第四話 夏は来ぬ・後編
「まーお、久しぶりに帰ってきたってのにどうしたんだよ?折角大好きなカレー作ったのによー」
「……ごめん」
「ほら、カレー!明音特製カレー!」
「いや、えっと……それは、ほんとに、いいや……」
得体のしれないものがうずまき、じゅうじゅうと煙の昇る鍋からは、食欲をそそる匂いがまるでしない。紫色は恐らく警戒色という奴だろう。けばけばしい色を見せ付けて毒を持っていることを主張するキノコと同じだ。しかし、作ったルームメイトが、拗ねて頬を膨らませ、そのカレーと名づけられたものを難なく食べているのを見ると、見た目と香りほどには酷くはないのかもしれない。だが――従姉の不安げな顔が出てきて思い留まる。真央が今腹など壊したら、従姉はそれこそ卒倒してしまうに違いない。精神かき乱されているアニエスを、刺激するようなことはしたくなかった。
ルームメイトの好意を断った理由は、料理の色彩が尋常でなかっただけではない。真央はすっかり打ちひしがれていた。幸福の淵まで辿り着いたのだ。後はそこから飛び降りれば良いだけだと思っていた。だが、幸福は真央を拒んだ。真央は中から突き落とされた。どうして運命はこんなに非情なのだろうと、真央は柄にもないことを恨んでみる。少し咳が出た。
ポケットの中で携帯電話が鳴った。従姉からの電話だ。真央は急いで隣室に滑り込み、扉を閉めると、通話ボタンを押した。
「もしもし、アニエス姉さん?」
「あぁ、マオ。元気?だいじょうぶ?」
従弟の自分さえどきっとするような、艶のある声が尋ねてくる。何せまだ彼女は若い。この哀れな未亡人は、今こそ身も心も花盛りであるべきなのだ。
「うん、元気だよ。そっちはどうだった?」
「素敵だったわ、とても。校長先生は良い方。優しいわね」
「なら良かった。姉さんはいつフランスに帰るの?」
アニエスは少し考え込んでから言った。
「私、しばらくいるわ、日本。学園の近くに、ホテル泊まるから。しばらく仕事ないの。真央を見に行くわ」
「そんなに心配しなくてもいいんだよ」
真央は笑ったが、その言葉があまりにも虚ろであるばかりではなく、却って従姉を愚弄するばかりであることに気付いて口を噤んだ。二人の会話に、避けては通れなかった沈黙が訪れる。アニエスが日本語を探すのでもない、二人がつながれているという安堵に浸っているでもない、お互いの傷から目を背け合うだけの重い沈黙だ。やがて開いた口から飛び出た言葉も、沈黙を断ち切るものではなく、その憂色を引き摺りながらに語られた。
「アニエス姉さん?」
「なあに?」
訊き返した声は優しかった。真央は彼女を裏切るような気持ちで言った。
「僕の喉、いつまで持つかな?」
通話口の向こうで、アニエスが打ち震えるのが分かった。真央は唇の裏側に叩きつけられた衝動を抑えた。すぐにでも謝りたかった。打ち消したかった。だが、真央はあまりにも苛まれすぎていた。夕刻から背負い続けてきた苦痛が、今や冷酷な感情へと変わって、真央を支配していたのだ。車の音が聞こえる。従姉は戸外にいるのだろう。夏の残骸を以って肌をじわりと湿らす空気に、身を巻かれているのだろう。そこから逃れたければ喋ってくれ――真央の心は残酷に叫んでいた。
「いつかよ……いつか……」
アニエスは真央の拷問にすすり泣きながら答えた。真央は黙って電話を切った。恐らく今夜中に従姉が電話を返してくることはあるまい。自分は――真央は両手で頭を覆った。ああ、自分はとんでもなく酷い仕打ちをしてしまった。恥知らずと言われど、恩知らずと言われど、もう何も言い訳はできない。真央は疲れきっていた。何もかもが嫌になり、両手にある全てを投げ出したくなった。彼を慰めたのは、例の冷たい感情だった。嘘を吐く方が悪いのだ。知っているくせに、話さないから悪いのだ。
言えば良いのに。次の夏が来るまでだと。
