第十話 笛が鳴って鳴るまで・後編
「お前さ、やっぱ今年も出ない訳?」
「ああ。人前で恥をかくのには慣れていないからな」
十月の寒波でさえも、くるくると回る換気扇の隙間を潜り抜けられない。すりガラスの向こうにきらめく日差しだけが唯一の灯かり、薄暗い更衣室の湿気は、確かに少年たちの熱を帯びていた。
陽はロッカーの戸を開けると、その奥に丁寧に畳んでしまったテニスウェアを広げ、満足そうに口の端を吊り上げた。まるで武器を吟味する兵士のように。そんな彼の傍で、茘枝はベンチに腰を下ろし、至って優雅に長く艶やかな黒髪をもてあそんでいた。頭を少し後ろに傾げ、相棒の背中に重さを預けながら。
「高校最後の年ぐらい良いじゃねぇか。これからもう二度とこんな機会はねぇんだぞ」
「そうか、今年で最後なのか……」
「ったく、これだから温室育ちは。お高くとまって困ったもんだ」
「毎年そんな風に言われてきたんだな。長いようであっという間だった」
茘枝の微笑を含んだ呟きに、陽はふと着替え中の手を止めた。
「……お前さ、最後だからって感傷に浸るのはいいけど、その、なんだ、オレたちも最後みたいな言い方はやめてくれねぇか?」
「私をまだ愛しているということか?」
「どうしてそういう話になるんだよ?」
茘枝はすっと立ち上がって「さあ」と首を傾げた。そして何も纏っていない陽の肩に両手を置き、爪先を伸ばして愛しい唇の上にキスを一つ。
「お前なぁ……」
黒い前髪のカーテンからのぞいた光を手で覆う。こんな真似をしなくとも、藍の目はもう怖くはない。ただ少し気恥ずかしかっただけで。くすぐったい笑いが、音もなく重ね合わせた後の唇にこぼれ出る。
「頑張って」
***
次の試合への進出が決まった来夏と共に、クリスはテニスコートへ続く林檎林を引き返していた。昼まではまだ間があった。もしかしたらノアがいるかもしれないと思ったのと、誰か知っている人が試合をしているかもしれないと期待して、二人は近づきつつある人だかりの歓声をぼんやり聞いていた。また橋爪・花木ペアが奮闘しているのだろうか。クリスとノアを破った後も、順調に教え子たちを打ち負かしていると聞いたし。二人とはまた別の「知っている人」が「試合をしている」ことに気付いたのは、応援の声を耳から五センチも離れないところで聞くようになってからだった。たくさんの人の頭ごし、緑のフェンスの奥に見えるのは、よく見慣れた髪型だった。クリスは足をとめた。
「あっ、颯先輩だ」
「ん?」
来夏は高い背のおかげで、少し首を傾けるだけで試合の様子を確かめることができた。颯の姿を認めて「ああ」と呟き、興味津々に見守るクリスにちらっと目を落とす。
「仲いいのか?」
「えっ?あっ、まあ、一応ね。えっと、相手は……川崎先輩だな」
「決まってんだろ。こんな人が集まる試合はあの二人の試合しか有り得ねぇよ」
来夏は呆れたように肩をすくめると、何とか鼓膜を保守するため、クリスを突いて先に進むよう促した。クリスは名残惜しく思いつつ、足を引きずるようにして歩き出した。それでも、視線はしっかりとコートの中に預けていたが。長いボールの遣り取りの後、ようやく颯が一点を決め、観客がどっと沸いて拍手喝采した。
「さっすがだな、颯」
敵である陽も手を叩いて口笛を吹く。颯は額に張り付いた前髪を払って笑った。
「ありがと、陽。でも、いい加減本気を出してくれないと困るんだけどな」
「はっ!バカ言え。試合は楽しむもんだろうか」
「全く、この調子なんだから。茘枝から何か言ってよ」
何も言われないことをいいことに、コートの中で脚を組んでいた茘枝は、颯の要望にいたずらっぽく小首を傾げた。彼だけは、このジャージの群れの中で制服という孤高の装いに身を包んでいる。しばらく考えた末、茘枝はふと挑発的な視線を陽に向けた。
