シロツメクサの幸せ
「ねえ。シロツメクサの幸せってなんだと思う?」
彼女は言った。
その日、結婚を1ヶ月後に控えた私は娼館の扉を叩いた。貴族であり潔癖の気がある私が、こういった場所に足を運ぶのは珍しいことだった。
というのも、噂を聞いたからだ。それは、没落して姿を消した、私のもと婚約者候補だった女がこの娼館にいるというものだった。
夜、湿っぽい冷たい霧の中、その館の明かりはぼんやりと霞んで見えた。
一夜の夢の舞台としては申し分ない、か。その現実味のない光景に私は、これが夢なのか現なのか、わからなくなってきていた。
「お兄さん、いらっしゃい」
ふと気がつくと、入り口の扉から商売女が顔を覗かせている。
「随分立派な身なりだけど、こういったところは初めてかい?」
そうだろうか。出来るだけ地味な格好をしてきたつもりだった私は戸惑ってしまう。
「ああ」
言葉少なに告げると、彼女はころころと笑った。
「私らにとっては良いお客様だからね。毎日観察して目が肥えてる。その外套良い仕立てだ」
「で、どんな子がいいんだい?」
「くすんだ金髪と瞳の20歳くらいの女はいるだろうか?」
「へぇ。そういうのがタイプ?派手なのより地味なのかい?」
「……ああ」
「二階の突き当たりを右に曲がって一番奥だ。お兄さん、良い夜を」
彼女に見送られて部屋を目指す。私は知り合いの噂を確かめにきただけだ。女を抱くつもりはない。だが、もし噂が噂にすぎなかったら? 一体見ず知らずの商売女とどんな一夜を過ごせば良いというのだろう。婚前だというのに、私は一体何をしているのか。
考え事に没頭しているうちに、足は勝手に進み、教えられた部屋の前に着く。
3回扉を叩くと、「どうぞ」と応えが返ってくる。
その声に聞き覚えがあって私は、つい足をとめてしまった。
ドアノブを掴んだまま、しばらく躊躇していると、内側から扉が開かれる。
「まあ」
彼女だった。大きく胸の開いたドレスを纏った彼女は、さすがに驚いたのか硬直している。
「律儀にノックするから、どんな高貴な人が来たのかと思ったら、意外にもほどがあるわ」
「入ってちょうだい。そこにいたら邪魔になるわ」
「……ああ」
言いたいことはあったはずだった。仕事先は他にもあっただろうと説教でもしてやるつもりだった。だが、私は、何も言えなかった。どうしたらいいのかわからなくて、とりあえず一脚だけあった椅子に腰掛けた。
「きれいになったなシェリー……」
やっと紡いだ言葉がこれだ。
「あら、ありがとう。朴念仁のあなたでも、そんなことが言えるようになったのね」
ベッドに座り足を組んだ姿勢の彼女は、間違いなく以前より生き生きとしている。そのまま足をぶらぶらさせて言葉を紡ぐ。
「てっきり堅苦しいお説教でもしに来たのかと思ったわ」
無言で返す。当たりだ。そして、言い当てられたことに驚く。彼女は、令嬢らしい生活をしていた頃、無機質な人形のようだったからだ。地味で凡庸な外見、言葉は少ないが、しとやかで、例えるなら、野山に生えている名もない花のようだった。
だが、今の彼女は一皮むけている。
「随分雰囲気が変わったんだな」
「そりゃそうよ。ここでは夢を売ってるの。一晩限りの舞台の中では、私でも主役になれるんですもの」
かつて、彼女は、幸せではなかったんだろうか。その思考は顔に出てしまったらしい。彼女は言う。
「誤解しないで。哀れむのはやめてちょうだい。私は不幸ではなかったし、あれが普通だったの。ただ、私は知っただけよ」
「知った?」
「世界をよ」
どういうことだろうか。不思議そうな顔をしている私に彼女は投げかける。
「ねえ、あなた、シロツメクサの幸せってなんだと思う?」
シロツメクサは一応知っている。あの野山に生えている、白い花のことだろう。その幸せ?
「シロツメクサは人に摘み取られて愛でられるのと、そのまま草むらで一生を終えるの、どちらが幸せだと思う?」
よくよく考えて私は答える。
「野山で一生を終えることなんじゃないか?だって摘み取られたら死んでしまうだろう」
「本当に?」
彼女は何が言いたいのだろう。
「じゃあ、聞き方を変えるわ。あなた、私が綺麗になったといったわね。没落する前と、今の私、どっちが魅力的?」
「そりゃあ、今の方が魅力的だと……」
「身分もないし、身体が汚れていても?」
「それは……」
「シロツメクサも同じよ。正解なんてないの。摘み取られ、花冠になった花はその一瞬、脚光を浴びて輝くし、人の記憶に残るかもしれない。草むらに残った花は代わりに種を作り、平穏な一生を終え、子孫をつなぐ」
「どちらがより幸せかなんてわからない。ただ、その両方の選択肢があることを私は知り、片方を選びとっただけ」
彼女は微笑んだ。
「どうせ私はすぐ死ぬわ。こんな生活をしているんですもの。病気になるかもしれないし、子供ができて仕事ができなくなり、野垂れ死ぬかもしれない」
何を言っているのか、一瞬わからなかった。その話をする彼女が、まるで明日の天気の話をするように、あっけらかんと、あまりにも綺麗な笑みを浮かべながら話したからだ。
「で、どうするつもり?」
「どう、とは?」
「私を買ったんでしょう?ヤルの?ヤらないの?」
そのあまりの下品な言葉に私は吹き出す。
「どうせそんなつもりじゃなかったんでしょ?あーやだ、やだ。これだから朴念仁は嫌いなのよ」
彼女はベッドに身体を投げ出し、こちらに背を向ける。
その背中はとても小さく、儚げで頼りなかった。
先程までの雑草の幸せを語る彼女とは別人みたいに。
だから、つい魔が差したのだ。そんな彼女を抱きしめ、頸に口付ける。
彼女は驚いたようでビクッとしたけど、すぐに振り向いてキスを返して来た。
だんだん荒くなる呼吸の中で、彼女は言った。
「私、あなたのこと好きだったわ。だから、ね。今の綺麗だと言ってもらえた私で、あなたの前に立てるのが嬉しいの」
幸せそうに微笑む。
「今日だけは私があなたの主役よ」
私は、その日、彼女を抱いた。その日の彼女は、私が知る限り、もっとも美しい女だった。
翌朝、私は振り向かずに娼館を後にした。もうすぐ、私は結婚する。しかし、この一夜の記憶は私に焼きつき、離れてくれそうにない。
彼女は、私の中に消えない痕を残した。それは、後悔だったのかもしれないし、人によってはこれを初恋というのかもしれない。
これを誰に言うつもりもないが、私は一生、彼女と言う美しい女を忘れないだろう。