表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Crystal Brush  作者: 篠原ことり
序章 知らせは誰が元へ
17/82

第八話 アトリエの帝王・前編

第八話登場人物


・有瀬裕

三宿学園理事長。ノアの養父。

淡々とした、物や常識に執着しない性格。ノアに対しては……?

「もし、ここであっさり犯人が捕まったら、てめぇといられる時間が短くなるだろうが」


「お前は校則違反の現行犯だった。だが、俺は見逃した。何でお前をあの場で処分にしなかったと思う?お前が気に入ったからだ」


「俺はもっとお前の傍にいたい。お前のことを知りたい。だから、俺は……」


「……嘘、なんだ」

クリスは呟いた。窓辺から差し込む朝日が、部屋の中を白く染め上げている。いっそその中に紛れてしまうことができたらどれだけ良いか。クリスは額の上の左手を微かに持ち上げ、折り曲げた指をぼんやりと眺めた。夢の中に慎が出てきた。彼は記憶と寸分違わぬ言葉と表情でクリスを口説いたが、彼の腕の内にいるクリスは、昨夜とは違った。クリスの心は激しく揺れていた。抱きしめられながら、ずっとここにいたいと、彼の視線を正面から受け止めたいと思っている自分がいた。結局はまた突き放してしまったけれども。

「でも、嘘だから、全部嘘だから、これでいいんだ……」

クリスは目を閉じる。まるで深い罪を犯した後のような、胸の痛みは一体何なのだろう。燃えるようにはっきりと残っている、慎の腕の感覚。耳を離れないあのささやき。吸い込まれそうな青い瞳。少しでも意識の手綱を緩めれば、昨夜の光景の無限ループだった。クリスは唇を噛み締め、一瞬苦悶くもんするような表情を作ってから目を開けた。

「よし」

 クリスは飛び起きた。隣のベッドは空っぽだった。ノアはもう朝食の仕度をしているのだろう。忙しない音と絶えず変わる香が、開け放った一階の窓から漂ってくる。クリスはワイシャツに腕を通しながら、ふと、目覚まし時計に注意を向けた。そういえば今日は時計が鳴ったのを聞いていないな。次の瞬間、クリスの口を「あっ」という人の声とはつかない悲痛な音が零れ出た。時計が止まっているのだ。そして、恐る恐る腕時計を見れば、時刻は既に普段の起床時間から三十分も経過している。

「あ、あれ……?」

クリスの首筋を冷たい汗が通過していった。


「ごめんなさい!クリス様!僕が気付かなかったばっかりに!」

「分かった、分かった。分かったから早く!」

「はい!」

 ノアが普段よりやや形の雑な卵焼きを、菜箸で弁当箱の中に突っ込み、やっとのことで今日の昼食が完成した。災難だった。二人とも時計が止まっているのに気付かず、いつも通りの感覚で、実はいつもより三十分も遅れた行動をしていたのだ。おまけにクリスがあんまり慌ててそのことを教えたため、唖然としたノアはついうっかり料理を台無しにしてしまったのだ。これは手痛い時間の損失だった。ノアは卵を冷蔵庫から取り出しながら頻りに謝り、弁当は学校で渡すから、先に学校に行っていてくれとさえ頼んだ。だが、クリスは承知しなかった。そんな無慈悲なことは友人に対してできなかった。クリスは信用できる腕時計を見、あと十五分以内にアトリエを出れば間に合うことを知ると、ノアが再度挑戦している間に、弁当が出来ればすぐにでも出発できるよう忙しなく準備をした。そして、とうとう残された時間のカウントも秒刻みとなった今、ノアは二つの弁当箱に蓋をし、クリスは鞄を持ち上げたのであった。

「有瀬、全速力で走るけど転ばないでね」

「えっ、あの、クリス様……あっ……!」

 アトリエを飛び出るなり、クリスはノアの手をとって宣言どおりに勢いよく駆け出した。ノアは思わず目を見張った。風が激しく吹き付けて二人の髪を靡かせ、黄色い花を散りばめた緑の平原は瞬く間に後方へと飛んでいく。梢で囀る小鳥はたちまち記憶の中のみの光景に、踏みしめた落葉の色も覚えられぬまま。校舎は遥か彼方に聳えているように見えた。二人の巡り会った白い塔は益々遠い。まるで二人から遠ざかっていくようだ。予鈴の鐘が、朝の清涼な空気を震わせ、学園内に厳粛と緊張とをもたらした。クリスは噛み合わせた歯の奥から苦しげな声を出した。だが、ノアが案じたその時には、クリスの表情は元の強い意志に満ちており、その脚の躍動も一層加速していたのであった。