「何だよ?」
陽が聞く。
「こういうのはどうだ?おまえがもし颯との試合に負けたら、私はしばらく……そうだな、一週間ほどおまえと口を聞かない」
「はっ、てめぇの方がもたねぇ癖によく言うぜ!」
「まさか。私以外に陽と付き合える人がいるとでも?」
「そりゃ、五萬といるだろうよ。最悪、慎でも話し相手にするし」
「そこまで言い切ったからには見ものだな」
「……あのさ、二人の世界もいいけど、試合中はやめておいてほしいな。集中力が乱れるから。いい加減、陽と決着を付けておきたいんだよ」
「上等じゃねぇか」
ちょうど試合の模様が一変しようとしたところで、クリスは群集の中から押し出されてしまった。後は観客の歓声から様子を判断する他ない。クリスが少しつまらなそうな顔をしてみせると、来夏は苦笑しながら肩を叩いて慰めた。
「どうせ結果は見えてる。同点で終わるんだ。毎年そうだ」
二人は遠目にコートをのぞきながら、のんびりと歩き回り、他愛のない話題で絶えず口元をにぎわせ続けた。ようやく昼休みを知らせる鐘が鳴ったのは、二人が歩きつかれて木陰で涼んでいた頃で、沸き起こった興奮とはまた違う歓声に、クリスと来夏もつられて立ち上がった。やっとノアに会える――その時、クリスの胸に浮かび上がった喜びは、まるで自然な感情でありかのように立ち振る舞い、舞台を驚きの色で染めた。それは、長い苦痛の後の安らぎにも似ていた。
ノアがいつもの場所と指定した場所に、彼を含める皆は既に集まっていた。シートの上で、落合と菜月が待ちくたびれており、真央と明音は何やら論争を繰り広げている。クリスにはよく聞こえなかったが、来夏は真央の「来夏先輩の方がどうたら」の言葉を聞くなり笑顔を歪め、彼に鋭い一撃を食らわせた。
「アニエスさんは?」
潰れた真央に、来夏は非情にも返事をすることを強要した。
「あの、食事ですって……里見先生と……」
「沙織ちゃんと?いつの間に仲良くなったのか?」
「えぇ、なんか……そうみたいですね……」
落合の言葉に答えるまでが、真央の精一杯だった。
「ねぇ、早くしよう。お腹空いた」
提案しつつリスのように頬を膨らませている菜月には、最早誰も文句を言わなくなっていた。
「そうですね。では、適当に召し上がってくださいな」
クリスは靴を脱いでノアの隣に腰をおろした。ノアが膝を引いたのは、恐らくクリスが座れるように配慮したのだろう。卵焼きに手を伸ばしたクリスは、ふと見知らぬカラフルな物体がタッパーの中で震えているのに気がついた。
「あれ?ゼリーなんか作ってたっけ?」
ノアを仰いでクリスは尋ねた。灰色の魚を逃がすよう、ノアは視線をタッパーの上に寄越す。
「えぇ、でも上手く固まらなくて。さっき冷蔵庫から取り出してみたら、どうにかいってみたいですけど」
「大丈夫っすよ、先輩。めちゃくちゃうまいっす!」
明音が親指を突き上げて言い、ノアは礼代わりに少し微笑んだ。
「なるほどね。それで様子を見に帰ってたんだ」
「……えぇ」
地面についたクリスの手の上に、ノアはややためらう素振りを見せた後、ゆっくりと小指だけを重ねた。おかずを取り合う落合と菜月にも、来夏に抱きつく真央とそれを振り払っている来夏にも、片手にゼリー、片手に今日手に入れた慎の盗撮写真を持つ明音にも、誰にも知られていない、二人だけの大切な時間だ。
「じゃあ、午後は一緒に回ろうね」
「はい」
返した掌の中に、クリスはノアの小指を包み込む。
