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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
序章 知らせは誰が元へ
19/82

第九話 この密室を愛せよ

クリス様へ

ごめんなさい。今夜も諸事情により遅くなります。

鍋の中に夕食を作っておきましたので、温めて食べてください。

僕のことは待たずに……


 たった一枚、テーブルの上に残されたメモ用紙、そこに書かれたことを全て読み終わらぬうちに、クリスは手の中でくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。灯かりもともしていない部屋だ。目で追っていたものが、本当に文字であったかも分からない。クリスはソファの上に身を投げ出し、震える肺を懸命になだめた。暗闇の中、薬指をなぞる環の上の水晶だけが、唯一の光を放っている。クリスはその光にすがるよう、右手で左の指を強く抱きしめた。もう隠し切ることはできなかった。今日の放課後、図書館で慎とノアのキスを目撃してしまったとき、クリスは悟ったのだ。こうしている間にも心の器に注ぎ込まれ、水面を波立たせる思いの正体を。折りたたんで重ねた膝をわずかにずらす。目をつぶれば息苦しい確信は高まる。揺れる水面に映り込む青い瞳と不敵な笑み――自分は、自分は会長に……

「おや、誰もいないの?鍵も開けっ放しなのに?」

クリスは飛び上がった。突然訪れた明るさの中に浮かび上がったのは、薄い灰色のスーツにピンクのネクタイを締めた理事長だ。堂々と不法(恐らく)侵入を犯しておきながら「あれ、いたの?」と住人に向かって呑気に呟くあたりは、さすが学園のトップのことはある。ソファから転げ落ちたクリスは、ちかちかする視界で尋ねた。

「いつ来たんですか?!」

「いつって、今さっきですよ。ずっとここで待ち伏せしてるはずないでしょ。電気もついてないから誰もいないかと思っちゃった」

「あの、普通、他人の家に誰もいないと思ったときって入ってきますか?」

「いいんじゃないの。だってここは君たちの家ではないでしょう。それに、僕は三宿学園の理事長だし」

「そういう問題なんですか……?」

 理事長は勧められもしないまま席につき、靴下の穴が急に気になったらしく、屈んでつま先を確かめようとして、床に捨てられたメモ用紙を拾った。クリスは急に表情を強張らせて立ち上がった。再びソファに身を沈め、太股の付け根に肘をつき、両手を組み合わせる。メモのしわが伸ばされていくかすかな音を聞きながら、クリスは無感動を装って言った。

「ノア君なら今日もいませんよ」

「知ってる。メモにも書いてあるし、そもそも僕の指示だから」

「はい?」

理事長はメモを丸めて床に置き戻し、そのまま浮かせた腰を利用して、台所へ鍋の中身を覗きに向かった。小さく歓声をあげた理事長は、部屋の主にも許可も求めず鍋を火にかけた。結局クリスは、出来上がるまで夕食が何か分からずじまいということだ。

「あの、理事長の指示ってどういうことですか?」

クリスは戻った理事長の隣に座って訊いた。

「言葉通りの意味。僕がノアに今日は帰らないよう指示したの。今日だけじゃないよ。今日からずっと。今日からね、ノアは生徒会長と同棲させることにしたから……あっ、同棲とか言っちゃった」

「今日から、会長と……?」

「そう。会長の家庭教師に一緒に勉強を見てもらうことにしたから。別にいいよね?転校する訳じゃないし。学校でも顔は合わせられるし」

 クリスは黙り込んだ。どのように答えればよいのか分からなかった。クリスにとって、ノアは白鈴学園での生活の一部であり、学園とノアは決して切り離せないものだった。自分の帰る場所にはノアがいなくてはならなかった。そう信じ込んでいたのに。今日あの瞬間から世界が変わってしまった。ノアはフライパン片手に微笑んでいるノアではなくなった。慎に寄り添い、その接吻を受ける姿こそが、今のクリスの中の有瀬ノアだ。そして、クリスは、苦々しい思いをなくして、彼のことを思い返せなくなっていた――俺は有瀬と一緒にいなくて済むことにどこかでほっとしている?