 「ク、クリス様……!」

 唯一の近道、中庭へと続く急な丘を駆け上っている途中に、ふいにノアが呟いた。丘は萌えいずる若葉を白い花に覆い尽くされ、クリスたちが風のような一歩を進める度、雪のような花びらと芳香が舞い上がった。さすがに疲れたのか。でも、休んでいる暇はない。我慢してくれ、有瀬――クリスはそんなつもりでノアの手を一層強く握りなおした。ノアがはっと息を呑むのが聞こえた。そして、次の瞬間、二人の手は離れた。

「有瀬!」

まるで映像をスローモーションで再生しているかのようだった。ノアの足がたちまち地を逃し、その身は花弁同様に風の中に舞った。落ち行く彼を抱きとめようとしているのは、花の絨毯ではなく、遥か下方の険しい大地であった。クリスとノア、空中で交差した青と灰、二つの色が見ていたのは、ここには存在せずとも同じものだった。二人は塔の上にいた。水晶の眩いばかりのきらめきの下、ノアは純白のローブをまとって窓の外に身を投げ出し、クリスは救いを求めるように伸ばされた腕を掴んだ。ここでも全く似たようなことが起きた。

「有瀬!」

クリスは腕を伸ばした。花びらが視界を覆う中でも、ノアの手の感触ははっきりと分かった。クリスはあの夜、あの暗闇の中からノアを救い出したのだから。クリスは握った手を手前に向かって強く引いた。だが、今度ばかりは場合が違った。ノアの体重は、身投げの決意の重さは、クリスまでも奈落の底に引きずり込もうとしたのである。

「クリス様!」

クリスは勢いよく地を蹴った。その時こそ、二人の間の白い花弁の靄は掻き消えて、クリスはノアの顔をはっきりと認めることができた。恐怖に怯える煙水晶の瞳――クリスが想像していた通りのものがそこにあった。しかし、一体何に対しての恐怖だろう?いいや、そんなこと知ったこっちゃない。クリスはその名を呼びながら、ノアの体を宙で抱え込んだ。震える煙水晶を胸に押し付け、襲いくる重力と落下の衝撃からそれを守った。二人は結びついたまま丘の斜面を転がり落ち、ふいに傾斜がなだらかになった場所で止まった。今度は上ではなく下に、クリスはノアの温度を感じていた。クリスは薄く目を開けた。吐息が交わるほど近くにノアはいた。二人は暫くそうして呼吸を重ね合わせていた。見つめ合う瞳はどちらも穏やかで、口元には微笑が宿っていた。繋いだ手は二人の胸の間に挟まっている。ふいにその手が花の上に落ちて、二人を隔てるものは何もなくなった。

「クリス様……」

「有瀬……」

白い雪野に一筋の日が差し込み、薄紅色の花が咲いた。ノアは呼吸をふいに詰まらせた。だが、もう拒むことなど出来ないことを彼は知っていた。

始業を知らせる鐘が響き、二人はぴたりと動きを止めた。絡めた指の力が抜け、限りなく優しかった四つの瞳を、俗世的な失望の色が染めていく。

「お弁当、崩れちゃったかも……」


***

「で、二人仲良く遅刻って訳か。全く、羨ましいよな、お前らは」

「一体どこがさ?結局野瀬先生には怒られるし、うんざりだよ、もう」

「先生に怒られるのなんて、落合には大した問題じゃないもの。いつも怒られてるから」

「なるほどね」

「おい、それじゃあ俺が性質たちの悪い不良みてぇじゃねぇか」

「事実そうでしょ」

「はあ?俺様の一体どこが……」

「落合、ちょっと来い!」

 噂をすれば何とやらの類か、それとも絶好のタイミングを見計らっていたのか、ちょうど通りかかったばかりの体育教官室から、落合の天敵である森先生が厳つい顔を突き出した。上ずった声で「はい」と答えた落合は、振り返る前にシャツをズボンの中に突っ込もうとしたが、その間も与えられずに、襟首を引っ掴まれて、教官室の中に吸い込まれていった。クリスと菜月は顔を見合わせて溜息を吐いた。

