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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
序章 知らせは誰が元へ
16/82

第七話 見知らぬ影・後編

 陽が入ってきた時、生徒会室には茘枝一人しかいなかった。茘枝は昨日の司会原稿の手直しをしていたところで、陽に気付くと少し顔を上げて微笑みを浮かべた。そして、また原稿用紙の上にペンを浮かせ、時折柳眉をひそめては、急いで線を引き、すばやく何事か書き込んでいく。さて。慎と、慎の護衛になったという例の少年はどこだろう。

「慎は?」

「さあ」

茘枝はまるで興味なさそうに答える。ペンは順調に原稿用紙の上を進んでいた。

「なんだ、残念。せっかく例のガキの顔でも拝もうと思ってたのに」

「天才少年画家君のことか?さっきまでここにいたぞ。なかなか素直ないい子だった」

「素直ないい子、ね。さぞかし慎にいたぶられてるんだろうな。かわいそうに」

「ところで、陽、第二次予算書が出ていないと、颯が嘆いていたが?」

 愛情深い微笑を伴いつつも鋭い言葉。前言撤回だ。石崎なんたらよりオレの方がはるかにかわいそうじゃねぇか。冷たい汗をごまかしながら、陽はしみじみと思った。だが、茘枝がそれ以上の言及を避けたので、陽は椅子を引き寄せると、その上で胡坐あぐらをかき、ペン先から文字が紡がれているのを見物することにした。

「颯は?」

「今日も中等部の輩と会議だ」

「けっ、ガキ相手かよ。肩が凝りそうな仕事だな」

「大丈夫だ。颯は子どもの扱いには慣れている……私と一緒でな」

「はあ?お前、弟とかいたっけ?」

「いるはずないだろう。それくらい手がかかるのがいるという話だ」

陽は沈黙した。それはつまり自分のことを言っているのだろうか。いや、愛猫シャネルのことかもしれない。だが、あれはなかなか利口な猫で、茘枝の溺愛を買っている。その時、茘枝がちらりと一瞥いちべつを寄越した。確信犯の目だ。正式の問い詰めは寮に帰ってからしっかり行うとして、ここではからかわれたのを逆手に遊んでみるのも悪くないかもしれない。陽の口角が上がった。

「れーしお兄ちゃん?」

「気持ち悪い」

陽の企みと笑みはたちまち消え失せた。


***

 どうしよう――真央が悩んで頭を抱えた対象は二つあった。一つは、テーブルの上の皿に盛られた、湯気をたてる赤紫色のスープ状のもので、もう一つは、それを「シチュー」と称して出した製作者であった。料理に関しては、かなり屈折した意味での特殊な才能を持った彼は、何の躊躇ちゅうちょもなくスプーンで液体をすくい、最早原型を留めていない人参をもきゅもきゅという妙な音をたてて咀嚼そしゃくしていた。真央は自分の皿を見下ろすと、スプーンで黒く硬い何かを転がした。食べても問題はないのだろう。口に入れた直後の舌の拒絶反応以外は。勇気を振り絞った過去の二、三回の経験から、真央は推測した。だが、食欲は到底沸かなかった。

「何だよ、真央、食わないの?」

「いや、あの、お腹が空いてなくて……」

真央は、今度は別の黄緑の固体をもてあそんでいた。もしかしたら、今回は前例が通用しないかもしれないとの疑惑が頭をもたげてきた。だが、ルームメイトに何事もないのはどう言い訳しよう。それは――真央はとうとうスプーンを置いて考え込んだ。案外早く答えは出た――それは、彼の、涌水明音の全神経が、テーブルの上に並べられた数枚の写真に集中しているからだ。

「えへへ、慎様っ」

そこに映されているものは、わざわざ覗き込むまでもない。今の呟きと、普段の明音の言動とを足せば、自ずと答えは出てくるものだ。彼が尊敬してやまない、生徒会長、千住慎の姿である。明音はスプーンを運ぶ手をとめ、先ほど現像したばかりの写真を三分間かけてじっくりと眺め、それからまた食事に戻るという、いつもの習慣を繰り返している最中であった。その時の明音の表情といったら、こればかりは、言葉ではどうにも言い表せまい。写真にでも映さない限り。