***
体育館は、校舎の西側、塔から南へ引いた直線上にあった。白亜の壁はつんとすまし、体内にとどろく躍動も歓声も興奮も、いつもはちらとも表に出さない。しかし、今日は開け放たれたガラス戸と窓とが、満ち溢れる熱気を恥じらいもなく吐き出していた。クリス、ノアの二人はギャラリーから、試合の様子を眺めることにした。落合が菜月にパスを渡した。落合の赤い髪は、動き回る数々の頭の中でよく目立つ目印になった。菜月はボールを受け取ろうとし、頭上数十センチのところで何者かに奪われた。生徒会長だ。クリスは苦々しげに唇をかみ締めただけだった。フラッシュバックしそうになった光景は密やかな動揺の内に脳の奥に押し留めた。それでも画像の一つが押し込めた指の間をすり抜けて瞼の裏を横切る。ノアの頬にキスしながら不敵に笑む慎の姿が、華麗にシュートを決めたばかりの現実の慎の姿と重なった。
「相変わらず大人気ない奴だ。子どもから物を取り上げるなんて」
クリスは騒いでいた生徒たちがさっと割れて、道を作ったのに気づかなかった。隣に訪れた声を見遣れば、颯、茘枝、陽の三人が、クリスとノアの横にそろって並んでいた。クリスは冷や汗をかいた。一刻も早くこの場を退散しなければ。しかし、くるりと半回転したクリスの体育着の襟を、茘枝の右手はしっかりと掴んでいた。運動能力が皆無というのは学校中に知れ渡った彼のプロフィールの一つであったが、バイオリンのおかげか手と腕の力は強かった。とりあえず、クリスを引き戻すほどには十分だった。
「別に遠慮しなくて結構だ、天才少年画家君。君は私たちの間では特別扱いだから」
「は、はあ……」
逆らうのはやめにした。丁度、落合が慎から一点取り返したところだったし。
「茘枝、子どもとは聞き捨てならないな。仮にも僕の王子様だよ?」
涼しい顔で颯。彼の手には桜の枝ならぬ菜の花が握られており、先ほどから花弁をむしっては捨て、むしっては捨てている。茘枝はその動きを確かめて小さく笑ったが、結局何も言わなかった。
「へぇ、慎もなかなかやるんだな。憎たらしいぜ」
「ほら、やはりあいつを話し相手にすることにならなくて良かっただろう?」
「……分かった、認めるよ」
「ということは、川崎先輩が勝ったんですか?」
ノアがクリスの奥から身を乗り出して尋ねた。あの賭けを知っているということは、ノアもあの試合を見ていたのだろうか。それとも毎年恒例のことなのか。陽は肩を浮かして笑った。
「そうじゃねぇ。今年は残念ながら負けちまった。が、この四年間の総計で引き分けだ。なっ、颯?」
颯は何も答えない。菜の花の茎を折る作業だけが続いている。
「ダメだ、こりゃ。完全に王子様に魅入っちまったみてぇだ」
笛が鳴る。また慎が一点決めた。慎の一躍ごとに観衆は盛り上がり、限界のない興奮のボルテージは積み上げられていく。彼らと反対の心の動きを見せるのは、落合たちのチームだ。落合が忌々しそうに悪態をつくのが見えた。菜月は黙っていたが、憎憎しげな目で、立ちはだかる生徒会長の顔をじっと睨みつけていた。
「どうした、限界か?剣道部部長」
菜月は無言で背をひるがえした。せめてもの復讐に、隙あるごとに慎に抱きつこうと企んでいる明音を放り投げて。額をぬぐう落合の元へ歩みながら、首の後ろ、ちょうど黒髪で覆えなくなった辺りに突き刺さる二つのラベンダー色の針を、汗の上に感じていた。その顔を見上げる資格はないと思った。でも――不安に駆られてわずかに浮いた視界を、黄色い花弁が覆った。
「ナツはもっと強くならなきゃ」
遠い唇が膝を折ってささやく。
「みんなー、試合再開よー!英語の授業が終わったときみたいにもっと元気を出しなさい!男の子はやっぱり元気でなきゃ!」
