第十一話 凍え死ぬ月・後編
「さすが、芳乃。一年のブランクがあっても仕事が手早いね。どこかの誰かとは大違いだ」
「ありがとうございます、颯先輩」
二年生でありながら、生徒会副会長という地位を手にしているのも納得がいく。完璧なまでにまとめられたファイルに目を通し、颯は心に浮かんだまでの賛辞を述べた。
「おい、そのどこかの誰かっていうのは誰のことだ?」
礼儀正しく、にこやかに腰を曲げる芳乃とは対極的に、気だるそうに茘枝の膝に頭を預け、目の前の仕事にはまるで手をつけずに陽。「分かってるでしょ」と、颯は溜息と共に呟いて肩を落とした。無実の罪を糾弾されたのでもないのに不満げに見上げた陽に、茘枝はしとやかに微笑みを零し、慰めるように髪を梳いた。芳乃は二人の様子には慣れきっているらしく、その傍らで堂々と荷物をまとめると、鞄を肩に生徒会室を退出しようとした。
「おい、もう帰るのか?」
陽が顔も上げずに聞く。
「えぇ、ぼくはもう仕事が終わりましたし。それに、部屋の整理があるので」
「けっ、嫌味な野郎だぜ」
「そんなつもりじゃなかったんですよ、陽先輩。では、失礼します」
「うん、お疲れ」
手を振る颯に笑って振り返った芳乃は、一歩廊下へ踏み出した瞬間に笑顔を叩き割った。その破片は小さな黒い粉となって飛び散り、磨き上げられた廊下の、窓の真下の冷たい影に隈取られたその色に溶け込んで消えていく。仮面の下に現れたのは、憎悪と愛情と苦悶とが絡み合ってできた冷酷な睥睨であった。ほどかれた黄土色の髪、温度さえも失った夕日色の瞳が見つめるのは、まさか彼の寝室ではない。残虐な微笑と、その持ち主と長々と繰り広げる行為、そして深まる愛おしさと破滅の溝。そうしたものだけが、芳乃の心を捉えている。いや、それだけではない。復讐。冷温で保存された火のような復讐――誰もいない最上階を降り、まだ少しざわついている四階にまもなくたどり着くというその時、踊り場で懐かしい影が舞った。芳乃はふと足を止める。
「よう元気だったか?」
「落合……」
落合は反射するメガネを少しずらして、きらめく焔の目を芳乃の前に現した。
「連絡もなしに帰ってくるなんてつれねぇじゃん」
「急な帰国だったんだよ。本当はあともう半年滞在する予定だった」
「アメリカは楽しかったか?」
「まあね。僕なりに楽しんだつもりだよ」
「なんにも連絡寄越さなかったじゃねぇか」
「……報告するようなことは、特に何も起きなかったから」
「ほんとつれねぇな。普通幼馴染には電話の一本ぐらいするもんだぜ」
芳乃はわざとらしく肩をすくめると、黙ったまま落合の隣を通り抜けていった。落合もそれを容認し、芳乃の足音が背後に回っても止めるような素振りは見せなかった。だが、ふいにこらきれなくなったように拳を固め、微かに震える唇を開いて、青ざめた喉に掠れた声を上げた。
「芳乃!」
だが、振り見た先に芳乃の姿はなかった。落合ははっと息を呑んだ。芳乃の足音を聞いた場所では、ノアが年季の入った本を胸に、首を傾げて立っていた。
401、402、403……進むごとに扉に刻まれた番号は膨れていく。右側から夕日を浴びながら、水無月は寮の廊下を歩んでいた。それぞれの戸の奥からは様々な談話が聞こえてくる。水無月はそこから住人たちの生活を思い描くのであった。友達とふざける者、ゲーム機をいじる者、仮眠をとる者、夕食前に宿題を終わらせてしまおうと急ぐ者、お茶を楽しむ者――想像はできても最早遠すぎる者たち――水無月は緋色の光の中に自身の掌を映し出す。目を悲しげに伏せたのは、斜陽が明るすぎるせいもあったのかもしれない。
408、409、410……
ようやく部屋の前にたどり着き、扉に手をかけた水無月は、一瞬開くのをためらい、その奥からどんな声が聞こえてくるか耳をあてようとした。頬と耳に扉の白さが染み入るのは同時だった。その瞬間に内側から戸が開いた。内開きの扉に誘われ、水無月は部屋の中へと倒れこむ。打ち付けた顎の痛みに耐え、唇を噛みながら見上げた先、灰色のカーペットの地平線に、彼は見慣れた裸の足を認めた。
