第五話 乙女に手折る白き花・後編
橋爪康太先生は、休まらない思いで校門前に立っていた。腕時計代わりのストップウォッチを見遣れば、後十分ほどで時刻は五時三十分になることが分かった。桜木先生はまだ見えない。橋爪先生は擦り切れたスニーカーの爪先を擦り合わせた。間もなく辛く不安な任務が始まる。今の処、誰からも不審者の目撃情報は入っていなかったが、安心するには早すぎた。不審者を目撃したのは居残りや部活で遅く帰った生徒たちだ。校長は直接語らなかったが、それらから推測するに、不審者が現れたのは、完全下校時刻の六時から六時半までの間と考えられる。つまり、時間帯的には、橋爪先生たちの警備活動と被っているということだ。
橋爪先生は黒い一重の目を落とし、改めて自らの心身の虚弱さを呪った。体育科の森先生ほどとは言わない。ただ、人並みの力と勇気さえあれば、もう少し張り切ってこの仕事にも望めるはずだった。もちろん、胸に滲む心配は変わらなかっただろう――桜木先生に万一のことがあったらどうしよう、という――しかし、まさか、彼女に危機が及ぼうとしているときに腰を抜かしている自分や、不審者が彼女に構っているのを幸いに逃げ出す自分など、思い浮かべずに済んだはずだ。意気地なしの自分は想像して震えている――心の底から情けなかった。
「それに、もし、おまえにもう少しの勇気があったら」
意地の悪い声が言った。
「あの女を捨てて逃げ出すこともなかっただろうよ」
橋爪先生はこめかみの辺りを押さえた。ふっと身が軽くなるような感覚がした。懐かしい声が響く。かつて愛した声、そして今も、やはり心のどこかで愛している声。
「いいえ、それでも私は貴女を意気地なしとは呼びませんわ……!」
「橋爪先生?」
悲痛な叫びとは似ても似つかない、無邪気な声に名を呼ばれる。橋爪先生ははっとして目を上げ、何に対して謝っているのかはさっぱり分からないまま、とりあえず頭を下げて謝罪の言葉を述べた。黄色いカーディガンで肩を包み、大きなメガネの奥で瞳をぱちくりしていた桜木先生は、堪らず笑い出した。
「もう、橋爪先生ったら、しっかりしてくださいな。謝らなければいけないのは私の方ですのよ。すっかりぎりぎりになってしまって。さあ、早く中庭へ参りましょう。不審者を捕まえ損ねたなんて嫌ですからね」
校門から中庭までの道を共にいく生徒は多かった。生徒たちは、並んで歩く橋爪先生と桜木先生の姿を指差し、何事か囁いたり、くすくす笑ったりした。橋爪先生は「警備係」と書かれた腕章を引き上げ、あくまでも仕事であること強調しようとしたが、生徒たちの疎くなった目には映らない。桜木先生も周りの目を気にする素振りは見せない。意識しすぎているだけなのだ、きっと。橋爪先生は急に恥ずかしくなって目を伏せた。その動きに合わせるように、警備係の腕章もぐたりと項垂れた。
「お疲れ様です」
中庭に到着した二人は、四時半からのシフトにあたっていた野瀬先生と花木先生と交代した。野瀬先生は体育教師で、花木先生は顔だけで十分な威嚇効果を持っている。屈強なコンビだ。もし、自分が不審者だったら、この二人の巡回中なら徘徊を諦めるだろう。それに引き換え、自分と桜木先生の何と頼りなくみえることか。橋爪先生は、不審者がこの身の弱弱しさに同情して、今夜の行動を延期してくれることを祈るばかりだった。
だが、桜木先生は随分と胆が据わっていた。先生は互いに別れて警備しようと言った。橋爪先生は、最初は頷かなかった。もしもの時は、二人一緒にいた方が安全と思ったからだ。すると、桜木先生はこう言った。
