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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
序章 知らせは誰が元へ
20/82

第十話 笛が鳴って鳴るまで・前編

 学園内が一層活気に満ちるその日の朝、風間校長はれたてのコーヒーをすすりながら、二学期に入ってから初めての「十分以上一つの場所に留まってもよい時間」というものをたしなんでいた。普段は酷使されている脚も、今はソファの上で丁寧に組まれている。今日は自分の代わりに、生徒たちが駆けずり回る日だ。部屋の隅のカレンダー、モネの絵の下の、赤いペンで丸く囲んだ27の数字を見つめ、校長は生徒たちの努力と結束にぼんやりと思いを馳せた。

「お入りください」

きっちり間隔のそろった三回のノックに、校長はすばやく立ち上がった。来客の正体は分かっている。細めた目を覆う眼鏡のレンズには、予想した通りの人物が映り込んだ。薄い灰色のスーツを着込んだ、長身の男性は、スーツと同じ色の眉を寄せた。

「おや、座ったままでよかったのに。どうせ僕だってこと分かってたんでしょ?」

「お久しぶりです、理事長」

校長は律儀に頭を下げた。理事長はやれやれと首を振った。

「こんな時だけ真面目にやってもね、肝心な時に仕事をしてなきゃ意味がないんだよ。生徒会から三百回目ぐらいの苦情が来てるんだから。文化祭の予算書にサインがもらえないってね」

「だから、こういう時こそ真面目にやるものなんですよ」

校長と理事長はやっと目を合わせて微笑みあい、理事長は校長のカップと向かい側のソファに、校長は新しいコーヒーをしつらえに向かった。主のいなくなった部屋を眺め回し、理事長は前にここに訪れた時から、部屋の様子が何一つ変わっていないことを確かめた。ただ、カレンダーのページだけ――進み変わり行くものだけ――が確かな変革を遂げている。いや、もしかして、机の上の書類の山は量を増したかな?首を傾げて思案する理事長に、墨汁のように濃いコーヒーと角砂糖の入った容器を差し出し、校長は再び自分の席に着いて尋ねた。

「それで、どういう風の吹き回しなんです?」

「どんな風もこんな風もないさ。大体風が吹いたらお前が困るだろう」

「……それはどういう意味ですか?」

「冗談だよ。だって、今日は球技大会じゃないか。生徒たちの元気な様子を見ておくのもいいと思って。この歳になると孫がいないのがさびしくてね。どうせ僕は、ノアの子供を見る前にくたばるだろうし」

「個人的な見解を申し上げると、貴方は世紀末でも生き残っていそうな気もしますがね」

「……それは一体どういう意味?」

「いいえ、冗談です」


***

 私立三宿学園高等部の球技大会は、バスケットボール、テニス、サッカーの三つの競技で成り立っている。体育祭から文化祭までのささやかな小休憩の間に行われるこの大会は、両者に劣らずおおきな盛り上がりを見せるのが恒例だ。今年も例外ではなく、秋晴れの空には花火が上がり、普段の授業開始時間よりはるかに早い時間にも、生徒たちは体育着を着込んで校庭に集まっている。クリスとノアは、お互いを見失わないようできるかぎり密着して歩き、細い腕で人の波をかきわけて、やっとの思いでクラスメートの元へと辿りついた。ちょうど、体育委員の落合が野瀬先生に小突かれながら生徒の人数を数えているところであった。来夏が二人に気付いた。

「よっ、遅かったな」

「うん、有瀬が弁当に凝っててさ」

クリスが言うと、ノアはバスケットを少し持ち上げて微笑む。来夏の肘元で菜月が目を輝かせた。

「お菓子は?」

「えぇ、クッキーも焼いてきました」

「やったー」

「……それで、お前ら、試合何時だっけ?」

菜月を引っ込ませながらの来夏の問いに、クリスはポケットに折りたたんでしまったプリントを取り出し、テニスのダブルスの欄を見て、自分とノアの名を探した。元々、クリスは来夏に手伝ってもらうつもりでダブルスを選んだのだが、来夏は急遽サッカーに移動せざるを得なくなり(理由については可愛い後輩のお願いとでも言っておこう)、空白となった席にノアが舞い込んだ訳だ。ノアの日ごろの体育の授業を見ていれば、勝ちを望めないことは分かっていたが、それでも精一杯頑張るのがノアへの礼儀だとクリスは思っていた。また、変に謙遜もしないノアの態度が、クリスには潔く、愛おしく思われた。

