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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
序章 知らせは誰が元へ
13/82

第六話 落ち葉色の美学・前編

第八話主要登場人物


・小杉茘枝

3年生。生徒会議長。

気位の高い優雅なバイオリニスト。陽と共に行動することが多いが……


・川崎陽

3年生。生徒会会計。

掴みどころのない不思議な少年。ドラムの腕で学園中の人気を集める。


・氷室弘毅…氷室財閥統領。


・氷室彼方…弘毅の養子。氷室財閥の跡取り。




 何故手に取ってしまったのかはわからない。恐らく見た瞬間に惹かれていたのだと思う。優雅で誇り高く、穢れを目前にしても尚頭を高く掲げ、深い紺青の奥で輝き続けていた赤い宝石。川底の丸石でさえ幼子を魅了するというのに、怒涛の海に潜むその宝石の、いかに人の心を虜にして離さぬこと。

 海の紅玉に射すくめられ、荒い波に四肢をもがれた人は数知れぬ。ただ分かるのは、自分がその数多の先例に加わらなかったことのみだ。宝石は浮かび上がり、この手に重さを預けている。時折歌を歌いながら。転がり落ちかねない危うさを保ちつつ。


***

 「何あれ?」

「どれ?」

 金曜日の放課後のことであった。美術部に道具を借りて(部長である落合の友人という立場を利用して)颯に頼まれたダンス部の大会の背景を仕上げたクリスは、落合のまずいものを見たような声にも、ほぼ反射的に聞き返した。それから、落合が黙ったままでいるのを疑問に思い、ふと水道の絵の具から目を逸らして振り返り、落合と同じ色になった――絵の具を頭から被った訳ではあるまい。だが、二人の顔は言及せねばならぬほど、鮮やかな青に染められていた。

「と、鳥居先生……」

「みちるちゃん、何してんの……?」

「う、うるさいわね!放っておきなさいっ!」

 歳の割につややかな顔面を朱に染めて、鳥居先生はやけになって怒鳴った。隣にはジャクソン先生もいたが、紫色のお化けと化した彼もしくは彼女のインパクトも薄れるまでに、鳥居先生は大変身を遂げていた。栗茶色に染めた(落合曰く白髪染め)、普段は無造作に垂らした髪を上げてうなじを見せつけ、耳には小さな緑の石のイヤリング、真っ赤な顔に化粧を施し、鹿のようにしなやかな身はグレイのスカートスーツで覆われている。自慢の脚はストッキングをまとったのみで、膝から露になっている。否、美しいのだ。女性としては一級品なのだ。だが、出来すぎた装いが、綺麗なのにどこか冴えない鳥居先生を不思議と一層彷彿させるのだ。先生はそのことに気付いていたが、今更コーディネーターに文句を言う訳にもいかず、それが自分の美的感覚のみに留まることを願っていた。そして、緊張で死にそうなときにこの仕打ち。

「あー、もう無理よー、私帰るー、ジャクソンー!」

「何バカなこと言ってんの!子どもじゃないんですからねっ!」

と、親友のためには厳しいジャクソン先生。

「あの、何かあるんですか……?」

 クリスが恐る恐る尋ねる。

「お見合いよ。お、み、あ、い」

「えっ、今からですか?」

「今からって何よ?今からって?!まさか歳のことじゃないでしょうね?!」

「まあ、そんなたいしたものじゃないんだけどねぇ。あたしぃ、実はコーディネーターみたいな仕事をやっててね、ああ、もちろんお給料をもらってる訳じゃないのよぉ。ただの趣、味。それがどうも評判よくってねぇ、結構有名な人とか、上流階級の奥さんとかも付き合うようになったの。で、ついこの間、まあ成り上がりって言えば成り上がりなんだけど、親切な奥様に出会ってねぇ。で、紹介されたのが時の人!二十九歳の貴公子、氷室彼方ひむろかなたさんよぉ」