「案の定引っかかった。いくら弟の話でも盗み聞きはよくないと思うぜ、水無月?」
「白蘭……!」
白蘭は水無月の鼻先に膝を落とすと、まだ倒れたままの襟首を掴んで打ち付けて赤くなったその顎を持ち上げた。自分の歯で破った唇の端には、薄っすらと血が滲んでいるが見える。それを指先でそっと拭い、赤く頬を汚してやると、水無月は怒りと屈辱に身を震わせた。
「何のつもりだ?」
「痛い目を見ないと分からねぇんだろ?俺は客のプライバシーは絶対に守り通す主義だ。こそこそかぎまわられると迷惑なんだよ」
「ふざけたことをぬかすな!ここは僕の部屋でもある。僕の部屋を汚らわしい行為に使うんじゃない……!」
水無月の言葉は、白蘭には最後まで聞き取れなかった。そもそも、彼は叱責を聞くのを拒んだのだ。白蘭は水無月の頬を続けざまに打つと、その軽い身を床に打ち捨て、軽蔑と嫌悪とで苦々しく歪めた表情を彼に手向けた。水無月は痛みと憤慨の中で小さく動いた。体を丸く縮め、苦痛に耐える兄の姿は、弟の目にはいとも清らかな胎児のように見えた。現代技術が明らかにしてしまった、暗闇と血の中に蠢く不気味な生き物ではなく、百合の花によって母親の元に導かれる御子のような……白蘭はそうした連想を厭えば厭うほど、兄から目を逸らせなくなっている自分に気が付き、密かに舌打ちした。
「ねぇ、白蘭様、もう僕には飽きてしまったの?ぼくにとって、貴方がぼく以外の人に気をとられてることほど不愉快なことはないのに?ねぇ、ぼくの花をもういらないとおっしゃるの?」
寝台の上から、さなぎのようにシーツで身を覆いながら身をもたげ、不満を唱えたのは芳乃であった。白蘭はようやく水無月から目を逸らし、ゆっくりと口の端を吊り上げた。
「まさか。お得意様の機嫌を損ねるつもりはないさ」
「だったら、早くそれを追い出してしまってよ、白蘭様。二人の世界には不要でしょう?ねぇ、僕だけだよ。貴方に心から服従していて、そして貴方を心から愛しているのは、僕一人だけ……」
白蘭は水無月の襟首を拾い上げ、兄の燃える頬と、そこにかかる竜胆色の髪、鋭い光を放つ薄い瞳を見遣った。対照に自分の持つのは、色のない頬、パステルブルーの髪、光はあるが冷え切った濃い瞳――でも、似ている。白蘭は密かに確信した。双子である自分たちは、やはり似ている。
「……分かってる」
血縁者を部屋の外に放り出し、白蘭は呟いた。部屋から吐き出された水無月は息も荒く立ち上がり、鍵のかかった扉を蹴破ろうと試みる。だが、開かないことは承知の通り。水無月は膝を崩した。心を焼かれるような思いがした。
「へぇ、旧図書館っすか」
クリスとノアは、生徒会室に忍び込もうとして窓から放り投げられた明音を発見し、共に帰路を歩んでいるところだった。明音は、額にバツ印に張った絆創膏が気になるらしく、しょっちゅう手で触れている。今の言葉もその動作と同時になされた。
「うん。明音君、知ってた?」
「一応。慎様の机の下にもぐりこんでた時にちらっと聞きました」
「えーと……何してるのって、今更聞いても無駄なんだよね?」
「もちろんっす」
明音は親指を立ててしっかりと頷き、そのまま顎を落として溜息を一つついた。
「どうかしたんですか?」
ノアが尋ねた。
「最近、慎様あまり元気ないんっすよ。顔色もよくないし。慎様らしくないです」
「そう?今日の朝礼の時は至って普通に見えたけどなぁ」
クリスは首をひねりながら言う。実際、クリスはまだ慎を正面から観察できる状態にはなかったのだが。思わず嘘をついてまで慎のことを口にしてしまったのは、早くその呪縛から完全に解き放たれたいと願っているせいか。せめて、見せかけだけでも繕おうとしたのだろうか。明音はストーカー行為によって仕入れた多くの情報という証拠を武器に口を大きく開いて反論しかけたが、ちょうど五時を知らせる鐘が鳴ったので、こうしてはいられないと慌てて走って去ってしまった。今日はホウセイ・チズミ――世間には隠された彼の父親――が出演する映画が放送されるのだ。呆れてその背中を見守るクリスに、ノアが袖を引っ張って示したのは、明音とすれ違いに来る水無月の姿だった。