***
翌日の練習の際、真央が来夏を追うために昨日ほどの意欲を示さなくても、来夏はあまり気にしなかったばかりか、却って当然だと思ってほっとした。大河内が昨日よりも無愛想に見えた所為もあった。しかし、真央の胸から、来夏への尊敬の念が全く消えてしまった訳ではなかった。ぎこちない笑い、時々零れる咳、こういったものが真央の顔を横切り続ける間にも、その目は来夏を追っていた。そして、いつまでも心を冷凍しておく訳にもいかなくなった。来夏が鮮やかなシュートを二本連続で決めたとき、真央はとうとう胸を熱する興奮を抑えきれず、ぴょんぴょんと飛び跳ねて手を打った。
「先輩、すごいです!」
来夏はちょっと戸惑い、それから笑った。大河内は表情を変えなかった。
それ以来、真央は、来夏を見かける度に駆け寄ってくるようになった。来夏が部活に現れたときはもちろん、集会時や、廊下ですれ違ったときでさえ。来夏は少し困惑したが、結局、あくまでも先輩らしい態度で真央に臨むことにした。落合を決して彼に近づけないようにしていたのも、寡黙な親友への思いやり故だ。最も、落合は大河内の方に関心を示すかもしれないが。しかし、彼が「年下好き」を主張し続けている限りは安心できない。
来夏と真央、二人が初めて一緒に昼食をとったのは、試合を二日後に控えた日のことだった。敬愛する先輩がクリスと話しているところをとっ捕まえた真央は、彼の手を引いて中庭に出た。ちょうど噴水前のベンチが空いていた。二人はそこに座り、それぞれの弁当を開いたのであった。
「先輩って、肉嫌いなんですね。それなのに運動出来てすごいなぁ」
ハムなしのサンドウィッチをかじる来夏に、真央は忙しなく話しかけた。
「おまえは随分小食なんだな」
来夏は小さな弁当箱を見て洩らした。そうしながら、胸に起こる後ろめたさを、掻き消すべきか否かで迷っていた。
「えぇ。自然にあまり食べなくても大丈夫なようになるんですよ……うちのルームメイトと一緒だと」
「はっ?」
「いや、何でもないです。あまり動かないから、これくらいでも十分持つんですよ」
「んなこと言わずにちゃんと食えよ。栄養つかねぇぞ」
「えっ、でも、太りたくないし……」
顔を真央から逸らし、言葉には霞みほどにも見られない当惑に眉をひそめていた来夏は、喉奥で起こった爆発に激しく咽むせた。危ういところだった。稀に見るこの優秀な少年が、パン一切れに殺されるところであった。来夏はサンドウィッチの破片を、濃く淹れた茶で慌てて流し込んだ。
「せ、先輩!大丈夫ですか?!」
真央は慌てて立ち上がり、茶を口にした後も俯いたままでいる来夏に、おろおろと言った。
「きゅ、救急車……!」
「静かにしろ。バカ、お前のせいだ」
「へっ?」
とりあえず救急車は必要ないことを知った真央は、119の11まで入力した携帯電話の画面から目を話し、きょとんとして来夏を窺った。「もういい。何も言うなよ」
「えっー」
来夏は肩を震わせ、寄せては返し、また寄せる、夏の海の波のような、気まぐれで少し辛くて、でも温かい感情に心の船を任せていた。来夏の膝から転がり落ちたパン屑を目当てに、小鳥たちが足元に集ってくる。何なのだろう、この気持ちは。来夏は考えようとした。しかし、まだぽかんとしている真央が目に入れば、真面目な気分は失せ、次なる笑いがこみ上げてくるのであった。ああ、自分はどうしてこんなに愉快なのか。
「先輩、一つ言っておきますけど」
「何だ?」
真央が珍しく唇を尖らせていたので、来夏もやっと聞く気になった。
「先輩、僕のこと『変な奴』って言いましたけど、先輩だって相当変ですよ」
何かと思ったらこれだ。この調子では、自分はこの少年に腹筋を壊されかねないなと来夏は思った。来夏がまた笑い出したので、真央は桃色の頬を風船のように膨らませてみせた。彼なりの怒っているという印らしい。
「たまには真面目に僕のいうことも聞いてください!」
「聞いてるって。真面目だからおかしいんだよ」
「……先輩がこんなに変な人だと思いませんでした」
