第十二話 その花の名は・後編
旧図書館の司書室にて。司書室は正方形の広々とした部屋で、床にはオリーブグリーンのカーペットを敷き詰めてあった。きれいに埃が拭き取られ何もかもが整頓された館内では、唯一雑多な感じのする場所だ。それは机の上に無造作に置かれた本のせいか。壁一面に張られた巨大なスクリーンのせいか。散らばった椅子と、部屋の真ん中にそびえる巨大な映写機のせいか。それとも部屋を自由に駆け回る鶏のせいか。
「オーガスタ、あまりうろうろ歩かないで。映画に集中できないわ」
一穂は愛鳥に向かって呟きながら、スクリーンに向けたパイプいすを軋ませた。今日のような雨空の夕方は、ただでさえ薄暗いこの部屋に、ちょうど白黒の人物たちが映えるだけの暗闇をもたらしてくれる。スクリーンの上では、西洋人の少年少女が、聞こえない笑い声をたてながら、自転車で坂道を駆け下りていた。
「ロマンよね」
鶏は飼い主の言葉に反応するようコッコと鳴いた。
その時、乳白色の光が若い恋人たちの顔を掻き消した。誰かが司書室の扉を開けたのだ。せっかくの楽しみを妨げられても、一穂は一切迷惑そうな素振りを見せなかったが、わざわざ振り返って来客を歓迎するような真似もしなかった。鶏は両翼をはばたかせて白い羽を舞い散らせる。客は静かに扉を閉めると、散らばる椅子の一つに腰を下ろした。それでも尚、一穂は何も言おうとしない。
「どうしてぼくを無視するのさ?」
「貴方が言える立場にあるのかしら?今日はもう閉館よ」
「知ってるよ。だから来たんだ。誰にも邪魔されないからね」
一穂は肩をすくめて立ち上がり、暗闇の中を慣れたように進んで、部屋の隅のランプに火をともした。映写機の隣に運ばれた炎が照らし出したのは、振り返った一穂の密かな微笑の陰翳と、胸元に抱き上げられた鶏だった。
「それで、何の用かしら?……君?」
「それで、僕に何の用なの?芳乃?」
「えぇ。よかったら、旧図書館の視察に一緒に行っていただけないかと思って。ぼくもまだだったんです」
颯は眼鏡の奥で薄紫の目を瞬いた。一晩中降り続いた雨もやみ、水溜りに冬の青空が映るのどかな日の放課後のことである。芳乃のおかげですっきりと片付いた生徒会室には、颯と芳乃以外には誰もいない。慎は相変わらずフェンシング場にこもりきりだし、茘枝と陽はそれぞれの部活に赴いている。文化祭に向けての練習もあるのだろうから、今日のところは颯も見逃してやることにした。しかし、慎も茘枝も陽も大変だ。一方のダンス部とて、全国大会への出場が決まったところなので、決して気合を抜ける状況ではなかったのだが。颯は腕を組んで首を傾げた。
「そうだなぁ……まあ、今日は皆もいないし、仕事も特にないし、視察っていう仕事もたまにはいいかもしれないね」
颯の悪くない返事を聞いて、芳乃はえくぼのある笑顔を作った。
「ありがとうございます。よかった、一人じゃ仕事も楽しくありませんしね」
「陽と一緒に仕事ができないときの茘枝の台詞だよ、それ」
「えっ?小杉先輩の?」
「そう。でも、本人には内緒にしておいてね。じゃあ、支度するから先に昇降口で待っててよ。すぐに行くから」
「はい」
芳乃は素直に頷くと、荷物を抱えて生徒会室を出て行った。その背中を見送りながら、颯はぼんやりとかつての彼を思い出す。芳乃は少しも変わっていない。相変わらず真面目で無邪気で人懐っこくて一途な生徒だ。一年半という時間も、アメリカという親しみのない土地も、彼に何らかの感化を与えることはできなかったようだ。この目に見える限りでは。窓に映った自分の顔を見て、颯は考えた。はたして自分はどうだろう。菜月は確かこう言った。怖かった、と。自分がどんどん遠くにいってしまうような気がした、と。自分は彼をバカだと笑った。そんなことはないと言い張った。だが、本当のところは?本当に自分は変わっていないのか。相変わらず菜月の所有物であるのか――違う。答えは案外すぐに、真っ正直に出された。自分は菜月から距離を置いていた。彼を嫌いになった訳ではない。むしろ彼のことが日に日にいとおしくなるばかりだった。それなのに、なぜその手から滑りぬけて逃げ回ったりしたのだろう。足場に迷って花の上を舞う蝶のように。
