第五話 乙女に手折る白き花・前編
第五話主要登場人物
・橋爪康太…数学教師。校長捜索隊幹部。内気な先生。
・桜木ほの佳…邦楽教師。和やかな雰囲気の中年の女性。
・谷口良隆…英語教師。通称ジャクソン先生。鳥居先生と仲が良い。
この学校の教師は変人だ――教師を変人と呼んで良いかの議題は置いておくことにして、これは直視せざるを得ない真実であった。
何と言ってもまず校長だ。校長の一日はランニングに始まる。花壇に水を遣り、妻とたっぷりとした朝食を楽しみ、本日の予想帰宅時間を告げて出勤する。そして、先生方の朝礼に少し顔を出して冗談を飛ばし、五分後、副校長が校長室を訪ねてみれば既にその影はない。後は校内校外神出鬼没だ。
校長捜索隊という、学校にしてみればとんでもなく不名誉な組織が存在していることは、既に申し上げた。彼らはオレンジ色の腕章とのぼりを手に、日々校長たずねて三千里を駆け回っている。隊長は副校長の川内淳一先生、幹部は、体育科の森先生と、今回の主人公、数学科の橋爪康太先生だ。さて、橋爪先生の物語を始める前に、冒頭に述べた真実の一介を目の当たりにしていただきたい。
「欠席なし。皆、健康優良男児ってことねぇ」
性格な表現のためなら、「ぇ」の後ろに波線二本でも引かなければならないのだが、著者の主義のために割愛しておく。とにかく、数時間放置した麺類の如く語尾の伸びた独特の口調で、谷口良隆、自称、谷口・ジャクソン・良隆先生は言った。
「はい、問題ありません、ジャクソン先生」
クリスは気のない英語で返した。輝くばかりの金髪がジャクソン先生の目に留まって、「返事係」を命じられたのは、転校して最初の英語の授業のときだった。初めてジャクソン先生を見たとき、クリスは花木先生以来の衝撃を受けた。皆がジャクソン先生と呼んでいるので、てっきり外国人かと思っていたのだが、顔立ちはどう見ても純粋なる大和民族。いや、これくらいのことならよくあるのだが……誰が想像しようか。金のメッシュの入った女性用の鬘、黒いぴっちりとした衣装、カールをかけた睫に、極め付きにはチークと口紅。これらを纏った小麦色の肌の痩せた男性を。
「OK、じゃあ授業を始めるわよぉ。この間配ったテキストの6ページを開いてねぇ……」
ジャクソン先生の語尾が、いつも通りにきっかり6秒伸びきらない内に、教室の扉が開いた。少人数制によって1グループに割り当てられた10人ちょっとの生徒たちは、一斉にそちらを向いた。ひょろ長いもやしのような印象の男性が、息を切らして立っていた。髪は薄いが、幸いにもからかわれるほどではない。つるっとした顔には、細い目、下がり眉、青白い唇が並べられ、異様なまでの皺の少なさが若々しさを演じているが、橋爪先生に教えられている生徒なら、先生がもう定年に近いことを知っていた。授業中に聞かなくても教えてくれるから。独り言の愚痴という形で。先生はいつもジャージ姿で、今日はお気に入りの黒いジャージを着ていた。左腕のオレンジ色の腕章が、校長捜索隊の活動中であることを示している。クリスと来夏は「ご苦労様です」の意を込めて頭を下げた。
「あらぁ、橋爪せんせっ、どうかしまして?」
裏表ないのが取り柄のジャクソン先生は、変わらぬ調子で尋ねた。訊かなくとも用事は分かっていそうなものだが。
「いえ、あの……校長先生を、見かけませんでしたか……っ?」
「もーう、校長せんせったらすぐにいなくなってしまわれるのね!いいえ、残念ながらぁ。でも、念のために掃除用具入れの中を覗いてみた方がよろしいと思いますわよ」
橋爪先生が忠告を聞き入れ、教室の後方にある四角い灰色の箱に一歩近づいたその時だった。用具入れの戸が開き、一瞬スーツを着た何かの姿が見えた。その何かは鉄砲の弾より速く部屋を飛び出し、廊下を爆走していった。
