第六話 落ち葉色の美学・後編
「おめでとう、茘枝」
「何の話だ?」
「とぼけるなよ。氷室財閥の跡取りに決まったじゃないか」
「まだ正式に決定したわけではない。早まるな、颯」
「もう100パーセント確定だよ。これで僕は茘枝におめでとうを言った最初の人物になったみたいだな」
「相変わらず情報が早いな……」
パーティ用の礼装を崩した茘枝は、ティーカップに紅茶を注ぎながら、自室の座り慣れた椅子に腰掛け、受話器越しに溜息を吐いた。時刻は午前一時。中学二年生が電話をするには、随分と遅い時間帯であることは間違いない。だが、茘枝が心の鎮静に必要としていたのは、睡眠よりも親友との静かな会話だった。今夜は眠るには疲れすぎていた。
茘枝の部屋はさっぱりとして落ち着いていた。現在持ち主に使用されている椅子と机を除けば、大きなものは、クイーンサイズのベッドと本棚、一流メーカーの音楽再生機に繋がれたスピーカーに、ドイツ製のピアノぐらいしか見当たらない。もちろん、一般の人々の寝室のサイズには十分過ぎただろうが。受話器の向こうから颯の尋ねる声がする。
「で、どうだったの?」
「何が?」
茘枝は再び訊き返す。
「全く、じらすのが上手だね。川崎陽のことさ。わざわざ調べてやったんだから、感想ぐらいは教えてくれたっていいだろう?」
「ああ、彼のことか。取り立てて言うほどのことはない。仲良くやったさ」
「まさか、君が?」
茘枝は目を閉じて紅茶をすすった。何度追い払ってもまた何食わぬ顔をして戻ってくる。からかうような笑いと、その茶化した態度には似合わぬ鋭い藍色の瞳。目を開けても同じものがあった。知らぬ間に右手はポケットの中を探っていたようだ。
「おーい、茘枝?生きてる?」
「失敬な。電話したまま死ぬほど私は迂闊ではない。ましてやこのような晩に……そう、そのまさかだ。川崎陽とは何事もなく仲良くやった」
「ふーん。何か色々疑わしいけど、何も訊かないでおくよ。でも、大丈夫?あの破天荒な王子様にほれられたりしなかった?」
「ほう、破天荒というのは初めて聞いたな」
「……茘枝、君ってどうして質問にすぐ答えないの?」
「悪い。いつもくだらぬ感想ばかり口走ってしまうようだ。しかし、それにしても今の質問は愚問だったぞ」
「そうかな?十分有り得ると思うけど……」
「何か根拠でも?」
「いや、ないよ。だけど、君のことだから、色気で敵を落としたのかもしれないと思って」
茘枝は声を上げて笑った。寝ている両親を起こさぬほどの、しかし、受話器越しに颯を吃驚させるほどの音量で。
「颯、君はやはり川崎陽より私を分かっているよ。そうだ、私は目的のためならそうしかねない人間だ。だが、今夜はしなくて済んだよ。そもそもあちらに戦う意欲がなかったからね」
持ち上げたティーポッドは空だった。メイドにもう少し淹れさせようか。いや、今夜はこれで十分だろう。茘枝は立ち上がり、ほの暗い天井に両腕を伸ばした。
「変な茘枝。今日はもう寝た方がいいよ。僕の方も……あっ、ナツが起きちゃったみたい」
「忠告ありがとう。わざわざ付き合せて悪かった。では、お姫様を寝かす仕事に戻っていいぞ」
「言われなくとも。じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
