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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
序章 知らせは誰が元へ
18/82

第八話 アトリエの帝王・後編

 胸に感じるのは、目に見る有明の月とは全く対照的な、人肌の温もりであった。まだ夜明けの冷たさから目を離せないまま、慎は、ひんやりとしたシーツに肩まで浸し、小さな子供のようにすがってくるノアの髪を撫でた。それでも尚物足りなさそうにしがみついてくるノアの小さな頭を、慎は腕の中に抱きこんだ。ノアはようやく安心したらしく、こちらを見てもいない慎に向かって少し微笑んだ。

「やっぱり、こっちを見てくれないんですね」

窓から差し込む月光が照らし出していたのは、ダークグリーンの絨毯を敷き詰めた、天蓋つきの寝台以外何一つない部屋であった。その面積と空虚さが今一釣り合っていないせいで、この部屋には妙な物悲しさが漂って見える。恐らくまだ日が照る前だからということもあるのだろう。しかし、その寂寥せきりょうとした雰囲気は、名誉ある生徒会長にはあまりにも似つかわしくないように思えた。

「貴方は少しも変わってない。自分で汚しておいて、汚した後は見ようともしない」

「……何か問題でもあるか?」

「いいえ。でも、目を背けているときの貴方は、何だかとっても苦しそうですから」

「同情されるほど落ちぶれちゃいねぇよ」

「分かってますって。僕は貴方のことを信頼していますよ」

ノアはシーツから裸の腕をもたげると、凍てついた指でそっと慎の頬に触れた。慎はついに輝ける衛星から目を逸らし、自らの影の中に横たわる、ノアのあどけない笑顔に目を落とした。月光に背を向けた灰色の瞳は、闇の中で一層強く光を放っているように見えた。慎も口の端を吊り上げた。この夜、輝きの内に生きる者も、その輝きの作った影に生きる者も、背徳と欲望の暗闇で一つに溶け合った。戻ってきたのだ。この一晩だけでも。ベッドの下にくしゃくしゃに丸め込んだ雑誌の記事より、もっと美しく、もっと悩ましく、もっと自分にふさわしい影の姿が。

「えぇ、僕は貴方のことを信頼してるんです。それは水晶も同じ。だから貴方は生徒会長の地位を手に入れることができた。そうでしょう?ねぇ、学園の帝王さん」

ノアは慎の左手に指を絡ませてささやくように言った。二人の手の完全なる融合を、薬指にはめた水晶が妨げた。ノアは水晶に唇を落とした。まるで臣下が主に忠誠を誓うが如く。

「ねぇ、アトリエの帝王さん、貴方は自分の義務を果たさなくてはなりませんよ。水晶の命令は絶対なんですから。僕が僕であり続けるために、何より僕が貴方の影であり続けるために……どうすればいいかお分かりですよね?」

「なんだか偉く慌ててるように見えるが?」

ノアは慎を見上げて微笑んだ。

「えぇ、少し。色々あったものですから」


***

「ですから、いくら理事長の提案であってとしても納得できません!えぇ、理事長にも様々なお考えがあるのだということは存じておりますし、理事長は有瀬ノアの保護者でもあります。ですが、これは学園の方針とか、理事長の体裁とか、そういったものよりもっと重要な問題が関わっています!有瀬ノアという一人の人間の将来です!校長先生、私は有瀬の担任です。今回のことについては、明らかに私の指導力、監督力不足も関わっています。ですから、私にきちんと責任をとらせてください。私は有瀬のことを投げ出せません。投げ出しません。お願いします、有瀬を転校させることだけは、どうか勘弁してください……!」

 朝の校長室にて。校長が逃亡する前を狙って、無礼を詫びつつ突然飛び込んできた野瀬先生の演説を、風間校長は最後まで黙って聞き遂げた。2年A組担任、体育科の野瀬先生は、ここまでいっきに言い終えると、勢いよく頭を下げた。顔を伏せた瞬間、先生の目が潤んでいたのを、校長は決して見逃しやしなかった。

 校長はふうと息を吐くと、椅子から立ち上がって野瀬先生の傍らに立ち、とんとんと肩を叩いた。

「まあまあ、野瀬先生、まずは顔を上げて、こちらにお座りになってください。そう、それでよろしい。えー、そうですね、有瀬君のことについてですが、理事長はまだ最終的な決定を下した訳ではないそうです。実は昨日まではほぼ確定的な話だったのですがね。というのも、昨夜、石崎君もまた、このことについて強固に反対したそうで……」

