第十一話 凍え死ぬ月・前編
第二部 黙示録
主要登場人物紹介
篠木水無月
クリスのクラスメート。
聖書を愛読し、図書館によく足を運んでいる。
双子の弟との関係に悩む。
篠木白蘭
2年F組。水無月の双子の弟。
兄と似ずに粗暴で冷酷な性格。
男娼紛いの行為を行い、代価にランの花を要求する。
雲居芳乃
生徒会副会長。2年F組。
落合の幼馴染で、双子とも昔から付き合いがある。
明るい上辺とは裏腹に、白蘭のお得意様であり、密かに策略をすすめる。
黙示録は永遠にぼくの膝の下にある。
無理やり信じ込んで毒の涙を飲み、ぼくは密室に横たわる。ショパンの「葬送」が重苦しく、且つ爽快な音色で鳴り響き、曇った窓の外で木々は葉を寄せ合う。葬列を描いた回転のぞき絵が回り出し、そしてぼくもまた、永遠に夢の中――
とある放課後。三宿学園高等部の屋上にて。生徒会長、千住慎が円卓の上に差し出したのは、一通の手紙であった。赤と青のストライプに縁取りされた封筒を、他の生徒会役員たちは意外そうな表情を以って見遣る。宛先を記した細く神経質そうな字に、彼ら全員見覚えがあった。
「芳乃が戻ってくる」
慎は素っ気なく言った。
「そっか。もうそういえばそんな時期だったね」
腕を組みながら颯は呟いた。旧友の帰国への喜びは、口元の微かな笑みに表して。陽が茘枝の肩の上で低く口笛を吹く。
「あのいけ好かねぇガキか。何年ぶりだっけか?」
「おいおい、雲居が向こうに行ったのはつい昨年の話だぞ」
「うん、高等部に上がった瞬間に留学しちゃったからね。あっちの学校でちゃんと単位はとってるみたいだけど」
懐古を胸に語らう三人の会話は、堅苦しい咳にさえぎられた。一同はやや呆気にとられて慎を見た。慎の顔は青白く、引き結んだ唇は咲き誇る前の白薔薇のつぼみのごとく固かった。炯々たる青く鋭い輝きの下には、灯りの下にこそ夜が忍び込むように隈が浮かび、その眉間の皺の険しさも普段とは異なる色を刻んで、いつもの自尊心と傲慢に溢れたいらつきは見当たらない。額や目元を覆う影の内には、言及するのさえ憚られるほどの、刺々しい疲労が鬱積されていた。慎は椅子に腰をおろし、封筒の中から手紙を取り出してひろげた。つづられた英文に、慎は遠い景色でも眺めやるように目を通した。
「旧図書館を開放したいそうだ」
「旧図書館……」
そのとき四人の頭に浮かんだのは、白亜の体育館の背後に、忘れ去れたようにぽつねんとそびえる円形の建造物だった。古い木造の建物で、学園が開設されたときから存在している。蔵書量は、おびただしいと表現される当校高等部のそれさえをもはるかに上回り、貝殻のように螺旋状に配置された本棚と、そこに並べられた本の背表紙を見ているだけで、眩暈がしてくるほどだという。学園の一種の名物でもあり、生徒、教師たちにも長年親しまれてきたのだが、二年前の春、旧図書館の管理権を持つ時の人、雲居芳乃が閉鎖を決めた時から、厳重に鍵がかけられている。施設の老朽化など全三十か条に至る最もらしい理由をあげてまで閉鎖したにもかかわらず、どうして今更芳乃はそれを開放したいと言い出すのだろうか。颯、茘枝、陽の三人は顔を見合わせた。互いの顔を探っても、答えは見つけられなかった。
「それで、慎はどうするつもり?」
颯に尋ねられ、やっと慎は笑った。余裕に満ちた不敵な笑みとも、自嘲の笑みともとれる笑い方だった。
「あいつのことだ。どうせ、許可するまで聞かねぇだろうが」
慎は細かい文字の上に許可を示す赤い判子を捺すと、颯に「送っとけ」と手渡して一人黙って屋上を去っていった。三人は再び顔を見合わせた。
「あいつは胃潰瘍でも起こしたのか?」
肌寒い曇り空の下で、茘枝は熱い紅茶を一口含んだ。紅茶の湯気は既に曇天の冬の白い冷気を取り込んでいて、飲む人の喉を湿らせながら一瞬だけ小さな針を刺していった。すぐに陽がその隣に腰を下ろし、テーブルの上の冷えたコーラの瓶を開ける。それを恋人の頬に宛がういたずらは、意味ありげな目線に気圧されて中止せざるを得なかった。