「二十九歳の……」

「貴公子……」

 クリスと落合は実際に口に出してみて、語呂はいいが代名詞としての仕事が浅薄なことに早も気付いた。氷室彼方との名前にも聞き覚えなく、二人は訝しげに顔を見合わせる。

「もーう、知らないのぉ?全く、これだから最近のお子様は。氷室財閥の跡取りよぉ……氷室財閥ぐらいは知ってるでしょぉ?」

 二人は考えるもせずに首を振った。

「もーう、信じられなぁい。氷室財閥っていうのはねぇ……」

 人差し指の代わりに小指をぴんと立て、氷室財閥について長ったらしい説明を始めようとしてジャクソン先生の袖を、鳥居先生が引っ張った。

「ジャクソン、もういいわよ!私行くから!行くだけ行ってくだけてみるから!早くしないと遅刻しちゃう……!」

「はいはい。我儘なんだから、もう。まっ、氷室財閥のことは、後でじーっくりみちるに聞きなさいなっ。未来の氷室家のお嫁さんにね」

「う、うるさい!あ、あんたたち、余計なこと言いふらしたら承知しないからね!特に、落合!」

「俺が何するって言うんですか?せいぜい写真ばら撒くとか……」

「んなことしたらただじゃおかないわよ!」

 キーキー喚く鳥居先生の襟を、呆れたジャクソン先生が破れないよう慎重に引っ張っていく。遠のく教師二名を見送りながら、クリスはあの二人のうちどちらの方がまともなのか考えていた。恐らくどっちもどっちなのだろう。しかし、鳥居先生がまさかの玉の輿だなんて。氷室財閥とその御曹司おんぞうしの権威については、後で誰かに尋ねてみることにしよう。 クリスはふと時計を見た。午後六時十分前。お腹も空いてきたし、そろそろ帰る準備をした方がよさそうだ。今日の夕食は何だろうか。ノアはもう仕度を始めただろうか。

 落合を共だっての帰り道、クリスは噴水前のベンチに佇む二つの人影を見た。「おっ」と落合が感嘆の声を上げた。彼が立ち止まったのにつられて茂み越しに覗いてみると、生徒会役員の二名が腰をかけ、言葉少なく語り合っていた。クリスはその名を知っていた。髪を腰まで伸ばした紅目の先輩は小杉茘枝、生徒会議長を務めている。もう一人の、長い前髪で双眸を多い、更に伸ばした頬の脇の髪に紫色のメッシュを入れた方は、生徒会会計の川崎陽だ。二人が別々に行動しているのを、クリスはこれまで見たことがない。部活動はそれぞれ弦楽部と軽音楽部らしいので、離れることもやはりあるらしいのだが。クリスと落合が見ている内に、陽が何か呟いて二人は席を立ち、遠く夕日の揺らめく方へ去って行った。

「けっ、羨ましいぜ」

落合がぼやいた。

「いっつもあの調子だもんな。あーあ、俺も中野君とあれぐらい……」

「まだ諦めてなかったの?」

いつしかもその名を聞いたことを思い出し、クリスは思わず訊いた。

「はっ!俺は惚れると少ししつこいことで有名なんだぜ」

「そう……じゃあ、せいぜいストーカーで捕まらないよう祈っとくよ」

「おい、エーリアル、その言い草は何だ?俺は法に触れるようなことなど、断じて、いや、多分しないはずだ!」

「うん、それを聞いて安心した」


***

 学園の入り口で、陽が急に足を停めた。茘枝も既に、学園の門に落とされた車の影に気付いていた。ただ、言葉にして存在を認めなかったのみで。二人の眼はたちまちリムジンの傷一つない車体に吸い寄せられ、紅と隠れた藍が、艶のある黒の上で重なり合った。陽より先を歩いていた茘枝は、少し足を戻して彼の隣に立ち、息を潜めた。やがて、黒服のおきなが運転席から出てきて、しずしずと後部座席の戸を開けた。星のような銀髪の、背の高い青年が、爽やかな笑みを携えて現れた。見る限りでは非の打ち所のない好青年だ――若く、賢く、秀麗で栄誉に満ち、青い切れ長の目に野心を燃やしている。彼は自分を観察する四つの視線は知らぬまま、煙草を取り出し、そしてしまった。これから淑女と面会することを思い出したのだ。茘枝は薄っすら笑ったが、青年に寄せた目に面白がっている風味はなかった。