茘枝は電話を切った。着替えるのがひどく億劫だったので、茘枝はそのままベッドの中に潜り込んだ。そして瞼を閉じれば、ほら、すぐに――川崎陽が現われた。彼の前髪は風にはためき、奥に潜めた二つの宝石を見え隠れさせている。彼の姿を暗闇の中に映し出したまま、茘枝は額に手を充てた。熱かった。おまけに鼓動が嫌に速かった。風邪でも引いたのだろうか。だが、咳や頭痛などのいつもの兆しはまるでなかった。きっと疲れているのだろう。しかし、今晩で全ての重荷は消え去ったことだし、数日後には全ての栄誉がこの手の中に入る。休もう、今は。眠れなくとも眠っているのだと自分を騙せばよいのだから……
不眠に苦しんだ末、有明に見た夢は荒れていた。秋から冬への変わり目、急激に冷たくなった風が、麗しくも薄い衣を纏った茘枝の肌を苛め、木々から葉を奪っては茘枝の顔に投げつけた。茘枝は何も言わずに堪えていた。耐えられないことなどない。この冷風の次にも吹雪がやってくる。だが、それさえ終われば――茘枝は暗闇の中で目を凝らした。前方に光は望めなかった。それは背後にあった。茘枝が突き進もうとしている道の反対に。自分を呼ぶ声がする。うっとうしくて泣きたくなるくらい、何度も。
***
三宿学園中等部の教室で、千住慎は雑誌のページをめくっていた。雑誌と言っても、子どもが目も当てられないようなスキャンダルばかりつづった猥雑なものではなく、彼の父の検閲を通して届けられた特殊な情報誌だ。彼の右肩に肘をかけているのは、彼と情報を共有することを許された唯一の友、颯だった。肩の重さが気になるのか、慎が不機嫌そうにぱらりとページをめくれば、氷室財閥次期統領の決定を報せるゴシック体と三枚の写真がそこに現われた。
「小杉茘枝、な」
慎は三枚の内もっとも目立った写真――バイオリンを奏でる茘枝を映したもの――を指差し、眉間の皺を微かに留めたまま、頬の筋肉を緩ませて言った。
「おや、その情報なら僕に聞いた方が早かったようだよ。僕はもう二日前に知ってたんだから」
「何だと?」
不快な驚きを浮かべた慎に下から睨めつけられ、颯は朗らかに説明した。
「茘枝は親友なんだよ。言わなかった?小学校のときに一緒だったから。今回の騒動の相談相手も僕が引き受けたのさ」
「フン、母親が氷室家のパーティに行けなかったばかりに、てめぇに先を越されるとはな」
「それは残念。今回は僕の勝ちってことだね。茘枝に感謝しなきゃ」
慎は忌々しげに鼻を鳴らすと、文章中に何度も現われる茘枝の字を指で追いながら、その名を口に出して呼んだ。
「どうしたの、慎?」
「いや、名前が気になっただけだ。こいつが氷室弘毅に寵愛されるのも無理ないと思ってな」
「……ああ、茘枝ね。そういえば、楊貴妃に愛された果物だったね、あれ」
何とも皮肉的なことだ、と颯は思った。皮肉的といえば親友の報告もそうだ。「仲良くやった」だなんて。あの自信家で、本人も認めている通り高慢な茘枝と、破天荒で、周囲を仰天させる才能に秀でた(颯の調査によると)川崎陽が、二人向き合って何事もなく過ごせるはずがない。
慎と颯はふと沈黙す。たった二人の沈黙に、教室全体のざわめきが際立った。
「しかし、気に食わねぇな。この顔」
慎が思いついたように呟いた。颯は少し遅れて反応した。これまた皮肉的な記憶を手繰り寄せて。
「茘枝も同じようなこと言ってた気がする。慎の写真見たときに」
いずれ本格的に深まるこの二人の敵対関係は、四年前の段階で既に基盤が出来上がっていたのである。
***
彼自身の覚悟の監視下で、茘枝は得意の絶頂にいた。与えられた冠の輝きは、持ち主を一層優雅に、一層気高く照らし出した。誰しもがその栄光に目を惹かれ、喝采を浴びさせた。彼を追う足音は日に日に増していた。
