「君に届け」は、実際全然違う
「君に届け」の良さは、色々あるけれども、特徴的なのはやっぱり、主人公の相手役の男の子であるところの風早を、「完璧」にしていない所だと思う。風早は魅力的に描かれているけれど、その魅力は作品の中で、プラスの部分だけでなく、しっかりマイナスの部分も表現されている。その表現の仕方が卓越しているがゆえに、「君に届け」はファンが多いのではないだろうか。この作品の評価については、まったく過大とは思わない。
女性をメインターゲットにした多くの作品の場合、特にエンタメ作品だと、相手の男は色々な部分で非の打ち所がない様に描かれる。個性はあっても、それはマイナスには描かれない。例えば「好きって言いなよ。」や「フルーツバスケット」。一見、主役格の男たちは色々と、ヒロインを困らせる欠点を持っているが、しかしよく見れば、それは常に、「その欠点でさえ魅力である」というような描かれ方をしている。
ところが「君に届け」は違う。風早の欠点部分は、あくまで欠点部分として表現されている。主人公黒沼爽子の二人の親友であるあやねと千鶴は、風早に全く恋愛感情を持たない。そもそもこの二人は、恋愛対象として全く風早を見ていないのだ。そしてその理由がよくわかるというのが、この作品の凄みであり特異性である。それは、アニメだと二期の最終話にある、あやねと胡桃のやり取りに如実に表れている。
風早にふられた胡桃に、あやねはこう言っている。
「風早にアンタは無理よ」と。
このセリフには、本当にすごいと思う。つまりあやねの中では、風早の男としての評価は、全く高くないのだ。「アンタに風早は無理よ」ではない。その逆、「風早にアンタは無理よ」――これは、風早が「アンタを扱えるレベルの男ではない」と暗に言っているのだ。あやねからすると風早は、「子供」――つまり「ガキ」なのだ。胡桃の複雑性を受け入れられるだけの器が無い。そういうことが見えているあやねは、だからこう言えるのだ――「私が男だったら良かったのにね。そしたら、アンタの汚い所、全部分かってやるのに」。
ちなみにこの場面、あやねに「私ならわかってやるのに」と言われた後、胡桃の頬が少し染まって、泣きそうになる。このあやねの励まし方と言うのは、本当に素晴らしい。平たく言うとあやねは、「あんたはグレードの高い女なんだから」と、胡桃の女としての魅力を、これ以上ないほど認めてやっているのである。だから胡桃は、この場面で、「励まされた」という屈辱感や敗北感ではない表情を見せている。失恋の痛みだけではない、認められた嬉しさのようなものが、少しその表情に現れるのだ。だから胡桃はあやねに、自分の素直な気持ちを、短い言葉ながら、吐露するのだ。ここは、アニメの方でもかなりしっかり表現されていて、制作陣の作品理解とこだわりを、強く感じる。
この時の胡桃の複雑な表情、表現というのは、アニメと言うよりも実写に近い。アニメの場合、人物の心情の複雑性は表現しない場合が圧倒的に多い。怒っている、悲しんでいる、恥ずかしい、可愛い――と、人物の心情は一色のみで表現される。確かにその方がストーリーを進ませやすい。でもそれは、登場人物に人間らしい奥行きが出ず、登場人物は、物語を進行するためのキャラクター(いうなればロボット)化することを意味する。
「君に届け」はその限りではなかった。全員が全員ロボットではなかったかと言えばそんなことは無いが、主要な人物は、しっかり描かれていた。複雑な感情を複雑な感情のまま、表現していた。そこがやはり、並外れた作品たる所以だ。エンタメ作品らしいわかりやすい部分の根底に、こっそりと、隠し味が使われている。




