を起こすと、初めてのその客が、広い肩にシャツを着せるのが見えた。男は少し振り返って横顔で笑った。
「君はもう少し寝ていたらどう?まだ空は暗いよ」
男につられ、白蘭も窓の外を仰ぐ。知らない部屋の窓はやけに小さく、白い壁からそこだけ四角く切り取ったように見えた。その枠の向こうは、男の指摘する通りに暗い。白蘭は微かに目を細めた。
「いいよ。僕のベッドは今日の夜までは空いてるからさ」
「いや、用が済んだら帰る……長居は好まない性質なんで」
「律儀だね。待っている人でもいるのかい?」
「さあ……」
白蘭は曖昧に首を傾げると、冷たい床に素足の裏を浸した。とにかく早く部屋に戻りたかった。自分のベッドに身を投げ出したかった。兄に朝帰りを知らせるのだけは忘れずに――自分は相変わらず復讐の中に生きている。例えほんの少し苦しかろうが、兄に痛みを与えるためなら何も厭うことはない。そうだ、こんなにも寒い暗闇を分け入ってまで帰ろうとするのも、そのためなのかもしれない。水無月を傷つけて、傷つけて、傷つけて……そして、最後には?
ふいに歪んだ視界と、鼻の上に課せられた不自然な重みに、白蘭は戸惑って立ち止まった。男の手が立ち上がったこの身を浚い、ベッドの上に押し付ける。優しさを偽った強い力で。喉の奥は少し熱い息を吐き出したのみで、両腕を使って抗う気力もわかなかった。まるで生気を全て吸い取れてしまったようだ。その時、白蘭はようやく視界がぼやける原因に気付いた。男がくつくつと笑声をたてるのが聞こえる。
「無理はいけないよ、白蘭君」
「……余計なお世話だ」
「だって放っておく訳にいかないだろ?君も僕の大切な生徒の一人なんだから」
男は白蘭から取り返した眼鏡を、鋭く光る青い瞳の上に被せた。
***
起き抜けのコーヒーの黒い水面にすら、あの笑顔が揺れる。自分はきっとどうかしてしまったのだ。来夏はベッドに腰をおろすと、コーヒーカップを安全な位置に収めて溜息をつき、手の甲を額にあてたまま後ろに倒れこんだ。昨夜からだ。時折通り過ぎる星を眺めながら、アニエスに言われたことを思い返していた。貴方になら真央を任せられる。貴方に真央を守ってほしい―― 一体どうしてかの美しいフランス人の口からこのような言葉が出てきたのか、来夏には皆目分からなかった。確かに真央は自分を慕っているし、仲良くもしているけれども、それはどこにでもあるような先輩後輩の関係であって、とても、アニエスと真央、強く結ばれた従姉弟の絆に太刀打ちできるはずないのに。だが、そこまで考えた時、星がまた一つ落ち、来夏ははっとしたのであった。たった今知った想いがそこにあった――真央を守りたい――共に過ごしてきた日々で、いつのまにか胸の中に育まれてきた感情だった。自分は素っ気ない言葉で抱きつく真央を引き剥がし、叱りながら、それでも泣きながら胸に縋ってくる彼のことは突き放せない。それは単なる優しさの問題ではなかった。抱きしめたい。傍にいたい。彼女は気付いていたのか?自分ですら知らなかったこの気持ちに?