「確かに、あんな情けない不良はいないかも」

 どうせ待っても無駄であることは知っていたので、クリスと菜月は一足先に図書館へ向かうことにした。二時間目の古典は、担当の先生が体調不良で休んでいるために自習になったのだ。クリスは迷わず図書館行きを選んだ。昨日、志水晶について興味深い資料を見つけたのだが、前に借りた本を返していなかったために、借りることができなかったのだ。クリスが立ち上がると、安眠できる場所を求める菜月と、可愛い後輩との出会いの場所を求める落合も付いてきた。来夏は用事があるからといって断った。落合が真央の体育の授業でも見に行くつもりなのではとからかうと、来夏は無言で彼を小突きつつも否定はしなかった。

「ねぇ、石崎」

「何?」

歩みながら菜月が唐突に聞いた。

「有瀬ノアってさ、一体どういう人?」

「あ、有瀬?」

「うん」

菜月は頷き、胸元のシャツを拳で手繰り寄せた。ふとうつむけたミントグリーンの瞳を掠めたのは琥珀色の虚無である。菜月がいまだ大切に両手に抱え続ける、最早その肢体は動かぬ抜け殻だ。

「どういう人って言われてもなぁ。まあ、知っての通りだと思うよ。優しくて、気が利いて、おとなしくて、料理が上手くて、あと花の世話も……」

「ふーん。そんな人なんだ」

「そんな人なんだって、酒本だってまるで接点がない訳じゃないだろ?」

「違うよ。僕は石崎にとっての有瀬ってどんな人か聞きたかっただけ」

「俺にとって……?」

クリスは怪訝な顔をした。菜月も変な質問をする。クリスにとってのノアなんて、菜月にはどうでもよいことではないか。落合なら二人の関係性を詮索してきてもまだおかしくはないが。クリスは考えた。ノアはかけがえのない友達だ。クリスと一番多くの時間を共有している人物だ。クリスがこの学園にきてからの一ヶ月とちょっと、白のアトリエという隔絶させた場所で、二人は共に起き、共に食べ、共に語らい、共に眠ってきた。高さは違えども、同じ部屋に隣同士寝転がり、触れ合った手の中で友情を育んできた。クリスにとって、三宿学園での日々と有瀬ノアとは、切っても切れぬ存在だった。

「有瀬は大切な友達だよ。あっちはどう思ってるか知らないけど、少なくとも、俺の中では一番の」

「ふーん」

菜月はいつも持ち歩いている千鳥模様の傘を少し振り回し、抜け殻を砕いた。


***

 ダンス部の大会の背景がとうとう仕上がった。落合の協力のおかげだ。颯に知らせようとダンス部の部室をのぞいてみたが、生憎あいにく今日は生徒会に出ているとのことだった。生徒会室に向かう勇気はとてもない。颯への報告は明日に回すとして、クリスは空きっ腹を慰めるためにすぐさまの帰宅を決めた。放課後の校門を潜ったとき、クリスは曖昧ながらも確かに違和感を覚えた。一人で林檎林の裾を掠め、白のアトリエの門を潜ったとき、クリスはまた違和感を覚えて振り返った。斜陽に照らされた雲が、西の空に斑模様を描いている。何の変哲もない風景だった。普段と何ら変わりはしない。

 扉に手をかけたその時、クリスは新たな植木鉢が階段の最上段に追加されていることに気付いた。ホウセンカだ。開花の季節には十月下旬というのは少し遅いのではないだろうか。しかし、その紅色は鮮やかで、ノアの繊細な気配りが感じられた。「でも、花は気まぐれですから。手を加えなくても、自分の咲きたいときに咲きますよ。僕は時々手伝ってあげてるだけです」これはノアの言葉だったか。

 クリスは戸を引こうとして、鍵がかかっていることに気付いた。どうやらノアは出かけているようだ。こんなことは珍しいけれど、今日のように朝寝坊までした日には不思議ではない。「ただいま」と叫んでも案の定返事はなかった。電気だけが、アトリエ内に人のいない暗闇を持ち込むことを恐れているかのように灯されていた。リビングのテーブルの上には小さなメモが置かれている。クリスは手にとって読んだ。ノアの小さな文字が、有り余るスペースにも関わらず、中央にびっしりと詰め込んで書かれていた。