「我が君ご寵愛の彼方様は煙草をたしなむと見える。人は変わるものだな。ほんの少し前まで酒も飲めないお坊ちゃまだったのに」

「少し潮風に当たってきたんだろ。そりゃ、いつまでも秘蔵っ子のままでいる訳にはいかねぇし。まっ、あいつを見る限り弘毅は現役みてぇだな」

「まさか。もう六十近いはずだぞ」

「悪戯仕掛けた時だって五十の真ん中は過ぎてたんだぜ?」

「彼方の方は?」

「もうすぐ三十」

「ふっ、随分歳をとったな」

 陽が再び歩き出したのを見て、今度はやや遅れ気味に茘枝は続く。何を考えているのだろう。見慣れたはずの後ろ姿を見つめながら、茘枝は思考を巡らせた。昔のことを思い出しているのだろうか。それとも氷室親子への嫌悪と軽蔑を、只管ひたすら胸の中に吐き出し続けているのだろうか。バカだな、茘枝は笑う。内に出しても反芻するだけなのに。そして少し吊り上げた口の端を緩めた。本当にバカだ。こちらはいつだって何か漏らしてくれるのを待っている。二人は強い絆で結ばれてはいたが、所々糸のほつれているのを、茘枝は知っていた。いつもはその糸を繋げずともに済む。でも、時々、どうしてもそこの繋がりが必要になったとき――陽は逃げてしまう。笑ったまま。まるで風に吹かれる落ち葉のように。

「何辛気臭いこと考えてる?」

「何で分かった?」

「なんとなく」

前を向いたままの陽に向かって、茘枝は首を振った。

「落ち葉のことを」

「はっ?」

「もうすぐ落ち葉が美しい季節だと思ってな」

「お前……」

 バカにするのも大概にしろ。振り返った陽の表情はそう言っていた。茘枝はそこで初めて愉快そうな笑い声を上げると、陽の傍らの芝生を踏んで追い越し、右手の甲で長い髪を撫で上げた。気分が晴れた。やはり悟られない方がいいのかもしれない。あちらがはっきりと示してくれるまでは。

「おい、茘枝、怒ってんのか?」

「さあ?」

茘枝の足取りは軽い。

「ちょっと、待てって。何か気に障ったなら謝るけどよ、なんで怒ってるのか教えてくれないと謝れねぇっていう……」

「なら力尽くでも聞き出せばいい。私は覚悟しているぞ」

「なっ、お前……!」

 おどけた顔を後方に引き離しながら、茘枝は再度呟いた。覚悟している、か。最後にその言葉を口にしたのはいつだっただろうか?そして、その時の覚悟とは、一体何のための覚悟だったのだろうか?右肩を越せば広大な海原が見えた。波の音に唆されるまま、茘枝は思い出す。二人の出会った遠き碧海へきかいを。


***

 覚悟している――穢れることも、誰かの心を踏みにじることも、感情を振り捨てることも。名誉のためならばいとわしいことなどなかった。そうなるように育てられたから。


 伯母、氷室好ひむろこのみが亡くなったのは、その年の夏であった。享年は三十四歳、遺した夫とは二周りほどの歳の隔たりがあった。しかし、それ以上に心の隔たりがあったに違いない。きっとそれが、彼女の十三年間もいたぶり続けた病魔の餌となったのだ――彼女は、氷室家に嫁いで間もなく精神を患った。

 彼女の夫だった氷室弘毅ひむろこうきは、つまりは、健康で立派な女性を病に追いやりながら、後はたいしたこともしない医者たちの手に放っておくような男だった。しかし、そんな男に気に入られることさえも、名誉のためには必要だった。氷室財閥の跡継ぎとなるという名誉のためには。

 ある秋の晩、十四歳の茘枝は家族と共に車に乗り込み、伯父の屋敷へと向かっていた。母親の指輪で飾った手には、氷室邸で開かれる盛大なパーティへの招待状が握られていた。

 妻の死後、氷室弘毅はある宣言をした。氷室家の跡継ぎは、彼の二人の甥のうちから選ぶという。まさしく茘枝こそその甥のうちの一人であった。もう一人は川崎陽という同い年の少年だ。彼について、茘枝は少しばかり調べてあった。二月十一日生まれ、血液型は不明。私立天星中学の二年生だ。報告書を寄越した情報通の友人、読者もご存知の榊原颯によれば、成績も優秀な、活発で明るく人気のある生徒だという。茘枝は苦笑した。颯は、茘枝が決して「活発で明るく」ないことも知っていたし、集う人気も陽のそれとは異質であることも見抜いてようだ。だが、茘枝は決して負い目を感じなかった。彼には天才バイオリニストという地位があったから。