「私たちは何が何でも不審者の徘徊をやめさせなければなりません。校長先生は『体を張って』生徒たちを守ろうと仰いました。生徒たちに、万一のことなど絶対にあってはならないのです。二人で別々に行動した方が、警備の目は広がりますわ。私、笛を二つもってきましたの。これを首にかけて、何かあったらこれを吹くことにしましょう」
橋爪先生は何も言い返すことができなかった。彼女に感服した。そして、我と恋する人ばかり可愛がっていた自分を、頭ごなしに叱り飛ばした。そうだ、これは生徒のための仕事なのだ。覚悟した先生には、きちんと褒美があった。桜木先生とお揃いの赤い笛を持つことができたのだ。
「では、先生、お気をつけて」
「えぇ、桜木先生も……」
二人は別れた。桜木先生は噴水広場の方へ向かい、橋爪先生は林檎の林の中へと足を踏み入れた。ジャージの胸元で膨らむ笛が頼もしかった。二人は知らない。すぐ傍の花壇の陰に、酒本菜月が小さく丸まっていたことを。
***
「なんだか今日は先生方が騒がしいね」
生徒会室の窓際で、颯が呟いた。仕事を片付けている慎の姿を見飽きた彼は、ちょうど地上へと視線を落としたところであった。先ほどから、何人もの先生が、校庭やら中庭やら校門付近やらを、忙しく動き回っていた。陽の提出した予算書の数字が合わないことに気付いてしまった慎は、興味なさそうに鼻を鳴らした。
「不審者対策だそうだ。三日間相次いで知らない男が目撃されたらしい」
「不審者?おかしいな。僕はそんな話聞いてないよ」
「ああ、俺もだ。報告は愚か噂にも聞いたことがねぇ。校長に訊いても何も教えちゃくれねぇし……一体どうなってんだ?!」
一体どうなってんだ、とは、実際は、慎の予算書への素直な感想なのであったが、それを不思議な騒動に対するものを勘違いした颯は、顎に手を充てて考え込むような動作を見せた。
「慎にも教えてくれないなんて変だな。校長が何か企んでるのかも。いや、待って……もしかして、あの人が?」
「どこのあの人だろうが、そいつが仕事熱心な奴なら会計の代わりに引き抜いてこい」
慎はぴしゃりと言って、颯の疑惑を潰した。どこかで笛の音が鳴った。
***
「桜木先生!」
橋爪先生は駆けていた。林檎の枝にお気に入りのジャージを引っかかれようが、木の根に躓きそうになろうが、まるでお構いなしだった。広場の方から笛の音が聞こえた。聞き間違いなどではない。何かがあったのだ。不審者が現れたのかもしれないし、それよりもっと危険なことか、危険でないことかが起こったのかもしれない。とにかく必死だった。どうか桜木先生のちょっとした勘違いであってくれと、何かあったとの確信を覆すほどに祈り続けた。
「桜木先生、大丈夫ですか?!」
林の奥に緋色の輝きが見えるなり、橋爪先生は何も考えずに噴水広場に躍り出た。
男は悔やんでいた。行動のタイミングを失敗したのだ。おかげでバットを掲げたまま、膝元に縮みこむ桜木先生の前に立ち尽くす羽目になってしまったではないか。先生もいい加減怪しく思ってこちらを見上げてくる。その度に腕をぴくりとさせて威嚇したが、もうそろそろ限界がきていた。頼む、早く来てくれ、頼むから――橋爪先生が桜木先生の無事を祈っていたように、男も目出し帽の中で祈っていた。もう無理だ。あと三秒の間に来なければ、くるりと踵を返して逃亡しよう。
「桜木先生、大丈夫ですか?!」