「えっと、九時からだからすぐなんだよね。まあ、酒本と落合の試合は午後だから見られそうだけど、関本のは、うーん、途中からになっちゃうかな」

「それまでに五点は決めておかないとな」

「うん、楽しみにしてるよ」

「はい、おまえら開会式中は静粛に」

明るい笑い声をあげているクリスと来夏に、ようやく仕事から解放された落合がもたれかかってきた。落合の体重を受けてそのまま沈み込むクリスに、ノアが慌てて肩を貸す。

「よっ、お疲れ」

身軽によけた来夏が言った。

「お疲れも何もないぜ。ちくしょう、曜子ちゃんの奴、落ち込んでると思って心配したら、次の日にはぴんぴんしてるんだもんな」

「先生は強いからな」

落合は理解しがたいとでも言いたげにため息を吐き、来夏はクリスの肩からその腕を預かった。クリスは二人につられて野瀬先生を見遣った。先生は体育科の教師として、きびきびと指示を出している。クリスに平手打ちを食らわせ、うなだれて教室を出た時の面影はない。ふと打たれた方の頬に手を充てられ、驚いて仰いだ先に、ノアの慰めるような笑みがあった。クリスも口元を緩めた。この場に紛れて、退屈な菜月は、バスケットの中からサンドウィッチを盗み出して頬張っていた。


***

 コーヒーがほどよく冷めた頃合を見計らって、理事長は角砂糖をいっきに三個摘み、一つずつカップの中に落として黒い波紋を立てた。

「体に悪いですよ」

校長がすぐに見咎めた。

「体に悪いも何もないよ。人間どうせ最後は死ぬんだから」

「そういう自暴自棄な考えは心に悪いですよ」

更に二つ加えた理事長に、校長は見るもおぞましいといった表情で露骨に顔を背けた。理事長はスプーンでカップをかき回しながら、渇いた声で笑った。

「説教くさくなったな。君も歳をとったもんだね」

「老いぼれになっても、心だけは成長のし甲斐はありますね」

「成長、ね……」

コーヒーの漆黒に、溶け残った砂糖の白が浮かび上がる。


「では、一同、それぞれの競技場へ向かうように」

鐘の音に促され、生徒たちは動作を始めた。ノアを求めて振り返ったクリスは、戸惑う間もなく人の群れに押し流された。「有瀬!」呼んだ声もむなしくざわめきに掻き消され、あのワインレッドの髪はどこにも見当たらない。誰かに手を掴まれて辛うじてその場に踏みとどまった。騒乱がおさまった後、クリスを救った人物はついに正体を露にした。

「颯先輩!」

「やあ」

颯は片手を微かに上げてにこやかに挨拶した。クリスは安堵した。人が散らかってしまった校庭に、彼以外の知り合いの姿は見当たらない。

「あ、ありがとうございます」

「たいしたことじゃないよ。流されてく君の姿が見えたからね。誰かを探してたみたいだし」

「あっ、そうだ。有瀬をさがしてたんです。見ませんでした?」

「有瀬ノア?見なかったけど」

困って肩を竦めたクリスは、自分の手首を握ったままの颯の手に気付いた。失礼にならないように解こうとすれば、今度は耳元の髪をくしけずられ、クリスは思わずその場に硬直する。ラベンダー色の目が二つのサファイアを覗き込んできた。

「は、颯先輩?」

「いつの間に有瀬ノアとそんな親しくなったのかい?」

「えぇ。だって、一緒に暮らしてるんですもん。まあ、確かに最初はよく分からないところもあったけど……」

クリスは颯にノアとの関係について相談したことを思い出し、気恥ずかしさに頬をほんのりと薄桃色に染めた。あれは愚の骨頂、否、そうまではいかなくとも、哄笑にふさわしい愚行であったとは思う。ノアを避け、彼を必要以上に嫌悪したこと。世の嘲笑いを免れても、ノアへの罪悪感は掻き消せない。