険悪なムードをその容貌だけで吹き飛ばしたジャクソン先生が、「もう疲れた、どうせ歳なのよ」と自己嫌悪に陥っている鳥居先生を突き飛ばし、取り上げた笛をやかましいほど鳴らして叫んだ。何人かは耳を塞いだが、菜月は投げ渡されたボールを両手でしっかりと受け取り、すぐにそれを落合の方へと回した。落合は慌てて耳にあてがっていた手を離し、ラインの外へ駆けていく。
菜月が慎の隣に立った直後、笛が鳴った。落合が投げたボールは、菜月と慎の頭上を飛び越え、いくら慎相手でも勝負は妥協しない主義の明音の手に渡った。菜月はすばやく動いた。身を屈めて慎の腕の下を潜り抜け、ドリブル中の明音と視線を交わし、ゴールポストの袖に飛び込む。
「菜月先輩!」
明音がボールを寄越した。視界の端に慎の姿がちらつく。菜月は前に出た。ボールは落合を中継点に、菜月の胸元まで届けられる。安堵する間もない。ゴールを振り見れば、やはりそこには慎がたちはだかっていた。不敵な笑みが挑発している。やれるものならやってみろと。
やってやるさ。
菜月は大きく跳躍した。窓から差し込む午後の光に、視界はあの菜の花色に染まる――もう二度と大切なものを失わないために、自分はもっと強くならなければならない。
「Cチーム、2点追加ぁ!」
笛の代わりに響いたのは、ジャクソン先生の声だった。着地した菜月は、明音と落合に抱きとめられ、彼らの腕を振りほどくのに一苦労した。ようやく解放されて見てみると、慎は相変わらず笑っており、そして、頭上の人は楽しげに微笑んでいた。 ひらりと落ちてきたものを手に取ってみれば、それは花弁をなくした菜の花の茎であった。
***
「今日はありがとう。お昼までご馳走になっちゃったし」
「もうお帰りになるのですか?」
「うん、暇じゃないからね。午前さぼった分を取り返さないと……君も僕を見習ってくれていいんだよ?」
「はは、さすがにコーヒーに砂糖を五つも入れるのは真似できませんねぇ」
もてあそんでいた爪楊枝を割り箸の空袋におさめ、うなぎで膨れた腹をさすると、理事長は大儀そうに立ち上がった。仕事をしなきゃと口では言いながら、やはり校長室でのひと時が名残惜しいらしく、カップに残っていた甘ったるいコーヒーを飲み干し、校庭のよく見える窓に歩み寄る。校長が食器を片しながら見守る間にも、理事長はぼんやりと景色を眺めている。鋭い黒い目は、窓の前の小道を行きかう生徒の横顔を追い、誰が通ろうともその動きは少しも乱れない。例え、観察する対象が息子であろうとも。
「……ノアは元気そうだな」
「そうですか?」
校長は冷えたコーヒーカップをかき回しながら聞く。
「うん、今ちょうど目の前を通ったからね。ルームメートと楽しそうに話しながら歩いてたよ。まあ、あの子はいつだって楽しそうにしてるんだけどね。でも、あの石崎君って子は、なかなかいい子みたいだし、ノアの友達としてはよさそうだ。僕は、異存はないけどね。少なくとも、親としては」
「おこがましくも、僕の意見を述べさせていただければ……」
理事長は校長の方へと振り返った。校長はカップを置き、手に胸をあてて軽くこほんとせきを払う。
「有瀬ノア君にとって、石崎・エーリアル・クリス君はこの上ない友達だと思うのですがねぇ」
ため息が漏れる。肩が下がる。理事長はふいにネクタイピンの水晶がひどく恨めしくなった。
「まあ、僕もほぼ同意だよ。余計なものさえなかったらなぁ……」
再び目を戻しても、クリスとノアの姿は再度のぞめるはずもなく。
***
日暮れと同時に、球技大会は終わりを告げた。クリスとノアは一回戦敗退という非常に残念な結果に終わったものの、サッカーでは来夏と真央のチームは優勝し、バスケットボールでも、菜月、落合、明音のチームは十一チーム中三位と健闘した。テニスはどうだったかというと、シングルスの優勝は颯、ダブルスの優勝は花木・橋爪の黄金ペアの手に渡った。