 颯の報告書には、きちんと顔写真もついていた。茘枝はポケットから、出掛けに急いで破り取ってきたその写真を取り出した。車の暗闇の中でも、飽きるほど眺めたその顔は、皺くちゃになった紙の上に簡単に浮かび上がった。川崎陽は常に目を前髪で覆い隠しているようだったが、茘枝には黒いベールの向こうに潜む二つの瞳が見えていた。悪戯っぽい光を宿した藍の目は、茘枝の心の中まで見透かしてしまうようだった。悲嘆、苦悶、おごり、諦め、覚悟、そういったものたちを。この珍しい内視鏡の前に置かれるのは、不思議と心地よかった。全く自分も落ちぶれたものだ。彼は敵、これから蹴り落とす相手だというのに。今宵の夜宴は、茘枝と陽の選抜試験であった。茘枝は誰にも聞こえないよう溜息を吐き、月を見上げて紅の瞳を凍らせた。勝利はとうに確信している。これで決して、覚悟が揺らぐことはないと思った。


 氷室邸は、富の象徴そのものであった。時代を取り違えたのかと疑うほど豪奢な建造物は、毒々しいまでに金と権力の匂いを撒き散らし、自らの場違いなのにも気付かず、堂々と両脚を広げていた。その滑稽さ、醜悪さは、少年の一瞥には余りすぎたが、茘枝は高慢を以ってこれを瞳の中に押し込めた。涼しげな微笑が次いで顔に出た。

「お待ちしておりました。弘毅様がお待ちでございます。奥の広間にお集まりください」

 開かれた門の中は、色と光、音と匂いに満ちていた。赤い絨毯の上、偽物の蝋燭を模したシャンデリアの灯の下で、燕尾服と色とりどりのドレスがひしめき、ささやきあっている。女性たちのむっちりした腕や首に巻かれた金銀宝石が煌き、歩くたびにオーデコロンの香りが変わった。茘枝はむせる目も耳も鼻も意に介さず、優雅に気品高くその間を歩んでいった。彼を見るたびに、人々の口の動きは速度を増した。「まあ、見まして?あれが茘枝君でしてよ」「あら、なんて立派なこと」「夏に会ったのが嘘みたいですわ。あの歳の男の子は成長が早いのね」などと言いたいばかりに。

 伯父の方が先にこちらに気付いた。氷室弘毅は、背が高くて肩幅の広い、威厳のある面持ちの男性だった。灰色の髪は、日焼けした額から後退する様子を微塵も見せていない。弘毅は茘枝に歩み寄りながら、歓迎の意思で顔面を輝かせて言った。

「やあ、茘枝君。ようこそ、我が家へ。拙宅だがね」

「ご冗談を」

 茘枝は丁寧に頭を下げた。

「まあ、今夜は楽しんでいってくれ。この人の多さじゃあ、とてもくつろぐことは難しそうだが。私が君の知り合いを招いたことを願うよ。ボリスは知っているかい?向こうでご婦人方に囲まれて喋っている果報者だ。ロシアのピアニストなのだがね。知らない?そうか。まあ、そういうこともあるだろう。後で紹介するとしよう。今野彼方はどうだい?あぁ、そうか。うむ。こちらも後で紹介しよう。そうだ、この間の演奏会は素晴らしかったね。今夜も演奏してくれるのだろう?楽しみにしているよ。いや、しかし、最近では、あれほどの演奏は滅多に聴けない。しかも、君はまだ……」

 弘毅は口をつぐんだ。彼は茘枝の肩を親しみこめて叩いていたが、その手も止まった。茘枝は思わず振り返った。弘毅の注目を奪ったのは、たった今広間に入ってきた小さな集団だった。あの頬骨の高い男女を越したところ、あそこに――川崎陽がいる。見なくとも分かった。恐れていたほど感銘は受けなかった。指もポケットの唇をなぞっただけだった。やがて男女の間から現われた陽の顔は、写真よりもずっと大人びて、退屈そうに見えた。今日も藍色の目は隠している。ふつふつと沸き上がる敵意の泡に、茘枝は一まず安堵した。彼は最早、茘枝にとって完全な敵だった。

「おや、ちさ子たちが着いたようだ。君の伯母なんだが、会ったことはないだろうね……まり子は、君のお母さんは、彼女と仲がよくないんだよ。小さい頃からそうだった。全く、双子なんだから仲良くやればいいのにな。苦労するのはいつも私だった。仲の悪い妹たちの世話も、もうこれで終わりしたいね」