「起こしたっていうよりは、これから起こすかもって感じかな。とにかく色々大変なんだよ。当分は君たち二人もそっとしてあげることだね」
「別に何もしねぇけどよ。そっとしておくだけでいいのか?あいつ、そのうち絶対何かやらかすぜ?」
「……まあ、慎にはこれがあるから平気でしょ」
颯が掲げたのは、左手の薬指にきらめく水晶の指輪だった。
「……おい、いつまでいるつもりだ?」
「安心しろ。日が昇れば帰る」
「ずいぶん客に対して態度がでけぇじゃねぇか」
「俺にいたぶられて喜ぶ奴もいるからね。昨夜みたいのは久しぶりだ」
空疎な寝室の窓、白みいく空の上にカラスの影絵が浮かび上がり、遠い空を飛び行く仲間に向かってしわがれた声を上げた。寝台の上に慎と共に寝そべっていたその少年は、くるりと身をひるがえして床に降り立つと、足音もなく窓辺に寄り、ガラスの小さな扉を開け放った。夜明けの静寂に煮凝った生ぬるい部屋の空気が弾ける。カラスはその音に驚いて飛び立った。少年は残酷な満足を口元に浮かべ、縮んでいく黒点を見送った。
少年の肌は文字通り、透けるように白かった。パステルブルーの髪先が隠す首筋には細い血管の息づきが確かめられ、荒々しい行為の後でますますその色を深めていた。その目は幾重にも重ねられた濃い蒼で、海底の重たい水のようにまるで光を必要としない。唇は薄いがほんのりと色づいており、頬にも微かに朱が残っていた。首や手足は細いようだが薄い筋肉に覆われており、その腕が裸の胸に冷気を感じて急いで窓を閉めた勢いは、思わず慎が顔をしかめるほどであった。少年はそんな彼を振り返り、猫のようにしなやかに天蓋の内に潜り込むと、慎の痛む鼓膜の入り口を指先で慰めた。
「悪いな。偉大な生徒会長様への配慮がやや足りなかったみたいだ」
「それで?白蘭様は一体どうやって償うつもりだ?」
白蘭、そう呼ばれた少年は、慎の上に腹ばいになり、無邪気を装って小さく首を傾げた。そうして、しばらく考え込むふりをした後、白蘭はゆっくりと口の端を吊り上げ、慎の顎を取り、いぶかしむよう半開きになった唇に、自らの唇を強く押し当てた。反射的に突き出された手を胸元に引き寄せ、握りつぶすつもりかと思われるほど強く冷酷な力で抱きしめる。するとその手は拒むようにのけ反りながらも、白蘭が気まぐれに掌に突き立てる爪の動きにすら反応しようとはしなかった。白蘭は微かに両脚をずらして、慎の左の腿辺りを自分の腿で挟むようにした。皮膚と皮膚が本来の滑らかさをも忘れ去って吸い付いていく感覚は、いつも慎の気持ちを暗澹とさせる。白いシーツの上で行われたその行為に、贖罪の翳りは見えなかった。
「……これでよければ」
長く粗暴な謝罪の後で微かに息を切らす慎に、白蘭はいたずらっぽく微笑みかけた。返事の代わりに投げ出されたのは、白いランの花だった。
日も昇って朝七時半、遠くに鐘の音を聞きながら、雲居芳乃は懐かしの校舎を彼方に仰ぎ、朝露に濡れた芝生を、磨き上げた革靴で踏み分けていた。その歩みは葬列に並ぶ人のように厳かであり、その山吹色の眼もまた、喪の服す人のように慎ましく足元を向いていた。彼を弔うつもりはないのだけど――芳乃は荷の少ないのをいいことに、祈るように小さく両手を組んだ。それでも、せめてもの償いのために今は唱えるしかない。彼が敬い、信じ続けた神に。
「天にまします我らの父よ……」
その時、ふと芳乃の目に白く美しいものが映り込んだ。芳乃はさっと顔を上げた。白のアトリエ――確かそう呼ばれていた小さな家の前の植木鉢、咲き誇る白いランの花。足を止め、息を止めて見惚れていれば、アトリエの住人が姿を現す。金髪碧眼の、西洋人らしい顔立ちをした少年だ。少年は芳乃には気付かずに、アトリエの中に向かって話しかけた。
「じゃあ、ごめん、有瀬!俺、レポートの提出があるから先に行くね!」