「いくらなんでも教師が優勝は有り得ないよな」
友人らと共にのんびりと帰り道を歩みながら、クリスは零した。もう大分遅い時刻だった。あの後、来夏たちの優勝祝いに巻き込まれたり、野瀬先生の演説があったり、シャンパンならぬコーラをぶちまけられそうになったりと、色々あったから。そろそろ月も本格的に登頂を始めるはずだ。
「しょうがねぇよ。毎年お決まりだしさ。相手が悪かったな、エーリアル」
「でも、楽しかったよ。実際俺たちはあまり球技はしなかったけど……知り合いがやってるのを見るだけでもいいもんだね」
「来夏先輩、かっこよかったですよ」
「うるさい。どうせ俺は同じ言葉をお前に返せないんだよ」
憧れの先輩からの冷たい返事に、真央は子犬のようにしゅんと肩を落とす。明音の慰めは例によって例のごとく拒絶された。
「うるさい!どうせ生徒会長の写真取り巻くってご満悦のくせに!」
これが真央の言い分だった。
「あの、クリス様……」
「ん?」
袖を引っ張られ、クリスは振り返った。ノアは試合後の菜月がすっかり空にしてくれたバスケットを両手に抱え、何だか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「あの、僕、夕食の準備のために早く帰りたいのですが」
「あー、いいよ。無理しなくて。ほら、今日はもう遅いからさ……」
ノアは小さく首を振った。
「今日のお弁当で残り物全部使い果たしちゃったんです。ぼく、先に帰りますから」
誰が引き止めるのも待たず、ノアは小さく会釈すると、小走りでアトリエの方へと駆け出した。クリスはしばらく呆気にとられていたが、肩に置かれた明音の手に我に返った。光が戻ったクリスの目の色は悲しげだった。
「クリス先輩……」
「……俺もいってくるよ。有瀬だけにまかせっきりにしてられないから」
今度は待たなくとも、誰も止めようとはしなかった。クリスは走った。夜風がクリスの金髪をさらおうと試み、頬を摩擦して熱く燃やしていく。まるで何かが起きるのを阻止しようとしているみたいだった。何かが、そう、例えばノアがいなくなってしまうようなことが。ノアは小走りだったというのに、クリスが全速力で走ってもその背はなかなか見当たらなかった。試合で流したより多くの汗が、首筋を、頬を、背中を、耳の後ろを伝っていった。呼吸する音がひどく耳障りだった。体中の血管を、血がかつてないほどのスピードで巡り巡っている。地面に叩きつけられて足の裏はじんじんと痛み、ふくらはぎが震えた。ようやくアトリエが見えてくる。窓に灯はない。開いたままの門とドアだけが、唯一誰かが侵入した証だ。
「有瀬!」
息を切らすのも忘れ、クリスは真っ暗な部屋の中に呼びかけた。返事はない。悪寒に皮膚と目を凍らせ、靴を放り捨てて部屋中の電気をつけて回った。浴室、洗面所、リビング、キッチン、庭、階段、寝室――とうとうどこにも見当たらなかった。クリスは玄関の前に立ち、呆然とした。何が自分からノアを奪っていたのか?自分は知らぬ間にノアを傷つけていたのか?あんな大勢の中にノアを無理やり引き込んだから?もう彼には限界がきていたのだろうか?疑問はやまず、吐き出されては絶望の海を漂っていく。なぜ?全ての疑問から読み取れたのは、その一語のみであった。
思考を紡ぎだす糸車を止めたのは、右肩に課せられた頭の重みだった。クリスはやっとの思いで息を継いだ。「ごめんなさい」小さな呟きが耳元に訪れる。
「真似してみたかったんです、クリス様の。この間クリス様がしてくださってみたいに、僕もクリス様を助けてみたかったんです。絶望から救い出してみたかったんです。だって、多分……そういうのが、友達だから」
鳴らないはずの鐘が鳴った。
第一部終