「石崎が?」

野瀬先生は鼻をすすらせ、大きく見開いた瞳を揺らし、食いつくように尋ねた。校長は手でそれを制した。

「えぇ、何でも白のアトリエを訪れたそうですよ。そこで石崎君にこの話をしたそうですが、石崎君は自分が何とかするからしばらく待ってくれと言ったそうです。また、こうも言ったみたいですよ。有瀬ノアは自分の大切な友達だと」

「石崎が、有瀬を……大切な友だ……」

最後の「ち」は口元を覆う手に吸い込まれて消えた。校長はズボンのポケットからチェック柄の群青色のハンカチを取り出して差し出した。だが、野瀬先生は感謝しつつも丁寧に断った。特に用途はないように思われたからだ。込み上げてきた塩辛い液体は、先生の強い意思の下に織り込まれ、ただ真っ直ぐに校長を見返す目に希望の光を宿す役割のみを担っていた。校長は眼鏡の奥で満足げに笑い、ふと笑みを崩すと、途端に唇を引き締めて窓辺へと歩み寄ってこう言った。

「僕も今回のことはあまり腑に落ちません。何とかして理事長を説得してみます。野瀬先生、貴方は石崎君と協力して、有瀬君の成績を伸ばすことに専念してください。いいですか?」

振り返った校長に向かって、野瀬先生は向かい直り、「はい」と言って大きく頷いた。


 「大丈夫よ。大変だと思うけど今は頑張って。私も何かできることがあったら手伝うわ」

 職員室を出ながら、野瀬先生は、先ほど桜木先生にかけられた言葉を思い返していた。今はほとんどの教職員に知れ渡っている真実(クリスたちのたゆまぬ努力の産物である)のおかげで、幸せの絶頂にある桜木先生が、やや事を楽観視する傾向にあったのは確かだったが、先輩の意見は野瀬先生をおおいに勇気付けた。そして、先生の素直な心を報いるような出来事がすぐに起こった。

「えっ?放課後ですか?えぇ、空いてますけど……」

「よし。じゃあ、図書館で勉強会ね。先生は関本で」

「俺かよ。まあ、今日は部活もねぇからいいけどさ」

「ありがと、関本!」

被服室から出てきた目立つ一団の中に、このような会話が聞こえたのだ。すれ違って、野瀬先生は足を止めた。胸から全身に迸り、そしてまたこの胸に舞い戻ってくるこの気持ちを、表現する方法はたった一つだけだった。

「石崎!」

「は、はい?あっ、おはようございます……!」

野瀬先生は親指を天井に向けてたてて、クリスたちの方へ向けて突き出した。

「グッドラック!」


***

 理由はよく分からなかったが、とりあえず野瀬先生の応援を受けた勉強会は、予定通りに開かれた。メンバーは、クリス、ノア、来夏、菜月、落合、真央に新しく明音が加わった合計七名だ。それぞれ得意科目が異なるため、教科によって教えられたり教えたりの立場は変わったが、来夏とノアだけはどの教科でも位置が安定していたので、自然、二人の講習会が確立した。真央はどうもそれが気に食わなかったらしく、来夏に何か言っては怒られてしょんぼりしていた。涙ながらに慰めた明音を、真央は殴った。

「じゃあ、これがルート7になって……」

「そう。で、そこにさっきのを代入する、と」

 クリスはノアの勉強が調子よく進んでいるのを見てすっかり安心し、来夏が数学を見ている間に、自分は英語の問題の添削でもしてやることにした。ところが、司書が不機嫌な顔でやってきて、クリスにあることを耳打ちし(落合と菜月が破壊しつつある図書館の静寂に配慮して)、クリスは開いた問題集の上に浮かべた赤ペンを、途中で止めてしまった。