「で、今日は何枚撮ったの?」

真央は空腹に茶を流し込みながら尋ねた。よくぞ聞いてくれましたとばかりに、明音の顔が輝いた。

「ふふん、八枚。今月中では一番の収穫だぜ」

「自慢げに言うけどさ、それって盗撮だよね?犯罪じゃないの?」

「分かってないなぁ、真央ったら。俺の慎様への愛の前には法律も罪もないの!」

「ふーん」と気のない返事をして、真央はその後の明音の行動を見守った。警告はしたつもりだ。後はどうなっても知りはしない。明音は夕食の席を立って鞄から手帳を取り出すと、本日撮った写真について何やら熱心に記し始めた。10月16日月曜日、慎様と榊原先輩のツーショット、お気に入りランクB、と云った具合に。今日のベストショットは慎と茘枝のにらみ合いらしく、手帳の端には「怒った慎様も素敵」とのコメントが書き足された。やがて、明音は手帳をぱたんと閉じ、残ったシチューを掻っ込むと、また元のふやけた笑顔を戻して今日の収穫に悦に入った。真央は素朴な疑問で彼の鑑賞タイムを少し潰した。

「あのさ、何回もきいてるけど、生徒会長のどこがいいの?」

「そんなの決まってるだろ?かっこよくて、美しくて、見目麗しくて、頭がよくて、運動神経も抜群で……」

「ら、来夏先輩にだって全部あてはまるもん」

幾分むきになって真央が言う。

「それだけじゃないぜぃ。リーダーシップもあって、寛大なお心を持ち……」

「あの生徒会長が寛大?」

「もちろん。真央が知らないだけで、慎様は実はとーっても優しい人なんだぞ」

「嘘だね。来夏先輩の方が百倍優しいもん。リーダーシップだってあるし。特待生だし」

「まだまだ。フェンシングの全国大会優勝者」

「来夏先輩だって弓道の全国大会優勝者ですー」

「フェンシング部の部長」

「弓道部部長」

「生徒会長」

「学級委員長」

「ハリウッド俳優ホウセイ・チズミの息子」

「……で、でも、来夏先輩が一番だもん!」

喚く真央に、何とでも言うが良いと明音は笑う。明音はアルバムに写真を詰めながら、自分の愛の遍歴を辿り、やはり慎様が一番だとのいつもの結論に落ち着いた。本日は、このささやかな勝利もあって、胸に沸き起こる愛の喜びと尊敬の念は一層強かった。すねた真央が付けたテレビに、黒々とした髪の男性の横顔が映し出された。何たる偶然。険しい額、凛々しい眉、締まった口元、皺のない浅黒い肌に鋭く青い眼光とくれば、ホウセイ・チズミのご尊顔に他ならない。嬉しそうな顔をした明音を見て、真央はすぐにチャンネルを変えた。明音の悲鳴とも奇声とも付かない声が響いた。


***

 クリスはすっかり疲労していた。長い時間焼却炉の前にいたせいでブレザーはすすっぽいし、その後は慎の気まぐれに散々振り回された。神出鬼没の涌水明音のシャッターが閃けばそれを追わされたり、かと思えば途中でやめさせられて、しょうもない雑用を言いつけられたり。慎を家まで送り届けるという最大の任務が残っている。慎と共に暗闇に覆われた校舎を出で、クリスは鬱々とした思いを何とか意欲に変えようとしたが、原子が変化したり消滅したりしないのと同様、不可能だということに気付いた。慎への不信感は、クリスの心の中に原子レベルで組み込まれていた。