「俺を尊敬したことを後悔し始めてるのか?」
「それだけはないです!」
「本当か?」
「本当です!絶対絶対、僕は先輩を尊敬するのをやめたりしません!」「好きにしろ。全く……」
笑い、よろめく体を支えるため、来夏は真央の肩に手をかけ、彼に覆いかぶさった。真央は目を見開いた。耳元に快活な憧れの音楽が響く。自分は今、細くしなやかで力強い楽器に触れている。それだけで、真央はこの上なく幸せで、顔が火照っているのをからかわれても、言葉を返す必要性を感じなかったほどだ。来夏の体は熱かった。まるで真夏の日のように――幸福の絶頂で、真央は燃え盛る季節に全身を委ねようとした。力なくぶら下がっていた手を持ち上げ、ゆっくりと来夏の手を探り当てようとする。指と指が触れた。指先までもが汗ばんでいる。視界が揺れている。脳も目も、想いまでもが溶けてしまいそうだ。そして、更に奥へ…… 突然、小鳥たちが一斉に飛び立ち、二人は驚愕によって引き離された。小鳥たちは何に脅されたのだろう。見渡しても何も見当たらない。それでも真央は知っていた。小鳥たちを飛び立たせたもの――猜疑心と恐怖である。
「せんぱ……」
真央は何か言おうとした。だが、声は続かず、来夏の耳に入ることもなかった。
***
「珍しいな。陽がさぼらずに生徒会に来るなんて」
「慎がいねぇから来たまでだ。あいつが戻って来たらすぐに帰ってやる」
「困ったな、私はまだ原稿を書き終えていないのに」
「はあ?何でお前と一緒に帰らなきゃなんねぇんだよ」
次回の代表委員会の司会原稿を書き進めていた茘枝は、おやと思って手を止めた。試すように微笑んで陽を見上げれば、陽もまた、悪戯を仕掛けてすっかり自慢げな子供のような表情で、こちらを見つめている。最も、その目は前髪に覆われて見えないが。茘枝がティーカップの取っ手に指をかけて詳細を問うと、陽は机の隅に腰掛け、半分ほど残っていたコーラの瓶を飲み干した。
「オレ、颯と勉強会だから。誰と一緒だか知らねぇが、今夜は、そっちはそっちで楽しく過ごせよ」
「……今日はひどく冷たいんだな」
茘枝は芝居がかった口調で溜息を吐いて言う。微笑は留めたままだ。
「だからよ、別にてめぇと一緒じゃないといけねぇって法はねぇだろ」
いつかの仕返しのつもりだったのが、思ったほどの効果が見られなかったので、陽は急に不機嫌になった。広げていた楽譜をファイルにまとめ、慎も帰ってきていないというのに、一人生徒会室の出口へと向かった。そんな彼の背中に、茘枝は呼びかける。
「陽、強情を張るな。颯はきっと忙しいぞ」
「何で分かるんだよ?」
振り返れば、麗しき黒髪の少年は、つんと横顔を見せ付けて窓を向き、青々として晴れ渡った真昼の空に呟く。
「今日は夕立が来そうだ」
***
放課後の音楽室には誰もいない。今日は弦楽部も吹奏楽部も休みの日だ。真央は歌の稽古のために、特別にここを使用する許可を取った。グランドピアノの前に腰掛け、次のコンサートで歌う曲を、冊子の中から探していると、真央は急な寂しさに襲われ、どうかすると、ページを捲る手も萎えそうになるのであった。伴奏者がいないのだから、自分で弾いて確認するほかない。音楽担当で、真央をやたら気に入っている、林原林太郎先生が、手伝おうとは申し出てくれたのだが、真央は断った。やはり、自分の伴奏はアニエスでなくてはらない。ところが、そのアニエスは、ひどく意地悪く接してしまったあの晩から、一度も連絡を寄越さない。自業自得だ。果たしてどっちが?嘘を吐いた所為で傷ついたアニエスか、彼女を故意に傷つけた所為でその愛を失った自分か。真央は鍵盤を押した。惨めなラの音が、ぽろりと零れた。
今度の歌は英語の歌詞だった。英語は苦手だ。日本語訳を見ながら、何とかその意味を解く。
Shall I compare thee to a summer’s day? 君を夏の一日と比べてみようか?