 最後の呟きに込められた意味に気付き、茘枝は弘毅を振り仰いだ。弘毅は観念したように笑いながら肩を竦めた。

「君は賢そうだからな。下手な嘘を吐くよりも、いっそのこと正直に言った方がいい。ああ、私は今夜で全て蹴りをつけるつもりだ。小杉茘枝と川崎陽、君たちの中から跡継ぎを選ぶ。陽君はどうやら山上さんに捕まっているようだな。救出にいくとしよう。あの人の話は長い。君はここで観察しているといいよ。陽君にまるっきり興味がない訳でもないだろう?」

「いいえ、彼について全く興味はありません」

 茘枝はきっぱりと言って首を振った。伯父は怪訝そうに太い眉を吊り上げたが、すぐに納得したように去っていった。励ますよう、一瞬茘枝の右肩に触れて。一人になった茘枝は、言い切った自分を誇りに思いながらも、心のどこかで責めていた。彼を知りたくないと思ったのは、単なる臆病だったのではないか。疑問が胸の中で身をよじる。

「戯けたことを」

 茘枝は自分に言いすてた。小さな反乱は制圧され、覚悟という国軍は一層力を増した。

今宵のスターである彼が、一人でいても良い時間などなかった。間もなく、小人のような翁が話しかけてきた。それは、伯父に追放された人、山上さんであった。

「もし。もしかすると、否、これは洒落じゃあありませんがな。もしかすると、小杉茘枝君ではないですかい?」

 茘枝が慇懃いんぎんに応対しようとしたその時、グラスの割れる派手な音と悲鳴があがった。伯父から逃げた陽が、一騒動起こしたらしい。このおかげで、山上さんは、呆れた茘枝に暫く存在を忘れられることとなる。


 「伯父さん、バイオリンの練習がしたいのでどこか部屋をお借りしてもよろしいですか?」

「ああ、もちろんだ。私の書斎を使うといい。メイドに案内させるから」

「ありがとうございます」

 上のような遣り取りを交わし、寡黙なメイドの案内で書斎にやって来た茘枝は、ふと壁の時計を見上げた。この屋敷に充満している金の匂いは、この高価な時計の文字盤にも染み付いている。時刻は午後八時半。ここに来てから一時間近くが過ぎた。茘枝は革張りのソファに腰を下ろし、立ちっぱなしだった脚を休めた。彼は疲れていた。人々には見られ飽きたし、今夜は十二分に喋った。伯父の決断は正しい。こんな争いはさっさと蹴りをつけてしまうに限る。それに――茘枝は楽器ケースの中からバイオリンを連れ出した――勝利はもう確定していたし。川崎陽に、氷室財閥の跡を継ぐ気はないことは、誰の目に見ても明らかだった。彼の笑いは蔑みの笑み、彼の今宵の使命は人々を混乱させ、愚弄することだった。有り難いことに、茘枝が直接の標的になることはなかったが。茘枝は指先で弦を掻き鳴らした。出かける前に合わせたはずなのに、もうА線の音がずれていた。配偶者もやはり、ここの空気には馴染めないらしい。茘枝は少し笑った。途端に緊張がほぐれた。後は一本道、茨の海を抜けるのだ。茨は道を示さぬが、彼ら自体が道である。

 バイオリンの音は、書斎の窓を震わせ、戸外を落ちる紅葉を躍らせた。茘枝は時間も忘れて弾き続けていた。何者かが足を忍ばせて部屋に侵入してくるまで。茘枝が演奏をやめると、侵入者は声を上げ、こちらが望まなくとも正体を明かしてくれた。

「ふーん、やっぱりプロの演奏は無料ただでは聞かせられないって訳か」

「……私に何か用か?」

 投げつけられたコインを手の甲で払い、茘枝は何の感情もこもらぬ声で尋ねた。両目はすぐに靴に落とした。振り返らなければ、あの目に見透かされる危険などなかったにも関わらず。

「別に。でも、せっかくいとこに会えんだから、親睦を深めるのも悪くねぇと思ってな」

「親睦を深める、か。しかし、君にとって、私はそれほどの価値があるのか疑わしいな」

「わざわざ謙遜していただくまでもねぇ。オレだってそれくらいのことは判断できる。まっ、そっちが迷惑だって言うんだったら、さっさと退散するけどさ」

 茘枝はようやく顔を上げた。先ほどのすれた大人びた表情も、大人びた冷笑も、既に影を潜めていた。ポケットの中にある笑顔と同一のものが、茘枝の前にあった。何故か試されていると思った。茘枝はバイオリンを下ろし、素っ気無く頷いた。