橋爪先生の声を耳にしたとき、男は天にも昇る心地で、神に感謝してもしきれぬほどだった。だが、演技はこれからだ。男は更に高くバットを振り上げた。桜木先生が悲鳴を上げる。橋爪先生はこちらの狙い通りにタックルを仕掛けてきてくれたが、背中に伴う痛みは想定外だった。唇から漏れる悲鳴を懸命に堪えた。だが、こちらが悶えている間に、橋爪先生は、桜木先生に職員室へ行って報告するよう頼んでいた。桜木先生は素早く頷き、こちらにちらりと眼鏡の反射光を寄越すと、超特急で走り去っていった。橋爪先生が男の方を振り向いた。男は急いで立ち上がった。捕まって顔を見られたら終わりだ。さっさと退散しなければ。だが、橋爪先生はその場に立ち止まったままで、深い溜息を漏らした。盛んだった男の肺の活動は、その音を聴くなり鎮まった。疲労が、先生の顔面からアドレナリンを捌け、眼の奥にまで老いを注ぐのを見れば、男の胸も動揺をやめる。疲弊し、歳を重ね、悲しい悟りと諦めの泉に腰まで浸して、先生は静かに宣告した。
「もう結構です、こんなくだらない茶番は」
男こと石崎・エーリアル・クリスは、何を言われたのかさっぱり分からなかった。気がついたら、右手が目出し帽を脱がして捨てていた。橋爪先生はクリスを見て少し意外な顔をしたのみで、特別な驚愕は示す価値もないと結論付けたようだった。
「そこにいる人たちも出てきなさい」
「そこ」とは、先生の背後の茂みを指していた。先生の声音の硬さに命じられ、まず落合が気まずそうに這い出してきた。次に、菜月、来夏、ノア、そして……
「副校長先生、谷口先生まで……」
橋爪先生が驚き呆れたように言うと、二人は俯いて頬に影を湛え、いかにも申し訳なさそうに双肩を縮めてみせた。クリス以外の六人は、できるだけ橋爪先生から距離をとりながら、まるで叱られている生徒のように横一列に並んで目を伏せた。橋爪先生は何も言わなかった。あまりのことに、言うべき言葉が見つからないようだった。居心地の悪い沈黙が訪れ、やがてそれは、発せられるべき怒りと咎めすら攫っていってしまう。堪らず口を開いたのはクリスだった。
「先生!」
橋爪先生が振り返った。戸惑いばかり浮かべて。
「ごめんなさい!あの、俺たち、先生と桜木先生を……」
「いいんですよ。何だか具合が良すぎるなと思っていましたから。全部あなた方が仕組んだことだったんですね?食堂の席を指定席にしたり、いもしない不審者の噂を流したり……皆さんは僕を見くびっていらしたようですが、僕もそこまでバカではありません。違和感はありましたよ、薄っすらとね」
「先生、そんな……!」
「いいえ、何も言わないでください……しかし、まあ、よくもこの老いぼれを焚きつけてくれましたね。危うくもう少しで本気になるところでしたよ、この恋に」
橋爪先生は赤く燃える空を仰いだ。夜の筆より滴り落ちた墨が、茜色を少しずつ蝕みつつある。皆もそれに倣ったが、クリスだけは橋爪先生の横顔を見つめていた。斜陽のいたずらだろうか。橋爪先生の頬を、一筋の光が伝った気がした。
「僕は恋をする資格などない人間なのに」
***
今から三十年以上も前の話です。
教師の卵だった僕は、ある時一人の女性と出会いました。夜食にうどんを食べに行ったその帰りです。その女性は暗闇の中にしゃがみ込み、足首を押さえていました。時折あげる痛そうな声を聴く限り、まだ若い女性であるように感じられました。冴えない青年だった僕ですが、怪我でもしたのかとかわいそうになって、女性に声をかけました。女性は足をくじいてしまったのだと言いました。僕は友人の医者の家まで肩を貸しました。友人といっても、僕より一回り以上も年上で、妻も子もいる人でしたから、大丈夫だと思いました。まあそのつまり……過ちは起きないだろうと思いました。
友人とその家族は快く女性を迎え入れ、その日一晩泊まる部屋まで用意してくれました。女性は、最初は遠慮していましたが、奥さんに優しく説得されて最終的にはその申し入れを受け入れ、深々と頭を下げて礼を言いました。黒く長く伸ばした髪の、何遍眺めても飽きないような美しい女性でした。その心も素敵でした。優しく、慎ましく、善良で、美徳を絵に描いたような女性でした。友人の元を去るとき、若かった僕は、既に淡い恋心を抱いていました。