虚しさを覚えることはなかった――覚悟という名の注射器は、二十四時間体制で稼動しており、絶えず茘枝の心に麻酔を打ち続けていたから。この麻酔に依存したままでも、頭を高く掲げて生きていける自信はあった。名誉がこの身と心を寵み続ける限り。そして、川崎陽が二度と目の前に現われない限り。
茘枝は陽の写真を捨ててはいなかった。何度も屑篭に放り込もうとしてみたのだが、右手は思いとどまってしまう。何度も丸めたり広げたりを繰り返した末、それは写真としての価値も失いつつあったが、他にはバイオリンのネック越しに掴まれた手以外、彼との関わりを思い起こすものはなかった。覚悟は、茘枝が時折写真を見つめて動かなくなる行動を次のように解釈していた。すなわち、彼に受けた屈辱を忘れぬようにするためだと。しかし、それには偉大なる矛盾点があった。陽の顔を見るたびに、茘枝は怒りを覚えるどころか、心が休まったのである。つまり、彼を敵と見なす前の状態、覚悟を決める前の状態に戻ってしまったということだ。だが、そのことに気付かないままでいるのが、自らを葛藤の荒波から救う、唯一の方法であった。
「茘枝様」
あの夜会から一週間が過ぎた日のことだった。自宅の廊下を歩む彼を、古参のメイドが呼び止めた。やや不機嫌に振り返る主人にも、メイドは慣れたように告げる。
「茘枝様、弘毅様よりお手紙を預かっております」
「読め」
メイドのしなびた手に握られた封筒を確かめてから、茘枝は素っ気無く言った。
「しかし、茘枝様。弘毅様はごくごく内密にとおっしゃって……」
「構わん、読め。ここには主人の話を盗み聞きするような不届き者はいない」
「……畏まりました」
手紙の内容は非常に簡素なものだった。その行数はわずか二行で、今すぐ某海岸沿いにある弘毅の別荘に来てほしいとのものだった。ただし、両親にはそこにいることを秘密にしておいてほしい。自分と面会したことを、誰にも知られたくはないから。
「すぐに準備しろ」
茘枝はメイドに背中を向けてから命じた。
このような時、どのような格好をしていけばいいか、茘枝はもう分かっていた。ウォーキングクローゼットの扉を開け、薄手の露出度の少ない服を選んで着替えた。もちろん、襟元を開けば白い素肌も顔を覗かせるし、裾をめくれば……茘枝は何か厭わしいことをするように手早く着替えて、表に出た。車はもう待ち構えていた。
運転手は最短距離を選んだようだった。茘枝が住まう高級住宅街はあっという間に風に飛び、間もなく左手に海が輝き始めた。そのまま真っ直ぐ行き続ければ、一時間も経たずに伯父の別荘に着くだろう。茘枝は海を眺めて、何も考えぬように努めた。時々迷い出た思考の小道で声がした。
「大丈夫だ」
「どうして?」
「私には光がある」
その時、茘枝は初めて、自分が川崎陽をどのように思い続けてきたかを知った。
あの夜、自分は陽に言った――私は伯父にも劣らず心の冷たい人間だ。目的のためには手段を選ばない。狡猾で醜い。それを隠すために優雅に気高く振舞い続ける。君とは違う。君は素直で正直な人間だ。他人も自分も騙すことなどできない。私とは全く別の道を行く人だ。私の生き方など、理解できるはずがない、と。
自分と川崎陽の間に線を引いてしまいたかったのだ。光と影に、二人を分けてしまいたかったのだ。美徳と正義を失い、影を背負うものとして。暗い森をさまよい続ける者として。川崎陽に光を託したかったのだ。在り処が分からなくなったまま引き摺り続けてきた光を。川崎陽の写真を見て覚えたのは、他でもない、彼になら光を託すことができるという安心感だった。彼の澄み切った目を恐れたのは、この愚かな策略を見抜かれぬのではと警戒したからだ。そして、今、彼の写真を見て心安らいでいるのは――多分、自分の預けた光をそこに見て、安堵しているのだろう。他の者の手に渡った子の成長を、実の親が微笑んで見守るが如く。
