「あなた」と「幽霊」の話
アニメ『明治東亰恋伽』の第三話と『同居人はひざ、時々、頭のうえ。』の第三話、どちらにも幽霊が出てきた。片方は小泉八雲の幼馴染の幽霊、もう片方は主人公の亡くなった両親の霊魂である。小泉八雲はある時期から幼馴染の幽霊が見えなくなってしまうが、その幽霊は、八雲が大人になるまでずっとその近くにいて見守っていた。他方素晴の両親の霊魂は、ぐるぐると素晴のそばに漂っているのを猫の視点から描かれている。
八雲にも素晴にも、自分の近くにいる幽霊や霊魂は見えない。傍にいるという事すら感じ取れていない。そんな時間がずうっと、何年も流れている。けれど、幽霊の存在は感じ取れなくても、八雲は幼馴染の幽霊のことを、素晴は両親のことを、ずっと思っている。あのときああすればよかった、どうしてあのとき、わからなかったんだと、後悔の念を抱いている。
さて、全く異なるこの二つの作品だが、第三話における両作品の「幽霊」はよく似ている。非常に日本人的で、心地よい自然な幽霊観がそこにはある。宇多田ヒカルの『道』という曲の歌詞がピタリとはまり、思わず泣けてきてしまった。
たった一人で歩まなければならない、それが人生だ。確かにそうだ。人間色々な境遇があるけれど、突き詰めれば人間は、やっぱり一人だ。でも、そんな孤独にあっても、貴方は一人じゃない。心の中にはいつも、誰かがいるじゃないか。人生の岐路に立つとき、大きな決断を迫られたとき、人間は思い出すはずだ。「こんなとき、貴方ならどうしますか」と、心の中のその人に、問いかけるはずだ。だからあなたは一人ではない。どんなことをして、誰といても、この身はあなたと共にある、いつも、いかなる時も。
人間に勇気をくれるもの、愛を与えるものというのは、実のところ、目に見えないものだと思う。目に見えるもの、証明できるものだけが存在する、そうでないものは存在しないという価値観が主流になりつつある現代社会。保育施設を増やせば子育て支援になるとか、女性の社会進出のためになるとか、本気でそう思っている人が多い。どちらも、その本質が心にあることを全く見ようともしないで。
自然が減ってゆく。物質的な自然ではない。
愛が減ってゆく。物質的な「親」のことではない。
そんな社会に育った人間は、人生の岐路に立つとき、どこに立ち返ればいいのだろうか。心の中の「消えない星」が輝くことがあるだろうか、問いかける「あなた」はいるのだろうか。「私は一人じゃない」と自覚できる幸福と自信、そこから来る勇気を持てるだろうか。