疑問は昨夜から何度も来夏の脳の周りを駆け巡り、とうとう原型を留めぬほどになった。運動の速度を緩めるのは、ただ時々浮かぶ真央の笑顔だけだった。来夏は額から落ちていく手を感じながら、まだ漠然とした世界の中にいた。一体どうすればいいのだろう。こんな場所から抜け出すためには。真央をこの腕の中に収めれば、本当に楽になれるのだろうか。確証はなかった。ただ、寝返りを打って振り見た先に、布団から突き出した両のつま先を寒そうに擦り合わせる落合の姿があった。
「まっ、苦しいのは俺だけじゃないんだもんな……」
来夏はふと起き上がると、その冷たい足元にそっと自分のブランケットをかけてやった。あと十分後には、目覚まし時計が大騒ぎを始める時間帯であるにも関わらず。まだ湯気を立てるコーヒーを含み、窓の外を見遣れば、まだ眠そうな朝日は冷気につっつかれ、薄氷のような光を大地に投げかけていた。
***
無表情の野瀬先生が言わんとすることは分かっていた。分かってはいたけれども、クリスは無言で差し出された紙切れを受け取ってから、しばらく笑おうか嘆こうか迷った。結局、「早く席にもどりなさい、石崎」の声に押され、どちらもせぬまま自席に戻り、脱力して机に突っ伏した。落合が笑いながら振り返った。
「どうしたエーリアル?また赤点か?」
「せっかく苦手な日本史ができたと思ったのに……次は化学だよ……」
落合は力ないクリスから勝手に小テストの解答用紙を引ったくり、苦いものでも噛んだような冴えない顔をした。
「こいつは……ちょっと、な?」
「石崎、大丈夫?」
「……人に聞く余裕があるってことは、酒本は大丈夫だったんだね?」
「うん。僕、化学得意だし」
「おまえ、言ってやるなよ」
この場において、悪意のない菜月の自慢はかなり身に応えた。またテストを受けにいかなければならないという事実も、加わって気持ちを重くした。隣席で、来夏が出来る範囲でなら手伝ってやるよと苦笑する。ノアの名が呼ばれ、目を前方に遣ると、一瞬翻った解答用紙が真っ赤に染まっているのが見えたが、ノアはまるで気にしていない様子だ。クリスと視線が合うと、にこりと微笑んで見せた。それでも気丈でいた野瀬先生だが、クラス全員にテストを配り終えると、先生はついに肩をすくめた。
「私は化学の担当ではないけど、見た感じ皆さんちょっと出来がよろしくない気がします。文化祭も近いし、気持ちが浮き立つのも分かりますが、あなたたちはここ三宿学園の生徒なんだから、もっと自覚と誇りをもって勉学に励むように。それと、三十点以下の生徒は今日の放課後再テストだそうです。放課後化学室に行くように」
「よかった。三十点以下か……以下?あれっ?」
落合の最後の呟きを、クリスは決して聞き逃さなかった。
「で、俺たち再テスト受けに行かなきゃいけないから、今日は一緒に図書館に行けないや。ごめん」
クリスが手を合わせて謝罪すると、水無月は相変わらず人のよさそうに笑った。
「いいよ、そんなに気にしなくても。僕も今日は部活に顔を出そうかと思っていてね。それより再テスト頑張って」
「はは、ありがとう」
水無月は「じゃあ」と言って席を立ち、鞄を持ち上げ、宣言通りに音楽室の方へと立ち去っていった。その足取りは軽い。よほど部活が楽しみなのだろう。彼にとって音楽は、クリスにとっての絵画みたいなものであるから。特技に急ぐ彼と、苦手分野の試験を受けにいく自分を身とを照らし合わせ、クリスはやりきれなくなった。ノアだけが微笑んでその肩を叩いて慰める。
「ほら、クリス様、早くいかないと、テストが始まってしまいます。落合様はもう先に行ってしまいましたよ」
「やっぱ、こればかりはしょうがないよなぁ……」
二人は並んで階段を下り、突っ切りたい昇降口を傍目に指定された教室へと向かった。化学室は一階の一番西側の部屋であるが、職員室など主要な教室が東の方に密集しているせいか、あまり付近の人通りは多くない。設備がよく、実験するのも憚られるような大変清潔な場所で、授業でも各クラス週に一度使えば多い方、後はサイエンス研究会とかいう実態のよく分からない同好会が月に2回活動しているだけだ。クリスに限らず、誰にとってもあまり馴染みのない部屋である。クリスが緊張しながらスライド式の扉を引くと、染み一つない白い壁に浮かび上がったのは、今にも吹き飛ばされそうな里見先生の夫の姿ではなく、長身の若い男性講師だった。
