「忖度」という言葉の消失
流行り言葉を使うのは構わないと思う。
特にそれが若い世代であるなら大いに結構。どんどん使って、上の世代から大いに馬鹿にされれば良いのだ。流行りと伝統、言葉を知らない若者と知っている大人、この絶妙のバランスによって、言葉はうまく伝統を守り、同時に、進化していくものである。ところが今、このバランスは大きく崩れてしまっている。
「忖度」という言葉、これは私が信頼するところの旺文社の辞書によると「他人の気持ちを推し量ること」とある。また似た言葉に「斟酌」というのがあって、これは「相手の事情や心情を汲み取り、ほどよく取り計らうこと」と定義されている。情状酌量というときの「酌量」も、意味は「事情を考慮して罰などに手加減を加えること」とある。
さて、物を知らぬ政治家が発言し、報道機関が喧伝した後、意味もわからぬまま個々が広めて使うようになってしまったこの言葉だが、もうすっかり、本来の意味を失ってしまった。こうなるとこの「忖度」という言葉は、「自身の利益に配慮して、処置や手続きなどに手心を加えること」という意味の言葉として、今後扱われることになるだろう。つまりこれは、一つの言葉が失われということを意味している。物書きとしては、非常に腹立たしく、残念に思うことである。
ただ、言葉に関して鈍感な似非作家というのもいる。プロ、アマ問わず、売れればいいか、目立てばいいか、ということばかりを考えて、言葉のことなどに全く配慮しない馬鹿者のことである。私は、そういう作家を心の底から侮蔑している。知識の乏しさ故に誤った言葉を使ってしまったという罪のない失敗ではない。その言葉の意味をそもそも考えること無く、または、誤用だと知っていても流行りだからという浅はかな理由でその言葉を用いるという言葉に対する配慮の無さは、言葉に対するテロ行為と言えるのではないか。
言葉をどう使おうが作者の自由。確かにそうかもしれない。しかし私はそうは考えない。それは、日本語に関するあらゆる能力が低下しているこの現代において、日本語を守る最後の砦は、文章芸術を探求する小説家・物語作家であると確信しているためである。言葉に関してはメディアも政治家もあてにできない今、作家は商業主義とうまく折り合いをつけながら、しっかりと日本語に関して、最後の砦としての責務を負うべきであると考えている。そういう作家の努力がなければ、二十年後、三十年後、我々の子供や孫の世代で、日本語が表面上の意思疎通でしか通用しないような低次元の言語に成り下がってしまうのではないだろうか。
今回は「忖度」という言葉が失われた。一瞬にして失われてしまった。「なろう」でも、「忖度」という言葉を、流行りだからという理由で、本来の意味を調べることもせず使ってしまったという作家がいるだろう。彼らは知らず知らずのうちに、作家でありながら、言葉を殺す片棒を担いだのだ。
今後、言葉への感性が鈍感な人たちが多くなっているので、言葉はどんどん、簡単に失われていくだろう。しかし作家には、言葉に対して、矜持を持ってもらいたい。それは、アマだろうがプロだろうが、である。流行るため、売れるために、言葉を殺すよう真似は決してしないでもらいたい。中身のない派手な言葉、作品が流行って売れる今日だからこそ、声を大にして言いたい。