「何の音だ?!」
「いました!隊長!校長を発見しました!」
野太い男性教諭たちの声と足音がこちらに近づいてきた。橋爪先生はジャクソン先生に会釈をすると、間もなくやってきた群れに加わり、もう影も形も見えない校長の追跡を始めた。ジャクソン先生は、何事もなかったかのように扉を閉めたが、その表情には一抹の不安も見受けられた。今後の校長捜索隊の身を案じているのだろう。事実、捜索隊全16名の内半数は怪我で活動休止中だった。本日も三名以上が、里見先生のお世話になるはずだ。
「いつからいたんだよ……」
空っぽの用具入れを振り返り、来夏が隣で呟いた。
***
「最近元気ないんですよね」
「えっ?校長が?」
「まさか。橋爪先生ですよ」
昼休み。クリス、ノア、来夏、菜月、落合のいつものメンバーに真央が加わり、中庭での昼餐は、普段よりささやかながら賑やかに見えた。腰を下ろした芝生は日に温められ、秋風に吹かれた花壇の花たちは、花房を俯けて転寝をしている。どのベンチも木蔭もすっかり生徒たちに占められていた。来夏は一種の怪談としてこの話を聞かせたのだが、彼を敬愛する後輩は意外なところに食いついてきた。
「橋爪って、あのもやしみたいな?」
と、少人数制の関係でご拝顔の機会が少ない落合。
「はい、僕のクラスの担任なんですけど、最近授業中も溜息ばっかりで。喋ってんだが溜息吐いてるんだか分からないぐらい……」
「あぁ、それ、橋爪先生にしては普通だから安心しろ」
来夏の言葉にも根拠がある。彼はかれこれ三ヶ月もの間、橋爪先生の愚痴を聞き続け、微笑と同情とで慰め続けてきているのだ。因みにこの技は、生徒たちが作成した「一番前の席になると身につけられるスキル」のリストでは、上から三番目あたりに載せられている。それほど注目性が高いとも言えよう。
しかし、真央はベテランの意見をあっさり跳ね返した。
「普通じゃないですよ。実は、ここだけの話、橋爪先生は恋わずらいなんじゃないかって噂もあるんです」
「バカ言え、先生の年齢考えてみろ。もうすぐ60だぞ?もう孫ぐらいのガキ相手に恋なんてできるかよ。しかも立派な犯罪じゃねぇか」
「……落合先輩、何で生徒限定なんですか?」
「そりゃあ、真央、こいつの好みだからだ」
「えっ?違うの……?」
当たり前だと云わんばかりに、落合とノア以外の全員が頷いた。首肯組に加わらなかった理由は、落合は自分の嗜好が周囲と一致しないという事実に呆然としているため、ノアは話の流れがあまりよくわかっていないためであった。菜月がどさくさに紛れて、弁当箱からコロッケをかっさらっていくのをクリスは見たが、今回は目を瞑ってやることにした。まだもう一個残っているはずだし……が、五秒前まで確かに存在したはずのもう一つも消えていた。
「もちろん先生ですよ。ほら、桜木ほの佳先生。邦楽の先生で、1年A組の担任の」
来夏と落合が納得したような声を出した。クリスはお目にかかったことがなかったが、二人の反応からして、どうやら橋爪先生の恋のお相手には至極妥当なようだ。と、また気を取られている間にハンバーグを掠め取られた。クリスは弁当をさっさと片付けながら、会話を堪能することにした。
「ほのちゃんなら有り得るな。あの人も橋爪先生より少し若いぐらいってとこだし、おまけに独身だし」
「ね、そうでしょ?」
手を打った落合に、真央も自慢げに言った。しかし、来夏は厳しい顔を作る。
「っつってもまだ噂なんだろ?あまり変なこと言って騒ぎ立てたら、橋爪先生にも桜木先生にも迷惑だろうが」
「そりゃ、まあそうですけど……」