数日後、女性から電話がありました。先日のお礼がしたいのでぜひお宅に伺いたい、女性はそう言いました。しかし、当時僕が住んでいたのは、家賃が安いだけが取り得のボロアパートで、夜中でも薄い壁を通じて、酔っ払いや柄の悪いごろつき共の怒鳴り声が聞こえてくるようなところでした。こんなところに、女性を一人で来させる訳にはいきません。僕たちは近所の喫茶店で会いました。何を話したのかはまるで覚えていませんが、その日から二人の付き合いが始まったことだけは覚えています。夢のような日々でした。僕は本気で彼女を愛しました。それは、単に彼女が美しいからではありません。彼女が例え醜くても、いえ、いっそ彼女が体を持たなくとも、彼女の真に美しい心がそこにあれば、僕はそれを愛したと思います。僕は彼女になら全てを捧げられる思いでした――結局我が身が一番可愛いのだと知るのは、もう少し後のことです。
幾月もの逢瀬を重ね、僕らの口にしばしば「結婚」という単語がのぼるようになりました。ですが、彼女のご両親は断固反対なさいました。僕が恋したその女は、由緒正しき家の娘さんだったのですが、戦後になって家の財政は傾く一方だったのです。ご両親からしてみれば、大切に育てた娘を、財産もろくになく、将来の見込みもないしがない教師などに遣る訳にはいきません。僕の母もこの結婚には反対しました。僕は非常に悩みました。彼女を他の誰にも渡したくなかったけれど、僕が彼女を幸せにできる保証はありませんでした。
ある夕方のことです。彼女が僕のアパートへやってきました。彼女は僕の部屋の戸を激しく叩き、僕が出るなり飛びついて、声を押し殺して泣きながら、駆け落ちしてくれと頼みました。僕はまるで頭を打たれたような衝撃を受けました。それはあまりにも現実離れした提案でした。しかし、麻痺した脳は僕を頷かせ、荷物をまとめさせました。財布の中のわずかな金を握り締め、僕らはその夜アパートを出、列車に飛び乗り、さびれた海沿いの田舎の宿に泊まりました。宿のおかみさんは僕らを胡散臭い目で見ましたが、しつこく干渉はしてきませんでした。砂のじゃりじゃりしたあさりの味噌汁と茶色いご飯に少し口をつけ、空腹に胃を痛めながら、湿ったかび臭い布団に潜り込みました。窓から隙間風が入り込み、畳は訳もなく軋みました。彼女が寝静まった後、僕は自分を苛めました。何故こんなことをしたのだ。何故彼女から幸福を奪うことをしたのだ。その次に、僕は恐ろしくなりました。自分が背負ってしまった責任の重さに気付いたからです。最早彼女のことなど頭にありません。駆け落ち未遂を起こした女性の哀れな末路など、僕には関係ないと思いました。自責の念、重い責任、目前に迫った貧困と不幸。こうしたものから逃げ出したい一心で、夜明けが来ると、僕は匿名で彼女の実家へ電話をかけ、彼女の居場所を報せました。そして、宿代だけ残して彼女の元を去りました。僕が部屋を出ようとしたその時、彼女が呟きました。
「いいえ、それでも私は貴女を意気地なしとは呼びませんわ……!」
彼女が寝ていたか起きていたかは分かりませんでした。確かめずに宿を飛び出してしまったのです。そうして、僕はたった一人の生活に戻りました。彼女からも、彼女の家族からも、一切連絡はありませんでした。僕はほっとしました。しかし、彼女への想いを断ち切る機会は与えられませんでした。僕は重い罪と自ら捨てた愛を引き摺りながら、その後を生きることになったのです――