少年は同居人の返答を聞いて笑い、扉を閉めた後で、たたずむ芳乃に気付いた。芳乃がぼんやりと見つめていると、少年は笑顔を浮かべて話しかけてきた。
「やあ、何か用?」
芳乃はきょとんとしていたが、相手の無邪気を悟ってすぐに微笑み返した。
「いや、お宅のランが見事だったから」
「ラン?……あぁ、この白い花ね。俺の友達が育てたんだ。花を育てるのが上手だから」
「へぇ、興味深いなぁ。ぼくも花とか動物とか、そういうのを育てるのが好きなんだ」
「そうなの?あっ、じゃあ、この花持っていってよ。有瀬も欲しい人がいたらあげてほしいって言ってたし」
ありがとうとの礼を聞き、白い植木鉢ごと持ち上げようとしたクリスを、芳乃は片手を上げて制した。
「もしよければ、手折ってもらえると嬉しいな」
クリスは彼の希望通りにランを手折って手渡した。芳乃はいとおしげに一輪のランの花を両手で持ち、親切な初見の同級生に再度礼を言った。そして、校舎に向かって駆けていくクリスとは反対に、今まで歩んできた道を逆に辿り始めた。門を出ずる時、寝ぼけ眼の守衛は不思議そうに芳乃の横顔を窺った。
芳乃は小高い丘の上に立っていた。学園からそう距離を置かずに隆起したその土地は、青々とした草に覆われながらも、打ち捨てられたような孤独に満ちていた。丘の頂きにはたった一つの墓石がある。冬の朝日に照らされ、鈍く光を返す墓石が。そこに刻まれた名は見えない、うず高く積み上げられた白いランの花と、墓前に立ち尽くす一人の人の影に覆われて。芳乃は携えてきたささやかな供え物を、軽すぎる雪山の上に加えると、自分を除くとたった一人の参拝者の足元にひざまずき、彼が空のままぶらさげている右手に接吻を落とした。
「白蘭様……」
白蘭は虚ろな目を墓石に向けたまま何も言わなかった。芳乃の存在を知っていても、わざわざ目を向けて確かめようとはしない。
「白蘭様……もう一度夢を…………ぼくはそのために戻ってきたんです」
ランの花弁をなびかせていた風がふとやむ。
「旧図書館って?」
朝のショートホームルームで野瀬先生が告げた連絡事項の一つに疑問を持ち、クリスは早速友人らに尋ねた。
「ああ、そういえば石崎は知らないよね。体育館の向こうに丸い建物があるでしょ?あれのこと」
「えっ、あれって図書館だったのか?」
来夏が物を知らないとは珍しいこともあるものだ。菜月の返答よりもそちらの方にクリスは驚いたが、すぐに弁解がなされる。
「うん。でも、二年前に閉鎖されちゃったんだよ。だから、高等部から入った人は誰も知らないって訳」
「何で閉鎖されたの?」
「分からない。颯は建物が古いからって言ってたけど」
「何せ六十年も前の建物ですからね」
ノアが補足する。
「でも、また古いまま開放されるんだろ?大丈夫なのかその建物?……おい、落合、生きてるか?」
腑に落ちなさそうに呟いた来夏は、緊急で仕上げなくてはならない球技大会のレポートを書く手を止め、半ば放心状態に陥っている落合に気付いて言った。落合は、来夏が目の前で手をかざしても認識できずにいたようだったが、菜月がついにクリスのスケッチブックで高等部を叩くとようやく意識を取り戻した。取り戻した意識の代償として、鼻を思いきり机に叩きつける羽目にはなったが。メガネが割れなかったのが唯一の救いか。
「酒本、てめぇ何しやがる?!」
メガネをかけなおしながら、落合はいつもの調子で言った。菜月はスケッチブックを既に手放して両腕を背中の裏にしまいこみ、自分はすっかり関係がないような顔をしてすっとぼけた。
「さあ?何のこと?」
「落合、本当に大丈夫?」
クリスが聞くと、菜月をしっかりと睨みつけながら、落合は数度頷いた。
「ああ、大丈夫だ。こいつに復讐はできるぐらいに大丈夫だ」
「おいおい、朝から物騒な真似はするなよ」
「そうそう。僕に構ってる暇があったら先にレポートを仕上げちゃえば?」
「うるせぇ!余計なお世話だ!」