出来れば光と共に生きたかった。川崎陽に託した光だけではない。川崎陽という少年そのものと。だが、巡り会えてもそれは許されなかった。だから、いっそのことと思って全ての光を断ち切った。私は影として生きる。頭に頂いた名誉という冠は、私の影を濃密にするばかりだから。今度こそ、何も恐ろしくなかった。何も厭わしくなかった。虚しくもなかった。川崎陽の影として生きると思えば。
氷室弘毅の別荘とは、海に身を乗り出すように建つ、小さな白い灯台のような建物のことを指した。周囲に広がるのは海と砂ばかりで、その人目を忍ぶようにぽつんと立ち尽くす様は、あの傲岸不遜な氷室邸の兄弟分であるとはとても思えなかった。車を降りた茘枝は、たった一人の使用人に迎えられ、すぐに奥の間に通された。廊下を歩む足音も絨毯が吸収してしまうために、屋敷の中はひどく静かだった。空を舞うカモメたちの鳴き声が、時折屋根越しに聞こえてきた。
「やあ、急に呼び出してすまなかったね」
来客に椅子を勧めて開口一番、伯父はそう言って笑った。肘の上で両手を組み、身を屈めるようにして座る彼の後ろには、水平線までも望める大きな窓があった。午後の霞んだ太陽は、そこから部屋の中に白い日差しを投げ掛けてくる。低めのソファに挟まれて置かれたガラスのテーブルの上で、出されたばかりの紅茶は湯気を立て、この部屋に更なる白を増やしていた。
「いいえ。寧ろ招いて頂けて光栄です」
茘枝はティーカップの取っ手に指をかけたが、持ち上げはしなかった。弘毅の黒く鋭い目が細くなり、笑いはどこか含みのある微笑に変わった。
「はは、そんなに他人行儀にならないでくれ。こちらの身が引けてしまうよ。私と君は伯父と甥の仲なのだしね。それに、近いうちは……その……聞いているかどうかは分からないが……もし、君がよいというのだったら……」
「伯父さんと暮らすことに関して、私に異存はありません」
悠然と返した甥に、弘毅は不意を付かれて言葉を失い、彼の表情を見遣ろうとして、開いた胸元に目を留めた。純白のシャツのその下に、一層白く清らかな鎖骨が、まるで両腕を差し伸べるかのように突き出ている。茘枝の本物の手は、顎を落ちてなだらかな喉を這って滑り、ワイシャツの襟に引っかかって止まった。弘毅が茘枝の顔を見上げると、何とも艶なまえかしい微笑みが彼を迎えた。谷を駆け上った山の麓、一面に広がる雪野を隠すボタンは、手の重みにきしんで不安げに揺れている。誘いを断らなくてはならぬ理由はない。弘毅は腰を上げた。その時だった。
「弘毅様!」
何とも絶妙なタイミングで、使用人が飛び込んできてくれた。本来ならば、こういう空気はまず壊さず、壊したとして修復可能な範囲にとどめて、さっさと退散する彼だったが、この時ばかりは違った。その慌てぶりを見ても、緊急事態であることはすぐに分かった。弘毅は起こした体の方向をくるりと変え、主らしい威厳を以って尋ねた。
「何だ、客人の前で騒いで。一体何が起こったのかね?」
「申し訳ございません。外で何かが割れる音がしたので様子を見に出てみたところ、車の窓ガラスが割られていまして……」
弘毅の顔は見るみるうちに真っ青になった。
「何故だね?車庫の警報は鳴らなかったぞ!」
「はい。警報装置も壊されていましたので……」