「よし、それならオーケー。万事快調だ」

クリスの沈黙をどう受け取ったのか、理事長は満足そうに頷いた。オーケーかもしれない。でも、万事快調な訳がなかった。反駁は心の中のみで行った。ちょうど料理が温まり、クリスと理事長は口数少なく共に食事を済ませると、これまた嫌に素っ気無く別れたのであった。


 一人の寝室は冷え冷えとして暗かった。電気をつけてみても、ただ物の形が鮮明になっただけで、クリスがそこから感じ取るものは変わらない。慣れなければ。この孤独な部屋こそ、これからクリスが帰る場所となったのだから。

 布団を敷くのがひどく億劫に感じられ、クリスは最早彼のものとなったベッドに横たわった。ベッドは新しい主人に対してやけによそよそしかった。ばねの跳躍は硬く、シーツは凍てついていた。だが、クリスは誰の冷遇にも構っていられるような状態ではなかった。付けっぱなしの電球の下、うつ伏せになれば浮かんでくるのは慎のこと、ノアのことだ。まずは生徒会長――慎への想いは確定的だった。水晶が閃き、夢は変わった。振りほどこうともがいていた手は慎のそれと結ばれ、調整された視線の先にあったものを見上げる瞳は、恍惚こうこつとして霞がかっていた。クリスは石灰岩の床に背伸びして立った。素足の元で白いローブの裾が風にはためく。唇が触れ合う直前、ふとその風に痛めつけられる者の存在に気付いて、アーチの窓の外を見遣る。すると、ノアが窓辺でこちらを振り仰いでいる。

「有瀬!」

 思わず声に出して叫び、クリスははっと口を覆った。もう大丈夫なのだ。落ち行くノアを救うのは自分の役目ではない。生徒会長の役目だ。あの水晶の夜もそうだった。ノアが最終的に縋ったのは、自分ではなく会長だった。

ふいに訳が分からなくなった。この胸を占めるのは何だ?慎への想いか?ノアへの嫉妬か?この二つのことは認識している。だが、同時に対極するものも存在する。即ち、慎への嫉妬と、ノアへの執着も。

 感情の波がせめぎ合い、クリスは溺れる。わらをつかむ思いで伸ばした手に、何かが触れた。クリスは目を開けた。枕の下に挟まっているものがある。なんだろう?引っ張り出してみると、それはスケッチブックであった。出席番号も名前も書いていない。ノアが美術の授業で使っているものとは違う。一瞬罪悪感に駆られたが、メモを投げ捨てたときの思いでクリスは紐を解き、目を見開いた。何の変哲もないスケッチブックは、鉛筆画集の傑作だった。そこにはあらゆるものが描かれていた。学園の至る場所の風景、花や鳥、それからクリスの知人数人の顔や姿も。菜月は机に突っ伏していた。来夏は真央の頭をくしゃくしゃにして笑っている。颯はファイルを抱えて何事か思案しており、茘枝と陽はくつろいだ表情で背中を寄せ合っている。明音などは、会長と思しき人の後を、カメラを持って追っていた。思わず笑いが漏れて次のページ、クリスはぴたりと静止した。自分だった。収められた人物画では、唯一頭から足先までがきっちり描かれている。絵の中の自分は、手を繋いだ誰かに向かって笑顔を浮かべていた。その誰かは分からない。どうやら手しか入り切らなかったようだ。隣のページは真っ白だった。

 クリスはベッドを飛び降りると、鞄の中を漁ってすぐさま自分のスケッチブックを取り出した。必死でページを捲った。ここに来て色々なものを描いた。人の絵だってもちろん描いた。だが――

「裏切ったのは、そっちだ……」

クリスは膝を落とした。絶望したように天井を仰ぎ、搾り出した言葉は保身のため。

 天才少年画家の手を滑り落ちた経歴、そこに有瀬ノアの絵はなかった。


***

「はっ?!有瀬と別居?」

「うん、まあね……」

 朝の教室によく響く声を上げたのは落合だった。力なく頷いたクリスに代わって落合の口をふさいだのは来夏だったが、彼の方も府に落ちない顔をしていた。来夏の拘束を逃れると、落合は再び問い詰めた。