Thou art more lovely and more temperate: だが君のほうがずっと美しく、もっと温和だ……
その時、音楽室の扉が軋んだ。真央は詩の黙読をやめると、はっとして顔を上げ、招かれざる客を見やる。防音機能を備えた厚く重い扉の奥から現れたのは、ワインレッドの髪に垂れ目気味の灰色の瞳をした小柄な少年で、胸にはスケッチブックと小さな包みを抱えていた。有瀬ノア――理事長の息子だという、一つ上の先輩だ。話したことはなかったが、こういう所以であまりにも有名だったため、学園を離れていた真央でも知っていた。しかし、真央は彼の登場に対し、何とも感想を抱けなかった。一人の時間を邪魔されて不快でもないし、だからといって歓迎することも出来ないし。ノアは真央の姿を認めると、丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさい、お邪魔でしたか?」
「あっ、あの、いいえっ」
真央は両手と首を振って答えた。噂には聞いていたが、本当に腰の低い人だと思う。彼の立場上、せめて後輩ぐらいにはもう少し威張っていてもいいのに。
「えっと、林原先生なら職員室ですけど……」
「いえ、林原先生ではなくて、絵を描きに」
「絵を?」
真央は怪訝な顔をした。絵なら美術室で描けばよいではないか。それに、これといって描いて楽しそうなものもない。絵描きの心なんて、自分にはさっぱりわからないけれども。そんな真央の疑問を察してか、ノアはにこりと微笑んで窓辺を指差した。見遣れば、なるほど、鳥籠の中で、一羽のレモンカナリアが、止まり木のブランコを揺らして遊んでいるではないか。ぴちとも鳴かないため、今までまるで気付かなかったのだ。初めて人に注目され、小鳥は嬉しそうにぶるりと羽を膨らませると、元気よく囀りはじめた。確かに絵にはなりそうだ。
「へぇ、気付きませんでした。なんでこんなところに小鳥がいるんでしょうね?」
真央は興味津々で問う。そういえば、アニエスはカナリアに歌を教えるのが上手かったはずだ。今でもフランスでは、番のローラーカナリアを飼っている。もう綺麗に歌えるようになっただろうか。
「楽器の一つとしてじゃないですか?」
ノアは笑いながらもやけに冷淡に答えると、後ろ手で重い扉を閉め、鳥籠の方に歩み寄った。反響する靴音とカナリアの歌とが混ざり合い、一つのハーモニーを作り出す。真央は暫しぼんやりと聴き入っていたが、足音が止まるとすぐに自分のやるべきことを思い出した。慎ましやかな先輩はもうスケッチブックを開き、山鳩色の細い線を重ねて、絶えず動く小鳥の動きをとらえている。音を出しても問題はなさそうだと判断し、真央は鍵盤の上に指を落とした。やがて奏でられたのは、陽を浴びた丘のようになだらかなメロディーに、恋人への賛美と少しの悲壮を秘めた曲であった。ピアノが弾き続けられている間にも、カナリアは囀りをやめようとはしなかった。寧ろ、その叙情的なメロディーに誘われ、一層美しい声で歌い始めた。小鳥は相当に楽しそうに見える。否、聞こえる。伴奏者としての喜びを知って、真央も思わず顔をほころばせたが、歌の終盤となって突如カナリアは囀るのをやめた。真央も伴奏を止め、胸を衝かれたように鳥籠の方を振り仰いだ。そして安堵した。ノアが小鳥に種の褒美をやっているだけだった。スケッチブックと一緒に持ってきていた包みは、カナリアの餌だったようだ。真央はまた演奏を始めたが、急に咳がこみ上げてきて、慌てて口を覆った。前屈みになれば、思わず鍵盤に着いた手が不協和音を奏で、小鳥の嘴を凍らせる。喉が燃え、肺は悶え、ここは灼熱地獄かと紛うほど。真央は声にならない叫び声をあげた。真っ青になったノアが駆けつけてきた。ノアは苦しむ後輩の背中をさすり、答えられない彼に幾度も尋ねた。
「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」
腕の中から双眸だけを抱き起こした真央は、そのぼやけた翡翠の表面に、ノアの投げ出した包みの中身を映した。床に散らばったひまわりの種――夏の花の胎児たち――
どこからともなく吹いた風が、机からノアのスケッチブックを攫い、床の上に未完成の絵を晒し出した。鳥籠の中で囀るカナリア。風がページを捲る。歌い続けるカナリア、歌を止めるカナリア、ひまわりの種子を食すカナリア。そしてひまわりの種は小鳥の胃に根付き、やがて彼の身を蝕んで大輪の花を咲かせる。