「あっ、篠木君……じゃなかった、水無月君!」
ぼんやりと足元を見ながら近づいてきた水無月は、クリスの声にはっと顔を上げた。クリスが大きく手を振ると、水無月も笑顔で小さく返礼し、とことこと小走りになって林檎並木の道をこちらへ駆けてきた。
「やあ、今帰りかい?ずいぶんゆっくり図書館にいたんだね」
「うん。司書がいないから、本を借りるにも借りられなくて、全部その場で読むしかなかったんだ。そっちこそもう帰ったんじゃなかったの?」
「夕食前の散歩さ。寮にこもっているのは息がつまるから」
笑いながらそっと頬にあてた手に、クラスメートたちは気付いていない。なぜ頬を隠したのか。そこに灯る赤色が、夕日に紛れていると、信じることができない故に。
「ふーん。随分遠くまで歩いてきたね」
「昔から旧図書館まではるばる歩いていったりしてたから、動かないと物足りないんだ。じゃあ、僕はそろそろ帰るから。また明日ね、クリス、有瀬君」
「うん、じゃあね」
振り仰いだ道に重苦しい木陰を見出し、進まない足で引き返そうとした水無月に、ノアが何か呼びかけた。その言葉は水無月の耳にこのように届いた。「帰る場所なんて、あるんですか?」と。
「えっ……?」
水無月はノアを顧みた。ノアは不思議そうな顔でこちらを見つめ返している。
「今、何て?」
「いえ、あの、もしよければ、僕たちの寮に泊まりませんか、と。せっかく仲良くなったんですし、明日は祝日でお休みですから、いい機会ではないかと思って。食事はたいしたものは出せないのですが……」
だんだん照れて俯き加減になっていくノアの肩に、クリスが励ますように手を置いた。クリスの顔は名案を聞いた喜びと興奮とで輝いていた。
「それがいいよ。アトリエに人が泊まるなんて初めてだし。ねっ、来てよ、水無月君」
水無月は二人を見つめていた。渡りに船とはこのことだ。どうせ寮に帰っても、辛く惨めな思いをするに違いない。弟の蛮行に付き合わされるのはうんざりだし、助けてくれる友人も身近にいない。だったら、この温かな二人の住処にいる方がどんなに楽しいことだろう。一晩だけの現実逃避だ。もしかしたら、卑劣な行為に値するのかもしれない。それでも、水無月には、仮初の夢が必要だった。水無月は頷いた。
「うん」
今あるものが永遠だと信じ込んでいた。目の前にあるもの、幼い手に与えられた輝くばかりの美しいもの、その正体こそ永遠だと。
芳乃は変わってしまった。しかし、それは一年半の渡米がもたらしたものではない。はるか昔、四人がまだ同じ場所に立っていた時代に、変革はすでに起こっていたのだ。見えない場所で、少しずつ。それに気付いていたにも関わらず目を背けた自分、乱暴な言葉で現実を叩き割ろうとした自分に、遠い日々を偲ぶ資格はあるのだろうか。
「だって、ミナとハクは双子で、俺とお前は幼馴染だろ?しょうがねぇじゃん。こいつだけは変わりっこないんだから」
そう言って押しのけてしまった。怖くて、恐ろしくて。四人の中の、二人対二人の構図を壊したくなかった。芳乃の心が離れていくのが嫌だった。しょうがない、その一言は、小さな芽を摘み取るどころか、ますますその根が張る場所を掘り下げていったのだ。
「桃真って卑怯だよ。そうやってさ、いつも無視しようとするんだから――」
「落合、夕食だよ」
菜月の声で意識を取り戻した。落合はテーブルに突っ伏した頭をかかげ、かれこれ二十分近く無意識の状態でいたことに気付く。その間、菜月のいたずらにも、来夏の宿題をするようにとの勧告にもたゆたう思いを邪魔されず済んだのは、一種の奇跡といってもいいほどだ。いや、自分がそれと認識できなかっただけかもしれないが。立ち上がり、最初に来夏と顔を合わせた瞬間、落合の疑問に答えが出た。
「珍しいな、授業以外の時に居眠りなんて」
なるほどな、寝ていたと思われていたのか。落合は腕を伸ばし、首をぼきぼきと鳴らして、台本通りに振舞った。
「そりゃ、まあ酒本に散々しごかれた後だしな。あいつ小さいくせに鬼なんだから、全く」
「おい、小さいとか言ってるとまた……」