「どうして?理事長は説得したんじゃなかったのか?」

「そのつもりだったんだけど、どうもそうじゃなかったみたい。生徒会長の家庭教師に一緒に見てもらうことにしたって」

「生徒会長?」

「そりゃ大した出世だね」

菜月は頬杖をつき、半ば興味なさそうに、半ば皮肉っぽく言った。来夏は視線で菜月をとがめ、それからクリスの方を仰いだ。

「石崎……」

「まあ、そういうことだから」

クリスは腕を伸ばして言った。そういえば、ストレッチのリラックス効果について、誰かが保健の授業で発表していたな。

「まあ、そういうことだから、勉強会はもう用なしってこと。俺たちだけでやってもいいけど、どうせ皆忙しいから集まらなさそうだし。有瀬のことは、優秀な家庭教師が見てくれるみたいだし。はは、俺も追い抜かれないように勉強しなくちゃなあ。とにかく、一日だけだったけど、ありがと、関本」

「あんた本当にそれでいいと思ってるの?!」

叫び声と、荷物を取り落とすどさっという鈍い音に、一同の視線が教卓前に集まった。野瀬先生だった。いつも教室に来る時刻より、今朝は十分も早い。クリスを見つめる野瀬先生の目は揺れていた。裏切られた者の目だと、クリスはぼんやり考えた。まるで、昨夜の自分のような。

「野瀬先生……」

先生はせきを切ったように話し始めた。

「あんた本当にそれでいいと思ってるの?あんた、自分でどうにかするって、理事長に言ったんじゃなかったの?そんな……そんな簡単に友達のこと投げ出して良いと思ってる訳?!有瀬のこと、大切な友達だって言ったんでしょ?!有瀬と一緒にいたいんでしょ?!」

「曜子ちゃん、ちょっと落ち着けって……!」

「黙ってて!違うの?!石崎、あんたそう言ったんでしょ?!」

制止しようとした落合の手を払いのけ、クリスの肩を揺さぶる野瀬先生。答えを聞くためか、感極まったのか、先生の動きが止まった隙に、クリスは小さく答えた。

「……えぇ、言いましたよ」

「だったら何で?!」

先生のシャツを掴む手に再び力がこもる。クリスは色のない瞳を俯け、微かに笑いさえして答えた。

「だって、俺がやらなくても、他の人がやってくれるじゃないですか……」

クリスは自由になった。やっと解放されたとの安堵が頬の辺りに見られ、あとは深い影が彼の顔を覆っていた。来夏、菜月、落合の三人が思わず憐憫れんびんを握った瞬間であった。だが、同時にそれは、野瀬先生の手から一切の憐憫が離れた瞬間でもあった。

「野瀬先生!」

一昨日、図書館でクリスが慎を拒んだ時とは違う、もっと重く、もっと厚い音が、教室中に響き渡った。手榴弾の煙のような音の波に触れられるや否や、数少ない早朝登校組も口を閉ざし、教卓の方に身を反した。クリスは左斜め後方の机に肘をついて、辛うじて立っていた。赤く染まった右の頬は、金の絹糸から剥き出しになっている。野瀬先生は疾駆した後のように荒く息を切らしていた。

「石崎、あんたが校長に訴えようが、理事長に訴えようが、私は今あんたを叩いたこと絶対後悔しないから。それだけは言っとくわ。これで最後の対面になるかもしれないしね……」

「おい、曜子ちゃん!」

「ごめんね、落合。悪い、関本、私の代わりに朝の連絡よろしく。酒本も日直なんだから、ちゃんと日誌を取りにくるのよ」

「野瀬先生……」

「うん、ごめんね」

先生は足早に教室の前を横切っていき、廊下を出るなり耐え切れなくなったように駆け出した。まるで霞の向こうの出来事でも見るみたいに、頬の痛みも感じぬまま、野瀬先生の背を見送っていたクリスであったが、ふと灰色の目線に気付いて振り返った。ただ微笑しているだけのノアがいた。


「あら、野瀬先生もついにやっちゃったわね」

 養護教諭の里見先生の反応は意外と薄かった。かたく絞った濡れタオルに氷を詰め込みながら、世間話でもするような口ぶりで言う。懸念しているのは、クリスの付き添い(という名目のさぼり)でやって来た、落合の方だ。

「あの、沙織ちゃん、『やっちゃったわね』ってね……曜子ちゃん、ほんとに大丈夫なのか?」

「平気だと思うわよ。野瀬先生は強い女性だから。はい、石崎君、これで冷やしとくといいわよ」

「ありがとうございます」

タオルの冷たさが肌に染みる。熱をもった箇所に急に冷たいものなど押し当てたからだ。それは、クリスがノアの孤独な心に押し付けた友情に似ていたのかもしれない。だとすれば、逃れたくなるのも頷ける。薬指の上で水晶が鈍く光る。