「もう少ししゃんとしたらどうだ?仮にも護衛だぞ」

白い舗道を目の前に歩みながら、まるで不貞腐れているクリスの顔が見えているように、慎が言った。

「えぇ、そうですね、仮にも護衛ですよ。召使じゃありません。コーヒー淹れたり、書類を校長先生のところに届けたり、そういうのは俺の仕事じゃなかったはずです」

ここぞとばかりにクリスは仕返しをしたが、慎は不敵に笑っただけだった。

「疲れたか?」

「そりゃあ、貴方の我儘に散々つきあってればね」

「ハッ、それじゃあ三日と持たねぇぞ」

「三日も貴方に付き合う気はありませんよ」

「だったら、それ以内に仕事を片付けるんだな。まあ、護衛はともかく、執事としてはなかなか有能なのは認めてやる。素直じゃねぇのが玉に瑕だがな」

「俺にしてみれば、素直になったらそれこそ終わりですよ。俺は貴方に服従するつもりはありませんからね」

 クリスは溜息を吐いて空を見上げ、天頂に瞬く無数の星影を仰いだ。今宵の空に月はない。下校時刻をとうに過ぎたこの時分、学園内は静まり返り、虫たちが鳴く音が、まるで教会のディエス・イレのように、厳粛に響くばかりである。なだらかな丘を越えた彼方に寮から漏れる蝋燭の炎ほどの灯りが見える。右手に聳える白い塔は、幾度もクリスの視界の端を掠めた。嫌でも思い出すのはあの晩のことだ。こうしてこの舗道を歩んだ。月に誘われ、星に誘われ、まるで夢にとりつかれたように必死で。なくてはならないものを捜していた。今と反対に歩んでいたこの道の先にそれはあると確信していたのに。世界は変わった。クリスは気付いた。最早、誰もそれを欲してはいないことに。

 クリスは慎の背中を見つめた。なぜこの人は今になって自分に罰を下そうなどと思いついたのだろう。慎は塔の上でクリスと出会った。クリスを校則違反の実行犯で見つけたのだ。だが、その時は何も言いやしなかった――ただ、学園長の息子であるノアの扱いに気をつけろと言ったのみで――あのことはもう一ヶ月以上も前のことだ。ふと思いついたにしてもやや遅すぎないか。

「大体、貴方は生徒会長なんだから」

クリスは路傍の石を蹴飛ばした。「直接涌水君を呼び寄せればいい話じゃないですか。こんな方法よりずっと平和的だと思うけど。俺も貴方に煩わされなくて済むし」

「石崎、俺のことが嫌いか?」

「はっ?」

 クリスは慌てて石ころから顔を上げ、「何だ」と呟いて溜息を吐いた。流し目でこちらを振り見る慎の口元には、クリスをからかうような微笑があった。口調のあまりの素っ気無さから、一瞬、本気で傷つけてしまったのかと思ってしまった。よく考えれば、この人は、自分に――彼が従える大勢の生徒のうちのたった一人に――嫌われたぐらいで思い悩む必要はないのだ。彼はその地位と権力でクリスを好きなようにできるのだから。慎は咽喉奥で微かに笑声をたててまた訊いた。

「で、どうなんだ?」

クリスはつま先の正面に置いた石を拾って宙に放り投げた。

「えぇ、嫌いですよ。貴方のことも、貴方の後を影みたいに追っかける仕事も……あっ」

 石は予想外に飛んだ。クリスが気付いたときはもう遅かった。まずい。護衛のつもりが一歩間違えて刺客になってしまうではないか。だが、クリスは生徒会長を見くびりすぎていた。慎は天に向かって高く腕を挙げると、掌の中に石を収め、白い完璧な歯並びが闇夜に覗くよう笑いを広げた。クリスはしばらくぽかんとその横顔を眺めていたが、やがて、どうしても言わなければならぬことがあると気付き、言うか言うまいかほんの一瞬悩んで、不承不詳口を開いた。

「あの……」

「何だ?」

慎は何も分からぬふりだ。

「えっと、その、すみ……」

 クリスははっと口を噤んだ。慎の横顔の向こう、学園の西に向かって広がる林檎林の入り口の茂みに、きらりと閃いたものを見たのだ。夜風がクリスの耳に運んできたのは、間違いない、シャッターを切る音だった――問われている罪の二つ、ストーキングと盗撮の内、少なくとも後者を犯した犯人があそこにいる。

「どうした?早く続きを言え」

「あの、今、そこに……!」

クリスは走り出そうとした。慎の脇を通り抜け、自ら指差した先へと向かおうとした。だが、行動は慎によって阻まれた。慎は石を握ったままの手をクリスの前に突き出し、クリスの行方を塞いだのだ。焦った反動か、クリスは思わずかっとなって言った。

「会長、謝罪なら後でいくらでもします!今、あそこに盗撮した奴がいたんです!早く追いかけないと……!」

「いや、構わねぇ。放っとけ」

「何言ってるんですか?!盗撮してる奴を捕まえろって命令したのは、貴方ですよ?」「だから、その俺が良いって言ってるんだ。今は諦めろ」

「何で……っ?!」

 反駁しようとしたクリスは、無意識のうちに縋っていた腕にその身を抱きすくめられ、憤りの余りに肩を大きく反らせた。手は逃げようともがいたが、いずれも慎の掌中だ。ブレザーの紺とワイシャツの白の中を交互に溺れた瞳は、慎の青い眼光に捕まえられた。クリスは息を呑んだ。慎の整いすぎた顔は、クリスのよく通った鼻の先からほんの数センチの場所にあった。