「あれ、先輩どうしたんっすか?」

「ちょっとね……!」

明音の問いに、クリスはただ曖昧に微笑んだつもりだったが、きっと興奮は隠しきれていなかっただろう。クリスは、司書が眉を引きつらせる程度の音をたてて本の森の中に駆け込み、本棚の木陰に身を紛らわせた。司書が伝えた内容は大体こうだった――クリスが注文しておいた本が昨日入った。実際の言い方は、これよりはるかに短く無愛想であったが、だからといってクリスの喜びを減らした訳でもない。期待で胸がはちきれそうとは、まさに今のクリスの状態のことを言うのだ。Cの4、指定された本棚の前についにたどり着こうとしたその時、見知った人影がクリスの目の前に現れた。慎だった。彼は梯子に寄りかかり、重そうな本の中身を眺めていた。そのタイトルは――

「『志水晶、孤高の芸術家の生涯』な」

「あっ……」

慎はこちらを見て手を振った。

「よう、石崎。また会ったな」

「その本……」

「俺よりも本の方が心配か?安心しろ。お前が注文した本だ。お前が最初に読む権利がある」

慎は本をクリスに手渡した。クリスは慎の双眸を直視できないままそれを受け取ろうとし、一瞬触れ合った指先に気づいて肩を跳ね上げさせた。怯めば顎に添えられる手。持ち上げられる顔。今となってクリスの胸に蘇るのは、水晶の下の反感ではなく、夢にさえ現れた夜に拒んだ罪深き感情――ただ必死で掻き消す他になかった。

「……何ですか?」

「志水晶に興味があるのか?」

「貴方には関係のないことです」

クリスは慎の直視から目を逸らしつつ、本を抱く腕に力をこめた。激しく揺れる思いの中にも、やはりどうしても他人と共有できないものがあった。慎は「ほう」と呟くと、目を細め、不敵に唇を歪めた。まるで赤い薔薇の蕾がよれていくように。

「まあ、てめぇが興味を持っても不思議じゃねぇが。天才画家ってことでも、この学園の卒業生ってことでも、色々と共通点があるようだしな」

「俺はそこまで驕ってはいません。貴方じゃないんですから」

「はっ!随分と俺のことを誤解してるようだな」

「誤解なんかしてません。誰がなんと言おうと、俺には貴方が高慢で自信過剰なようにしか見えません」

「生意気な奴だ」

「正直な奴と言ってください」

クリスは頬に寄せられた手を払った。ぱんという乾いた音が、不発の手榴弾と同様の虚しさを以って響いた。それでも、慎はますます面白そうに笑みを濃くするばかりで、クリスのサファイア色の睥睨は少しも功を奏していない。この人とこれ以上話しても時間の無駄だ。早く有瀬たちのところへ戻ろう。クリスは頭も下げずに踵を返そうとした。その矢先であった。

「塔の上に行けば、見つかると思ってたのか?」

クリスは足を止めた。森の出口を見つめた目は大きく見開かれ、音もなくのんだ息は肺に留まり、胸が分厚い本を押し付けた内側でざわめいていた。意識が砂色に染まった。今、会長は何て?背後から肩に手を回され、その手は更に本を抱くクリスの腕へと這い進んできた。拒もうとした時にはもう遅かった。クリスの左手の中に熱をじ込み終えた慎は、一人先に悠然と本の森を抜け出そうとしていた。

「待って、会長……!」

声は届かなかった。夢の中と同じだ。本心だけはどうしても適わない。切なさとやるせなさに打ちひしがれ、クリスは握り締めた拳を震えながら開いた。掌の真ん中に置かれていたのは、生徒会の証、千住慎から川崎陽までが嵌めている、水晶の指輪であった。

「これって……」

その時、クリスは誰かの目線に気づいて顔を上げた。すぐ隣の本棚の上に、相当危険な姿勢で佇み、望遠鏡を片手に持つ明音の姿があった。

「先輩……」

「明音君……」

しばしの沈黙。

「そこ、どうやって上ったの?」

「飛び上がって……」


 午後五時を知らせる鐘が鳴る。一日目の勉強会の解散後、食事を作りに帰ったノア、ふて腐れた真央の機嫌をとりにいった来夏、剣道部の自主練に向かった菜月、英語のレポートが未提出だと鳥居先生に引っ張られていった落合に別れを告げ、クリスと明音は中庭の噴水の周囲を巡っていた。二人の間に特に気まずさはなかったが、何だか義務的に遠慮だけして、二人は黙ったまま歩いていた。やがて、明音が言った。