「ねっ?僕の言った通りだっただろ?人間関係なんて付き合っているうちにどうともなるんだよ」

「は、はい……」

ささやきかけられた耳が熱い。颯の手は、クリスの手首から肩に伸びていた。うつむいても視界の端に颯の眼鏡の光が映りこむ。その奥にあるラベンダー色の瞳でさえ―― 突如、クリスは顔を上げて、飛び上がった。幻想のように遠くに聞こえていた足音が、友人の持ち物であったことが発覚したからだ。慌てて颯から離れたが、菜月の疑うような視線は免れない。しかし、それより数倍強い視線にあてられた颯は、自らの潔白への絶大な信頼を軸に、少しの動揺もなく平然と立っている。気まずいのはクリスだけか。

「あ、あの、酒本……」

「やあ、ナツ、どうしたの?」

颯は菜月の元に歩み寄り、肩をそっと抱いて甘やかすように尋ねる。だが、菜月もその手には乗らず、ますます睥睨へいげいのミントブルーを重ねるだけだった。

「別に。どうもしないけど」

「だったらそんな怖い顔しなくてもいいじゃないか。ナツはバスケだろ?最初の試合は審判じゃないの?」

「……そんなこと分かってる」

「ほら、一緒に体育館に行こう。僕はテニスだけど、まだ余裕があるから。ナツがちゃんと審判を務めてられるか見ててあげるよ」

「別に、そんなこと……」

クリスが呆然と見送るうちに、二人の背中は遠ざかっていった。颯のことはよく分からない。生徒会長ほどでないにしても、人を惑わせるようなことばかりする。どうしてあんなに甘美にささやきかける必要があるのだろう。颯もまた、クリスを翻弄させようとしているのだろうか。何のために?慎と同じ生徒会役員だからか?

 腕時計の文字盤が、クリスを青ざめさせ、足を突き動かした。


 息を切らしながら駆けてきたクリスは、試合開始五分前のコートに、ノアが一人佇たたずんでいるのを見た。クリスがフェンスを潜り、コートに足を踏み入れて笑いかけると、ノアもゆっくりとだが微笑をつくろった。審判から遅いとの叱責とラケットを受け取り、ネット越しに相手を見遣ったクリスは、再度ノアに向けた笑顔を変えることも忘れて固まった。これは一体全体どういうことだ。

「はは……ま、まあ、そういうルールですからねぇ……石崎君は転校してきたばかりだから知るはずありませんが……」

相手の一人が言った。何と、お気に入りの黒いジャージを着込んだ橋爪先生ではないか。その隣にいるのは、胸元にPicassoと刺繍ししゅうされた真っ赤なジャージの花木先生だ。二人とも手にラケットを握っている。握ってはいるが、まさか。監督のためにいるのだと思った。間違っても、教師と生徒が対戦するはずがない――しかし、結局この球技大会は色々と間違っていたし、それらは修正もされなかった。クリスよりこの学園に長く入る生徒たちは、皆平然と現実を受け止め、馴れきったように楽しげに騒いでいる。橋爪先生の苦笑だけが新参者の味方だ。

「すまないな、石崎、有瀬。ひいきの生徒だからといって手加減する訳にはいかない」

花木先生は剥き出しの闘志をサングラスに黒光りさせていた。口元を緩ませたために出来た皺も、残念ながらクリスには闘犬の威嚇の表情にしか見えない。否、「いいえ」などと笑って返すノアの方がおかしいのだ。