「なっ……」

「もし、ここであっさり犯人が捕まったら、てめぇといられる時間が短くなるだろうが」

「なっ、何をふざけたことを……」

 枝と葉の擦れる音、落葉を踏みしめ、遠のいていくゆるやかな足音、こういったものだけが、虚しくクリスの耳に響き渡った。慎の直視に耐えかねて、クリスは思わず目を逸らした。早くここを逃れたいのに、何故自分は生徒会長の腕を解くことができないのだろう。彼が先輩だから?生徒会長だから?彼の権力が恐ろしいから?違う。クリスは内心密かに首を振った。思うままにできない何か、クリスのまだ知らない何かがそうさせてくれないのだ。それは一体なんだろう――胸の高鳴りが疎ましい。

「石崎、俺と会った夜を覚えているか?」

耳元でそっと囁かれる。クリスは操られたように頷いた。

「お前は校則違反の現行犯だった。だが、俺は見逃した。何でお前をあの場で処分にしなかったと思う?お前が気に入ったからだ」

先ほどの疑問への予想もしなかった答えを突きつけられ、クリスはびくんと跳ねて震えた。あの僅かな会談で、生徒会長が自分のことを気に入ったなんて。信じがたい話だった。慎の告白は続く。

「俺はもっとお前の傍にいたい。お前のことを知りたい。だから、俺は……」

 慎は右手の石を地に放ち、クリスの頬にそっと添えた。クリスは唇を強く噛み締め、今度こそ表に出して首を振った。その瞬間、心身の所有権は再び彼の手に戻った。籠の下から飛び立つ雀のように、素早く捕縛から逃れたクリスは、数歩駆けたところで立ち止まり、振り返って慎を強くにらみつけた。その虚偽にはっきりと嫌悪を示した。

「石崎……」

「ふざけるのも大概にしてください。こんなことの為に俺はあなたの護衛になったんじゃない。俺は帰ります。護衛も辞退します。もうこんな仕事はうんざりだ」

 毅然と背を伸ばし、帰路を歩み出したクリスを誰も止めなかった。慎も、そしてクリス自身も、林檎の林の中を行く人も。


***

 「ただいまー」

 白のアトリエの扉を開けると、エプロンを着けたノアがとたとたと駆けてきた。手にはボウルと泡だて器を持っている。夕食の支度をしている最中だったのだろう。普段はとうに食事は終えている時刻だが、クリスの遅い帰宅を見越して、今日は少し遅めに仕度したようだ。

「お帰りなさい、クリス様」

「ただいま、有瀬」

友人の屈託のない笑顔にクリスは思わずほっと息をついた。心が癒される気がした。やはり、満天の星の下に直接晒されているのは自分の性に合わない。自分には安全な屋根の下が一番合っている。そう思った。クリスが微笑み返すと、ノアはきょとんとして首を傾げた。

「お疲れの様子ですね」

「そんなことないさ。お腹は少し空いてるけど」

「今ちょうど準備していたところです。すぐに出来ますから」

「そっか、ありがと。有瀬は気が利くね」

「えっと、あの、いいえ……」

ノアは染めた頬を落とした。笑ったクリスは、その時、居間で何やら物音がすることに気付いた。どうやらテレビの音らしい。それもドラマのようだ。泣き叫ぶ男女の声が聞こえる。ノアがテレビ、ましてやドラマを見ることはないし、クリスもせいぜいニュース番組を見るだけだ。アトリエには珍しすぎる音楽だった。クリスの驚いた顔で大体悟ったノアは、にっこりと笑って説明した。

「あぁ、今日はお客様がいらしているんですよ」

「客?」

「えぇ……僕の仲間です」


 居間に入ったクリスは、まずどういった反応しようか非常に迷った。客の正体は時の人、涌水明音だった。彼がこちらに向き直り、初めましての一言でもくれればまだ挨拶を返せるのだが、彼の目はテレビに、正確に言えばテレビに映った中年の男性に釘付けで、まるでこちらに気が付く気配がないのだ。どうすべきかと目線で問うと、ノアは笑ったまま容赦なくテレビを消した。涌水明音は言葉にならない声を挙げて振り返った。