「先輩、慎様とそういう関係だったんっすか?」

「いや、違うけど……」

指輪はポケットの中にしまっていた。触れる気にもなれない。

「別に俺に遠慮しなくてもいいっすよ。俺、慎様のことも尊敬してるけど、先輩のことも尊敬してますし。それに、慎様ってそういう噂が絶えないから……」

「誤解しないでね。君がいう『そういう』は、俺と会長の関係には全然あてはまってないから」

「じゃ、じゃあ、何であんなことに……?!」

「そんなの俺が聞きたいよ。とにかく誰かにちょっかいかけるのが好きなんだろ」

「うーっ、例え先輩であろうと、慎様を馬鹿にした者は許さ……!」

「き、君が言ったことを要約するとそういうことじゃないか!」

頬をつねろうと伸びてくる明音の手を押さえながら、クリスは反論した。あの時触れられた輪郭は、冷たい秋の風に曝された今も尚熱を帯びている。クリスは気づいた。自分は嘘を吐いている?会長とは何もないと言い張りながら、胸の中では、抱きしめられたあの夜、左手を包み込まれた先ほどのことを思い返し、酔いしいれている?そんなことがあってたまるものか。否定の言葉は弱かった。でも、本人に向かって言ったとおりだ。千住慎は高慢で、自信過剰な人物だ。人を翻弄させ、その心を弄ぶ、冷酷な人間だ――しかし、なぜそこまで言い切ることができるのか。自分が現に翻弄させられているからか?心を弄ばれているからか?ということは、自分は本当に生徒会長に……

「痛っ!」

「食らえ、慎様の恨み!」

明音の攻撃が遂に決まり、クリスは降参の音をあげた。すっぽんのように食らいついて離れない明音をやっとの思いで引き剥がし、涙目をぬぐいながら、クリスはつくづく思った。もういい。自分にはこの痛みだけで十分だ。その他の煩わしいことなんて、全部捨ててしまえ。


***

 「それで?とうとう慎は動いたのか?」

「そうみたいだよ。まあ、『影』からの直々のお願いとなれば、さすがの生徒会長も動かない訳にいかないからね」

「全く、世の中って面倒な問題ばっかで出来てんのな。そのくせ、出来上がったものはたいしたもんじゃねぇんだから」

慎が不在の生徒会室に集った颯、茘枝、陽の三人のうち、一人は懸命にペンを動かし、二人は状況に甘んじて仕事の手を休めていた。もちろん、前者とは颯のことで、これは先の委員会の記録を清書している最中であった。その向かいで、茘枝はカバーをかけた文庫本を捲り、陽は楽譜を机の上にばら撒いて眺めている。颯が再び口を開いた。

「残念だな、クリス」

「何が?」

同時に問う茘枝と陽。

「慎に誘惑されちゃってさ。やっぱり僕が代わればよかったかも。僕の方が絶対クリスとの接点は多いもの。ダンス部の背景だってクリスに頼んだんだから」

「しかし、颯には王子様がいるだろう?」

「もちろんさ。それでも気になるぐらいクリスは興味深い子ってことだよ」

「報われねぇな、王子様」

陽が茶化すように言うと、颯は微笑した。

「そんなことないさ。僕はいつもナツに振り回されっぱなしだよ。傘も持っていかれるしね」

やっとひと段落ついたところで、颯は痛み始めた手首を振り、読書熱心な茘枝に尋ねた。

「ところで、茘枝、仕事さぼってまで何読んでるの?」

「『高慢と偏見』」

茘枝は颯の言葉に込められた皮肉は無視して答えた。

「……ああ、オースティンね」

「それで読み返すの何回目だよ?」

「この世に高慢と偏見がある限り、何度でも」

ペンを持つ手、本の表紙を愛でる手、譜面を辿る手、三人の手に水晶の指輪がきらめいていた。


***

「ほっぺ、まだ赤いですね」

「うそ……」

ベッドの上で正座しながら呟いたノアに、布団を敷いていたクリスは思わずため息を漏らした。もう既に負傷してから四時間以上が経過しているはずなのに。ノアは慰めるように微笑むと、ふと気付いたようにベッドの下から携帯用の救急箱を引っ張り出し、筒状の容器に入った軟膏なんこうを取り出した。きょとんと見つめるクリスに、ノアは人差し指を軟膏に白くまみれさせて提案した。