颯は冷たい窓に手をついた。自分の内に芽生えた、無邪気でも一途でもない残酷な感情に、もうすでに気が付いていた。菜月を安心させたくなかった。ひらひらと頭上で舞うことで、自分が目を離せば遠くにいってしまうことを示したのだ。菜月が自分なしでは生きられないこと知った上で。いわば一種の脅迫だった。そうして菜月を独り占めしていたかった。自分は菜月のもの。そして、菜月は、ナツは――
「ナツは……僕のものだ」
一人呟き、それから窓辺の自分にくるりと背を向けた。胸元に抱きしめたファイルの、いつもより少し軽いのに気が付きながら。
白亜の体育館の傍ら、そして薔薇の小道、かつて菜月と通った道とまるで変わっていなかった。芳乃と楽しく語らいつつ、颯の胸は痛いまでの懐かしさに揺らいでいた。いちいち込みあがっては瞼を過ぎ行く思い出たちは、時の流れも忘れさせるほどに生々しく、色と温度と匂いとを帯びていた。
「おや、クリスじゃないか」
昔と変わらぬ館内で、颯は早速後輩の姿を見出した。クリスはノアと水無月と共に長机の上に本を並べ、小声でおしゃべりしながら、楽しそうに本の中の景色をのぞきこんでいるところであった。歩み寄ってくる人影に顔を上げたクリスは、颯の後ろからやって来る少年の見知った顔にもすぐに気が付いた。
「あっ、颯先輩こんにちは。あれ?もしかして、この間の……?」
「やあ、その節はどうも」
芳乃は微笑みながら手を振ってみせた。颯は意外な接点の存在に驚いて、クリスと芳乃を交互に見遣って関係性を尋ねた。答えたのは芳乃だった。
「この間ランの花を頂いたんです。とても見事に咲いてたので」
「へぇ、クリスが芳乃にランを?」
「有瀬が育てたんですよ。有瀬は花の世話が上手いから、何の花でもよく咲くんです」
「いいえ、そんなこと……」
ノアは首を振って照れくさそうに顔をうつむけた。そんなノアの謙遜を押しやってクリスが挙げる実例を、颯は微笑ましい気持ちで聞いていた。自覚がないだけに手強い敵だ。慎の言うとおりだ。本格的に叩きのめさなければいけないかもしれない。そのために、あまり仲良くするのはやめておくか。そうでなければ、この気持ちがぐらついていくかもしれない。愛するものを守るために何よりも大切なこの気持ちが。
「ごめんね、クリス。一応仕事で来てるんだ。話はまた別の機会に」
「あっ、ごめんなさい。邪魔しちゃって」
慌てて口を覆うクリスに、颯は思わず口元を緩ませた。
「いいんだよ。僕こそ読書の邪魔をしちゃったみたいで悪かったね」
「いえ、読書なんて大層なものじゃないんですけど」
「でもクリスにとっては大切なことなんだろう?頑張って」
颯は応援の言葉を裏付けるように、そっとクリスの肩に手を置くと、本の森の中へと消えていった。芳乃もその後を追い、笑顔で去っていく。クリスは小さく手を振り返しておいた。そういえば、校内新聞に生徒会副会長が帰ってきたようなことが書いてあった気がする。颯と一緒ということは、彼がその生徒会副会長なのかもしれない。クラスはF組と書いてあったっけ。名前は確か……
「水無月君、大丈夫?」
聖書をめくる手を止め、なにやら思いつめたように視線を落としている水無月の目の前で、クリスはペンを左右させてみた。水無月ははっと我に返り、寄せた眉の根をほぐして微笑む。今更振り返っても、睨み損ねた背中はとうに立ち消えていた。
思い出は知らぬ間に足を突き動かし、童話の棚の前に梯子を運ばせた。特にさがしている本でもないのに、わざわざ梯子まで運んでくるなんて子供じみている。分かっていても、笑う気になれないのが今の心境だ。颯は懐かしの童話を求め、擦り切れた背表紙の上に何度も紫の光を流した。かつて、二人で夢中で読んだ本を。