「あっ、あれ、えっと……」
「化学の再テストかい?ここでいいんだよ」
新任の講師はよく通る低い声で言うと、長机に腰掛けていたのから静かに床に降り立った。それから、悪いところを見られてしまったと呟いて笑った。クリスも思わず微笑んだ。紺色の髪をさわやかに流している様子、線のはっきりした端正な顔立ちや、楕円形のメガネの奥に佇む物柔らかな群青色の瞳、白衣を着せた広い肩――並べてみるだけで、スクリーンの中でしかお目にかかれなさそうな好青年だ。しかも、それが講師としてここにいるのだから。しかし、三宿学園の教師陣を見回してみれば、教職にあまり容姿は関係ない気もする。ジャクソン先生然り、黙っていればモデル並の鳥居先生然り。逃亡癖のある校長のことを思えば、ついで性格も関係ないのだろう。男性講師は長い腕で名簿を取って、クリスとノアの顔と比べてみた。
「石崎君と有瀬君、そうだね?」
「はい」
二人は同時に答えた。
「今日は先生に用事があるから、僕が代理を務めることになっているんだ。さて、これで三人揃ったみたいだね。勉強はもう終わりで良いかい?」
クリスは、既に席に着き熱い目線を代理の講師に注いでいる落合を、咳払いで現実世界へと引き戻した。それでも尚、落合は猫のように目を爛々と輝かせていたが、やがて講師の微笑にぶつかると、慌てたように口を開いた。
「あっ、はい!完璧です!」
「クリス様、落合様が『完璧です』ですって」
「うん、耳を疑いたくなるよ」
ノアの囁きに、クリスはぼやきながら何度も頷いた。
「おや、頼もしいな。じゃあ始めようか。石崎君と有瀬君も席についてもらえるかな?配られたらすぐに始めていいよ。テストは四時二十分までだけど、終わり次第僕のところに提出して帰ってもいいからね」
テストを受ける際の決まりとして、ノアとも落合とも間隔を空けて席についたクリスは、男性講師が問題用紙を配っている隙にふとネームプレートを盗み見た。化学講師・千住薫とある。千住――生徒会長と同じ苗字なのは、何か関係があるのだろうか。確かに目の色髪の色、顔の造形など、どことなく似通った箇所は見つかったが。だが、この講師の方には、あの尊大で高慢な雰囲気がない。容姿が冴えていても、やはり生徒を見守り、育もうとする温かな姿勢が感じられる。落合がこんこんとシャープペンシルを机に叩きつける音で、クリスははっと我に返った。落合は横向きに笑った。一緒にするなよ。クリスは胸の中で密かに反論した。俺はただ、生徒会長に似てるなって少し思っただけなんだから……
ペンはすらすらと進んだ。来夏のおかげだった。後でお礼を言わなくては。結果的に一番にテストを終わらせたクリスは、落合の恨めしそうな顔と、ノアのよかったですねという微笑みを背中に、軽い足取りで薫の元に歩み寄っていった。薫はテストを受け取ってざっと目を通すと、口元を緩めてクリスの頭を軽く叩いた。クリスはなぜか赤面している自分に気がついた。
***
クリスとノアに遅れて、落合が化学室を後にしたのは四時三十分頃。テストの出来云々はともかくとして、彼の心は浮き立っていた。薫先生と二人きりで会話することができた。優等生のエーリアル君にはかなわなかったことである。昇降口へ真っ直ぐ向かおうとしたその時、落合は英語のレポートを三日前に出し忘れたまま、机の中に入れっぱなしになっていることを思い出した。そろそろ提出しなければ、鳥居先生の堪忍袋の緒が切れるかもしれない。落合は浮き立つ気分を一変、重い足を無理に動かして階段の方を振り仰いだ。そして、傾き始めた日の光の中に、一人の少年の影を見た。落合は思わず息を呑んだ。