「気休めにしかなりませんけど、少し薬でも付けときましょう」

クリスはノアの隣に腰をかけ、確かにまだうずく頬を彼の方に向けた。ノアは手馴れたように薬を傷につけ、円を描くようにして伸ばしていく。くすぐったくて、クリスは思わず笑った。

「動かないでくださいよ、クリス様」

「ごめん。でも、くすぐったくて……」

言いながらもクリスはわずかに身を反らす。

「笑わせるためにやってるんじゃないんですからね」

「有瀬に説教されるなんて珍しいな」

「説教だなんて。僕なんかがおこがましいです」

「おこがましくなんかないさ。ありがと、有瀬」

クリスは礼を言い、布団の中に滑り込んだ。いつもより安らかな気分になれたのは、昨夜の孤独が胸に堪えたからか。ノアは指に残った薬をふき取ると、電気のスイッチを消した。暗闇が訪れた。クリスは、音でノアがベッドに戻ったことを確認すると、あるはずの手を求めて右手を伸ばした。だが、一日の隔離を経て、いつもの習慣は忘れ去られていた。

「有瀬」

「な、何ですか?」

なぜノアは慌てたようにどもるのだろう。

「昨日は何かあったの?」

「いえ、大した用ではありません……」

なぜ伸ばした先に手がないのだろう。

「有瀬」

「は、はい?」

「やっぱりさ、有瀬がいないと夜はつまらないよ」

「はあ……」

耳でベッドが振動するのが分かった。慣れてきた目で、ノアがこちらに寝返りを打ったのが分かった。著しい段差のせいで互いの顔が見えないが、クリスははっきりと、この胸に寄せられるノアの灰色の目を感じていた。安堵してクリスは瞼をおろした。二重の暗闇の中には、無限の安らぎがあった。

「有瀬、君は……君は、大切な友達だよ」

「え、えぇ。クリス様も、僕の……」

やっと触れ合う指先。

「有瀬、明日も勉強会、頑張ろうね。転校なんて、絶対しないでね」

「えぇ……えぇ、クリス様」



えぇ、クリス様――



 今日のメンバーは少なかった。水曜日は部活が重なりやすい曜日なのだ。弓道部、剣道部、サッカー部と見事にとられ、メンバーは帰宅部のクリスとノアのみとなった。それでもクリスは決行をノアに宣言したし、ノアもいつも通りに微笑して頷いたはずだった。

「あれ?有瀬?」

図書館をのぞいてみても、先に来ているはずのノアはいなかった。何か用でも思い出したのだろうか。昨日と同じ机には、ノアのノートと筆箱が置かれている。五分も待っていれば来るだろう。クリスは英語の問題集を開き、解答もなしに丸付けを開始したが、二十分も過ぎるとさすがにおかしいと思い始めた。携帯電話を開いても、何の連絡も入っていない。律儀なノアらしくなかった。司書の目を盗み、そっと電話をかけてみると、誰も出ない代わりにどこかで誰かの携帯が震える音がした。クリスが電話を切ると、音も途絶えた。二度試しても結果は同じだった。偶然ということはありえない。間違いない、ノアの携帯だ。ノアはこの図書館内にいるのだ。好きな本でも見つけて夢中になってるのかもしれないな。約束を破るのより、そちらの方がよっぽどノアらしく思えたので、ひとまずクリスはほっとして、図書館の中を巡り歩いた。

「有瀬?」

今日は落合と菜月の音がないため、声を落として呼んでみる。誰かの会話を聞きつけて、本棚の隙間からそっと覗いてみれば、はたしてノアはそこにいた。話をしているからには一人ではなかった。誰かと――そうだ、生徒会長と一緒だ。クリスははっとした。話し声が途絶える。本を読み、思索するに理想通りの世界、完璧な静寂の世界が、二人の閉口によって創り上げられた。慎が急に屈んだ。そして、唐突に、慎とノアは唇を重ねた。

 何かが割れる音がした。続いて起こるのは、悲鳴、誰かの平謝りする声と、司書の叱るに叱りきれない言葉、割れた花瓶についての解説。こうしたものにもまるで構わず、慎とノアは二人きりの世界に留まっていた。二人が時々苦しげに漏らす吐息だけが、クリスの中の唯一の音楽だった。

 知らず知らずにポケットに突っ込んだ左手、引き上げたとき、薬指にはいつの間にか指輪がはまっていた。



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