「いや、強い女性とかそういうことじゃなくてさ……」

「落合君、いくら心配しても現状は変わらないのよ。もっと気持ちを前向きに持ちなさい。その方が救われるわ」

「はっ?何だよ、それ?」

「最近の私のお気に入りって奴よ。あと、鳥居先生ならこうも付け足すかな。今、英語の授業に出た方が、将来的にもっと救われるわよって」

「うわっ……」

「そういうこと。鳥居先生が心配なさってるから、早く君は行きなさい」

追い出された落合と入れ替わりに、今度は校長捜索隊の面々がなだれこんできた。クリスが、今のような心理状態でなかったら、「朝からご苦労様です」の一言も言えただろう。里見先生は胸元のクロスを弄んでいたのをやめると、深いため息を吐いて、ようやく真面目な表情を作った。

「石崎君、奥のソファに腰掛けて少し休んでなさい。こっちは少し落ち着かないと思うから」

クリスが素直に従うと、里見先生は、部屋と称した区画をカーテンで覆って、周囲の騒がしさからクリスを謝絶してくれた。クリスは疲れきったように背もたれに体重を預けた。心はまだ麻痺していた。胸の中に散らばった破片をどうにか拾い上げようとしても、拾ったものを収容する籠がない。また取り落とすしか術がない。持ったままでは、その切っ先がてのひらを切り裂くから。そして破片はますます細かく……煩わしくて、気だるくて、とてもやり切れそうにない。気がつくと水晶ばかり見つめている。自分が真に欲しているものは果たしてどちらの夢なのだろう。舞台は同じ塔の上。人物は二択。甘い陶酔をもたらす慎か、それともホウセンカを差し出すノアか。

 これで何度目の気がつくと、だろう。だが、指輪の輝きに目を眩ませられる前に、クリスは急いで鞄へと目を移した。湿ったタオルを投げ出した手。その手で今度はノアのスケッチブックを取り出す。唯一信じられること。絵の中では確かに笑っていた自分――


***

 張り詰めた水面に筆先が落ちる。広がる波紋が、夕日が既に染め上げた水槽に赤を重ねていく。

 つい十分ほど前までクリスの周りに集い、何を描いているのかと興味津々で見つめてきた美術部員たちも、今は落合の指示の下に帰宅していた。この静まり返った美術室をクリスと共有するのは、オレンジジュースの缶のみだ。ふとそのしまったままのプルタブの上で目を休めるとき、無言で缶を置いていった落合の背中が浮かぶ。硬くなった指先で触れてみれば、缶の表面は冷たく汗ばんでいた。

 クリスは絵筆を水の中でかき回しながら、息を吐いた。とうとう最後の仕上げという段階まできている。あと少しだ。あと少しすれば、確かな結論がでるはずだ。信じて筆先を絞っていたその矢先だった。美術室の扉が開く音に、花木先生かもしれないと振り返ったクリスは、思わず筆を取り落とした。

 靴音だけが彼の侵入してくる音だった。クリスは彼から目を離せないまま、描きかけの絵を隠すように立ちあがり、それ以降は何も出来ずにいた。しばらく向かい合って佇む中、急に腰を引き寄せられた。彼の胸元に手をつき、やはり悲しいまでに翻弄されながら、クリスは彼の目を見上げ、そして溺れた。

「生徒会長……」

慎は感じただろうか。クリスの吐息が含んだ、湿気と温度を。クリスの頬を包み込んだ右手の指で。慎は何一つ言わなかった。嘘甘い誘惑の言葉も、クリスの名前さえも。ただキスだけを施そうとした。それはまるで、最後の仕上げを無感動の内にやり遂げようとする人のように。

「駄目ですよ、千住様」

二人の影は、ふいにやってきた新しい影の中に紛れた。そして、その持ち主の一言で、少し爪先立ちになれば唇が触れ合いそうな距離を保って、二人は永久に隔絶されてしまった。