閉じられた戸と、その向こうに消えていった少年を、ノアは同情するような目で眺めていた。しかし、間もなくその顔に笑みが宿った。窓はしっかりと施錠されているし、窓辺には何もない。外にはもう夕立が来ている。
激しい雨が天より垂れて視界を塞ぐ。遠くで雷鳴が轟き、駆ける足が水溜りに踏み込む度に、制服のズボンの裾は重く濡れていく。雨粒は風に吹かれて顔を打ち、傘はあまり役割を果たしていなかったが、それでもしがみ付く他にはなかった。
不安になって何度も背後を見返した。真央は怯えていた。頬を流れるのは雨水ばかりではない。肩を縮めるのも、雨の冷たさばかりではない。只管に怖かった。声を奪おうと、喉を潰そうと伸びてくる、炎の爪を持った手が。夏が。
半透明のベールの奥に見たのは、見覚えのある二本のすらりと伸びた脚であった。真央は傘を後ろに傾ぎ、自分を追い続けていた人の目を見た。傘も差さず、身一つでそこに立つその人の目は、輝く夏の葉の色をしていた。真央は喉を震わせた。何も口から出てこない。
「秋元」
つい先ほどまであんなに嬉しかった呼びかけにすら、自分はもう応えられないでいる。真央はゆっくりと首を振った。頬を濡らすのは雨だと誤魔化せても、翡翠を揺らす犯人は疾うに明らかであった。真央はゆっくりと首で否んだ。
「秋元?」
「……ごめんなさい」
「おい」
「ごめんなさい……っ!」
どんな拷問に遭おうとも、この先は絶対に言えなかった。貴方が怖いなんて、そんな戯言を。
「おい!」
真央は走り出した。来夏は引きとめようと腕を伸ばしたが、少年の体は亡霊のようにすり抜けてしまった。足音が雨音と雷鳴に掻き消されていく。
拒まれたのだ。来夏は真央を掴めなかった両手を睨んで確信した。急に寒くなってきた。練習中に降ってきたこの雨は、既に来夏の体を疲弊させている。早く帰らなければ。
だが、その前に。
「おい!秋元真央!」
誰もいない背中に向かって叫んだ。
***
「あの雨の中、傘なしで歩き回ってたなんてバカか。もうすぐ試合もあっるっつーのに。見損なったぞ、ライ」
返す言葉もなく、来夏は差し出された薬をぬるま湯で飲み込んだ。雨はもうやんでいる。寮に帰ってからすぐにシャワーを浴びたが、十分ほど前から悪寒と頭痛に襲われていた。困ったな、来夏は口に残った薬の苦さを舐めながら思う。落合が淹れてくれた薄い茶も、体を温めてはくれなかった。少し横になろうと立ち上がったとき、部屋の戸が開いて菜月が帰ってきた。来夏の見たことの無い千鳥模様の傘を右手に、何となく嬉しそうだ。こんなことは久しくなかった。下校時刻をこんなに大幅に過ぎているというのに、何かいいことでもあったのだろうか。
「おう、酒本、遅かったな」
落合も驚いた顔をして言った。
「うん、ちょっとね……」
菜月は意味ありげに呟くと、靴を片方ずつぽんぽんと脱ぎ捨て、傘を胸に押し当てたままベッドにダイブした。来夏は溜息を吐きながらも、菜月の元気が戻ったのに安心し、結局小言は胸にしまったまま彼の靴を整えた。屈みこむと、更なる寒気が訪れた。
横たわったシーツはひんやりと冷えていた。今朝から主人の温度を奪おうと待ち構えていたのだろう。束の間耐えれば良い話だ。来夏は喉を焦がすほど熱い茶を一気飲みし、分厚い布団を頭まですっぽりと被って保温に勤しんだ。舌がひりひりするのはまだしも、耳鳴りがして、吐き気までしてくる。頭蓋骨を、内側から拳で叩かれているような気がした。息苦しさ、動悸、あらゆる痛み、交互に襲いくる寒さと暑さ、瞼の裏で点滅する光と影、こういったものから来夏を救ったのは、風邪薬の催眠作用だった。無感覚と暗闇の中に、来夏は落ちていく。
「ごめんなさい」
真夏の太陽は、絢爛な紅と豪奢な輝きを身に施し、横暴にも、世界の玉座なる空に構えていた。全く以って見事な道化師である。しかし、そんな道化の嘲笑いも、地を煮えたぎらせ、来夏の肌を泣かせた。彼の笑いの聞こえぬ場所といえば、此処から数メートルほど離れた場所から拡がっている、陰鬱な暗い森ぐらいであろう。罪悪はこの夜の地平までも覆い尽くしていた。
真央は、森の入り口、先頭の木陰の中に立っていた。彼は来夏を見つめていなかった。俯いたまま、華奢な肩を何度も波打たせ、啜り泣いていた。塩のついた唇が再び紡いだ。