「あの」
梯子に触れる者があった。見下ろしてみると、見慣れた女性が鶏を大切そうに両腕に抱いて立っていた。颯は思わぬ熱中に凝り固まっていた表情を崩した。
「なんだ、一穂さんか。また戻ってきたの?」
「えぇ。オーガスタも一緒」
賢い雌鶏はここでは鳴こうとしなかった。一穂は彼女の白い羽を優しく撫で上げた。
「あのね、榊原君、さがしてる本なら司書室にあると思うわ。ちょっとお話もしたいし、よかったら立ち寄ってくれない?伯父さんに美味しいお茶をいただいたの。榊原君に飲んでいってほしいのよ」
「毒見をしてくれってことかな?」
「嫌ね、違うわ。もう、せっかく善意から申し出てるのに、最近の子は……」
颯は梯子を下りながら低い笑い声を上げた。まだ若い一穂から「最近の子」と聞くのも不似合いだったし、自分の思い出の本を当てられた衝撃を隠したかったのもあった。一穂は颯の疑い深さに拗ねていたが、それでも彼が誘いに応じるような素振りを見せたので、少し嬉しそうに司書室への先導を始めた。
「ああ、芳乃も一緒なんだけど……」
その言葉は一穂には聞こえなかったみたいだ。いいか、ほんの少しのことだし。鶏と女の背に招かれるまま、颯は司書室の戸を潜り抜けた。
手にこびりついた絵の具を制服のズボンでこすりながら、落合は誰もいない高等部の廊下を歩いていた。文化祭に展示する作品のために、美術部もこのところは活動日数を増やしていた。上手く剣道部と両立しなければならないが、部長という立場という故に、あまり美術部を空ける訳にもいかない。落合は溜息をついた。難しい問題だ。考えるのはよそう。
ふと落合は立ち止まった。入ろうと思った教室から、入れ違いのようにして出てきた人影があった。彼の山吹色の瞳は斜陽に溶け込み、横顔の輪郭だけがはっきりとこの目に捉えられる。その黄土色の髪の一房が、彼の顔に影を落とした時、落合はようやくその正体を確信できたのであった。
「おい、芳乃!」
「なんだ……桃真か。びっくりさせないでよ」
落合は肩を小さくはねさせた。芳乃は今、自分を桃真と呼んだ。昨日まではいやに余所余所しかったのに、その顔に親愛さえ取り戻して。芳乃は落合の元へ近づくと、胸に頬をよせ、ネクタイの結び目を緩めるように指を絡めた。胸のときめきより早く、落合はそれが懐柔の仕草であることを悟っていた。落合は反射的にその手を掴んだ。芳乃は突然蹴飛ばされた子犬のように、哀しげな、訴えるような目で旧友を見上げたが、それでも落合は騙されなかった。険しい仮面が突如落合の顔に嵌め込まれた。
「こんなところで何してんだ?お前の教室はF組だろうが」
「別に。桃真の知ったところじゃないよ。教えてほしければ、教えてあげてもいいけど」
「……何企んでやがる?」
甘くもたれかかろうとするその視線を突き刺すように見つめていると、見上げたままの芳乃の目から哀れっぽさが瞳孔に吸い込まれるように消えていった。芳乃はくすりと小さな声を漏らして、緩めた落合のネクタイの結び目に接吻するように顔を俯けた。次に顔を上げた時、その口元には歪んだ微笑が浮かんでいた。落合は思わずぞっとして視線を逸らそうとしたが、芳乃は呪詛のような恐ろしい台詞でそれを妨げた。
「……復讐だよ、桃真。あらゆるものへの復讐さ。君への復讐、過去のぼくらへの復讐、真実への復讐。それは同時に制裁でもあるんだよ。ぼくの部屋をかき回す奴らへの。そして、外側からうるさく戸を叩き続ける奴らへの、ね。ぼくの部屋にはね、落合…………ぼくと白蘭様しか入れないんだ」
芳乃は捕縛された手を振りほどくと、妖しささえ漂わせていた冷ややかな微笑を排他的な憎悪に満ちた面に返し、夕日が照らせなくなった方へと身を翻した。落合の喉は枯れるばかりで友人を留める声もでない。
「桃真って卑怯だよ。そうやってさ、いつも無視しようとするんだから――」
