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間違いだらけの作品論  作者: ミン
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令和のラノベはロックであれ!

鬼平犯科帳、剣客商売、藤沢周平の作品群――いわゆる「勧善懲悪」という小説分類に入る作品だ。勧善懲悪の意味は「善を勧め、悪を懲らしめる」という意味で、読んだ者に、そういう人間としての正義の心を蘇らせる、気づかせるという特性がある。


ところが現代作品はどうだろうか。特にライトノベルの世界において、あるのは「勧善懲悪」ではなく、「完全超悪」だ。意味は、「完璧なものすごい(超)悪」である。善を勧めるでもなく、ただただ、極悪非道で残酷・残虐な奴が出てくる作品群だ。最終的にはそういう超悪が倒されて、そこでスカッとするわけだが、それだけだ。そこには、人間の心にある正義を呼び起こすとか、善を勧めるとか言った意図はない。ただ売れるだけの作品で、芸術からは程とおい。芸術は品位品格である。品位のない作品ばかりが溢れている。


平成はつまらない時代だった。事なかれ主義、平和ぼけ、そして人間味の否定。そして今令和の時代になり、いよいよ人間は、機械のように考え始めた。白か黒、YesかNo、勝ち組と負け組――完全な善悪二元論の世界。悪いことをしたやつは懲らしめろ、社会的制裁は当たり前だ――枠からはみ出す者は「悪」と決めつけて、コテンパンにする。枠の中にいる者だけが「善」と決めつける。


今社会で起きていること、この全体を眺めながら、作家は何も感じないのだろうか。かつて正義は、それでも悪を殺すのを躊躇った。それは表面だけの躊躇いではない。心からの躊躇いだ。ところが今の「正義」はどうだ。悪を殺すのを躊躇うのは、自分が殺人者になりたくないからではないか、枠からはみ出す恐怖に怯え、躊躇うのではないか。あるいは今の「正義」が躊躇いなく悪を殺すとき、そこに命への尊厳が存在しているだろうか。


人間は機械じゃない。良いところもあれば、悪いところもある。良いことをする一方で、悪いことだってする。確かに許されない悪事もあるが、日本人には、「罪を憎んで人を憎まず」という優しい、美しい、崇高な精神があったはずではなかったか。ラフカディオ・ハーンはエッセイ集『心』の中に「停車場にて」という作品を収めている。ここに描かれる人々の心を、現代の日本人だって持っているはずではないか。


そろそろライトノベルも、本来の芸術性を取り戻すべきだ。ライトノベルの「ライト」は、「読みやすい」という意味であって、「軽薄な」「中身の薄い」という意味ではない。ファンタジーは現実よりも現実的であるべきだ。童話は、若い世代が対象ということであって、子供欺しであってはいけない。


チートが何だの、テンプレがどうのとか言っている場合ではない。ポイント稼ぎのためのくだらない作品はもうたくさんだ。こんなところで何万ポイント稼いだって、運良くそんな作品で書籍化できたって、そんな作品には、作者に金が入るという意外の価値はない。ここで活動する多くの作家に喧嘩を売るような物言いで申し訳ないが、誤解しないでほしい。喧嘩を売る「ような」ではなく、明確に喧嘩を売っているのだ。


令和のラノベは、この現代社会に媚びるようなものではいけない。この間違った社会の流れに一石を投じるような作品が求められている。歌の世界は、「ロック」とは名ばかりのぬるま湯みたいな作品ばかりだから期待は出来ない。だから作家が、社会に冷水と熱湯を浴びせかけて、人々の魂を呼び覚まさなければならないのではないかと思う。

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