「花木先生、ひいきとか言っちゃいけませんよ。一応、教師ですから」

「おっと、そうでしたね。あはは、この歳になるとどうも思わず本音が零れてくるようになって。しかし、負けん気では橋爪先生も一緒でしょうな?」

「えぇ、もちろんです。コンビを組んで早八年――負けたことなんて一度もありませんでしたし、これからもそうでしょう。例え……」

「例え、相手が元気な若者だったとしても、ですな」

二人は声を重ねて笑った。異様な光景だ。学校一気弱そうな先生と、学校一猛々しい先生が、そこに利害も弱肉強食の定理もなく、励ましあい、共闘しようとしているのだから。

「では、これより、石崎、有瀬ペア対橋爪、花木ペアの試合を始めます」

劇の進行役として、神経質そうな体育委員の審判が宣言した。歓声が二人を盛り上げ、微笑むノアは二人の引き立て役、目が点になっているクリスはまるで蚊帳の外。


「いや、勝ちましたね」

「うむ、見事な勝利でしたな」

「……まあ、負けたよね」

「頑張ったから立派な負けですよ、クリス様」

 試合は熟練された技術とコンビネーションの圧勝で終わった。こうまでも鮮やかに叩きのめされてくると、いっそ清々しい気分になってくるものだ。ノアの言った「頑張った」というのもきっと、さわやかな気分の一因にあるのだろうが。少なくとも、そう信じていたい。

「橋爪先生、お疲れ様です」

薄紫色のジャージを着た桜木先生の声が飛ぶと、周囲から低い口笛と拍手が沸き起こった。慎ましい老カップルは照れたように顔を伏せてしまったが、クリスも拍手にだけは加わっておいた。この二人の間柄は早くも周囲の知れるところになっていた。

 テニスコートを出たところで、クリスはノアを見失ったことを知った。かくれんぼでもしているつもりかもしれないな、クリスは足をグラウンドに向けながらぼんやりと考えた。この群集の中でたった一人の顔を見分けるのは不可能だ。しかし、だからといって放っておくにもいかない。ノアはクリスの昼食を預かっているし、それに……

「クリス様!」

高揚した塊をやっとの思いで潜り抜けたところで声がした。クリスは急いで背後に目を返したが、ノアの小さな体は紛れてしまってよく見えない。

「有瀬?」

「クリス様、あの、僕、十二時半に、いつもの場所に、いますから……!」

「どうして?一緒に関本の試合を見に行こうよ」

「十二時半までですよ、クリス様!そこで一度休憩なんです!」

「知ってるってば!ねぇ、どこにいるの?有瀬!」

返事の代わりに鐘が鳴った。クリスは狐につままれたような気分で混雑と空疎のはざまに立ち尽くしていたが、やがて諦め、テニスコートを守るように密生した林檎の木の合間を進むことにした。今初めて分かった訳ではない。やっぱり変な奴だ。一緒に行動すればいいものを。一体どうして……


***

 「おや、もうノアの試合が終わってしまったじゃない。どうして教えてくれないの?」

「見にいくつもりがあったんですか。安心しました」

例のコーヒーにシュークリームを添えてもよいものか迷いながらも、校長はそっと銀の皿を差し出した。理事長は礼の代わりに大きくうなずき、校長の言葉には片手を振って不満の意を表した。

「あのねぇ、僕だって一応父親なんだよ。血は繋がっていないとしても、ノアは僕の大切な息子さ」

「大切なお子さんなら、もっと頻繁に様子を見にいらしたらどうですか?」

「そうもいかないでしょう。僕には君と違って忙しいんだから。仕事をしなきゃ、僕もノアも食べていけないし」

わざわざ棚まで取りにいったフォークを待たず、手づかみでお菓子を頂く理事長を見て、眉をひそめる校長。

「……子供に孤独を克服することを強いるのは、貴方が考えている以上に酷なものです」

「執着されるよりはましだと思うけど。別に、育児放棄してる訳じゃないよ」


 クリスが試合の状況がよく見える地点に着いた瞬間、前半終了のホイッスルが鳴った。何とも間の悪い。グラウンドの真ん中で、来夏とサッカー部部長の大河内が手を打ち合うのが見えた。どうやら同じチームらしい。相手チームとの点数差さえ間違いなく計算できれば、二人の活躍ぶりは見なくともよく分かった。来夏はきちんと約束を果たしていた。

「おーい、関本!」

 クリスが大きく腕を振ると、来夏はすぐに気付いて寄ってきた。その後ろを、まるで鶏の後を追うひよこのように、秋元真央がぴょこぴょこと駆けてくる。彼も来夏と同じ色のゼッケンを着けていた。