「あっ、落合、ごめん」
頭をめがけ、前方から弧を描いで飛んできた何かを、落合は反射的に避けた――とても頭に当たって無事で済みそうなものとは思えなかったので。足元に鈍い音をたてて落ちたそれを見れば、案の定、菜月の七つ道具、角が擦り減った広辞苑がページを開いて転がっていた。
「ごめん、落合。うっかり手が滑った」
「どこのどいつが手を滑らせて、こんなもん放り投げるか!」
走り出した落合の背を最早止めようともせず、来夏は呆れたまま、ともかく元気そうで何よりと思うのだった。二人のやんちゃぶりにはとても追いつける自信がないので、一人遅れて鍵を閉め、エレベーターで食堂へと向かった。3階に着いた途端、開いた入り口の前で待ち構えていたのは菜月だった。
「あれ?落合は?」
「はっ?一緒じゃなかったのか?」
「だって、階段の途中から追いかけてこないんだもん」
一つ上の階の廊下には、主がいなくなってしまった部屋の戸を、ためらいながら叩く音が響いている。
「やっぱり、いねぇよな……」
見上げた表札に、雲居芳乃の文字。
謙虚なノアは、先ほどの謙遜も必要がなかったほどのすばらしい晩餐をこしらえた。新しい料理を口にするごと、いちいち驚く水無月に、クリスはこっそり胸の中に満足感を抱いていた。実は、水無月を招待した理由の一つにこれがある。クリスはどうしても、ノアの料理の腕をもっと広めたかったのだ。
「美味しい」
トマト風味のスープをすすって微笑む水無月と、ほら見ろとばかりに視線を向けたクリスに、ノアは慎ましくも頬を赤らめていた。
そこから寝るまでの工程は何事もなく楽しく過ぎ、消灯時間ぎりぎりになって三人は、寝具の数が足らないという問題に突き当たった。今までクリスとノア以外に夢をもたらしたことのないこのアトリエには、ノアのベッドとクリスの布団しか置いていない。今から管理人に届けようにも、既に帰宅してしまっていること間違いないし、今日一日のことだと思ってじゃんけんで寝場所を決めることにした。勝った一人がベッドの上、負けた二人が布団を共有するということで。結果は客人があっさりと勝利を決め、水無月はやや遠慮しながらも、ノアのベッドに寝そべった。クリスとノアも布団の中に収まり、暗闇の中で和やかな憩いの時間が始まった。
「何だか久しぶりだな、こういうの。中等部以来かもしれない」
誰にも顔の見えない場所で、水無月は密かに懐かしさを噛み締めて呟いた。
「こういうのって?」
「いや、他の人の部屋に泊まったり、友達と一緒に寝たりってことさ。昔はね、友達とよく部屋の行き来もしたんだけど、今は忙しくてなかなかできなくって」
「そうなんだ。まあ、俺は一応罰則でここにいるからなぁ。あまりうろちょろできないや」
「罰則って、何かしたの?」
「ん?ん、まあ、ちょっとね……」
クリスは乾いた笑いでごまかした。床の上の友人の顔を窺おうと不思議そうにこちらに寝返りを打つ水無月。ノアが急いで話題を変えた。
「そういえば、クリス様、言い忘れてましたけど、今日お養父さんから林檎が届いたんです」
「へぇ、理事長から?」
クリスはあながち嘘でもない驚きを示して言った。クリスの理事長に対する印象は、日を隔てても一向に改善される様子はない。何事に対してもひたすら淡々として薄情で、カレーとシチューの見分け方も覚えようとせず、まして息子をバカ呼ばわりして、本人の同意なしに転校させようとするような養父だ。息子に林檎を送るなんて芸当を、一体どこで覚えたのだろうか。
「毒林檎じゃないだろうね?」
半分冗談、しかし実は半分本気でクリスは尋ねた。
「まさか。いくらお養父さんでもそれは……メロンに色を塗ってスイカと称して送ってきたことはありましたけど」
「はっ?」
クリスと水無月の声は見事に重なった。
「いえ、まあ、昔の話ですから。とにかく、明日の朝ごはんには林檎を出しますね。あと、おやつも林檎のケーキにしようかな……」