目を背けたあの日から、いつの日も、彼の言葉だけが真実なのだ。教室の机の上、花瓶に挿されたばかりのその花の名は――
「ほら、これでしょ?」
一穂は緑茶を客の湯のみに注いだ後、つと古い本を差し出して自慢げに尋ねた。違うとは言えなかった。まさにその通りであったから。
「適わないなぁ。何でもお見通しなんだから」
颯は本を受け取って降参したように笑った。薄く汚れたその本は、ピーターパンだった。昔、菜月と一緒に読んだ本だ。初等部の時に、菜月が英語劇でピーターパン役をやるというので、寝る前の枕元で読み聞かせてやったのだ。一穂は足元のオーガスタを膝上に抱き上げると、濃く淹れた茶を口に含んでほっと息をついた。
「美味しい。オーガスタもお茶が飲めればよかったのにね。まあ、貴女はこれで満足しているんでしょうけど。榊原君、何でもお見通しと言っても本のことだけよ。誰がいつどんな本を借りたかは、大体覚えてるの。このことに関しては、パソコンなんかよりも正確だったりしてね。まあ、それは冗談だけど、あなたたちよくこの本借りにきてたから。ほら、あなたと酒本君で。そういえば、昨日酒本君も顔を見せたわね」
「ナツが?」
一穂はこくんと頷いた。彼女の微かな体の振動につられ、鶏も首を縦に振った。
「えぇ。そういえばあの子も童話のコーナーを見てた気がするわ。同じ本を探していたんじゃないかしら?ふふ、幼馴染って似るものね。思い出を共有しているせいなのかしら。まあ、育ったプロセスが一緒だものね」
颯は無言で本のページを繰った。菜月もこの本を探していた。恐らく、同じ思い出を求めて。だが、菜月が旧図書館を訪れたのは、あの出来事の前ではないか。二人きりの密室で、お互い見知らぬ花の名を知った。そして、手を伸ばしかけ、恐怖に駆られてやめたのだ。花言葉は欲望、花の香は媚薬、触れ合う快楽と高みに登りいく興奮への導きだった。子供の純潔を投げ捨て、菜の花の色を忘れるための。
「……ずっと子供でいられるって、素敵よね」
花弁の裏を這う黒い虫のような一穂の呟きに、颯は顔を上げた。気付けば、本は彼女の手元にある。
「何も知らなくてもいいって、何も忘れなくっていいって、すごく素敵なことよね。大人になった瞬間、まるで駄目だわ。汚れてしまったって感じるもの。子供のころは何ともなしにできてたことが、大人になったら色々考えてできなくなって」
そうだ。二人きりで密室にいることも、今までは何ともなかったはずだ。抱き合うこと、触れるだけの接吻を交わすことも、ただ純粋な喜びに過ぎなかった。なぜ恐れる必要があったのだ。
「でも目を背けちゃいけないのが辛いところよね。だって目を背け続けたら、きっと生きられなくなってしまうもの。次の段階に踏み出せなかったら堕ちていくしかないんでしょうね」
自分の中にも菜月の中にも変化の兆しは表れている。次の段階へと伸ばせる手をすでに持っている。千鳥模様の傘などいらないことを、もう悟っている。このまま晴れの日が来るのを恐れながら、傘を差し続ければ、二人そろって醜い姿を周囲に曝すだけ。傘の中で縮んだ背、曲がった腰、萎えた手足と日と隔たれて青白い顔――そして日差しに焼かれる二人の瞳。
「子供でいればどんな罪も見逃してもらえるのにね、子供でい続けることだけは許してもらえないわ。そうよね、いつまでも規則から逃げ回っているのは立派な罪だもの」
「……罪、ですか?」