これが、橋爪先生が語った全てだった。白のアトリエに集った面々――クリス、ノア、来夏、落合、菜月、ジャクソン先生、副校長先生、そして、実は今回の企みに加担していた校長――は、それぞれ椅子やソファや床に腰をかけ、黙って先生の告白を聞いていた。橋爪先生の声が失せると、居間に響く唯一の音は、鍋の中身がぐつぐつと煮立つ音だけになった。橋爪先生は息を吐いた。
「つまらない話をお聞かせしました。つまり、僕にはこういう経緯があるために、恋をする資格などないのです。ましてや、その恋を叶えて幸せになる資格など、とても……僕は孤独の似合う人間です。自分でもそう思います。僕が教師になったのも、子供たちとの関わりを求めてでした。しかし、僕が子供たちと心から通じ合うことはありませんでした。それは僕への罰なのかもしれません。でも構わないのです。罪深い僕には相応しい……」
ノアが出来たてのきつねうどんを配り始めた。誰が合図した訳でもなく、皆がほぼ同時に箸をとり、うどんを啜った。美味しい。口には出さなかったが、胸の中で誰もが呟き、そこに束の間の癒しを見出した。が、偽りの慰め合いと妥協にクリスは騙されなかった。
「そんなこと仰らないでください!」
少し苛立った面持ちと荒げた音色が、皆を驚かせ、その注目を誘った。
「恋をしてはいけないなんて、誰が決めたんですか?先生が勝手に思いこんでるだけだ。自分には孤独が似合うだって?似合うように振舞ってるだけじゃないか!先生は卑怯ですよ!現実と向かい合う勇気がないのを、全部過去の所為にしようとして。現実から逃げないでください!それじゃあ恋人を置いて逃げたときとまるで変わってません。俺は、先生は十分に償いをしたと思います。今まで散々苦しんできたんですから。でも、まだ償い足りないと仰るなら、今度こそ逃げ出さずに、覚悟を決めて現実と立ち向かうべきです。一人女性を泣かせたのなら、一人女性を幸せにしてください」
「ああ、君の言葉は眩しすぎる!」
橋爪先生はうどんを床に置き、頭を抱え込んで叫んだ。張り裂けそうな胸が露になりそうなほどに。
「君の言葉は正しいかもしれない!だが、僕には眩しすぎる!僕は向かい合うことができない!」
そして再び、誰もが何も言わなくなった。クリスの刃もこぼれた今、そこに集った人々にできるのは、うどんを食べ、何も解決してはくれない安らぎに心憩わせることのみであった。橋爪先生は身を震わせていた。涙のない苦しげな嗚咽が、時たま静寂に足跡を落とした。
「そういえば」
急に口を開いたのは菜月だった。
「桜木先生、右足引きずってた気がする。職員室に走ってく時に」
橋爪先生の嗚咽が止まった。
「ああ、俺も見た。石崎に襲われたときに、足を挫いたんじゃないかと思ったんだけど」
「まじかよ。それって見舞いに行った方がいいんじゃねぇか?っつっても、俺たち、ほのちゃんの住所なんて知らないけど」
と、来夏と落合。その時、校長がソファから飛び起きた。うどんが副校長のズボンの上に零れた。
「何と!僕としたことが!校長室の扉を開けっぱなしにしてきましたよ!机の上には職員の住所録が置きっぱなしだっていうのに!」
「どうするんですか?七時半になったら教員も校舎の中に立ち入れなくなるんですよ!」
「校長せんせったら、もーう、お茶目さんっ!」
仕上がったズボンのしみが気になる副校長と、校長をちょいちょいと小突いてジャクソン先生が言う。皆が息を潜め、見つめる先は同じだった。とても視線に耐え切れなかった。橋爪先生は椅子が倒れるほど勢いよく席を立った。
「すみません!忘れ物をしたので学校に戻ります!お邪魔しました!」
橋爪先生が星のように部屋を出て行くのを見届けたとき、一同の顔にはどこか悪戯っぽい、でも優しい笑顔が溢れていた。しかし、ジャクソン先生だけが不思議そうに首を傾げた。