「音を聞いたのはいつのことだ?」
「つい五分前です」
「うむ。まだ犯人が辺りをうろついてるかもしれん。様子を見に行こう」
「はい、弘毅様!」
愛車の破損がよっぽどショックだったのだろう。弘毅は甥の存在も忘れて部屋を飛び出していった。その後を、彼の従順な召使が追った。しかし、こんな人気のない場所に、物騒な輩がいるものだ。伯父も可愛そうに。一人取り残された茘枝は胸中ぼやくと、何を思うでもなく目を閉ざし、シャツのボタンに指をかけた。今、茘枝は不思議な倦怠感に支配されており、この手に馴染んだ髪を梳くという癖さえ億劫だった。わざわざ損害の程度を検めにいく義務も感じない。一人の時間を悠々と過ごさせて頂くことにしよう。茘枝は海を見るために窓へ近づき、こつんという小さな音を聞いた。ガラスに小石をぶつけたような音だった。怪訝な面持ちで立ち止まり、聞き間違いかと耳をすませれば、今度は音と共に、窓の右下に何かが閃くのが見えた。まさか……茘枝は窓へ寄る足を急かした。大きく震える紅い目と、無邪気に窓の内をうかがう青い目とぶつかるなり、後者の持ち主、川崎陽は口の端を吊り上げた。片方の手で砂にまみれた貝殻をもてあそび、もう一方はグレイのパーカーのポケットに突っ込んでいる。彼は葉の落ちた木の幹に寄りかかっていたが、いとこが窓を開けて顔を覗かすと、貝を投げ捨てて手を差し伸べた。茘枝の驚き呆れる様子に対して、陽は風のように飄々としていた。彼は陽気に口を開いた。
「よう、久しぶり。ずいぶん洒落た格好してんな」
「どうしてここにいる?」
茘枝が桟に足を踏み出せないまま訊くと、陽は悪戯っぽく喉を鳴らした。
「他人の敷地内にこそこそ入り込んでやることといったら決まってんだろ?」
「……車を壊すことか?」
「とぼけんなよ。あんないけすかねぇ奴の車なら、オレがやんなくても誰か壊すだろ。あっちはおとり。本当の目的は盗みだ」
「生憎あいにくここには盗むものなどない。強いて言うのなら私ぐらいだ」
「おっ、なんだ。やっぱ分かってんじゃん」
「だが……」
尋ねようとした。なぜ自分をここから連れ出そうとするのかと。だが、窓枠に立ったままでは訊けなかった。無理矢理手を引かれて窓から転げ落ち、陽の腕の中に収められ、熱を分け合い、ふと離れて向き合った瞬間まで。
「どうして?」
離れる直前、やや反射的に取ってしまった指先の硬い手を、茘枝は自分の心臓の真上に押し当てた。陽はいい加減な態度で肩を竦める。
「さあな。何て答えてほしい?」
茘枝は首を右側に傾ぎ、唇に折り曲げた人差し指を宛てて暫し考え込んだ。
「分からない……もう一度会いたかったと言ってくれれば、恐らく嬉しいと思う」
「あのなぁ、もう一度会いたかったぐらいで、わざわざあんたの車追跡してやって来られるかっつーの。ったく、これだから世間知らずの坊ちゃまは。とにかく行くぞ。あっちに車待たせてんだから」
「待て、どこに行くつもりだ?」
「知らね。それはあんたが決めることだろ。あんたが望むなら、家にだって送ってやるぜ」
二人は誰もいない浜辺を走った。まるで長く親しんできた相手にするように、互いの手をきつく結びながら。潮風が火照った頬を冷やし、髪をなびかせる。カモメのカップルは声高く鳴き、白い翼が水と戯れるほど海面間近に飛んでいた。彼らが海に腹を浸すのを止め、空に高く舞い上がるのを見て、二人はおうやく立ち止まった。穏やかな波が反射した陽光が、二人の顔を明るく照らし出す。
「川崎陽」
握った手の持ち主に、茘枝は呼びかけた。顔も見ず。