来夏が止める間もなく恒例の鬼ごっこが開始されると、クリスとノアは教室の中央に寄り、衝突の危険を回避することに努めた。音と物とが騒がしく頭上すれすれを飛び交う中で、二人は慣れきったように次の授業の準備を始めた。
「そういえば」
と、ノア。
「旧図書館に行かれたらどうですか?クリス様が探している資料があるかもしれませんよ」
自分が探している資料――ノアだけが、クリスが捜し求めているものを、この学園に来た理由を知っている。ノアの何気ない助言は、その事実をクリスに改めて確認させた。旧図書館か。野瀬先生の先ほどの話によると、相当の量の本が収められているそうだが。行ってみる価値はあるかもしれない。
「うん、じゃあ今日の放課後行ってみようかな」
「そうですか……あの、僕もご一緒してよろしいですか?」
「もちろん!」
クリスは笑顔を弾けさせて言った。落合の猛攻と、ひらりひらりと身を交わす菜月、そしてそれを何とか鎮めようとしている来夏の苦労は露ほども知らず。
「こらー、落合、酒本、教室の中で走り回らない!ほら、一時間目は少人数なんだから早く移動しな…………っ!!」
「悪い、みちるちゃん!」
教室にやってきた鳥居先生は、教卓の前などに立っていたために、やはり衝突事故の被害者になった。倒れた先生に来夏が手を伸べたが、次の瞬間、来夏は、自分が介抱しようとしているのが人間ではなく、最早鬼としか言いようのない存在であることを悟り、無言で手を引っ込めた。般若の形相を浮かべた鳥居先生に、情けの二文字はなかった。
「ふっざけんな!!落合!!!」
「あっ、あった」
菜月の指示ということもあって、半信半疑のまま進んだ旧図書館への道であったが、体育館を過ぎ、薔薇の茂みに覆われた小道を抜けると、言われた通りの円形の建物は忽然と姿を現した。木材の壁はペンキ一滴まとわず、床は六本の柱で高く持ち上げられ、蓋のように被せられた六角形の黒い屋根は、太陽に照らされ、濡れたように輝いている。ガラス窓は等間隔ではめられており、内側からベールのカーテンで覆われていた。屋根の上の風見鶏は凍りつき、クリスとノアの方を見向きもしない。周囲にもその中にも人の子一人いる気配はなかった。本当に開放されているのだろうか。凪いだ風と不自然なほどの沈黙に打たれて、クリスとノアはほのかな不安のうちに顔を見合わせ、入り口を探し始めた。
入り口と思しき扉は、二人が進んできた場所から右斜めに顔を向けていた。一段一段に名画のタイルを敷いた階段を昇り、金のドアノブに手をかけた瞬間、押す間も引く間もなく扉は横にスライドした。クリスは声をあげて驚き、ノアがその様子にくすくすと笑った。自動ドアだなんて聞いていない。
「えっとー、失礼しまーす」
図書館にその言葉は不要かと思いつつ、誰かがいることを期待してクリスは言った。返事はない。入ってみると、まず目についたのは建物の豊麗な曲線に添って螺旋状に並べられた本棚の数で、見上げても見渡しても到底この目の中には収まりきらないという印象だ。噂どおり、想像以上の蔵書量だ。窓から差し込んでいくうちに冷やされた日の光が、ぎっしりと並んだ背表紙の金文字を乳白色に反射させ、滑らかに、蛇の鱗の上に光が移りゆくように、歩き回る人の視界に絶えず変化を与えた。それは、あまりにも寂しいオーロラであった。クリスとノアは唖然として館内を見回したが、その目の中でも、光は揺蕩い続けていた。
「すごいなぁ」
その時、ノアがクリスの袖を引っ張って注意を引いた。ノアが指差したものを見てみると、それは金属板に刻まれた館内の地図で、本の種別による配置を示したものであった。ノアは既に「美術」と刻まれた箇所に人差し指をあてていた。
「ここですよ、クリス様」