クリス様へ

今晩は諸事情により遅く帰ります。

校則違反ではありませんからご安心ください。

鍋の中に夕食を作っておきましたので、温めて食べてください。

僕のことは待たずに、先に寝ていてくださいね。お願いします。

有瀬



 スプーンが皿に触れる音ですら、空気を振るわせる。クリスは思わず手を止めた。一人の夕食の何と侘しいことだろう。自分の半分が欠けてしまったような気さえした。きちんと火を通したはずなのに中の冷たい人参を噛みながら、クリスはリモコンに手を伸ばした。ホウセイ・チズミでも映ってくれればいい方だ。だが、テレビは付けられた直後にまた消された。クリスは、これが初めてとなる、アトリエの呼び鈴を聴いたのだった。

「はい」

ノアだったらわざわざ呼び鈴を押すような真似はしないだろう。膨らみかけた期待の芽が、育ちすぎないうちに叩き潰しながら、クリスは口の周りを拭い、玄関へと駆けていった。開け放った戸の向こうに、大きな影が浮かび上がった。知らない男性だ。年齢は恐らく60歳に差し掛かったというところか。額は広く、髪は薄くなりかけてはいるもののきっちりとまとめられており、睫毛の短く細い目と、引き締まった唇を持っていた。血色は悪いが、長身と立派な服装のおかげで貧弱な雰囲気はまるで感じられず、こちらを圧倒させるようなものはない代わりに、何か油断のできない印象を与えた。クリスが用向きを尋ねぬ間に、男性は勝手に玄関へと入り込み、靴を脱がずに済むぎりぎりの場所で立ち止まると、背伸びをして奥の部屋を見通そうとした。

「あ、あの、ど、どちら様で……?」

男性はクリスを無視した。土間と床の段差によく磨かれた靴の先を何度か押し当て、「バリアフリーじゃない」との結論を出すと、ようやくクリスの方を向いた。クリスは恐ろしく緊張していた。罰則を喰らいに校長室に向かったときだって、ここまでひどくはなかったはずだ。

「ノアがいないみたいだけど」

「あっ、はい、出かけてます。今晩は遅く帰るって言ってましたけど……」

「つまり、僕は逃げられたってこと?」

「えっ?」

男性はクリスから目を逸らすと、諦めたように肩をすくめた。

「上がってもいい?」

「えっ、あ、あの、どちら様ですか?有瀬とはどういう……?」

クリスは勇気を持って再度尋ねた。男性は急に何かに興味顔を上げ、黒い芯のある瞳でまじまじとクリスの顔を眺めた。クリスは後ろ手で扉を閉めてもよいものかどうか、非常に迷った。来客の返答を聞くまでは。「有瀬?有瀬は僕だけど?」

「はい?」

クリスは自分の耳を疑った。

「だから、僕が有瀬裕あるせゆたか。……ああ、君が言ってるのは息子の方ね。有瀬ノアのことか」

男性は相変わらずの調子でこう付け加えた。ノアが息子だって?ということは、この男性はノアの父親ということになる――そうだ、有瀬裕だ。他でもない、この三宿学園の理事長ではないか。

「ねぇ、上がってもいい?」

聞きながら、理事長はもう既に靴を脱ぎ捨てて廊下を歩んでいた。はっと我に返ったクリスは、理事長の靴を丁寧に並べると、棚からスリッパを一足引っ掴んで、慌ててその後を追った。


 「うん、美味いね、このカレー」

「……シチューだと思いますけど」

「どっちでもいいよ、そんなこと。どうせ黒いか白いかの違いなんだから」

「はあ……」

今現在、時刻で言えば午後七時半、クリスと理事長は向かい合って食卓につき、二人揃って、ノアが作ったシチューに舌鼓を打っていた。なぜこんなことになっているのかはさっぱり分からなかった。事の成り行きという奴か。理事長がクリスの食べかけのシチューを見るなり、空腹を訴え始めたのだ。他に出せるものを知らなかったので(アトリエに客は滅多になかったが、こういったことの世話は全てノアが担当していた)、クリスは場違いだと思いつつシチューをよそった。だが、これを理事長はいたく気に入ったようだった。理事長の話しぶりからすると、どうやらノアの料理を食べるのは初めてのことらしい。理事長は独特の表現で息子の腕を褒めあげ、ノアはコックにするべきかもしれないとも言い始めた。