クリスが顔を向けたとき、ノアは、負傷した箇所を押さえるように左腕の肘の辺りを抱え、美術室の扉の縁に寄りかかっていた。笑ってはいなかった。顎を引き、唇をきつく結び、眉を袂でぐっと締めて、非難がましい眼差しで二人の僅かな間を睨み付けている。慎が仰ぐと、ノアはようやく口元を緩めた。

「絵を描いている人の邪魔をなさるなんて。貴方らしくもありませんね」

「……そうだったかもな」

慎は声をたてて笑うと、初めて会った晩のようにクリスの髪をくしゃくしゃに撫で、ノアの元へと歩んでいった。行かないでと止めることは出来なかったし、そんなことをする気はまるで起きなかった。自分の元へ帰ってくる慎を見つめ、差し出された手にまとわりつくノアは、ひたすらに無邪気だったから。

「邪魔したな、石崎」

振り返りもせずに振った慎の手に、水晶の指輪が一瞬煌いた。だが、その輝きは夢の如き儚さで消えてしまった。クリスの胸に永久に留まり続ける光なら、慎に寄り添いながらこちらに翻った、物悲しいノアの灰色の光のみだ。それだけが、唯一、クリスに落ちた絵筆を拾わせた。


***

 白のアトリエの戸は開いていた。無用心だな、とノアは思った。よほど慌てて家を飛び出したのだろうか。いずれにしても自分の知ったことではないのだ。かつての同居人が、自分に対してどのような感情を抱いているか、痛いほど知っていた。自分がそうするように仕向けたのだから。門から玄関へ続く階段の花々を見渡す。ここの住人は今朝、花に水を遣っていないのだろう。どの花房も小さく萎んで見えた。哀れだがこれでいいのだ。このままどんどん枯れてしまえばいい。花弁が地面に散り、人の足に踏み潰されて醜く茶ける頃には、自分も同情を忘れていよう。そうだ。養父の口癖ではないが、これで「万事快調」なはずだ。なのに、なぜだ。満足しきっていない自分がいるのは一体なぜなのだ。

「お邪魔します」

誰もいないことは承知で言った。皮肉のつもりだ。歩む廊下に、覗いた居間に、風呂場に、洗面所に、一々彼の姿を見出した。台所には、鍋の中に冷たくなった昨夜の夕食の残りが置いてあった。そうだ、彼は何と言ったっけ。「有瀬には料理の才能があるよ」だったっけ?「もっと色んな人に食べてもらうべきだ」とも……思い出しながら、どうしようもなくてノアは笑った。自分は憐れまれたのだ。今、散々愚弄し、侮辱して相手に、かつては。三語ほど音を発して、そこでやめた。自嘲の笑いにはきりがない。

 聞き慣れた階段の軋む音で、ノアは自分が二階への道を進んでいることに気付いた。そうだ、そもそも目的は二階にあったのだった。夕日の差した寝室は、ノアにとっては見慣れぬものだった。もしかして、それだけではなく、もうこの部屋が自分のことを忘れてしまったのかもしれない。もうこの部屋はあの人だけのものなのかもしれない。ノアはベッドに目を落とし、これまた見慣れぬ形に歪んだシーツを見遣った。ノアは端を引っ張ってシーツを正し、枕を捲ってその冷たさに手を離した。泣き出したいような、叫びたいような、狂おしい衝動に駆られ、思わず数歩後ずさる。茜色の海に膝を崩し、凍えた手を抱きしめた。見開いた灰色は揺れていた。

「……ス様……」

唇が勝手に名前を継ぐ。不揃いな呼吸を何度か繰り返した後、ベッドに手をかけ、ふらつく足で再度立ち上がり、傾いだ枕とその斜線上に覗くものに、先ほどの衝撃が錯覚によるものではないこと確かめる。

「……リス様……」

枕を持ち上げる。そこに広がるのは、山鳩色と虹色のコントラスト。

「……クリス様……」

「……有瀬!」

扉を蹴り飛ばす音と、階段を駆け上る音に、感激に浸した身を翻す間もなく、ノアはクリスの嗚咽おえつを耳の横で聞いていた。肩に巻きついているのは、クリスの腕だった。肩を湿らしているのは、クリスの涙であった。そして全身を包むこの熱も、優しさも、友情も、紛れもなくクリスのものであった。