「ごめんなさい、先輩。関本先輩……」
「何で謝る?!」
抑えきれないほどの激しい怒りが、来夏の口を割って出た。何故こんなにも腹立たしいのかは、当の来夏でさえ分からなかった。日は益々高く昇り、真央の立つ場を削っていく。彼は返事をせず、ただ来夏の叱る声を聞いてしゃくり上げた。
「答えろ!何で謝る?!」
「答えられません。ごめんなさい、関本先輩……」
「来夏だ!」
来夏は吼えた。
「俺の名前は来夏だ!」
「夏が来るのが怖いんです!」
真央は悲痛に叫んだ。大きく息を吸った一瞬の間だけ、真央は来夏を正視した。だが、彼はすぐに目を背け、蝶のようにひらりと身を翻すと、鬱蒼と茂る森の中に自ら迷い込んでいった。
「待て!!」
来夏は開いた口を覆いながら飛び起きた。寝ながらに周りへ配慮するという芸当を、彼は見事にやってのけた訳だ。若しくは、目が覚めた瞬間に展開された暗闇と静けさとが、彼の理想に働きかけたか。恐らく後者に違いない、と来夏は思った。枕元のデジタル時計が、既に日付の変わったことを知らせていた。
来夏は身震いした。ワイシャツは汗でべったりと背中に張り付き、靴下を履いたままの足先に熱が篭っていた。指でさえ鉛のように重く、舌の奥では酸っぱいような苦いような味がしたし、頭痛は益々酷くなっていた。藪医者でも断言できる。風邪だ。熱も出ているに違いない。まずは清潔な寝巻きに着替え、皺の寄ったズボンにアイロンをかけようとしたが、こうして震えているのも億劫で、これ以上余計な騒音を出してルームメイトを起こさないうちに、ベッドの中に戻った。痛みだけが残った頭に、真央の悲鳴だけが響いていた――夏が来るのが怖いんです!
「39度。関本来夏、欠席っと」
来夏の脇から体温計を取り出した菜月は、それだけ言うとそそくさと立ち上がって朝食の席へ向かってしまった。全く薄情な奴だ、病人は思い切り顔を顰めた。しかし、十分後、菜月は粥をよそった中国風の器を持って帰ってきた。湯気の立つ粥を口で吹いて冷まし、来夏の口元までレンゲを運ぶ。
「はい」
菜月は、差し出したからには食え、と言わんばかりの鉄壁の姿勢をとっていた。来夏は素直に従った。粥は熱かったが、美味しく頂ける程度に味が付いていた。厨房で作ってもらったのだろう。
「悪いな、酒本」
一頻り粥を啜った後に、来夏は言った。菜月は肩を竦めた。
「別に。とにかく今日は寝てなよ。落合を叩き起こす仕事も僕がやる。先生には何て言っとけばいい?脳卒中と肝硬変の二択があるけど」
「口内炎とでも」
菜月の冗談に、来夏は微かに笑った。菜月は、知らぬ人が見たら真面目に受け取ったのではと不安になるほど、無表情で頷いた。それから、まだ夢の中にいる落合を引きずり出す作業にかかった。来夏が見ているうちに、菜月は集められる限りの辞書を持って、落合の枕元に立った。来夏が制止するより前に、無数の辞書の角たちが、無防備な落合の寝姿の上に降り注いだ。
***
「えっ、風邪ですか?」
真央が問い返すと、大河内は素っ気無く、でも完全には素っ気無くなりきれずに頷いた。言葉も浮かばず、ただ目だけで物聞く真央に、彼は希少なバスで続ける。
「昨日の練習の帰りに雨に打たれたそうだ。熱も高いらしい。今日は一日静養するそうだ」
「今日一日って……でも、試合は明日ですよ!先輩、まさか、出られないなんてことは……」
あぁ、何たって先輩を惑わせるようなことをしたのだろう。真央は俯き、心の底から悔やんだ。あれは一炊の悪夢だったのだ。胸を刹那通り過ぎただけの影だったのだ。それなのに、自分は一々怯えて、まるでそれが凶悪な怪物か何かのように捉えて――夏が何だ。先輩の名前が来夏だからって、それがなんだって言うんだ。自分は全く関係ないもの二つ繋ぎ合わせて騒いでいた。その結果失ったものは?アニエス姉さん、先輩、自制心、勝利への希望……
真央は両肩に重さを感じて我に返った。大河内部長だった。彼は細い澄んだ漆黒の瞳で、十センチ以上の身長の隔たりにも関わらず、真っ正面から構えるように真央を見つめていた。
「秋元」
力強い声で大河内は呼びかけた。
「関本のことを俺はよく知っている。あいつは来るといったら来る奴だ。例え熱があろうが、右足を引き摺っていようが。だが、そうなるとこちらが困るのをあいつはちゃんと承知してる。だから何が何でも治してくる。関本が嘘を吐いたり、約束を破ったりしたことは一度もない……おまえはそれも知らずにあいつを尊敬していたのか?」
