ニートの必要性
一時期流行った「ニート」という言葉。
ブームだけに終わらず、「ニート」という単語は一応の市民権を獲得したように思える。もっとも、それが正しい理解の元「ニート」と使われていないケースも多いが、早い話が「何もせずに生きている人」という程度の意味で、今は捉えられている言葉である。
「働かざるもの食うべからず」とは昔から言うように、真面目な日本人は、ことこの「働かざる者」が嫌いである。働くのは当然でしょ、という大前提があるから「ニート」という言葉も、深刻さよりはむしろ、面白味の成分の方が強い。社会問題と捉える向きもあるが、私はむしろ、このニートは、社会維持に「必要」なのではないかと考えている。
アリは働き者で有名だ。アリは働き者で、キリギリスは怠け者なんて、そんな昔話もある。キリギリスだって生きるために必死なのに、迷惑な話である。それはともかくとして、働き者と思われているアリだが、実はそのうちの何パーセントかは、一生「労働」とみられる行動をせず、文字通り、「遊んで暮らしているらしい」ということがわかっている。
しかし驚くべきは、なぜそうなのかという点だ。働かないアリが働くとどうなるか? なんと、その巣はだんだん衰えて、壊滅してしまうそうである。なぜかというと、巣には、予定通り行われる仕事と、突然やらなければならない緊急事態の仕事という二つがあって、皆が働いている巣だと、緊急事態に対応できるアリがいないため、滅んでしまうのだという。
我われ人間はアリではないと怒り出す人もいるかもしれない。しかし、アリの巣に「働かないアリ」がいることと、人間の社会に「働かない人間」がいることと、社会のありようは違えど、本質的な部分で共通性を感じる。
これは別に、ニート生活を勧めるという意図のあるものではない。そしてまた、ニートを美化しようとか、そういった意図があるわけでもない。ただ、長い目でこの人間の社会――種としての人間社会、文明を見つめた時、この「ニート」というのは、個別の存在ではなく、一つの現象なのではないか、そういう風な捉え方もあるのではないかという投げかけである。