立ち止まったのは相手も同じだった。十数段の階段を隔て、二人はじっと見つめ合っていた。先に動いたのは上から見下ろしていた方で、彼が動くと同時に彼の顔を掻き消していた光が退き、水色の瞳に根を寄せた竜胆色の眉と、引き締めた薄い唇が明らかになった。水無月が無言で隣を過ぎていくのを、落合は言葉も発せずに待っていた。思わず手を伸ばし、行こうとする肩を掴んでいることを知ったのは、水無月が黙ったままこちらを振り向いた瞬間だった。
「お前……」
声が震えた。水無月の水色の睥睨は、彼の弟のそれと重なって見えた。芳乃が崇拝し、身も心もささげて愛するその人の嘲りに。肩に触れた手に力がこもる。斜陽から隠された赤い瞳は、水無月の落す影によって険しく削り取られていた。正確には、彼に重ねて見ている少年の影に。かつての友の顔に浮かぶ影は眺めるごとに増えていく。見せ付けられた接吻も――
「お前は、どうして……!」
「言うな」
水無月の小さな唇を出た言葉。静かだが、それはれっきとした命令であった。平手打ちをくらったような気がして、落合は続きを口の中で噛み砕いた。水無月は肩の上の手を払うと、数歩後ずさりして落合を再度睨みなおした。水色の強い光線は、持ち主が無意識の内に被っていた白蘭の面を打ち壊す。その残骸は確かに落合の胸にも突き刺さった。
「全て君にはもう関係のないことだ。君はもうすでに君の世界を持っている。そこに愛してくれる人がいる。今更僕らの元へ立ち返る必要はないはずだ」
「ふざけたこと抜かすな!芳乃を放っておけるはずねぇだろうが!」
落合の叫びも、目を閉じて頭を振る水無月には遠い。
「君がどう思おうが彼の心は変わらないよ。わざわざ学園に戻ってきたぐらいだもの。君の行動は全て茶番だ」
「茶番だろうが何だろうが、そんなことに構ってられるか!あいつは苦しんでる!俺が助けなくて、誰があいつを助けるんだ?!」
「さあ。彼自身しかいないだろうね」
「てめぇっ!あいつを、芳乃を苦しめてるのは誰だと思ってる?!」
「さあ……それも彼自身だろう」
怒りに任せ、勢いよく伸びてきた両腕に、水無月は抵抗する術もなかった。元々そんな気などなかったのかもしれない。胸倉を掴まれ、顎を傾けられても尚、彼は何の苦しみも痛みも表情に映さずにいたから。その無表情がますます落合を激させるのを、彼は知っているのか知らないのか。落合はいまや、初めに水無月に触れた時とは、全く異なる感情によって身を震わせていた。しばしの沈黙の後、憤る余り塞がっていた喉がようやく開き、落合は搾り出すように語りだす。
「ふざけんな……芳乃があんなことになったのは……全部……!あいつが苦しんでいるのは……全部……!」
「バカを言うな。君のせいじゃない」
落合は驚愕に染めた顔をあげた。本心を見透かされたのとは他に、水無月の口調が妙に優しかったのも、彼を驚かせた要因の一つだった。しかし、それが同情から出た言葉にせよ、水無月はその心を継続させようとはしなかった。水無月の落とした瞳の中には、自嘲と絶望とがあった。
「誰もが選んで自分の道に入る。例え苦しい道だろうが、愛する人の傍にいることを選ぶ者は喜んでその道を進む。雲居芳乃は自らすすんでそこへ立ち入った。だが、彼のような者とは別に、誰かの言動によって無理に苦しみの道に突き出された者もいる。僕は弟を突き出したんだ。自分の心を守ろうと必死になる余り……僕は卑劣な人間だ。だから、僕は弟の後を追っている。弟の復讐を受けるために、僕はまだ夢の中にとどまっている。でも、桃真、君は僕みたいな真似をする必要はない。傷を受けるのは僕だけでいい……」
ようやく落合は気がついた。自分の手によって捲られた襟の中、白い胸元を覆う幾つもの青い痣に。水無月は耐え忍んでいた。弟の暴力と陵辱に。水無月は犯した罪のために、有り余るほどの罰を受けている。落合の憤激をぶつけられるまでの理由はどこにもなかった。水無月を突き放し、落合は声も涙もなく泣いた。悔し泣きであった。罪をこの身に受けられない悔しさ、芳乃を救えない悔しさ、部外者扱いされた悔しさ。なぜこんなことになったのだ。何もやりなおすことができない悔しさ。壁に手をつき、力なくうなだれる水無月も、同様のものを抱いていた。こうして夢の中にいる今、思い返せるのはガラス越しの記憶しかない。