「あ、あの……」
真央は口ごもって頬を染めた。大河内の目は、優れた教師にも稀に見る、思考と反省とを促す目だ。そんな彼の光に当てられて、それ以外に仕様がない。
「えっと、あの、僕、でも……」
「関本が誠実な奴だと信じていた?」
「はい」
真央は素早く顔を上げた。黒と緑、決して混ざり合うことのない輝きは、今しっかりと取り交わされていた。大河内はふっと口元を緩めた。優しいが、どこか堪忍したような笑い方だった。しかし、すぐにそれも引っ込めて、真央の頭を二度ぽんぽんと叩くと、グラウンドを駆ける部員たちの群れに加わっていった。
空を仰ぎ見れば、雲は薄く、日光は悠々とそれらを突き抜けて地上に降り注いでいる。
一方、寮のある一室で、来夏は枕元の水差しに手を伸ばしていた。コップに水を注ぐまでは上手くいったが、コップを掴もうとしたその時、コップが倒れ、水が零れた。来夏は小さく悪態を吐いた。残念ながら、濡れてしまった絨毯を拭く気力は来夏にはない。もう一回挑戦するため、遠くなってしまったガラスのコップを取り戻そうとする。差し出した手が震えた。額に貼り付けられていた汗の玉が落ちる。
負けられない――強く思った。
そう、思ったはずだった――
見知らぬグラウンドの片隅で、真央はすっかり色と自我を喪失していた。我が三宿学園高等部サッカー部は異常なまでに殺気立っていた。ユニフォームに着替え終わった十人の出場選手たちは、皆腕を組み、眉間に皺を寄せ、唇を真一文字にきつく結び、何もない宙を睨みつけていた。あと二十分で試合が始まる。本来なら、今頃チーム一丸となって士気を高め、軽くボールの遣り取りでもしていなければならないのに。そう、十人なのだ。来夏が来ないのだ。
「畜生!」
武田が吐き捨てたが、大河内は何も言わない。たしなめれば、却って苛立ちを煽るだけだと分かっていたからだ。真央は先ほどから何度も大河内の表情を窺っていたが、とても複雑すぎて読めなかった。彼がまだ来夏の登場を信じているのか、それともさっぱり諦めて、物言えぬ深い絶望に浸っているのか。
「全く、情けねぇな!」
全くだ。全く。真央たちは情けない。こうして手を組んで祈ることしかできないのだから。あと十五分になった。お願いだ、先輩、早く来て――
「……連絡もつかねぇや」
性にもなく皆の怒りをかりたてるようなことを呟いた室井を、大河内は視線で諌めようとした。この状況で、これ以上チームを意気消沈させるようなことを言って欲しくなかった。だが、観察しているうちに、大河内は、度合いが違うだけで、室井が何を言おうが、結局、チーム全体の気持ちは、失望一色で固められていることを悟った。どの目も険しいが、怒りも孕んでいない。武田の悪口でさえ棘がない。真央は知らなかったが、大河内はその時初めて落胆した。それでも諦めてはいなかった。目の右端の方で、真央が凛々しい表情で、ぴんと背を伸ばしているのを見たから。それに、来夏のことを心から信用していた。友人として、そして好敵手として。大河内は咳をした。何人かが、じろりとだるそうな視線を送っただけだったが、大河内は声を張り上げた。
「皆、聞いてくれ。関本は……」
「バスに乗り遅れた」
その場の空気がぱっと沸き立った。
全員が一斉に振り見たほうに、皆が待ち焦がれたヒーロー、関本来夏のご尊顔がのぞいていた。息を切らし、顔はまだ青白かったが、薄い唇はしっかりと笑みを造り上げていた。「先輩!」叫んで真央が真っ先に飛びついた。来夏は両腕を交わし、胸の中に視線を落とした。あの夕立の日に逃してしまったものが、紛れもなくそこにあった。彼の熱が、冷え過ぎた来夏の体に並々と注がれていく。これ以上に心地よいことがあるのかと、真央は塩っぽい目を閉じた。
「落合が熱冷ましをくれたんだけど、これがどうも効きすぎたみてぇで……一晩の内にすっかり低血圧になってた訳だ。おかげで目が覚めたのが八時だよ」
「普段の授業なら何とか間に合うんだがな」
大河内が朗らかな笑い声をたてた。
「今日だって一応間に合っただろうが。今から一分で仕度してくる。真央、手伝え」
「はい……はい!来夏先輩」