「えぇ、俺もそう思います」

ノアが自分以外の人に褒められているのが珍しく、クリスはつい嬉しくなって言った。そんなクリスを、理事長は隙をみてちらちらと窺っていた。

「……君は、石崎・エーリアル・クリス君だよね?」

「はい」

クリスは大きな人参の一切れを飲み込んだ。

「どうしてノアと一緒に暮らしてるの?」

「えっ?ああ、それはそのー……ちょっと校則を破っちゃって、その罰則でここに引っ越すことになって……」

理事長が「ちょっと校則を破っちゃって」のくだりに触れてくれないことを祈りつつ、クリスは答えた。

「それってさ、どちらが罰則になるのかな?ここに暮らすこと?ノアと一緒に暮らすこと?」

「そんなの決まってるじゃないですか。ここに暮らすことですよ」

「ふーん。どうしてここに暮らすことが罰則になるのかな?」

「そりゃあ、だって、他の友達と隔離されてますから……」

「じゃあ、ノアは罰則の装置の一つではないってことだね?」

「装置って……」

「よし、それならオーケー。万事快調だ」

「……一体何の話ですか?」

クリスが空になった皿の脇にスプーンを置くと、理事長は一層忙しなく食事をする手を動かした。有効期限付きの黙秘権を行使して、理事長はシチューを片付け終わるまでの間、喋るために口を開こうとはしなかった。だが、とうとう最後の肉が消えると、理事長といえども、真摯にこちらを認める青い瞳には、答えずにはいられなかった。理事長はぶっきらぼうに言った。

「僕はね、ノアを転校させるつもりなの」

その言葉は、一瞬で理解するにはやや難解で唐突すぎた。

「えっ……?」

理事長は立ち上がり、まるで散歩を楽しむように、ゆっくりとソファの近くまで移動すると、腰を下ろし、テレビのリモコンに手を伸ばした。ちょうど料理番組が始まったところだった。

「僕がいうのもなんだけど、ノアの成績はひどすぎる。正直、我が校のレベルには相応しくないんだ。そりゃ、血は繋がってなくても可愛い我が子だからね、できれば目をつぶってやりたいよ。だが、そういう訳にもいかない。だから転校してもらうことにしたんだ。今日はそのことを話しにきたんだけど、ノアはいないみたいだから、君が代わりに伝えといて」

「待って下さい。それって、もう有瀬……じゃなかった、ノア君の転校は決まってるってことですか?」

エプロンを身に着けた五十がらみの女性が、鮮やかな包丁さばきを見せ付けている。理事長は煙草に火をつけ一服、そして、

「そうだよ」

当然のことのように言った。

「でも、本人はまだ転校するってこと知らないんですよね?」

クリスは食い下がらなかった。

「当たり前でしょ。それで、何の問題があるっていうの?」

「大有りですよ。だって、それじゃあ、有瀬の意思はどうなるんです?」

「ノア君ね」

「どっちでも構わないでしょう?!有瀬がここに残りたいっていったら、どうなるんです?」

一分も立たぬ間に、生だった鶏肉は親子丼の具に姿を変えていた。理事長は改めてクリスを見直した。憤りと友情とが、頬を燃やし、サファイアの中に星を煌かせ、震える拳を固く結んでいた。養子にもこんな友達がいたのだ。理事長は無感動を装いながらも、内心では大層驚いていた。しかも、よりによって石崎・エーリアル・クリスとは。彼はノアの……静まり返った部屋に、料理が完成したことを知らせる拍手が響きわたった。やかましい。理事長はテレビの電源を切った。

「石崎君、残念ながら、ノアがどう思おうと転校は免れないよ。これは三宿学園の在り方にも関わっている。個人の我儘をいちいち聞いている訳にはいかないんだ」

退出に先立ち、理事長は煙草をぽいと床に投げ捨てると、スリッパで踏み潰して火を揉み消した。ジュッというかすかな音が聞こえ、理事長が足を退かした場所に、小さな焦げ後がついていた。ノアならすぐさま片付けるだろう。だが、今ここにノアはいない。自分の身について話されているにも関わらず、別のどこかで何の不安もなく時間を過ごしているのだ。次第に廊下に向けて縮小されていく理事長の背中に、クリスは居間の入り口に立って叫んだ。

「俺がどうにかしますから!」

理事長の足が止まった。

「勉強なら、俺がどうにかしますから!俺だって大した成績はとってないけど、でも、俺たちには勉強のできる友達もいるし、いつでも教えてくれるはずです!ですから、転校はもう少し待って下さい!俺は……俺は、有瀬ノアと一緒にいたいんです!有瀬は大切な友達なんです!」

「……ノアに、シチューおいしかったとだけ伝えといてね」

 学園長は扉を後ろ手で閉めて出て行った。クリスはまたアトリエの中に一人になった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