「構わない」

 ソファの上にまだ行き着かない茘枝の腰を、回りこんできた陽の手が素早くさらった。茘枝はすぐに抵抗を試みたが、皮肉なことに、信頼する愛器によって阻まれてしまった。彼はかき集められるだけの憎しみと嫌悪で陽を睨みつけた。それが、彼に遺された唯一の武器だったから。しかし、茘枝が手に取ったのは諸刃の剣だった。陽の目から前髪のベールは取り払われていたのだ。ほとばしる藍色の光線に、茘枝の紅い火は捕らわれ、目的地に辿り着かぬまま、途中で果ててくすぶった。

「何を戯けた真似を……!」

 焼け付くように熱い喉の奥から出たのは、ひどく押し殺した声だった。怒りと恐怖が舌まで震わせようとするのに、茘枝は必死に耐えていた。

「別に。今の内にちゃんと顔を拝んどいた方が良い気がして。氷室弘毅の嫁なんかに行ったら、もう二度と見られなくなるかもしれねぇし」

「私を侮辱するつもりか?」

「あんたみたいなプライドの高い奴が、オレみたいのに侮辱される訳ねぇだろ」

「いい加減にしろ。手を離せ」

「ダメ。あんた、オレの言うことおとなしく聞いてくれそうにねぇし」

 バイオリンのネック越しに掴まれた手が汗ばんでいる。茘枝を押さえつけ、支配しようとする力は予想以上に強かった。無傷でいるためには陽の腕に身を任せるしかなかった。茘枝はそうした。やむを得ずそうしたのだと、目線でしつこいぐらいに訴えながら。

「それでいい。黙って聞けよ。てめぇが次の氷室財閥の統領トップだ。もう決定しちまった。オレが良い子にしてなかったばかりにな。まっ、元々あんたの方がはるかに弘毅の趣味に合ってたんだ。品行方正で天才バイオリニスト、おまけに美少年」

 陽は頬に手を添える代わりに、目で同じ行為を果たした。茘枝は苦しげに小さく喘いだ。

「あいつが結婚した女をどう扱ったのかは知ってるだろ?あいつは女なんか眼中にねぇ。氷室弘毅はあんたにベタ惚れだ。言葉通りな。しかも、あいつは跡継ぎを自分の手元で育てると言ってる」

 風が吹いた。全ての捕縛が解けた。

「あんた、食われるぜ」

 茘枝の身は固いソファの上に落ちた。彼の髪のからすの濡れ羽色は、艶やかなあまり紛れることもなく、背景の漆黒に広がっている。消えかけた香料が微かに陽の鼻をついた。陽はソファの背もたれに肘を付き、発したばかりの警告が、果たしてどのようにいとこの内に染みていくかを見物しようとした。ところが、彼の楽しみはいとも簡単に打ち砕かれた。いとこの艶笑を模ったのは、絶望でもおののきでもなかったのだ。茘枝は身を起こした。先ほどの嵐が嘘のように、その顔から消え去っていた。彼の友、余裕が波風を凪いでいたのだ。茘枝は弓を左手に預けると、空いた手で長い髪を撫でた。優美な仕草だった。非常に優美な。

「君は氷室弘毅については相当な調査をしたようだが、私のことはあまり調べなかったようだな。私がそれしきのことで躊躇ちゅうちょすると思ったか?私は私と一族の名誉のためなら命を捨てても惜しくない。他人を蹴り落とすことも、悪事に手を染めることも。ましてや……ましてや操など。そうだ。私は伯父にも劣らず心の冷たい人間だ。目的のためには手段を選ばない。狡猾で醜い。それを隠すために優雅に気高く振舞い続ける。君とは違う。君は素直で正直な人間だ。他人も自分も騙すことなどできない。私とは全く別の道を行く人だ。私の生き方など、理解できるはずがない」

 茘枝は金の匂いのする時計を再び見上げた。大分時間を食ってしまった。そろそろ広間に戻るべきだ。書斎を出るために、何の弊害を乗り越える必要はなかった。部屋を出る間際、黙し、立ち尽くしたままの陽を振り向きもせずに、茘枝はこう補足した。

「デュ・バリー夫人の真似事ではないが」

 いとこの演奏が遠くに聞こえてくるようになった時、陽は部屋の隅に積み上げられた紅葉の存在に気が付いた。先ほど受け取りを拒まれた効果が、その上に重なっている。陽が歩み寄って息を吹きかけると、葉の山はあっさりと崩れ落ちた。彼の前髪は所定の位置に戻っていた。




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