「よう。試合はどうだった?」

「見事な惨敗。頑張ったからよしってことになったよ。事実を言えば、頑張らざるを得なかっただけなんだけどね。橋爪先生と花木先生の黄金ペアだもん」

来夏は快活な笑声をたてた。

「そりゃ、きついな。まっ、互いにお疲れ様ってことだ。ところで有瀬はどうした?」

「それが分からないんだよ。一緒に見に行こうって誘ったのに、十二時半にいつもの場所って言ったきり、どこか行っちゃったみたいで」

昔、来夏にノアの扱いのことで責められたことを思い出しながら、クリスは不自然でないように付け足した。来夏は眉をひそめたが、クリスが本当に戸惑っていることを見取って、肩を竦めただけで済ませた。

 来夏の肩から真央がぴょこっと顔を出した。相変わらず人懐っこい少年で、来夏に寄り掛かりながら、爪先だけ地上に残したまま飛び跳ねている。

「石崎先輩、見てました?来夏先輩の活躍」

「バーカ、石崎は今来たばかりだ」

「惜しかったですね。来夏先輩、三連続でシュート決めたんですよ」

クリスは感嘆の声を漏らして来夏を褒め、見たかったなと素直に述べた。

「大丈夫ですよ。ねっ、先輩?後半も決めてくれますよね、三連続シュート」

「おまえがまともにパスを寄越せばの話だな」

「えぇー、ひどいですよー。僕はただのマネージャーなのに、結局は同じサッカー部だからって無理やりサッカーに回されただけなんですよ。まあ、来夏先輩と一緒だからいいんですけどねっ!」

「暑いからくっつくな……アニエスさんに誤解されるだろうが」

「えっ、アニエスさんも来てるの?」

クリスが聞くと、真央は小さくこくんとうべなった。彼の麗しき従姉いとこは、どうやらこの土埃と熱狂のどこかにいるらしい。来夏の腰にしがみついたままで、真央はこう補足した。

「僕が球技大会に出るって言ったら、母さんが卒倒しそうになって。結局色々揉めたんですけど、アニエス姉さんが見てるならいいってことになったんです。僕の家族って本当に過保護で困ります。僕、この学校に来てから自分でもびっくりするぐらい調子がいいし、ちゃんとそう言ってるのに。これじゃあ、いつまで経っても姉さんが帰国できません」

「おまえが健康になりゃいいんだろ、バカ」

来夏は真央を小突いた。来夏の口調は乱暴だったが、満更思いやりがこもっていない訳でもなかった。クリスはそれを悟っていたからこそ、涙目で何やら訴える真央を眺めても、ほほえましい気持ちになったのだった。


 七分の休憩を経て、後半戦が始まった。クリスはアニエスとの合流に成功し、彼女の隣で観戦していたが、残念なことに、フランス人ピアニストはあまり良い観戦客ではなかった。真央の方向へボールが向かうたびに悲鳴にも似た興奮の声を挙げた。周囲の人々も次第に落ち着かなくなってきたので、クリスは、真央の方へボールが行くかどうかを監視し、警告するという義務を負う羽目になった。

「ほら!見て!マオ、ボール、蹴るわ!」

 アニエスが叫んだのは、後半三分、両チームの点数差が五点に引き離されて間もない頃だった。クリスがちょうど目を休めていた時でもある。怯えて跳ね上がった幾つもの肩に胸中謝罪しつつ、クリスは、痛いほど肩を叩くアニエスの手に促され、猛スピードで選手たちの間を行きかうサッカーボールの行く先を見遣った。なるほど。確かに真央の元へボールが飛んでいったところだった。しかし、真央はどう動くだろう。

 届いたボールを足先で持て余しながら、真央はボールの処理にすっかり困り果てていた。一体どうすればいいのだろう。たちまち室井、武田のハイエナ二匹に挟まれた。味方だと頼もしく思えるぎらつく目にも、今は恐怖と焦燥しか感じない。真央は口の中がからからに乾いていくのを感じた。

「おい、真央!」

「秋元!」

 同時に二つの声が聞こえた。来夏と大河内が、真央の斜め前を駆けている。二人は一瞬はっとしたように視線を合わせたが、その時、真央の右足は既にボールに触れていた。本日二度目の転倒を代償に決まったパスは、距離とタイミングの僅差で来夏が受けた。

「いけ!先輩!」

 歓声が真央の言葉を掻き消した。室井と武田が地団駄を踏む傍で、真央はいつまでも元気一杯にぴょんぴょんと飛び跳ねていた。



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