「確かめてみればいいじゃないですか」
突然ノアがすくっと立ち上がり、皆の注目がそこに集った。ノアは吸う歩進んで一番近くの林檎の木に近づくと、木漏れ日の破片をワインレッドの髪の上で輝かせながら、くるりとこちらを向いた。振り向いたノアの笑顔は、無邪気な好奇心と醜くない野次馬精神に満ち溢れていた。
「確かめてみればいいんですよ。それで、その噂が本当のようなら、僕たちで力を貸してあげましょう」
「よく言ったわ!」
近所の林檎の木蔭から飛び出てきた人影に、全員がひっくり返った。弁当箱が空っぽだったのを幸いに思いながら、クリスが痛む腰をさすって身を起こすと、この小さな混乱の元凶、ジャクソン先生が、ハートを撒き散らしてノアに痛そうな頬ずりをしていた。訳が分からずきょとんとしているノアを見て、クリスは何て大物なんだろうと感心した。自分がノアだったら、何をされているのか理解しない間に気絶できる自信がある。
「よく言ったわ!さすがノアちゃんねぇ!ジャクソン先生感激だわぁ!」
「先生、いつから聞いてたんですか……?」
「ふふ、乙女は恋の匂いを嗅ぎ付けたらテレポートせずにはいられないのよぉ」
「先生、正直言わなくても気持ち悪いです」
来夏の素直な感想に、クリスも無言で同意を示した。が、ここで屈しないのが谷口・ジャクソン・良隆先生である。伊達に中性の世界を生きてはいない。ジャクソン先生は、青いアイシャドウで縁取った大きな目を剥き、金銀宝石の指輪が唸る重そうな両手を振り振り叫んだ。
「大丈夫!仕事をしているうちに、きっと具合も良くなるわ。ふふ、楽しみね。『橋爪せんせっと桜木せんせっのドキドキ大作戦』の始まりよっ!」
誰一人として脱退したいと言えなかった。誰一人。
***
川島副校長はデスクに肘をつきながら、灰色の凛々しい太い眉を寄せ、脚を組んで座っていた。副校長の足元では、ぐったりと疲弊した校長捜索隊隊員たちが座り込み、先ほどから数分ほども収まらぬ洗い呼吸を、今も変わらぬリズムで刻んでいる。平然としているのは副校長と、幹部で体育科の森先生だけだ。全く、ただでさえ忙しいというのに――副校長はぬるい埃の浮いたコーヒーを啜って胸中ぼやく。厄介な仕事を引き受けたものだ。橋爪先生の好きな人を訊いてきてほしいだと?恐ろしいほどの時間の無駄だ。四時までに校長に仕上げてもらわぬ書類は言葉通り山ほどあるというのに。副校長は橋爪先生にちらりと視線を遣った。隊員の中ではずば抜けて細く、ずば抜けて体力のない教師だ。それでも頑張りは一番だと、副校長は思っている。普段から何となく浮かない表情をしているのは、過去のあれこれのせいなのだが……副校長は溜息を吐いた。その音が、橋爪先生のそれと重なった。いっそ新しい恋でもさせた方がいいのだろうか。そうすれば、彼の心に執拗に絡みつく憎らしい蔦を、取り除いてやることができるのだろうか。
「桜木先生な……」
「へっ?」
思わず口に出した名前に、橋爪先生は誰よりも過敏に反応した。副校長がおやっという顔で見返すと、橋爪先生は真っ白い顔を薄紅色に染め、何でもないですと言いたげに首を振った。これはとんだ手間が省けた。谷口良隆の依頼は難なく解決したではないか。副校長は誰にも見られぬよう小さく微笑み、それからコーヒーの苦さに唇を歪めた。桜木ほの佳先生――三宿学園には七年ほど前から務めている。54歳。見た目は取り立てて美しいという訳でもないが、この年齢の女性としては十分だし、人間的にも問題はない。生徒たちからも好かれているし、おっとりとした純和風なこの先生なら、橋爪先生にも妥当なのではないか。副校長はこう結論付けた。そして、何の前触れもなく席を立つと、へばっている隊員たちに渇を入れた。