「私はどこに行こうと構わない……君と一緒なら」
夢にまで現われたあの不敵な笑い顔が、視界の端に浮かんだ気がした。
「そうこなくっちゃ」
***
「ジャクソーン」
「なによぉ?」
「なーんで、私の見合い話はことごとく失敗するのよー?私はいつ結婚できるのよー?」
「……飲みなさい」
覚悟している――穢れることも、誰かの心を踏みにじることも、感情を振り捨てることも。命を投げ出すことも、名誉を破棄することさえも。陽のためならば厭わしいことなど何もない。それほどまでに陽を愛しているから。
海に面したベランダに出でて、茘枝はバイオリンを奏でていた。慣れ親しんだ音色は潮風に乗り、見知らぬどこか遠くへ飛んでいく。月は、星を彼女の軌跡のように煌かせながら、ゆっくりと南の空へと昇っている最中だ。三宿学園の夜は、波の音さえも包みこみ、厳かな静謐を作り出している。しかし、この静けさを妨げずに破る技を、茘枝は既に身に着けていた。颯の計らいでここにやってきてから早四年、その間ずっと付き合ってきたのだから。
「おいおい、また慎から苦情が出るぜ。朝の目覚めが悪くなるってよ」
バイオリンの音を止める効果なら、言葉がなくとも、肩に巻きつけられた腕だけで十分だった。茘枝が陽の声を聞き逃す訳がない。彼は優雅に笑声を漏らした。
「心配することはない。明日は土曜日だ。あいつだって少しは遅めに起きるはずだ」
「おっ、珍しい。一応奴に配慮してやってたなんて」
「まさか、この私が?」
茘枝は陽に肩を押されるまま部屋に戻り、バイオリンを丁寧に拭いてケースの中にしまいこんだ。広々とした室内は温度に満ち、陽が淹れたコーヒーの香りが漂っている。愛猫のシャネルが茘枝にソファを譲ったので、座って紅茶をたしなんでいると、左からずしりと依存してくる頭がある。茘枝はもう習慣のように手を伸ばし、その髪を撫で上げた。
「なあ、茘枝ー」
「何だ?」
四年前は知らなかった、絡みつくような甘えた声。それに応じて茘枝は返した。
「おまえさ、まさかオレに嘘吐いたりしねぇよな?」
「当たり前だ。これまでそうしたことがあったか?」
「ないっと。よし、これで万事オッケーだ」
「……一体何の話だ?」
怪訝な顔で陽の顔と向き直り、茘枝は思わず身を引いた。茘枝以外の人の前では、否、彼の前でも滅多に晒されない藍色の瞳が、黒いベールの向こうで燦々《さんさん》と光を発していたのだ。獲物を狙う猫の如く。四年間の経験で嫌と云うほど知っている。それの意味するものは――虚しい期待にかけて、茘枝は突如何かを思い出したかのように声をあげ、ツバメの旋廻するよりも素早くソファを立とうとした。が、無駄だった。彼の体は、その場にしっかりと固定されていたから。茘枝は赤い果実の皮を捲らせ、白い果肉を見せ付けて何とか微笑のようなものを浮かべた。その甘きが、人を狂わせるとは知らず。
「あ、陽、ほら、シャネルに餌をやらないと……」
愛猫は白い身をひるがえしてあっさりと裏切った。
「んなもん後でやればいいだろ?それよりさ、さっきおまえのこと怒らせたことの方が気にかかってしょうがなくてよ。さっさと謝りてぇし、力尽くでも怒らせた理由聞いておこうと思って」
「ああ、もうそのことなら気にして……」
「ダメ。オレが気になるから」
「陽!」
ひらひら、ひらひらと。果たしてどこへ行きたいのか。落ち葉の心は分からない。荒波を超えて来たものを確かな手と思って身を預ければ、それは手を模った落葉であった。
しかし、この摩訶不思議な幻想もまた、少年たちが望んだ美学の一つである。