颯は開いたグレイのパーカーの前をかき寄せた。この冷ややかな室温にさいなまれても、絶えず思考する脳が放った熱は血管を巡り、颯の額に嫌な汗を浮かばせる。焦燥とためらいとの激しい葛藤が、血液の駆け足を加速させていく。頭の中で回りだす回転のぞき絵には揺れる菜の花。今にもその花弁を、色を、香を、風にさらわれそうになりながら。 一穂は相変わらず微笑んだまま、取り返した「ピーターパン」を颯の手に握らせると、自分は立ち上がってカーテンを引き、鶏を膝の上に座りなおさせてスクリーンの方を向いた。かつて楽しげに笑いあっていた幼い恋人たちは、この一日の間に、片やたくましい青年に、片や麗しき婦人となって、涙滴る頬を震わせ、辛い別離に耐えていた。この無声映画は颯の眼鏡にも断片的に映りこんできた。スクリーンの中では存在する汽笛を合図に、二人の悲しみは最高潮に達した。汽車の窓から突き出した愛しい手に、婦人は幾度も接吻を落したが、惹かれあう濡れた唇と手とはたちまち引き裂かれる。乙女の裸足は小石の刺にも躊躇して、彼女がただ咽びながら立ちすくむ間に、恋人は遠く白いばかりの地平線へと消えていく。
「ナツ……」
痺れた舌で紡いだ名。一穂が映写機の電源を切ると、部屋は一面の暗闇に覆われた。
菜月が教室に戻ってきたのは、弁当箱を忘れたことに気が付いたからだった。この季節ならば、一日放置したぐらいではどうにもならないとは思ったが、やはり衛生上よろしくないと思いなおし、わざわざ剣道場から重い身をひきずってきたのだった――ただ比喩的に重かっただけではなく、実際荷物のおかげでごちゃごちゃしていたのだが――そして、ふと自分の机の異常に気が付いた。机の上の見知らぬ花瓶に咲き誇るのは、白いランの花だった。
「……いじめ?」
思わず一人呟いて歩み寄ってみる。様々な憶測が感覚を鈍らせる中でも、純白の柔らかな花びらは菜月を惹きつけずにはいられなかった。そっと触れて菜月は一歩後ずさる。何だかそうしてはいけなかったような気がしたので。菜月は利き手を抱えて眉をひそめた。いじめとも取れるこの行為といい、薄暗い教室に白く輪郭が浮かび上がっている様といい、気味が悪いことこの上なかった。一体何のつもりなのだろう。誰かの恨みを買ったつもりはない。強いて言うなら落合程度だが、まさか彼がこんな陰湿な手口を思いつくとは考えられなかった。ランの花は、菌類が咲かせた花のような、青白い地底の光を放っているようにも見えた。
「誰が……」
菜月のミントブルーの目が見開いたのは、背中に何者かの手が触れたからだった。長いこと雪の中に埋もれていた死者が、一途な無念だけを頼りに蘇り、菜月に縋ってきたかのような冷え冷えとした感覚に、菜月は身を強張らせた。ひるんだ隙にたちまち体は二本の腕に絡め取られ、くるりと翻される。強引に唇を奪われるのは間一髪で防いだ。
「ほう。さすが剣道部部長。細い割に腕力はある様だな」
「何するんだ……っ?!」
菜月は相手の胸を押しやりながら、荒い息と共に言葉を吐き出した。背中から平然と後ろの机に飛び乗り、唇を歪めて感心してみせたのは、水色の髪の背の高い少年だった。ネクタイは緩くずれ落ち、素肌がシャツの下からのぞけて見える。菜月は表情を尖らせた。篠木白蘭――噂だけは知っている。学園の影の世界を統率する不良であり、権力ある生徒の間で暗躍する男娼だと。白蘭はたてた膝に肘をかけ、涼しげな様子で弁解した。
「俺は報酬に応えようとしただけだ。今日は仕事がないっていうなら帰ってもいい」
「ふざけるな!そんなものないに決まってるじゃないか!この花を持ってとっととどこかに行ってくれ」
「ひどい言い方だな。あいつそっくりだ…………気に食わない」
白蘭は口の中で密かにぼやくと、菜月の憤慨に促され、冷笑を浮かべたまま教室の出口へと静かに身を進めた。だが、素直に立ち去る彼ではない。突如菜月の睥睨の通路に、千鳥模様の傘をかかげて見せた。菜月は再度目を見開いた。
「どうしてそれを……!」
「ロッカーから失敬した。これさえあれば俺の話でもまともに取り合ってくれるかと思ってな。どうしようか?折って捨てることもできるし、これを餌にお前を買うっていう術もある」
怒りと衝撃のあまり口もきけない菜月を視界の端でとらえた白蘭は、声を上げて残酷に笑った。自分の優勢を見てとった彼は、傘をもてあそびながら教室の中に舞い戻り、傘の先を突き出して壁の際まで菜月を追い詰めた。手を菜月の顔の傍らについて完全に逃げ場を塞ぐと、白蘭は傘をひっくり返して柄の方で菜月の顎を持ち上げた。