「愚図愚図している暇はない!何としても、三時までに校長を見つけるのだ!教室の用具入れ、化粧室、体育倉庫、床下、天井――思いつく限りの場所を捜せ!さもなくば、我々は三宿学園史上最大の不名誉を背負うことになるぞ!」
最早教師ではなかった。軍隊の司令官といってもよいくらい、その顔は厳しく変貌を遂げていた。隊員たちは慌ててうつぶせになり、出立前の腕立て二十回を終えると、先を争うように部屋を飛び出していった。案の定一人で送れた橋爪先生に、副校長は椅子に座るよう声をかけ、自身も元の場所に腰掛けて言った。
「あー、橋爪先生」
「は、はい……」
橋爪先生はおどおどと答えた。何となく目に落ち着きがない。
「とりあえず、何と言うか……こほん、私は君を応援しているよ」
「は、はい……はい?」
副校長は意を決し、苦く冷たいコーヒーを一気に流し込むと、橋爪先生の肩をぽんと叩いて捜索活動に繰り出した。橋爪先生は何を言われたのかさっぱり分からなかったようだが、三秒後にははっとして、慌てて副校長を追って外に出ていった。校長捜索隊本部と称されたその部屋の隅のダンボール。そこから、校長が光る頭をぴょこっと覗かせた。
***
「橋爪先生!」
背後から生徒に呼び止められ、朝の職員会議へと急いでいた先生も思わず足を停めた。振り返れば、秋元真央がこちらへむかってとたとたと駆けてくるではないか。まさか、クラスで喧嘩でもあったではないか。橋爪先生は身震いした。やめてくれ、それだけは。例え三十年が経っていて、頭に受けた傷は癒えたとしても、その記憶は決して忘れ去られている訳ではなかった。
「先生、あの、ちょっとお話が……」
その言い方から察するには、緊急の用ではないらしい。橋爪先生はほっとしたが、職員会議のことが気になった。あと三分で始まってしまう。だが、生徒が自分を追いかけてきてくれたのを思うと忍びなく、先生は頷いてしまった。
「はい、何でしょう……?」
真央はズボンのポケットに手をつっこむと、白い封筒を出して渡した。今度は爆弾ではないかとの疑惑が先生を襲った。だが、手に持ってみれば分かるとおり、それは爆弾でも、次にもしやと思った大麻でもなかった。真央のコンサートのチケットだ。今週の日曜日、つまり明後日に行われるらしい。チケットには、真央と伴奏者アニエスの凛々しい横顔が描かれていた――つい先日クリスが緊急で仕上げたものだ。そもそもコンサート自身が、アニエスが日本にいるために開催することになったという急なものだったから。
「ああ、コンサートですか」
「はい。ちょうどいい席がとれたんです!先生にはいつもお世話かけてるし、来てもらえませんか?」
橋爪先生は日曜の予定を思い出してみた。電話脇のメモにも、ポケットに突っ込んである手帳にも、何も書いた覚えがない。橋爪先生はぎこちなく微笑んだ。
「えぇ、わかりました。ありがとう」
真央の顔がぱっと輝いた。
「本当ですか?!うわぁ、ありがとうございます!」
橋爪先生は真央の笑顔を見つめてつくづく思う。本当に、生徒の笑顔ほど良いものはないと。三十年近くも教師を続けてきた先生であったが、どんなに気分が悪くても、生徒の笑顔があればたちどころに完治してしまった。自分をからかって笑ったその顔でさえ。それとももうすぐお別れなのか。橋爪先生は急に虚しくなった。少し膨らんだ胸も急激にしぼんでしまった。が、響き渡った鐘の音が、先生の心臓をいっきに跳ね上がらせる。
「あっ、いけない!」
橋爪先生はつんのめる様にして走り出した。まずい、遅刻だ。真央の呼び止める声が追いかけてきた気がしたが、とりあえず手を振って反応するだけに留めた。後で用件は聞くとのメッセージを、左手に込めて。