「橋爪せんせっは、チケットのことに気がついたのかしら?」
橋爪先生は夜を駆けていた。白のアトリエで先ほど確認した。現在の時刻は七時だった。もちろん三十分もあれば校舎に辿り着くことは付くのだが、一度走り出した以上は待ち切ることなどできなかった。
「橋爪先生、待ってくださーい!」
後ろから声が追いかけてくる。橋爪先生はもどかしい思いで立ち止まった。今更一体なんだというのだ?やって来たのはノアだった。エプロンをつけたまま、足には靴下を履いたのみ。両腕に白い花の鉢植えを抱いている。
「先生、これ……持っててください……ほんのお詫びですから……!」
ノアは息を切らしつつ、しっかり鉢植えを先生に手渡した。橋爪先生は礼代わりに一回大きく頷くと、疾走を再開した。負けるな、康太。逃げるな、康太。現実と向かい合うんだ。この恋と向かい合うんだ。僕は孤独なんかじゃない。僕には味方大勢いるんだ。
校長室の電話を拝借した。校長の言った通り、机に広げっ放しだった住所録を漁り、桜木ほの佳の名前を探す。示されていた電話番号を何度も間違えながらプッシュし、呼び出し音が鳴っている間に、彼女の住所を手帳にメモした。五回目の呼び出し音が鳴り終わる直前、桜木先生はようやく電話に出た。
「はい、桜木です。どちらさまですか?」
橋爪先生は呼吸を一つして言った。
「もしもし、三宿学園の橋爪です。えぇ、はい。あの、実は……」
***
「今日のコンサート、よかったぞ」
「ありがとうございます!来夏先輩!」
「ほのちゃんと橋爪先生もいい感じだったし。脚の怪我も結局軽いねんざだったらしいしな。ほのちゃんったら、意外とお洒落なのな。帽子に白い花なんか差して」
「女性はいつまでも乙女って言うからね」
明るい笑いがさざめく。門衛に外出許可証を見せつけて学園の敷地に踏み込んだ直後。もう星が空に煌く時限の三宿学園で。
「じゃあ、俺たちはこっちだから。また明日な」
来夏が林檎の木で分かられた道の左側を指して言った。
「うん、じゃあね」
「今日はありがとうございました!石崎先輩、有瀬先輩」
「いいえ、こちらこそ。では、失礼します」
寮へ向かう四人と、アトリエへ向かう二人は手を振り合って別れた。あまり出歩けない夜の学園を、遠くに星や月や白い塔や校舎を望みながら、クリスとノアは楽しく語らって歩いた。アトリエへの帰路は遠かったが、二人はちっともそれを苦に思わなかった。互いの話が互いを魅了していたからだ。
「あれっ?」
アトリエに到着するなり、クリスは訝しげな声をあげた。ずらりと鉢植えが並べられる階段の中、一つだけ空っぽの段があるのに気がついたのだ。鍵を開けようとしていたノアも振り向く。
「有瀬、ここにあった白い花は?」
ああ、と思い出してノアは答える。
「橋爪先生に差し上げたんです。ほんのお詫びのつもりで。橋爪先生は桜木先生にプレゼントされたみたいですけど」
「えっ、あんな一生懸命育ててたのに?」
「クリス様、前も言ったじゃないですか。花は世話なんかしなくても勝手に……」
やっと鍵が開いた。どうも他の場所の鍵と取り違えていたようだ。きちんと目印をつけておかなければいけないな。思いついて顔を上げたとき、ノアはクリスの手がすっと頬に寄せられたのに気がついた。クリスはノアの専売特許を奪って微笑むと、頬の上で指を火照らせ、月光に煌く青い目を細めて囁いた。
「優しいね、有瀬は」
ノアは灰色の目を大きく開けた。
同じ月と星の下、橋爪先生と遅めの夕食をとって別れた帰り、桜木先生は帽子の白い花に触れた。橋爪先生が私のために手折ってくださった。この老いぼれのために、清らかな純潔の花を、白百合を。桜木先生の胸は弾んでいた。まるで妙齢の乙女のように。