「急に猫みたいにおとなしくなりやがって。それでいい。下手に動くと大切なものがどうなるかわからない。しかし、まさか俺がこんな真似をすることになるなんて。普段は逆の立場なんだが……どういうことか分かるだろ?おまえは知らないふりしてるみたいだけどよ」
思い出に圧迫された喉を、菜月は抗議の代わりに小さく鳴らした。ふと、白夜の光が消失するように白蘭の口元から奸智の笑みが掻き消え、一瞬彼の顔が影に覆われたかと思うと、きつく結ばれた拳が菜月の耳元に叩きつけられた。
「目障りなんだよ。てめぇも、おまえの恋人も、綺麗な侭でいようとする奴ら全員が。てめぇらの純潔のためにどれだけのものが犠牲になってると思ってるんだ。何も見ないふりして自分たちだけ純粋なふりしてやがる……あいつも同じだ。あいつも……自分だけ逃げようとして……許せない……」
白蘭の表情は一言ごとに蛇のように変化していった。菜月は細めた視界の中で察していた。今対峙している少年が何らかの冷たい感慨にふけっていることに。絶対零度の地、凍りついた暗黒が支配する領域、小凍える月の裏側の――心深くにある海に身を浸しながら、彼は菜月から目を逸らし、鉛色の窓を凝視していた。廊下にのみ点された明かりが、ガラスの上に少年の影絵を投じている。それは、戒めるべきものを目前にしながら、罪悪感のために身を竦めている兄の形をとっていた。
「許さない……ミナ……」
白蘭が人影の正体を確かめようと入り口を顧みたその隙を、菜月は突いた。押し当てられた傘を掴み、振り払うように白蘭の手から奪い取る。千鳥模様の布に守られた脆い枝が、細い指に折られるほどの怒りを以って。白蘭ははっと息を呑み、求めていた背後に向かってよろめいたが、花瓶を置いた机が彼の背を受け止めた。床に散らばるのは白い陶器の破片、そしてそれと見紛うランの花弁と、水。白蘭がとうとう振り向いた先に、あるはずの人影はいなかった。
花瓶の水が教室の床を濡らした。天上でも何者かが花瓶を傾けたのだろうか。突然の雨に、下校中の生徒たちが騒ぎ始めている。その声が遠くくぐもって、雲の中の残響のように聞こえてくる。薔薇の葉の緑は、つややかな光を灯すどころか、却ってその雨に燻られて色を忍ばせている。旧図書館を出た颯は、おかっぱにした髪の端に雫を垂らしながら、彼らとは反対に、校舎への道を辿っていた。濡れた制服は重く冷たく、できることなら走り出したかった。だが、今は足にも力はなく。
「あっ、颯先輩、傘、貸しましょうか?俺は有瀬と一緒に使いますから」
背中を追ってきたクリスが申し出る。颯はゆっくりと微笑を象ると、友人の傘の下に急いで滑り込んだ後輩に向かって、静かに首を振った。
「ありがとう、クリス。でも、いいんだ。僕も傘は持ってるからね」
「えっ、でも……」
颯はクリスの言葉の続きを待たずに歩き出した。その足取りは決然としていたが、横顔は何かしらの苦しみに耐えているようにも見えた。それは何故の苦しみだろう。新たな道をとらない罪を糾弾されながら、その罪を足元に置き捨て、再度目を背けて進むことに対するものなのか。それとも彼を巻き込んでしまうことに対してなのだろうか。愛ゆえに。愛ゆえに。愛ゆえに――全ての動機がこんなにも美しいのに、実る花はどうして移ろい、朽ちていくのであろう。いや、そのことがあるいは二人に更なる深い愛を与えるとしたら自分は…………颯は心の中を、汚濁の帳のような蝙蝠の翼に打たれたような気がした。
薔薇の小道の出口で颯は足を止めた。白亜の体育館の影から現れたのは、共犯者と潰れた凶器。
「……今だけは、ね」
差し出された傘に入るための免罪符はその一言だけだった。折れた傘でもまだ必要なのだ。臆病な自分たちにとっては。
そしてまた枯れ損ねる、その花の名は――
(2013.2.8改訂)