思い描いた紅く丸く肥えた果実に、水無月はふと思い出した。そういえば、林檎は白蘭の好物だった。その昔、まだ白蘭が幼くて純粋だった頃、彼は夢中でこの果実を頬張っていたっけ。母が林檎を切って出した時は、必ず弟に自分の分をやったものだ……いや、そうではない。物事の順序が反対だ。自分はあの果実が妙に怖かったのだ。アダムとイブが食べたというあの罪の果実を連想するから。だからいつも弟にやっていた。弟は、白蘭は無邪気さと純粋さを以って、あの果実を咀嚼してしまった。
「どうかした?」
急に黙り込んだ水無月に、クリスが気付いた。
「あっ、もしかして、林檎嫌い?」
「ううん。そうじゃないんだ……弟が林檎好きだったなって、思い出して」
「へぇ、弟がいるの?」
「そういえば、双子の弟さんがいましたよね。F組に」
「うん……」
なぜ迂闊なことを口走ってしまったのだろう。水無月は後悔した。それから逃れるためにここに来たはずだったのに。だが、知らないクリスは暢気なものだ。
「すごい、双子かぁ。やっぱり似てるの?」
「そうでもないよ。二卵性だし。性格も正反対だし」
でもやはり似ている。それを自分も白蘭も確信している。
「ふーん。でも、いいなぁ、兄弟って。そういえば、有瀬も一人っ子だよね?」
「えぇ、実の両親は僕が生まれてすぐに亡くなりましたから」
「そうだったんだ……あれ?有瀬、何か変な音しない?」
クリスが言った変な音とは、ピーという甲高い微かな音であった。どうやら階下から聞こえるように思われる。ちょうど、やかんの湯が沸騰した時のような音だ。ノアはおもむろに立ち上がると、稀に見る超特急で部屋を飛び出し、階段を駆け下りていった。寝る前に紅茶でも淹れるつもりでそのままだったに違いない。後を追おうとしたクリスは、ノアの枕につまずいてこけ、どしんと二階の床を震わせた。
「クリス様、大丈夫ですか?」
階下から異常を察して叫ぶノア。
「う、うん、何とかね……」
水無月はぽかんと開けた口に手をかざし、くすりと笑いを漏らした。こうした居心地のよい夢に誘惑されもつれる足を絡めとられていく点、そこがきっと、弟と自分の最大の共通点なのだ。
夜半に月が揺れている。
その晩、水無月が一睡もすることはなかった。そもそもできるはずがなかったのだ。弟のいないこの部屋で。夢は優しいが、それは眠りの中にあるものだ。真の眠りがほしければ、そこを抜け出し、現の中に立ち返らなければならない。自分が率先して戻らなければ。弟は永久に甘い海に浸っている。自分の痛みなど、この際何になろう。愛する弟に――弟以上に愛してしまったその人に――自分は尽くすのだ。せめてもの罪滅ぼしとして。ErosでなくAgapeを。
足元で、二人の友人は指を絡めあい、静かに胸を上下させている。水無月は二人の安眠を妨げぬよう、音を忍ばせて部屋を出た。既に昨夜となった時分に、クリスに借りた寝巻きは、とうに制服に着替えていた。静寂よりも自身の決意を重んじ、水無月は両手でアトリエの戸の背を押した。ばたんという音を聞いていたのは、ますます強く繋がりあったクリスとノアの指先だけであった。
「ねぇ、どこ行ってたの、ミナ?」
部屋に入った時、待ち受けていたのは暗闇だった。数歩進んだ時、待ち受けていたのは白く細く、しかし強く残酷な二つの腕だった。後ろから抱きすくめられ、水無月の抗う手も、罪の意識のうちに力が弱まっていく。
「ねぇ、ミナ、僕を置いてどこに行くつもりだったの?どこか遠くへ逃げるつもりだった?でも、帰ってきてくれたんだものね。許してあげなきゃ。その代わり、もう二度と逃げたりしないって誓ってね。ねぇ、ミナがいなくなったら僕はどうすればいいの?死んでしまうよ?ミナ、それでもいいの?ミナは僕がいなくなったら駄目だよね?だって僕のことを愛してるんだもん。僕もだよ。愛してあげる。だから、ねっ……」
耳元でささやかれた言葉は、林檎を夢中でかじっていた時代と同じ音色で。天頂で月が凍えたのは、結びついた二人の体が、寝台の上に倒れてから。
「ハク……!」
愛していた。だが、我が身の可愛さに拒絶してしまった。怖かった。抱きしめられたら、甘えられたら、自我を失ってしまいそうな気がして。そして、今は彼の腕の中で――
「もう絶対逃がしたりしねぇから」