真央は鼻を啜ると、その愛嬌溢れるつややかな顔を、この世で最上の世転びと涙とでぐしゃぐしゃにして答えた。
それから行われた、サッカーの試合の模様について語るのは、著者の無知を晒すだけなのでやめておこう。ただ、笛の音と来夏が仲間と手を打つ音が、他校の校庭に幾度も響いたことだけを述べておく。それで十分だ。真央は、歓声を上げたり、拍手したり、時々がっかりしたり、また跳ね上がったりと、目の回るような忙しさの中でも、手に入れたばかりの幸福を取り落としはしなかった。その癖、きちんと清潔なタオルと冷えた飲み物は、傍らにあった。三宿学園高等部サッカー部のマネージャーとしての誇りが、真央の手を自然に動かしていたのだ。
「あっ、来夏先輩待ってくださいね。今すぐ飲み物を……」
試合を終えた来夏が戻ってくると、真央は残り一本になったペットボトルを手に取ろうとした。だが、彼より先に誰かの手がそれを奪い、「はい」と不慣れに呟いて来夏に手渡した。真央は信じられない思いで立ち尽くした。
「アニエス姉さん……」
「ハーイ、マオ」
軽快な英語でアニエスは言った。少し見ない間に、アニエスの美貌は種類を変えていた。否、まだ少し翳りは残っているが。涙がちだった琥珀色の目は晴れ、潤んだ唇にしっかりと紅のルージュを引き、重々しかった黄褐色の巻き毛は梳かれて、九月の風になびいている。人より小さな小鳥のような頭には、白い、グリーンのリボンを巻いた帽子を被り、スカイブルーの丈がやや短めのワンピースに、薄いカーディガンを重ねている。その姿はあまりにも無邪気で魅力的で、男ばかりの校庭でやたら人目を引いていた。
「私の仕事、早いわね、マオより」
「どうしたの?どうやって来たの?」
真央が尋ねると、アニエスは人差し指を左右に振り、意味ありげにウィンクした。
「秘密。レディには秘密が沢山あるの」
途中からまた英語だった。それも、来夏に話しかけるための準備だったに違いない。アニエスは来夏に向かって微笑んだ。来夏は身を寄せてくる真央の肩でも抱いていなければ、地に足をつけていられなかったかもしれない。
「初めまして、関本来夏君。私はアニエス・ゾラ。真央の従姉よ。もしかしたら、私を知ってるかもしれないけど――ほら、あそこにいるクリス君みたいに――まあ、あまり期待しないわ。私、昨日、学校を訪ねたの。真央の様子が知りたくて。そうしたら、校長先生が貴方のことを教えてくださったのよ。貴方のおかげで、真央は元気だって。でも、貴方は昨日元気じゃなかったみたいね。だって、風邪で寝てたって聞いたもの」
「初めまして。心配していただいて光栄です。ピアニストのアニエス・ゾラさん」
来夏は答えた。一体どうして校長は、生徒たちの細かい関係を知っているのかと疑問に思いながら。アニエスの琥珀が嬉しげに輝いた。
「あら、期待してよかったみたいね!」
何の話をしているのか分からない真央は、その辺りで拗ね始めた。アニエスと来夏が機嫌をとり、真央が二人のかいなに片方ずつ腕を巻きつけてわらい顔になったとき、大河内から召集がかかった。武田と室井が何か大河内に囁くと、大河内は真っ赤になり、二人の後頭部をわしづかみにして、互いの額をぶつけ合わせた。地に伸びた室井の肢体の上に、あろうことか、空舞う鳩がちょっとした贈物を授けていった。
「関本ー、次の試合絶対勝てよー!」
「関本様、頑張ってください!」
客席からクリスとノアの声が聞こえる。来夏は金とワインレッドの目立つ頭を見つけて手を振った。遠い中を、わざわざ来てくれたようだ。改めて友達は良いものだと思う。
アニエスが去ってから押し黙っていた真央だったが、やがて、薄桃色の唇を開いた。
「先輩」
どうやら、今から何かを宣誓したそうだ。どうせろくでもないことなのだろう。例えば、「僕はやっぱり、絶対に先輩を尊敬するのをやめません」とか。
果たして一語一句違わず同じ言葉が語られた。「勝手にしろ、バカ」。来夏が満更でもなさそうな表情で言う。だが、真央は次の言葉を胸に秘めたままだった。
「先輩、僕はもう夏なんて怖くありません。だって、声を失うその日にも、貴方が一緒にいてくれるような気がするから。夏を怖がる気持ちよりもずっと、貴方を尊敬する気持ちが強くなったんです。尊敬っていうのかな。分からない。えっと、尊敬っていうより、もしかすると……」
真央は胸の動悸を抑えた。先輩の風邪が移ったのかもしれない。