「あーっ!何するんですか、有瀬先輩?!」

「ごめんなさい。でも、こちらに気が付かない様子でしたから」

ノアに手で示されて紹介され、クリスは「どうも」と手を振った。ふいに明音の顔が固まる。

「えっと、もしかして、石崎・エーリアル・クリス……先輩?」

「そうだけど、何で今先輩の前に空白が出来……」

 クリスの言葉は明音の二度目の奇声に完全に掻き消された。クリスは思わず両手で耳を覆った。明音は勢いよく胡坐をかいた床の上から立ち上がり、こちらへ詰め寄って、クリスの襟をつかんでぐわんぐわんと振り回した。ふいにクリスの脳にフラッシュバックしたのは、転校初日の朝、花木先生と出会ったあの時のことだ。興奮の仕方もまるで一緒、まさにデジャヴだ。明音はクリスを揺すりながら、只管に沸き起こる思いをぶつけてきた

「先輩!護衛の役割、俺と変わってください!」

「はあ?何言ってるんだよ?護衛っていうのは……」

「慎様と一緒にいられるなんて羨ましすぎます!今すぐ変わってください!」

「あのー、だからねー……」

「俺だってちゃんと仕事はできますから!慎様の写真を流出させるなんて許せません!慎様のプライベートはちゃんと守られるべき……!」

「えっ……じゃあ、君じゃないの?」

「はっ?何がですか?」

お互いがお互いをよく理解しない故の、不可思議な沈黙が生まれた。鍋のぐつぐつと煮えている様子だけがよく分かる。

「えっと、会長の写真を盗撮して、それを流出させてたのって……」

「バカ言わないでください!誰がそんなことするもんか。僕が撮った写真は、僕一人が楽しむためのものです。他人になんか絶対ゆずりません!」

「盗撮は認めるんだな……あれ?君いつからここにいるの?」

「一時間ほど前ですよ。ルームメイトと喧嘩して飛び出してきたんですって」

こちらにはノアが答える。慎と別れたのは三十分も前のことではなかった。

「っていうことは、君と別に犯人がいるってこと?」

 クリスは椅子に腰をおろして考え込んだ。慎の推理は外れていたのだ。信用できるノアの証言もあるし、何より明音の真っ直ぐで純粋なまでの感情表現が、明音の有罪を否定している。ならば、一体誰だろう?そこまで考えて、クリスはふと、自分がもうそのような面倒ごとに関わらなくとも良いことを思い出した。そうだ、関わらないでいられるならば、それまでだ。明音はまだ真犯人への呪いを呟いていたが、クリスとノアが食卓につくと、自分も一緒に席についた。明音はもう夕食を済ませていたので、彼には紅茶と特大のチョコレートケーキが出された。明音は無言で貪り続けた。

「そうだ、涌水君、一つ聞きたいんだけど」

「明音でいいっすよ」

クリスたちも漸くケーキに追いついた頃、四切れ目にフォークを突き刺しながら、明音は気前よく言った。明るい少年らしい。

「じゃあ、明音君、あのさ――まあ、くだらない質問かもしれないんだけど――何で君はそこまで会長にこだわる訳?」

「そりゃあ、もちろん、かっこよくて、美しくて、見目麗しくて、頭がよくて、運動神経も抜群で……」

「涌水君、クリス様が訊いているのはそんなことじゃないんですよ」

 驚いてノアを見たのは、クリスも同様だった。一体どういう意味だろう。クリスは別に問いに他意はなかったはずなのに。ノアは自分で淹れた紅茶の味に満足したらしく、小さく微笑んで「美味しい」と呟いた。クリスと明音は顔を見合わせ、淹れてくれた人への礼儀として、ティーカップの取っ手に指をかけた。クリスが初めてここにきたとき、ノアが出してくれたのと同じ紅茶だった。柑橘類の香とミルクの余韻の絶妙なハーモニーに思わず黙し、やがて、クリスは、明音の表情に変化を認めたのであった。