「あーあ、行っちゃった……」
真央は肩を落とした。肝心な部分を伝えられなかったではないか。先生の目にちゃんとペア用チケットの白い文字が映ってくれるかは、甚だ疑問である。
毎朝恒例、校長の駄洒落大会が終わる前に、橋爪先生は何とか職員室に滑り込むことが出来た。話題の人、桜木ほの佳先生は、橋爪先生に気付くと微笑んで会釈した。彼女以外の教員は、校長の駄洒落に身も心も凍て付いていた。
「……さて、それでは全員揃ったようなので本題に入りましょう。えー、最近学園の敷地内で不審者を目撃したという情報が相次いでおりまして……」
「不審者?」
森先生が眉をひそめた。
「私の方に連絡は来ていませんが……」
森先生は口を噤んだ。副校長の目が「どうでもいいからとにかく黙れ」と語っていたからである。森先生は急いで首を振り、口の中でもごもごと呟いた。
「い、いえ、私の勘違いでした……」
「そうですか。まあ、とにかく不審者がうろついているという情報がありまして、今日の放課後から、先生方にペアを組んで、敷地内の巡回をお願いしたいのです。皆さん机の方に割り当て表が配られてあることと存じます」
皆が一斉に紙を手にとる音がした。橋爪先生もそれに倣い、目を凝らして危うく表を取り落としそうになった。橋爪康太・桜木ほの佳、午後五時半から六時半まで中庭の巡回――
「あら、先生、一緒ですわね」
桜木先生は小声で囁いてくすくすと笑った。橋爪先生は首をこくこくと縦に振るばかりで、相手の表情を盗み見る余裕などまるでなかった。首筋がいやに熱く、ジャージの襟がくすぐったい。顔の色に驚きと焦りが出ていませんように。橋爪先生は祈った。
野瀬先生が手を挙げた。
「はい、何でしょうか?」
「校長先生、不審者が目撃されたのはいつ、どこで、どの時間帯なのでしょうか?それと、外見などの情報は入っているのですか?」
校長先生は、その質問は最もだとでも言うように頷いた。
「最初に不審者が目撃されたのは三日前。野球部の一年生二名が寮へ帰る途中、中庭を俳諧する怪しげな男を目撃しました。男は紫色の目出し帽に赤いジャンパーをはおり、黒いズボンとスニーカーを履いていたそうです。我々は警戒を強化しましたが、その翌日に、今度は居残っていた二年生の生徒が、同じような男を校門前で目撃しました。我々は更に更に警戒を強化しました。しかし、つい昨日も!」
風間校長はぴんと人差し指を天井にたて、もう片方の手で机をバンと叩いて力説した。
「同じく居残っていた生徒によって、同様の不審者が目撃されました。現在のところ、男の目的は不明。生徒を見ても特に危害を加える素振りは見せなかったようですが……いや、何があるか分かりません!警備員ではそろそろ限界が来ています。本来なら警察に連絡すべきなのでしょうが、ここはまず!教師が生徒のために体を張ろうでありませんか!」
校長の熱中ぶりに感化されたよう、教師たちも揃って賛成の意を示した。橋爪先生だけが真っ青だった。不審者退治を桜木先生と?冗談じゃない。自分はとても桜木先生を守れる自信なんてない。先生に万一のことがあったらと考えるだけで身が竦んだ。だが、先生が反抗するいとまもなく、職員会議はさっさとお開きになってしまった。途端に拡がった職員室のざわつきの中に、桜木先生の笑声もまじった。
「ふふ、校長先生ったら珍しく熱が入って。頑張りましょうね、橋爪先生。私、走るのだけは得意ですから、逃げた不審者を追っかけることぐらいはできますわ。いっそ三味線の撥で叩いてやろうかしら。こうね、ぴしっと」
「えぇ、ぴしっと……」
「あら、こうですわ。ぴしっ!」
「ぴしっ……!」
「そうそう、お上手」