ノアはクリスがじっくり資料の選別をできるよう、わざと他の本棚に足を向けた。クリスは自分の身長を遥かに凌ぐ本棚の前に二十分近くも佇み、自分の手の届く範囲からは三冊、手の届かない範囲からは、倒れていた梯子を引っ張ってきて二冊選び、もう先にお目当ての本を見つけて楽しんでいるであろうノアを探した。館内の中央には長机と椅子が規則正しく配置され、そこが本を読むためのスペースになっているのであった。ノアはクリスのよく知らない生徒の真向かいに座っていた。そんなところに座らなくとも、いくらでもスペースはあるのに。訝りつつもクリスがノアの真横の椅子を引くと、ノアは気づいて活字の群れから顔を上げた。
「クリス様、見つかりました?」
「うん、一応ね」
クリスは、古いが頑丈そうで柔らかい椅子に腰を下ろし、それから相席の生徒を観察した。竜胆色の癖のない髪をした、肩幅の細い生徒である。その骨格は華奢ではあるが、ほのかに唇を開いた表情は大人びていて、本の中に吸い寄せられた薄い青色の瞳が大きく見張られれば見張られるほど、成長段階の少年の痛々しいまでのあどけなさを曝け出した。睫毛は神秘の蝶のように静かに瞬き、その下には分厚い絹で包んで押し隠した怜悧な光があった。ふと、クリスはこの生徒に見覚えがあることを思い出した。
「あっ、篠木君?」
そうだ、篠木水無月――話したことこそないが、クラスメートの一人ではないか。いつも教室の隅で本を読んでいる、物静かで温厚な少年だと記憶している。それを裏付けるよう、水無月は読書を中断させられても、何ら不快を表すこともなく、クリスとノアに穏やかに微笑みかけた。読んでいる分厚い本は新約聖書だ。
「どうも」
水無月はやわらかく挨拶した。
「へぇ、篠木君も来てたなんて。さすが読書家だね」
「ううん。僕はただ聖書を借りにきただけなんだ。ずっと大切にしていたものが、駄目になってしまったから。石崎君こそたくさん本を読むんだね」
「あっ、でも、これ全部画集なんだけど」
水無月は積み上げた五冊の一番上の本を手にとり、その重さにも屈せずぱらぱらとページを捲った。
「石崎君は画家だものね。こうやって勉強するんだ。すごいなぁ」
「いや、勉強っていうか、何て言うか……ね?」
クリスはノアに意味ありげに目配せした。ノアは笑う口元に素早く手を覆い被せた。
「そういえば、僕の父も石崎君の絵を仕事場に飾っていたよ。父が死んだ時に、美術館へ寄贈してしまったけど。何の絵だったかな?どこか高いところから庭園を見下ろしたみたいな絵だった。少し雰囲気がこの学園に似ていてね、僕も大好きだったよ。とても僕と同い年の子が描いたとは思えなかったな」
「ありがとう」
クリスはにこやかに言った。アニエスの時といい、面と向かって特技を褒められるのはやはり嬉しかった。まして、あまり言葉を発さない、この寡黙なクラスメートに褒められたとすれば。水無月は聖書を畳んで脇に置き、画集をもう一つ取った。
「この画集は前に見たことある気がするな。確か、この辺りに石崎君の絵が……違ったかな?」
「俺の絵はいいよ。自分で嫌っていうほど見てるから」
「そう?でも、僕が見たいんだ。君の絵には何度も見たくなるような、不思議な魅力がある気がする」
「はは、篠木君に言われると嬉しいよ」
「水無月でいいよ」
「じゃあ、俺もクリスで」
「あれ、これじゃなかったかな?」
水無月が指で示したページをのぞきこもうと身を伸ばした拍子、クリスは、左横から温泉の濁った水の色に影を落とすはずのノアが消えてしまったことに気付いた。イギリスの温泉街、バースの景色を描いたクリスの絵は、館内に満ちる乳白色の光のせいか、その温泉の水面の、微かな風に吹かれて動揺する様子ですら、再現しているように思われた。
「あれ、有瀬?」
水無月が絵の世界に没頭している中で、クリスはノアを呼んで立ち上がった。全く、すぐにどこかに行ってしまうんだから。だが、この時はすぐ傍の本棚の陰に隠れていただけで、ノアは新しい本を胸にすぐに笑顔をのぞかせた。赤い革の表紙の上は、白雪姫の金文字が確かめられた。
(2012.2.7改訂)