「誰にも言わないって約束してくださいね……」

それは明るく務めた声だった。表情も柔らかかった。まるで、愛おしいものを手の中で愛でているように。

「慎様は……俺のお兄様なんです」

明音は物語を切り出した。

「俺の母親は若い時女優だったんです。涌水静香っていう。結局大した出世はしなかったし、活動期間も短かったから、多分今はほとんどの人が知らないと思います。ある日、母はほんの脇役で登場する映画の撮影で、ハリウッド俳優のホウセイ・チズミと出会ったんです。その頃はまだ千住法正っていうのが名前でしたけど。当時、千住法正には奥さんも子どももいました。でも……母のことを愛しました。えぇ、愛したんです。決して、ちょっと手をかけたというようなものではない、私は本気で愛されたんだって、母は何度も繰り返していましたから。それで、母は俺を身篭りました。事務所も、映画の関係者も、誰もがこのことを隠蔽しました。母は纏まったお金だけ渡されて、今後千住法正と会うことを禁じられ、芸能界を退くことを強要されました。母は受け入れました。どうしても子供を産みたかったから。そして、女手一つでここまで俺を育ててくれました。っていっても、二年前までっすけどね。病気で亡くなりました」

明音はそこで口を閉じ、重苦しい顔をしているクリスを見て笑った。

「やめてくださいよ、先輩。そんな話じゃないっす。母は最期まで幸せでしたもん。大好きな人の子どもを産めて、大好きな人に愛されたって信じてましたし。母は、俺の父親のこと、まあつまり、千住法正のことだとか、俺と半分だけ血の繋がってる兄のこととか、よく話してくれたんです。慎様は有名な人だから、よく慎様の話を聞きました。慎様がフェンシングで勝ったとか、名門三宿学園に合格しただとか、それだけで、俺はすごく誇らしくって。で、いつしか慎様のことを心から尊敬するようになって……まあ、そういう話っす。長くなりましたけど」

「そのことを会長は?君が弟だってこと、会長は……?」

 明音は五切れ目のチョコレートケーキに伸ばしかけた手を止めた。クリスを見つめた目は、睨んだといってもよいほどの強い光を放っていた。慎と同じ色だ。青い色だ。そして、先ほど、彼の兄がそうしたように、彼もその色でクリスを射竦める。

「知りません。そして、絶対に知らせてはなりません。それは慎様の家庭を、幸せを崩壊させることです。絶対に、絶対に、それだけは……ダメっす」

 明音はブレザーの胸ポケットに手を入れた。取り出したのは手帳だった。慎の写真とそれに関する情報を記載した手帳。クリスに有無を言わせない強情さも、その手帳を開く頃には、甘く蕩けていた。彼が賞味した、ノア手作りのチョコレートケーキのように。


***

 時計から鳩が飛び出し、深夜二時を過ぎた頃、まだ寝室には入れぬままの慎は、庭から確かな物音を聞いた。まさかあいつか。しかし、こんな時刻に?まさか奴とて睡眠時間ぐらいは惜しむだろう。窓辺に寄り、疑問とその解消に暮れる中、暗黒にじられた庭に浮かんだのは一軒のテントであった。慎は顔をしかめた。とうとう奴も作戦を変えてきたのか。メイドはもう下がらせた。慎じきじきのお出ましとなる。彼には喜ばしいことだろう。

人工芝を踏みつける。右の暗闇からは小さな噴水の微かに脈動するのが聞こえ、左には風のそよとも吹く気配はない。真っ直ぐ向かった先、赤っぽい色をしたテントの中で、突如シャッターが閃いた。だが、カメラの奥にあったのは涌水明音の顔ではない。葡萄酒色の髪をした少年のものであった。灰色の瞳には果たして何も湛えず、口元には微笑を施し、青白い頬はテントから漏れる灯りに照らされている。慎は笑った。

「てめぇか」

「そうだよ、久しぶりだね、慎」

「久しぶりも何も、最近はずっと俺のことを付回してたんだろうが」

「そうだよ。でも、おかげで見知らぬ影に気付けたでしょう?大丈夫だよ、慎。僕がいなくても、君にはちゃんと影があるんだから。まだ君は認めないだろうけど」


 ゆったりと広い居間のテーブルの上、冷めたコーヒーの傍らに置かれていたのは古い雑誌の切り抜きであった。明朝体が叫んでいる。


『人気俳優・千住法正に不倫疑惑―突然の女優の降板に潜む影は?』



10月18日水曜日 就寝時間不明



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