呆然自失の橋爪先生には、自分の手が何をやっているのかさえも、知る術がなかった。
***
しかし、不安も忙しさの中に紛れた。昼休みになり、橋爪先生が空きっ腹を抱えて職員食堂へ来てみると、養護教諭の里見先生がにこにこと表情を緩めて近づいてきた。
「橋爪先生、今日から食堂が指定席になったんですよ。先生は一番奥の右から三番目の列です。ほら、桜木先生の向かい」
橋爪先生は卒倒しそうになるのを辛うじて封じ、無理矢理に笑みを作った。里見先生は、桃色のルージュをひいた唇を不敵に歪ませた。若く鋭い里見先生は、橋爪先生の想いなどとっくに読み越していたのである。橋爪先生の顔に表れる変化を確かめ、先生はにっこりと満足し、途端に顔をぎゅっと顰めた。
「私は旦那の前なんです。もう、学校でも顔をつき合わせて食事をしろって言うの?そりゃあ、付き合う前とかだったら嬉しいかもしれませんけど。ねぇ、先生?」
「ぼ、僕にはわかりかねます……!」
橋爪先生は火のついたように超高速で逃げ出し、波乱の食堂の中へ自ら舞い込んでいった。里見先生は上手くいったとばかりにほくそ笑み、それから遠くに、夫である化学講師の冴えない姿を見つけて露骨に嫌な顔をした。そこに白衣の天使の姿はなかった。
「あら、橋爪先生ったら随分小食ですのね。こんなにがつがつ食べてる自分が恥ずかしくなりましたわ」
「いえ、がつがつなんてとんでもない……!」
正直に言えば、それは本心から出た言葉ではなかった。桜木ほの佳先生は、橋爪先生にも劣らず細身で小さな先生だったが、食事の量は彼の十倍をゆうに越していたから。それでも、白いもののまじった小鳥のような頭を少しも動かさずに、カレーうどんをこぼさず優雅に頂く先生は、乙女のような愛らしさと貴婦人のような気品に溢れていた。大きなメガネの奥で、細まった目が奥ゆかしく揺れている。今がチャンスだ。橋爪先生は手の震えを抑えようと必死だった。唇が何度か動きかけ、なれない誘いの文句を紡ごうとした――出来なかった。目を瞑る度、瞼の裏で、椿の香のする長い髪がなびき、若いまま保たれた美貌が、悲しげにこちらを仰いで言うのだ。
「私を置いていかれるのですね、康太さん」
声が詰まった。
結局、二人は掃除機の話をして終わった。一部始終を聞いていたジャクソン先生は額に手を充てて残念がり、携帯電話を取ってクリスに連絡をした。クリスは報告をきいても、乗り気でないように、はあと聞き流すだけだった。
「という訳でね、橋爪せんせっ、がペアチケットのことに気付いたのかは分からないのよぉ。どうしよう、クリス君?」
「どうしようって……秋元君が後で言うしかないでしょう」
「それがねぇ、マー君、今日の午後から練習で学校早退しちゃったのよぉ。他の人がチケットのこと知ってるのもおかしいしぃ。本当にどうしよう?」
「そのうち気付きますよ。入場前とかに……それより先生、本当に今日の作戦やるんですか?」
「えぇ、もちろん」
「本気で?」
「あたしに本気じゃないことなんてなくってよ」
電話越しに重たい溜息を吐く。クリスは失望のあまり項垂れていた。あの羞恥心をずたずたにされるような計画を実行するなんて。
「いいじゃない。奉仕活動だと思って、ね?」
「……学園中のゴミ拾いの方がまだましです」
一方的に電話を切られても、ジャクソン先生はまるで気にしなかった。意気揚々としてテディベアつきの携帯電話をしまうと、一緒に席を立った橋爪先生と桜木先生を睨み、そこに秘密の約束が交わされていないかを見極めようとした。
「ジャクソン、から揚げもらっていい?」
「黙りなさい!」
鳥居先生はその返答をイエスと見なし、隣のプレートの上のから揚げを三つまとめて口の中に放り込んだ。