「クリス様……!」

「有瀬のバカ!」

「えっ……?」

戸惑うノアを腕の中でひっくり返し、ぐしゃぐしゃになった泣き顔を手の甲で拭うと、クリスは濡れた手をノアの肩において、数度しゃくり上げてから言った。

「友達を置いて、勝手に一人でどこかに行くなよ!」

威勢は結局それ以上続かなかった。クリスはノアを抱きしめなおし、一層高まる声を懸命に押し殺して泣いた。ノアはしばらく呆然としていた。友達――今まで聞き流していた言葉が、急に胸に引っかかり、どのような孤独の濁流を持ってしても、とどめずにはいられなかった。クリスの手をとったノアは、その手に最早何もはまっていないことに気がついた。クリスは捨てたのだ。友達のために、美しい水晶の煌きを。

 二人は互いに肩を濡らしあっていた。日が暮れて、枕の下にあった絵が見えなくなるまで。クリスの笑顔が描かれたその隣のページに、絵の中の彼が手を繋いでいる人物が描かれていた。それは、クリスに対して微笑み返す、ノアの姿であった。


***

「お疲れ、慎」

「嫌味のつもりか?」

「あのね、慎、結果が上手くいこうといかまいと、お疲れっていう挨拶は使えるんだよ」

「……そうかもな」

 天蓋に覆われたベッドの上には、横たわる人影が望めるのみであった。颯は、その傍らに肩膝をたてて座り込み、マグカップに注いだ煎茶の香を嗜んでいる。とある明け方のことだ。

「だけどさ、失敗した割には随分楽しそうだよね」

「バカ言え。楽しんでる余裕なんてあるか。これから益々《ますます》忙しくなるってのに」

「でも、クリスのこと、気に入ったんでしょ?」

「いじめがいがあるのは認める。だが、今までのはほんのお遊びだ。これからは本格的に叩きのめさなきゃならなくなる。仲良くなりすぎると、後悔することになるぞ」

「わかってるさ。大丈夫だよ。僕の前には煩わしいことが山ほどあるから、親交を深める暇なんてないさ。どこかの誰かさんのせいで」

「生意気言うようになったじゃねぇか」

「茘枝と陽の影響だよ、きっと」

「フン、いずれにしたって気に喰わねぇのは変わらないな」

「おいおい、召集かけておいて悪口でお出迎えかよ」

部屋の扉が開いた。颯がレンズを被せていない目なくとも分かる。茘枝と陽だ。二人はベッドの元に歩み寄ると、互いにあまり距離をとらないようにして止まった。口元が緩んで見えるのは、同僚の失敗を聞いたせいなのか。

「おはよう、陽、茘枝」

颯は暢気に言う。

「ごきげんよう、颯。ところで、私は馬鹿とパジャマパーティをしにきたつもりはないのだが」

茘枝は冷たい侮蔑の目をベッドに寄せた。

「だってさ、慎」

「安心しろ。俺とてそんな気はねぇ。ただ、ちょっと、貴様らの注意を喚起しようと思ってな」

「『注意を喚起する、なんて日本語を使えるなら安心した』だろ、茘枝?」

「ああ。それともう一つ……」

「『馬鹿にも喚起できる注意があるのは初めて知ったが』」

「その通りだ」

「やれやれ、相変わらず手厳しいな」

陽は肩を竦めつつ笑っていた。言わんとしたことを読み抜かれても、相手が彼である限り、茘枝はまるで驚く様子もない。すっかり馴染みのことなのであろう。颯は、二人の関係に「羨ましいよ」との感想と微笑を零し、コーヒーをまた含んでから、ベールの中に尋ねる。

「それで、その注意って何?」

東に向いた大窓から朝日が差し込み、絨毯の上できらきらと舞い踊ってみせた。踊り子の数人は、その舞台では飽きたらず、少年たちの水晶の指輪に飛び移ったが、それでも少年たちは一向に興味を持たない。観客の趣向を見抜いてか、舞台は早々と幕を閉じ、元の夜明けの暗闇と沈黙が、寝室の外を覆った。そして、一同は解散した。



「でも、しょうがないよね。その部屋が一番居心地のいいことを知ったら、扉を閉ざすしかないもの。その時やっと、新しい世界は完成するんだ。おめでとう、石崎・エーリアル・クリス。ようこそ、君と僕だけの密室へ」

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